月を見上げ、空虚な心に火を灯す。
墨白(すみしろ)に。
浮かびし。
袖の、羽衣の。
金色(こんじき)の露。
名を、呼びにけり。
夏を忘れた星屑と、秋を望む名月と。
ここだけが、金木犀の香りを帯びていた。
私が見上げた朧(おぼろ)川を、あなたは中秋と呼んだ。
出会ったときの白無垢の衣は、今は店先を彩っている。
「エスプレッソは、嫌いなの。」
私はあなたの指をじっと見つめて、強い嫌悪感を示す。灰色のリングは何も答えない。あなたは左の指を隠して、私の顔をじっと見つめる。ほうれい線のしわを隠すように、クリームソーダのような甘い表情で私を誘う。
「失礼。では、ダージリンティーはどうかな。」
「それも嫌。マスカットの香りは、嫌いなの。」
私はお手洗いに席を立つ。座席に桜色のカーディガンを残したまま、それから、あなたに会うことはなかった。
次の歳月が巡り、夏虫色の雨が降る季節を迎えた。
次のあなたは塩顔だった。サッカーが得意だとすぐに分かった。オリーブの髪を整えながら、あなたは私の胸元をじっと見つめる。爽やかな声が心地よい。
「それで、そのときアイツが変な行動を取って……。」
「そう。それは楽しそうね。」
私はお手洗いに席を立つ。座席にブラウンのペアリングを残したまま、それから、あなたに会うことはなかった。
次の歳月が巡り、紅葉が香る季節を迎えた。
次のあなたは彫刻だった。ロダンの彫刻のように、アラバスター調の肌もきめが細かい。ウルトラマリンの瞳はいつも輝いていた。あなたは私の足をじっと見つめる。足に柔らかく包むように、ゆっくりと私に話し掛ける。
「以前、君の話していたウエッジウッド製の幻のマグカップ見つけたよ。」
「ありがとう、嬉しいわ。見つけるの、大変だったでしょう。」
「そうだね。一か月世界を旅して、ようやく見つけたよ。アメリカ、中国、エジプト、フランス……。」
私はお手洗いに席を立つ。座席に幻のマグカップを残したまま、それから、あなたに会うことはなかった。
最後の歳月が巡り、白無垢の柳が彩る季節を迎えた。
端正な顔立ちの、素朴なあなたに出会った。あなたは失礼な人だった。
初対面の私の顔をペタペタと触り、ニヤニヤと笑う。正直、気持ち悪かった。吐き気がして、その場を離れたいと思った。少し酸っぱいに香りも嫌いだった。しかし、そんなあなたの、最初の一言は素敵だった。カメのように、あなたはゆっくりと私に話し掛ける。
「ツヤツヤで温かいですね。ただ、この細かな粒には見えないムラがある。涙を重ねた分だけ、皮膚が微妙に削れていますね。何かわからないけど、あなたは多くの悲しみを一人で背負ってきたのかもしれない。頑張りましたね。」
「そうですか。気のせいだと思います。素敵な男性と沢山お付き合いしましたし。」
「そうですか。ごめんなさい。あなたを傷つけてしまいました。」
「なぜ、そんなに自信過剰なのですか。」
「不快にさせて申し訳ありません。私は生まれつき目が見えなくて……。肌で人を感じることしかできないのです。」
生まれつき身体の弱いあなた。
私はあなたとずっと一緒にいたかった。
あなたが好きだったシダレヤナギは、今年も冬と春を繋ぐ。
寒さが強いほどに、柳の新緑の香りは強さを増す。
そして、二人が分かれた季節もまたやってくる。
あなたはもうこの世にいない。
一年の歳月は、悠久の歳月となって……。
あなたと最期に見上げた月は太陽に変わり、白無垢の衣を脱ぎ捨てる。
空虚な私の心を、取り留めない私の心を、あなたは最期まで心配していた。
私よりも、あなたの方がさみしがり屋なのに……。
手を重ね、呼吸も合わせる。
すぅー。ふゅー。すぅー。ふゅー。
もう一度、一緒に呼吸を合わせる。
ほろーん。ホロホロホロ。
ほろーん。ホロホロホロ。
季節は巡り、四季彩となる。
四季彩は巡り、やがて心の雫となる。
そして、私たちは。
空虚な心に「空(そら)」と名付けた。
