色々ありすぎるから、仏教を学んで苦をなくそうと努力した話
ここ最近、身の回りでいろんなことが起きています。
それに伴って、いろんな悲しみを感じることがあります。
人の命とか。
人の感情とか。
大好きなじいちゃん、人生の終焉
私には93歳の祖父がいます。広島県で、一人暮らしをしていました。
ちなみに今は、ばあちゃんが最期にいた病院で、入院してます。
じいちゃんの一人暮らし歴は、実に16年〜17年。ばあちゃんが亡くなってから、ずっと一人で暮らしてました。
じいちゃんとばあちゃんは、そりゃすごい仲良しな夫婦でした。
2人とも歌をうたうのが好きだから、いっつも2人で歌ってました。ばあちゃんが脳梗塞で倒れたときも、「昨日まで、いつもと変わらず2人で歌を歌ってたんよ」と、じいちゃんはいつも言います。
ばあちゃんが亡くなってすぐ。じいちゃんはゆずの「栄光の架け橋」を歌って、のど自慢大会に出たね。みんなで応援に行った。その前向きな歌詞と歌声を聞いて全員泣いた。あの時の歌声は一生忘れません。
誰にも見せない 泪があった
人知れず流した 泪があった
いくつもの日々を越こえて
辿着ついた 今いまがある
だからもう 迷わずに進めばいい
栄光の架橋へと
大好きなばあちゃんが亡くなってから、ずーーっと、一人でがんばってました。
でも、最近はできないことが増えてきてた。
もともと頑固な性格のじいちゃんは、人の手を借りることも、介護のサービスを使うことも拒んできたけど、いよいよ排泄の失敗も増えてきて、お薬の飲み忘れも増えてきて、部屋のお掃除もできないし、2階は誰も踏み入れられない開かずの場所になった。
それでも、周りの家族のサポートを得ながら、一人で頑張ってきたね。
そんなじいちゃんも、ついに熱発がきっかけとなり、入院しました。
93歳。ICU。口から食事は摂れず、点滴だけ。
そんな状況で長く生きられるとは到底思えず、一目散に広島に向かいました。
大好きなじいちゃんの瘦せこけた姿を見て、涙がこぼれ落ちるぎりぎりまできた。
何度も何度も、私と目が合うたびに「あんた、元気か。」「元気に過ごしよるんか。」「元気なのが一番じゃけぇね。」と言ったり、「子供には小遣いやらんと。」といって、もう子供とは到底言えない35歳にもなる私にくしゃくしゃに握った5,000円を渡してくれたり、もうこの先の自分の人生は長くないと悟っているのか、「人生は、一度きりじゃけぇね。」といった言葉が、さみしくてさみしくてたまらなかったです。
なんとか説得して、介護サービスを使えてれば、じいちゃんはもっと健康で過ごせていたのだろうか。入院することもなかったのだろうか。
でもそれは、じいちゃんが自分らしく生きたい人生の延長線上にあったのだろうか。
じいちゃんが自分らしく生きれること。家族がじいちゃんにこういう姿であってほしいという願い。これを実現する方法は必ずしも合致していないのではないだろうか。本人らしく生きるって何だろう。
そんなことを考えて、寂しい。つらい。悲しい。という気持ちが、ぐるぐるしていました。
端折るけどその他にもいろいろあった
そんなじいちゃんのことが一番大きいけど、その他にも辛いと思うことが同時に起きました。前の旦那さんの、義理のお父さん。私にとっても、元義理のお父さん。すごく良くしてくれて、とても好きだった人が、亡くなっていたこと。
離婚する数年前に癌なことがわかって、離婚後も心配していたけど、もう家族ではなく他人になってしまった手前、本当に本当に何もできなかったと、とても落ち込んだ。
他には、最近よく連絡を取っていた相手が、突然連絡が取れなくなってしまったこと。人間の悪意に触れてしまったこと。
そんな自分にとって、つらいことが重なった最近でした。
仏教的にいう、苦しみ感じる理由
そんな辛いことが重なった最近。少しでもこの苦しみをなくそうと思って、仏教に関する本読んだり、ポッドキャスト聞いたり、Youtube見たりしてました。
人が苦しみを感じる理由は、「こうありたい」という理想と、実際に起きている現実にギャップがあるからだそう。このギャップを埋めれば、苦はなくなると。
「じいちゃんには、健康で生きていてほしい」という私の理想に対して、「もう長くは生きられない」というギャップ。
「元義理のお父さんに、最期お別れを言いたかった」という私の理想に対して、「何もできなかった」というギャップ。
…頭ではわかるけど、どうにもコントロールできない…というのが、私の今の正直な気持ちでした。頭でわかっていても、努力しても苦はなくせねぇよ。というのが今のわたしの結論。結局それかよ。
でも一個わかったこともある
人の死について、私はまだ理想(執着)をなくすことはできない。けど、1個気づいたことがあります。じいちゃんと、元義理のお父さん以外のところ。
多くは語れないけど、ここについては、「相手にこうあって欲しいという理想と現実のギャップ」ではなく、「自分自身がこうありたいという理想と現実のギャップ」が悲しみ(苦しみ)の原因だということに気づきました。
だから、人に執着していたわけではなくて、自分自身の問題である。ここについては、解決しやすい問題なのかも。と。
それが分かっただけでも、私の気持ちは幾分軽くなって、なーんだ。仏教のポッドキャスト聞いたことも、夜な夜なYoutube見ながら号泣したことも、無駄じゃなかったな。と思いました。
ゆーてメンタルは鋼の私
こんなメンタルバチボコにやられているわ…1年分くらい泣いて目パンパンに腫らしているわ…と思いつつも、めっちゃご飯食べるし、めっちゃ寝るし、(いつも通り)めっちゃ酒飲んでる私です。
たぶん元々のメンタルが強靭なんだと思います。過信しすぎはよくないと思うけどね。だからゆーて元気です。
あと、周りに支えられていると思えるのも、大きな力になっていると思います。周りの人たちいつもありがとう。
何が伝えたかったか分からないけど、とりあえず仏教を学んだけど2割くらいしか身につけられてなかった話と、周りの人たちを愛しているよという話でした。おわり。
