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(掌編)-蒼夢『矜持』

                (2503文字)
 
 私は矜持という言葉も知りませんでした。
 
 私は文学というものを知らぬまま、先生と呼ばれる山上と結婚しました。
 山上が私に求めたものは、「おい」と言えば出てくる一杯のお茶であり、ポストで音がすれば履き物をつっかけて手紙を取りに行くことでした。編集者と意見が合わずむしゃくしゃした日には、ちょうどよく手を這わせる体がそこにあるということでもありました。
 では、私が山上に求めたものは何だったのでしょう。
 結婚とはこういうものなのだと思い、深く考えることもなく、ただ、日々を懸命に生きておりました。
 山上が私にくれた最大の贈り物は、子どもだったのでしょう。
 気が遠くなりそうなお産の後、私のお腹から産まれた赤子の顔を見て、私は涙が止まりませんでした。日に日に赤子の顔から赤みが引き、私の乳を吸うその姿が愛おしくて、もう他に何もいらないと思うのです。
 山上の着物を整え、お茶を淹れ、子どもを育てていれば、それだけで一日は暮れていきました。

 そんな私の心が少しずつ揺れ始めたのは、山上が弟子を持ち、「先生」「先生」と言われるようになった頃からでしょうか。
 
 「先生」と呼ばれる声が私の耳に入るたび、山上への尊敬は深まりました。「先生の奥さん」と呼ばれると、ほんの少し頬が綻び、お茶を淹れることさえ嬉しくなるのです。
  
 子どもは所有物ではありません。
 いつかは送り出す日がくるのです。

 私は山上を眺めることが多くなりました。
 ふと寂しさを覚えるとき、机に向かう丸い背中に、そっと手を這わせたくなるのです。
 山上が部屋にこもっている間、私はやかんを磨いておりました。
 
 ある日、ポストを開けると、お香のような香りがふわりと漂いました。
 気のせいだと思い、その日は気にも留めませんでした。けれど、それから手紙の束を手にするたび、同じ香りが混ざっていることに気づくようになりました。

 とても達筆なその手紙は、女の文字でした。

 山上の部屋へ手紙の束を持っていき、黙って隣に座っておりました。

 山上は一瞬目元を緩めました。口元には私の知らない笑みが浮かんでいたのです。顎に手をやりながら、
「こちらの女性はね、文学を学んでいるんだ。こういう女性に語っていると、言葉が降りてくるんだよ」
 
「そうですか。それはよかったですね」

「うん。文学はね、同じ景色が見える人間でないと話せないんだ。彼女と語っていると、生きている気がするんだよ」

 山上は少し笑ってから
「文学を知らない君には、わからないだろうけどね」

もう、目は手紙しか見ておりませんでした。


 山上の小説を読んだことはありませんでしたが、安心、安定という言葉の似合う妻がそばにいると、創作への想いは枯れていくものらしいのです。

 妻とは、なんとつまらぬものでしょう。
影で支えているのは、私ではありませんか。

 私は悔しくて、山上が女の手紙の封を切るたび、山上の肌襦袢に鋏を入れました。

 山上と女の心が切れますように。

 山上の創作が、うまくいかない時期もやってきました。酒に溺れ、私が部屋にいようといまいと、机に向かうのは、女へ手紙を書くときばかりでした。

 程なくして、山上は病に伏しました。もう永くないことを、本人も薄々悟っているようでした。
 「痛い、痛い」と訴えるので、背中を撫でてやると、背骨の形がわかるほど痩せ細り、あの丸かった背中はどこへいったのかと、涙が出そうになるのです。

 ある日、視力が落ちた山上は、力のなくなった手で、手紙を掴もうとしておりました。
 私がそっと手紙を山上の手に握らせようとしたとき、山上は手紙を握らず、私の着物の襟元に手を忍ばせてきました。震える手で私の胸を撫でておりました。
「怖い……」そう言って山上は泣き始めました。

暗い部屋の中で泣き止んだ頃、山上はぽつりと「書きたい」と言いました。


 体を重ねることがなくとも、人の心は奪われるものなのだと、あの女は山上に教えたのでしょう。
 山上を少しでも生きながらえさせるには、創作へ向かわせるしかありません。その力はあの手紙の中にあるのだと思いました。

 私は……私は……

 私にしかできないやり方で、山上を文学へ返そう。
 病に伏す山上の体を抱き起こし、食事をさせ、薬を飲ませました。掠れた声を聞き取り、山上に代わって文字を書きました。私は初めて、山上の仕事に携わることができたのです。初めて夫婦として二人三脚で歩くことになったのです。皮肉なものです。


 夫婦で、山上の恋心を文学に昇華しようとしているのです。
 いつしか私の心にも女が棲みついていました。女が山上を慕う気持ちを思い描き、山上が女に寄せる恋心こそを言葉にしたい。その一心でした。赤子を産んで以来、これほど生きている実感を覚えたことはありませんでした。
 
 私はうっとりと、文学の中へ身を沈めていきました。
 
 まるで、女のようにーー

 
山上があの世へ逝ったその夜、私は山上の前で、一冊の書簡集を包みました。

 
私の手には、山上が遺してくれた一枚のメモがありました。


矜持 

よしこ、ありがとう

感謝

 
 いつ残してくれていたのでしょう。

 山上の中に、私もいたのです。

 
 着物を整え、鏡の前で背筋を伸ばしました。





***

この作品は創作です


前回(掌編)-蒼夢『夢書簡』を創作しました。
その折、とても素敵なコメントをいただきましたこと、感謝申し上げます。
その中で、妻の気持ちはどうだったのか、こういう気持ちだったのかな……のようなご感想をいただき、その言葉からインスピレーションをいただき、創作しました。
私は文学を専門的に学んできたわけではありませんので、違和感を感じられましたら、あくまでも、創作ということでお許しいただければと思います。
ご感想いただけますと、嬉しいです。
こちらまでお読みいただき、ありがとうございました。

創作のきっかけをくださった、

坂本猫馬|noteさま

孝輔|noteさま


ありがとうございました。



下の記事から派生した作品です。


きっかけをくださった、坂本猫馬さんの記事も是非、どうぞお読みくださいませ。

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