残さない笑顔。
あの写真館での出来事から一年が経とうとしている。
誰と話し合ったわけでもないが、ようやく腹落ちしかけているのは、時間が私に寄り添ってくれたからだろうと思っている。
昔近所に住んでいた男性のことを私は『おじさん』と呼び、三十年ものあいだ親しくしている。
おじさんは私を『心のパール』とか『希望の天女』とか色々な呼び方をするけれど、私はおじさんを『おじさん』と呼ぶ。
昨年の六月、おじさんと私は写真館で記念撮影をした。
おじさんとは三十年来の友人だが、もう少し詳しく説明するなら、私たちは生粋のペンパルである。それゆえ滅多に会うことがない。
私より四十歳年上のおじさんは現在八十二歳だ。そんなおじさんに対し、私は何気なく、「写真館で一緒に撮りませんか」と誘った。
するとおじさんからは、「私も同じことを考えていました」と返ってきた。
約束が成立するまでに一往復の手紙のやりとりだ。
それから、日程を決めるための一往復、写真館の名前と場所を確認する一往復、おじさんが日程変更を申し出たときの一往復など、何度も手紙をやり取りして当日を迎えた。
先に到着した私が受付を済ませると、カメラマンから、おじさんのことを「なんとお呼びすればよろしいですか」と尋ねられた。ネットで予約をした際、おじさんが家族ではないと伝えていたことを思い出した。
私は、「おじさんと呼んでください」と答えた。
おじさんは叔父でも伯父でもない。血縁関係にないから、私とおじさんが撮る写真は家族写真ではなく、友情写真だ。
私たちにとって、この日がなにかの記念日というわけではなかった。ならば、もっと互いが若い時に撮った方が良かったのではないかと思わなくはない。見た目問題で言えば確かに、もう何年か前に機会を作っても良かった。けれど、今回は自然発生的な動機とでも言うのか、〝機が熟した〟という説明が一番しっくりくるタイミングだった。
結果、中年女とお爺さんが仲良く撮ることになった。
曇っていて蒸し暑い日だった。
前々から、私はおじさんに「カジュアル過ぎない格好で来てほしい」と注文をつけていた。
おじさんはそれに真正面から応える、一張羅スーツで現れた。
私には、どうしても避けたいものがあった。
それは写真館のホームページを開いた時にトップに示されるような模範的な構図だ。たとえば、白いTシャツにブルージーンズという飾り気のないペアルックに身を包んだ二人が、相手の体のどこかに軽く手を添えて、瞬間最大値の笑顔を検出されたような、そんな男女の写真になることを恐れていた。個人の趣味の問題だが、それだけは受け入れがたい。
私が撮りたい写真のイメージはこうだ。
どこかの古い洋館から発見された一冊のアルバム。その表紙に積もった埃を払いページをめくると、父娘とも夫婦とも断定しづらい関係が切り取られている。無表情な二人からは感情を読み取ることができない。なぜ、この二人は並んで写真を撮ったのだろう。はてさて。
――そんな写真を撮りたかった。
カメラマンにそのことを伝える代わりに、私はある芸能一家の家族写真を見せた。それは有名な一枚で、いつだったか、雑誌の表紙になっていた。
カメラマンは私のスマホでそのポートレートを確認すると、「この写真めっちゃいいですよね!」と言った。「これ、誰が撮ったのか明かされてないんですよ」とも。
カメラマンを興奮させた私自身、好みが正しく伝わった嬉しさで浮かれた。
そんな私たちを横目におじさんは、「私は写真を撮られるのは好きじゃないんですよ」とぼやいていた。私だって、日頃、写真を撮られるのは大の苦手である。
私たちは、そんな互いの特性を忘れる努力をしてまで、「写真を撮りましょう」と意気込んだのだ。
撮影は二パターンの背景で撮るコースを予め選んでいた。その確認をしているとカメラマンから、
「せっかくですから、おじさんの一人写真も撮りましょう」と提案された。
「気に入らなければ買う必要はないですよ」というカメラマンの心の声が聞こえてくる。
それに対し私は、
「おじさんは一人では撮りません」とはっきり断った。
「一緒に撮る写真だけでいいです」と念を押す。
撮っておきましょう、とカメラマンが提案することは当然の営業行為だと私は知っている。それは極めて普通のことであって、迷っている人の背中を押す一言であったり、後々後悔しないようにとか、そういう気遣いの類いであるということすら理解している。
それでも私は拒んだ。おじさんを一人で椅子に座らせたくない。なんやかんやと話しかけて、にこやかな瞬間を盗むように写真を撮らせることが、どうしても嫌だった。
もしもこれが、実の親子の場合であれば。
私はきっと気軽に言うのだ。
「お父さん(お母さん)、一人で撮ってもらいなよ。せっかくだし」
そして両親は渋々承諾するだろう。
「そうだな(そうね)、いつ何があるかわからないし。撮っておいて損はないだろう」
こうして和やかにカメラマンの提案は受け入れられ、実際に「やっぱり撮っておいて正解だったね」なんて言い合いながら、嬉々として購入するのだ。
そういう流れを容易に想像できる。
想像した上で、断った。
おじさんはアンティークデザインの立派な椅子に座り、私はその後ろに立った。初めのうち、おじさんの表情は硬かったし、私自身もそうだっただろう。
二つ目の背景では立ったまま腕組をするおじさんの横に、私は体を斜めに構えた。
会話をしながら撮影は進み、「好きな食べ物は?」と訊かれて「豆」と答えてへらへらしているうち、いい写真が撮れてきた。
おおよその撮影がおわると休憩時間が設けられた。撮れた写真を確認してみてくださいと言われた私は、パソコンの前で画像を見ていた。
すると、奥からカメラマンの父(つまり写真館の主)が現れ、「おじさん!一枚撮りましょう」と声をかけた。
「撮りましょう、せっかくだから」と、真っ白な背景に椅子をセットし、おじさんを呼ぶ。
カメラマンと私の事前の打ち合わせのことなど知らないおじさんは、言われるがまま前に進み出て、椅子に腰掛けた。
休憩時間という、気の抜けた瞬間に始まった撮影が良かったのか、おじさんはこれまで見せなかったとびきりの笑顔を連写で撮られまくっている。
私は呆気にとられ、その様子を見守った。
話が違うじゃないかという、文句を言いたい気持ちがなくはなかったけれど、即興が作り出すミラクルを信じているタイプでもあり、そのライブ感に身を委ねた。
改めてパソコン画面に並んだおじさんのソロショットを見ると、見事に満面の笑みだった。
その撮影から数週間が経ったころ、私のメールアドレスに大量のサンプル画像が送られてきた。その中から三枚を選んで、アルバムにするのだ。
暗めの背景で撮った重厚感のある雰囲気の写真、そして、明るい背景で撮った、笑顔の写真。それぞれから候補を絞り、悩みに悩んで三枚を選び出した。この作業は私に託されていた。私が購入しておじさんにプレゼントすることになっているから、おじさんに意見を聞くことはなかった。
アルバムに収める三枚に、私はおじさんの一人写真を選ばなかった。
正直な感想を言うと、おじさんのソロショットはとても良い写真だった。
よくぞ撮ってくれたという出来栄えであり、よくも撮ってくれたなという感情を湧き上がらせる写真だったのだ。
この、完璧と言わざるを得ないおじさんのポートレートは、手に入れたあとの使い道が透けて見えるようで、私には恐ろしかった。それが何であるとは絶対に言いたくなくて写真を撮ることを拒み続けたのだ。
だから、買うまいと思った。
そして買わなかった。ただ、後日おじさんにはサンプル画像を見せることにした。
三枚の写真を収めたアルバムを贈り、その際、サンプル画像も見てもらった。
すると、あろうことかおじさんは、そのサンプル画像を絶賛したのだ。
「とてもよく撮れている」と喜んでいた。
それでいて、私がプレゼントしたアルバムにその写真が含まれていないことについて何も言わなかった。
ただただ感謝を述べ、部屋に飾ると言って嬉しそうにしていた。
その時点で、まだ追加注文は間に合うはずだった。
それでも私は買わなかった。頑として買わない。
子どもじみた意地を張り、絶対に買わないと誓った。
そうして一年が過ぎたのだ。
もちろん、追加注文はしていない。
写真館の主が出しゃばって「おじさん!撮りましょう」なんて言ったことを思い出して腹が立つこともある。
撮らないと決めた客の気持ちを無視して、どうしておじさんをカメラの前に呼んだのか。
カメラマンはどうして私の気持ちを優先しなかったのか。そんなことを考えて悶々とした。
さらに言うと、なぜあんなにもいい写真を撮ってしまったのか。
それを買わなかった私はなんて心のせまい人間なのだと、自分に対してもいらついてしまい、その責任の全ては写真館の主にあるのだ、とも思っていた。
けれどこの一連の流れが、私ではないどこかの購入者の身に起きていたとしたら、と考える。
一年経ったからいい加減言葉にするが、高齢であるおじさんの一人写真を撮るというのは、もしかするとそれを後々遺影に使えるから、だからいい写真を残しましょうという、あからさまに口にはしないが誰もが思っていることを具現化しようということだったのだ。
おじさんは、自身が一歳半の時に実母を病気で亡くしている。きょうだいはいない。妻は先に旅立ち、夫婦の間に子どもはない。
そんなおじさんと私の間には友情がある。
だから写真を撮った。
そう遠くない未来に私たちの間にも別れがあるだろうことを想定したからなのだ。
私が計画したことと、写真館の主が提案したことは、意図していることに大した差はない。
そんなことはわかっているけれど、あの日はたしかに悔しかったし、その悔しさがあったせいで写真を購入する気持ちになれなかった。
それが、最近になってようやく、写真館の主が出しゃばった、その背後にあったかもしれない想いを想像するようになった。
主は、単純に嫌われ役を買ってでたのだ。
客が「必要ない」と断ったから、カメラマンである息子は撮らなかった。そこへ、まるで『そんな話は知りません』みたいな顔をして現れたあの写真館の主は、客に嫌われようが怒られようが、おじさんにとって、残しておいた方がいいと思ったのだろう。だから強引に写真を撮らせたのかもしれない。
長年写真館を経営して培った経験と考えがあったに違いない。そんなことを思っている。
撮られたからといって何かが減るわけではない。
最後まで妙な意地を張っていたのは私一人だった。
けれど、おじさんは私の気持ちを察してくれていた気がする。おじさんは冗談でも「いい写真が撮れたら遺影にしますよ」とか、そういった類いの高齢者ジョークは言わなかったし、あからさまな私の態度を問い詰めることもなかった。
三十年も仲良くしてきた友人に、高齢になったからといって暗黙の了解と言わんばかり、「一人で撮ってもらってはどうですか」なんて、もう一度同じシチュエーションがあったとして言いたくない。
こうして振り返ってみても、私の想いはあまり変化しておらず、依然として割り切れなさは残っている。
残念ながら完璧に和解できたとは言い難い。
それでも、あのとき写真館の主が咄嗟にとった行動を好意的に受け止めようと努力している。
