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äž­è«–01倧乗仏教【仏教の基瀎知識11】


垰敬偈

二十代の終りから䞉幎間、私はむンドのナヌランダヌ仏教研究所に教垫兌孊生のような身分で滞圚しおいた。私の個宀の隣りの宀に、これも教垫兌孊生のような身分のラマがいた。もの静かな、しかも博識の、リクツィン・ルンドゥブずいうチベット人であった。たたたた「䞭論」が話題になったずき、このラマは、圌がチベットのラマ寺院で勉匷しおいたころ、
「䞍生にしおたた䞍滅、䞍垞にしおたた䞍断、䞍䞀にしおたた䞍異、䞍来にしおたた䞍去、胜く是の因瞁を説いお、善くもろもろの戯論けろんを滅す。我れ仏に垰敬瀌す。もろもろの戯くものの䞭の第䞀たり」
ずいう『䞭論』冒頭の垰敬偈を読たされおどんなに驚いたか、そしおその意味はいたもっお圌にはほんずうに分らない、ずいうこずを話しおくれた。
昔も今も、そしお日本だけでなく仏教圏の倚くの囜々で、仏教の思想を孊ぶ孊生は無数にいるが、『䞭論』を読んだこずのない者はおそらくいないであろう。だが『䞭論』を読んで、すぐにそれが分ったずいえる孊生も、おそらくいないであろう。チベットでも同じこずなのだな、ずそのずき私は深い感銘を芚えた。p48-49

「空の思想仏教における蚀葉ず沈黙 」梶山雄䞀人文曞院

ここでいう、戯論ずは蚀語的倚元化・蚀語的な倚様性・抂念化ずいう心の働きのこず。
もろもろの戯論を滅す ⇒ 思考が静たり、沈黙しおいる状態。


『䞭論』を読んで理解できる人はほずんどいない。八千頌般若経も同様で、普通に読んでも理解するのは難しい。これらの経兞には、人間の論理では理解しがたいこずが曞かれおいる。人間の頭脳は自然に論理的思考をするようにできおおり、文章を読む際にも自然ず論理的に読もうずする。
しかし、八千頌般若経や䞭論は通垞の論理を超えた内容を含んでいるため、論理的に読むだけでは理解できない。圌らの意図を汲み取る胜力がないず、䜕を蚀っおいるのか党くわからない。


いたの日本で韍暹の研究に生涯をかけおいる人、ずいえばたず瓜生接隆真氏のこずが胞にうかぶ。氏がか぀お「䞭論を勉匷するず䞍遇の人生をおくるこずになる」ず云われたのを私は思い出す。氏がどういう心境でこういうこずを蚀われたか分らないが、『䞭論』に限らず、いたの䞖で仏教孊を専攻する孊生に快適な人生がおずずれるはずのないこずはたしかである。それは別ずしお、偶然なのかどうか分らないが、心情の激動ず人間関係での぀たずき、そしお波瀟にみちた生涯ずいうものは倚くの空の哲孊者に共通しおいる。p49
䞭芳の思想家たちの生涯は、その哲孊ず瞑想のさし瀺す絶察の静寂にも䌌あわず、狂瀟にみちたものである。圌らの匁蚌は、それが䌝える空の䞖界の枅明さにもかかわらず、火のように熟烈な論理であった。この䞖界を倢、幻ず芳た圌らが珟実に芋たものは、森林の閑かな生掻ではなくお、みにくい人の䞖の悪倢であった。そういうこずが䞭芳の思想ずたったく無関係なものずはいえないであろう。悪倢の痛みを知らぬ者に、この䞖界を倢、幻ず芳るこずなどができるはずはないからである。p50

「空の思想仏教における蚀葉ず沈黙 」梶山雄䞀人文曞院

絶察に蚌明できないもの

ものはすべお原因によっお生じ、他のものに䟝存しお存圚する。その瞁起的な存圚性は、自立的な実䜓の存圚性ずはたったく異なっおいる。瞁起したものは、それ自䜓の実䜓性をもたないから、存圚するずも存圚しないずも蚀えない。だから、自立的な実䜓を仮定しお、その有限・無限、生ず滅、去ず来ずを論ずる圢而䞊孊はブッダにずっお無甚の議論であった。ブッダはかかる圢而䞊孊的問題に察しお沈黙を守った。p103
『般若経』や『䞭論』がほんずうに云おうずしおいるこずは、もしものが本質的存圚ずしお実圚するならば、われわれが぀ねに経隓しおいる因果関係や生滅倉化の䞖界が説明できなくなっおしたう。だからものは本質的存圚ずしおあるのではない。ものは本質的存圚ずしおは空である、ずいうこずなのである。「䞍生䞍滅の瞁起」ずいうこずは、だから、すべおのものは本質的存圚ずしお生滅し去来するのではなく、本質的存圚の空なるものずしお、倢や幻のようにあらわれ消えるのだ、ずいうこずである。p72

「空の思想仏教における蚀葉ず沈黙 」梶山雄䞀人文曞院

自分が存圚するこずは絶察に蚌明できない。これは認めるかどうかの問題に過ぎない。䞖の䞭には蚌明できないこずが倚いが、それに぀いお議論するこずは可胜だ。このような議論は圢而䞊孊の領域に入る。ブッダは圢而䞊孊の議論を避け、沈黙を守った。「般若心経」や「䞭論」は、この䞖界が倢のようなものであり、氞遠に倉わらないものは存圚しないず繰り返し説いおいる。圌らはそれを蚌明したず考えおいるが、そもそもその蚌明自䜓に誀りがあり、実際には蚌明にはなっおいない。
すべおのものには本質的な存圚はなく、「空」ずしお珟れおは消えるずいう意味で、䞍生䞍滅の「瞁起」を語っおいる。「般若心経」での䞍生䞍滅の意味は、本質的存圚が実䜓ではないこずを瀺しおいる。すなわち、䞍生䞍滅の「瞁起」ずは、仮に生じお仮に滅するものであり、どんなものも本圓には生じず本圓には滅しないずいうこず。
この考えに基づけば、䞖界は虹のように珟れおは消える倢や幻のようなものである。これが圌らの䞖界芳であり、以䞊がこれたでのたずめ。

䞍生䞍滅の瞁起八䞍の瞁起


「八䞍》はっぷ」の瞁起
「垰敬偈」
䜕ものも滅するこずなく、䜕ものも生ずるこずなく、䜕ものも断ずるこずなく、䜕ものも垞じょうであるこずなく、䜕ものも同䞀であるこずなく、䜕ものも別異であるこずなく、䜕ものも来るこずなく、䜕ものも去るこずのない、戯論蚀語的倚元化が寂滅じゃくめ぀し、吉祥きちじょうであるめでたい瞁起を説きたもうた正芚者しょうがくしゃ仏陀、もろもろの説法者のなかの最もすぐれた者に、敬瀌す。p186-187

「ナヌガルゞュナ空の論理ず菩薩の道 」瓜生接隆真倧法茪閣

「䞍生䞍滅の瞁起」は「瞁起」が生じたり滅したりしないずいう意味ではない。「瞁起」自䜓は、生滅を論じるものではない。では䜕が生じたり滅したりしないのかず蚀えば、「どんなものも」生じたり滅したりしないずいうこず。蚳では原文挢文にはない「䜕ものも」ずいう蚀葉が付け加えられおいる。

仏陀は「瞁起」の法こずわり、道理を悟り、そのこずわりを説き瀺されたのであっお、仏陀の説法は瞁起のこずわりにもずづく教えが䞭心であったずいえる。
もろもろの事柄は原因から生じる。
劂来はそれらの原因を説きたもうた。
たたそれらの消滅をも説かれる。
倧沙門はこのように説く人である。
この偈が「因瞁偈」、すなわち瞁起のこずわりを説いた偈ず呌ばれおいる。
***
ものが生じ事柄が成り立぀、たた生じたものや成り立った事柄が滅する、これが「瞁起」ずいうこずである。このようにものの生滅は原因因ず条件瞁によるのであるが、同じく瞁起を説いおいるずしおも、垰敬偈ず因瞁偈ずには、前者は䞍生、䞍滅の瞁起を、埌者は生、滅の瞁起を語っおいお、䞀芋するず矛盟するように芋える。しかし問題は、䞍生、䞍滅の瞁起ずは䜕を意味しおいっおいるか、ずいうこずである。
その芁点は、生じるずか、滅するか、ずいっおも、䜕ものもそれ自䜓本䜓、実䜓ずしお生じるのではなく、滅するのではない、ずいうこずであっお、そこに「瞁起」の深意があり、このような瞁起を仏陀は説かれた、ず垰敬偈はいっおいるのである。p188-p189

「ナヌガルゞュナ空の論理ず菩薩の道 」瓜生接隆真倧法茪閣

いた「䞍生䞍滅〜䞍去なる瞁起」Aずするずいう衚珟を、それに続く「戯論が寂滅しおいる瞁起」Bずするおよび「吉祥なる瞁起」Cずするず比范しおみよう。
たずえば「赀い花」ずいう抂念は、盎ちに「花は赀い」ずいう呜題に眮き換えられるように、右のBずCずは、「瞁起は戯論が寂滅しおいる」、「瞁起は吉祥である」ず、容易に眮き換えられる。
同じこずをもしもAに぀いおおこなえば、「瞁起は䞍生䞍滅〜䞍去である」ずなる。これをそのたた解釈すれば、「瞁起は生ずる滅する〜去るこずがない」ず芋お行かなければならなくなる。
このような過誀を免れるために、私はこの冠詞に bhāva たたはその耇数、そしおふ぀う「䞭論」では、この語が「法」ず挢蚳されおいるから、以䞋は「法」ずいうずいう抂念を持ちこみたい。すなわち、「瞁起は法が䞍生䞍滅〜䞍去である」→「法が䞍生䞍滅〜䞍去である瞁起」ず解するこずを提案したい。
このようにしお、「法が生ずる滅する云々こずがない」瞁起であれば、たずえば戯論ずは、もずもず法に関しおなされるのであるから、圓然戯論は寂滅せざるを埗ないこずになり、右の垰敬頌は銖尟䞀貫するこずができる。

「諞法䞍生」瞁起ずは、生そのものの吊定ではない。「生ずる」ずいう抂念圓䜓の吊定ではなくお、「生ずる」ずいう抂念が必ず「Aから生ずる」ずいう呜題に発展し、そのAに独立自存の実䜓的なるものを賊䞎し、あるいは、実䜓Aが存圚しなければ、「生ずる」ずいう抂念が成立しないずする思考に察しお、激しい吊定を济びせるものなのである。以䞋「滅する云々」に぀いおも同じ

増補新版「ナヌガルゞュナ・芪鞞ノヌト」䞉枝充悳法蔵通

ナヌガルゞュナの思想

コロンビア倧孊のW.T.ド・ベリヌ教授は『むンド、䞭囜・日本の仏教䌝統』の䞭で、空の思想を説明しお、次のように説明されおいる。

"珟象䞖界には本圓に存圚しおいるものはない。
すべおは究極的には非実圚 (unreal) である。
したがっお、䞖界に関するすべおの合理的理論は、非実圚の思想家が非実圚の思考によっお展開した非実圚のこずにかんする理論である。
このような論理によっお、空が究極的リアリティであるず説く䞭芳掟の思想でさえも非実圚であるず蚀えるが、そういう䞭芳掟の思想ぞの反論自䜓もたた非実圚であるこずになる。"

このような「空」の説明は「空」に぀いお䜕も明らかにするものではない。
なぜなら、それによっお「空」を説明しようずされおいる「非実圚」(unreal) ずいう抂念自䜓が、いったい䜕を意味しおいるかさっぱり分からないからである。
***
空の思想の解説曞を読んでいるうちに気が぀いたもう䞀぀の方法論の問題点は、文脈の問題であった。
実にあたりにも倚くの曞が「空」ずいう抂念を、それが珟れおいる背景や文脈から抜き取り、解説者自身が慣れ芪しんでいるシステムのなかに埋め蟌んで説明を詊みるものであった。
***
哲孊者が自己の思想を語るのに、空の抂念を利甚しおいるにすぎない堎合が倚く、それはそれ自䜓で意矩のあるこずではあっおも、空ずは䜕かを孊がうずする者にずっおあたり圹立぀よものではなかった。
***
たた、この文脈からの離脱ずいうこずに関しお、別のシステムを持ち蟌むのではなく、それ自身によっお「説明」を䌁おようずするものさえあった。
䟋えば、真野韍海教授の論文には「空ずるこずによっお空を説明する」『韍暹教孊の研究』「韍暹における般若経の理解」ずいうような、䜕か深遠そうな蚀葉が述べられおいるが、それは単なる同語反埩にすぎない。
「空」がわからないから説明を必芁ずしおいるのに、それを「空」で説明するこずは蚱されないであろう。
同じような批刀は、「空は実に空で、それがそのたた非空である。この自芚に目芚めるこずを、仏教は教える」秋月韍眠『鈎朚倧拙の蚀葉ず思想』などずいう鈎朚倧拙の説明にも向けられるであろう。
鈎朚倧拙の堎合は、同語反埩の過ちず、いわゆる「即非の論理」ずいう圌自身のシステムぞの移怍、ずいう二重の過ちが芋られる。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm

たしかに「空」に぀いおの解説曞は巷に数倚く存圚し、それらを読むほどに「空」の抂念がたすたす䞍明瞭になる。しかし、抜象的な説明にずどたらず、「空」を明確に理解するためには、盎接ナヌガルゞュナの蚀説や般若心経の思想家たちの蚀葉をその文脈の䞭で捉える必芁がある。圓時の歎史的背景を考慮し、文脈に即しお理解するこずで初めお「空」の本質が明らかになるのである。

自性論

ナヌガヌルゞュナによれば、空ずは、「ものが究極的には存圚しおいないこず」を指す蚀葉でもなく、たた、「ものの存圚の仕方が幻想のように䞻芳の創䜜にすぎないこず」を指す蚀葉でもなく、たた「存圚の仕方が䜕ずなくがんやりしおいるこず」を指す蚀葉でもありたせん。
そうではなくお、空ずはものに自性が欠劂しおいるこずを指す、極めお意味の明確な蚀葉です。
自性ずは「スノァバヌノァ」svabhavaずいうサンスクリット語の挢蚳です。盎蚳すれば「自己自身の存圚」ずいうふうにでもなるでしょうか。
珟代日本語蚳では「実䜓」ず蚳されるこずが倚いようです。
英蚳では "self-existence" ずか "own-being" あるいは "substance" などず蚳されおいたす。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm
  • 初期仏教この䞖に関しおは「有」でもなく「無」でもない。存圚の仕方が䜕ずなくがんやりしおいる

  • 般若心経䞍生䞍滅ものが究極的には存圚しおいない

  • 八千般若心経実に幻ず物質的存圚は別々ではありたせん。䞖尊よ、物質的存圚は幻であり幻は物質的存圚ず同じです。ものの存圚の仕方が幻想のように䞻芳の創䜜にすぎない

ナヌガルゞュナはこれらを螏たえた䞊で、ものに自性がなく、すなわち自性が欠劂しおいる状態を「空」ずしお明確に定矩した。ここで重芁なのは、自性そのものの本質。この自性ずいう存圚が䜕であるかを理解しなければならない。自性の定矩が欠けおいれば、空の抂念も意味をなさない。

ナヌガヌルゞュナは、空が、䜕もないこずを意味しおいるのではないこずを衚珟しお、
”反論者は蚀う。
--- ではいったいただ無のみなのか、それずもなんらかのものがあるのか。
これに察しお答えお蚀う。「ある」ず。
(Sunyata Saptati 空䞃十論40-42のによる解説文)
ず、断蚀しおいたす。

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm
である。等しい・むコヌル
がある。そこに存圚する

「どのようにあるかず問うならば答える」ず、圌は論を続けるのですが、結局、空ずはものが自性ずしお成立しおいないこず、぀たり、存圚しおいるものには自性がないこずである、ず説明したす。
”自性ずしお、「存圚」があるのでもなく、「無存圚」があるのでもない。原因ず条件から生起した「存圚」や「無存圚」は空である。”空䞃十論
さお、このように芋おみたすず、空の意味を知るためには「自性」ずは䜕か、ずいうこずがどうしおも明らかにされねばならないこずがわかりたす。
「すべおが空である」ずは「すべおに自性が欠劂しおいる」ずいうこずだからです。
***
それでは、自性svabhavaずは䞀䜓䜕なのでしょうか。
語源的にはすでに述べたように、「それ自身の存圚」あるいは「自己存圚」を意味したす。しかし、蚀葉の本圓の意味は、それが文脈のなかで劂䜕に䜿われおいたかを知るこずが必芁です。
ナヌガヌルゞュナの論敵は仏教内倖にいたすが、その䞭心的な存圚は同じ仏教埒であるアビダルマ論垫たちです。その䞭でも特に、ナヌガヌルゞュナの䞻芁な論敵は、圓時もっずも勢力を誇っおいた仏教䞀掟、サノァスティノァヌダ掟説䞀切有郚の論垫たちだったず蚀われおいたす。
䜕故なら、「䞀切は空である」ずいう思想が出珟するには、それに関係する歎史的背景が必ずあったはずであり、サノァスティノァヌダ掟こそたさに「䞀切は有る」ず説いた仏教宗掟だったからです。
***
自性が、もろもろの瞁ず因ずによっお生ずるず蚀うこずは正しくない。自性が瞁ず因ずによっお生じたものであるずするなら、぀くられたものである、ずいうこずになるであろう。䞭論
さらにたた、どうしお、自性が぀くられたもの、ずいうこずがあるであろうか。なぜならば、自性ずは、぀くられたのではないものであり、たた他に䟝存しないものなのであるから。䞭論
぀たり、ナヌガヌルゞュナによれば、自性は自立自存をその特城ずしおいるこずがわかりたす。
さお、もし自性がそのような性質のものであるずすれば、その存圚は無条件に成立しおいるこずになりたすから、圓然、自性は垞䜏か぀䞍倉䞍滅ずいうこずになりたす。そこで、
自性があれば消滅するこずがない。(空䞃十論16)
ナヌガヌルゞュナの自性批刀の論理は、自性を認めれば、自性は恒垞䞍滅をその性質ずしお持っおいるのだから、無垞無我の仏教の基本思想に矛盟するようになる、ずいうものです。
もし、有を䞻匵する人々が存圚に執着しおおり、同じ道にいるずしおも、そこにいささかの䞍思議もない。ブッダの道によっおすべおは無垞である、ず蚀う人々が、論瀙をもっお存圚ものに愛着しおいるこずは奇異である。六十頌劂理論40、41
ナヌガヌルゞュナは、ヒンズヌ教埒たちが恒垞䞍滅の魂に執着するのは圓然だけれど、ブッダの教えを信じるず自称する仏教埒自身が、ものには恒垞䞍滅の自性なるものがあるず信じおいるこずは実に「奇異である」ずいっお仏教内批刀をおこなっおいるのです。
぀たり、ナヌガヌルゞュナは、自性ずいうものを、ブッダが吊定したアヌトマン個我ず同類のものず芋なしお、それを吊定しおいるこずがわかりたす。
存圚内圚するず思っお信じられおいるもの真実
ブッダ人間アヌトマン個我恒垞䞍滅の魂無我
ナヌガヌルゞュナものスノァバヌノァ自性無自性、空

https://web.archive.org/web/20140708192034/http://sugano.us/butu/ku-0.htm

自性は垞䜏か぀䞍倉䞍滅 ⇒ è‡ªæ€§ã¯ç„¡åžžã‹ã€äžç”Ÿäžæ»…

ブッダ五蘊はアヌトマンでない
韍暹の勘違いアヌトマンがない


ダルマ法ず自性

さお、このアビダルマ論垫たちは、存圚を分析しただけでなく、その構成芁玠たるダルマ法の䞀぀䞀぀に自性が有るず䞻匵したした。
この自性説は、仏教思想史における新しい展開であり、初期の存圚分析にはなかったものです。
問う。
なぜ「諞々のダルマはそれぞれ自性を含む」ずアビダルマ経兞に曞いおあるのか。
答える。
自性はそれ自身、ダルマの倖にあるのではなく、ダルマから離れお存圚しおいるのでもなく、ダルマず別のものでもなく、぀ねに䞍空であるがゆえに、「ダルマは自性を含む」ず説いおあるのである。
***
自性はそれ自身、過去に存圚しないずいうこずも、珟圚に存圚しないずいうこずも、未来に存圚しないずいうこずもあり埗ず、垞に存圚するのであるから、「(ダルマは) 自性を含む」ず説いおいるのである。自性はそれ自身、増加もしないし、枛少もしないから、「(ダルマは) 自性を含む」ず説いおいるのである。(ダルマは) それぞれの自䜓 (自性) を執持し、決しお散壊させるこずがないので、「(ダルマは) 自性を含む」ず説いおいるのである。『倧毘婆沙論』巻59
このように、存圚を圢成しおいる構成芁玠であるダルマにはすべお自性が内圚しおいお、ダルマず自性が切り離せない関係にあるこずを、アビダルマ論垫たちは匷く䞻匵しおいたす。
***
自性は増枛もしない、ずいう衚珟からも、自性が䞍倉䞍滅性をも぀ものであるこずが暗瀺されおいたす。この点に぀いおは、次のような、アビダルマ論垫の論議も残されおいたす。
問う。
諞々のダルマの自性に転倉倉化ずいうものはあるのか。
答える。
諞々のダルマの自性に転倉倉化はない。
問う。
ならば、なぜ「䜏異」ものの存続ず倉化。ものが無垞であるこずがあるず蚀うのか。
答える。
「因瞁原因や条件があるから転倉なし」ずも蚀われ、「因瞁があるから転倉あり」ずも蚀われる。
***
「因瞁があるから転倉なし」ずいうのは、すべおのダルマ䞀切法は、それぞれ自䜓・自我・自物・自性・自盞に䜏しおいお、転倉がないこずを意味する。たた、「因瞁があるから転倉あり」ずいうのは、いわゆる、぀くられたものは、勢いを埗るずきに生じ、勢いを倱うずきに滅したす。それで、「転倉あり」ずいうのである。
このようにしお、アビダルマ論垫たちによれば、存圚を構成しおいる諞々のダルマには必ず自性があり、ダルマず自性は切り離せないこず、そしお、自性は、原因もなく無条件的にダルマに存圚し、未来・珟圚・過去を通しお存圚する恒垞的か぀䞍倉的な䜕かです。
ここには、たさに、ナヌガヌルゞュナが批刀する自性の恒垞性、䞍倉性、䞍滅性、自立自存性などの性質が明らかに認められたす。

アビダルマ論垫は「無垞」を吊定したか
ナヌガヌルゞュナは、以䞊のような自性の性質ゆえに、自性の思想が仏教の基本的思想である無垞・無我の思想ず盞容れない矛盟した思想である、ず批刀したのです。
しかし、アビダルマ仏教の思想家たち自身はもちろん、真の仏教埒ずしおの自負を持ち、「無垞無我」の思想を吊定しおいるずは思っおいたせん。
だから、䟋えば、次のようなアビダルマ論垫の蚀葉が、ナヌガヌルゞュナに察する批刀ずしお蚘録されおいたす。
「すべおは無垞である」ずいわれおおり、「すべおは無垞である」ず瀺すこずによっお、非空であるこずも瀺しおいるのである。(空䞃十論 58解説)
***
もし経兞の「すべおは無垞である」ずいう蚀葉が真実であるずすれば、「無垞である」ずころの䞻䜓が存圚するはずである。それゆえ、この「すべお」は存圚するのでなければならない。これが圌らの論理です。このようにしお、アビダルマ論垫の立堎から芋れば、すでに述べた数々の自性の性質にもかかわらず、決しおそれは、仏教の基本思想である無垞の思想を吊定したものではなかったのです。いったい、なぜこんなにアビダルマ論垫たちは、自性ずいうものを重芖したのでしょうか。
問う。
もろもろのダルマが自性を含むず芳察する時、いかなる勝利があり、どのような益を埗るこずが出来るのか。
答える。
「我想」自己に恒垞䞍倉の個我があるず信じる迷劄や「䞀合想」存圚は五蘊の構成芁玠に分別できず、党䜓が䞀぀ずしおあるず信じる迷劄を陀去し、「法想」自己をダルマによっお理解する考え方や「別想」存圚は五蘊の構成芁玠に分別できるずいう考え方を修埗する益に満たされる。
もし、我想や䞀合想を陀去し、すなわち、色法物質䞖界も無色法非物質䞖界も、久しかからず磚滅するず芳じ、すべおのダルマは塵や砂のごずく散滅するず総芳すれば、これによっお、悟りの原因ずなるものを埗るこずが出来る  。
「倧毘婆嚑論」巻59
アビダルマの思想家たちから芋れば、自性の存圚こそ無垞の珟象を支えおいるものであるず考えお、ものの自性を知れば䞖界が無垞であるこずが悟れる、ず䞻匵したのです。

瞁起論
空ずは、ナヌガヌルゞュナによれば、存圚がないこずを意味するのではなく、存圚には「自性スノァバヌノァ」ずいうものなどない、ずいう意味であるこずを、説明したした。すなわち、人間には氞遠に自立自存する「個我」魂、アヌトマンなどないように、ものには氞遠に自立自存する「自性」などない、ずいう䞻匵が空の䞻匵でした。
しかし、かれは、単に自性を吊定しただけでなく、「瞁起ずいう、仏教のもう䞀぀の重芁な抂念を持ち出しお、これを自性ず察立させたす。
瞁起ずは「䟝っお起こる」ず盎蚳されたすが、おそらく「あらゆるものはさたざたな芁因や条件に䟝存しお存圚しおいる」、ずいうほどの意味でしょう。
ナヌガヌルゞュナは、ものは䟝存関係によっお存圚しおいるのであっお、自性䞻矩者が蚀うように、ものに内圚する䞍倉の本質のようなものによっお存圚しおいるのではない、ずいう䞻匵をしたのです。
あれやこれに䟝存しお生起したものは、自性をもっお生起したのではない。六十頌劂理論 19

瞁起が自性の察立抂念であるこずが語られおいたすが、空ずは自性の吊定でしたから、結局、空ずは実は瞁起のこずである、ずいうこずになりたす。
぀たり、「空無自性瞁起」ずいう等匏が成立したす。
およそ、ものが瞁起しおいるずいうこずを、われわれは空であるず説くのである。䞭論 24:18
およそ、どのようなものでも、瞁起しないで生じたものはない。したがっお、いかなるものであろうず、空でないものは存圚しない。䞭論 24:19
たた、ものが他によっお存圚するこずが空性の意味である、ずわれわれは蚀うのである。他による存圚には本䜓自性はない。迊濕論 22

こうしお、ナヌガヌルゞュナは、空ずは瞁起である、ずいう、おそらく圌の䞭心思想ずでも蚀うべき䞻匵を確立したす。
すべおが空であるこずを、倧々的に取り䞊げはじめたのは、さたざたな般若経兞の無名の著者たちですが、圌らは空ずは䜕であるかを「瞁起」によっお説明するこずはしたせんでした。
しかし、ナヌガヌルゞュナは、「自性」に察立する抂念ずしお「瞁起」ずいう仏教の䌝統的抂念を持ち出しお、䞊蚘の䟋にあげたように、これによっお空ずいう抂念を説明したのです。

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無自性 ⇒ 非自性

詭匁論法

仏教経兞における瞁起の思想は、さらにたた、これを䞀般化した衚珟がしばしば䜿甚されおいたす。それが、有名な
これがある故に、これがある。
これが生ずる故に、これが生ずる。
これがない故に、これがない。
これが滅する故に、これが滅する。( 12:37 増谷文雄蚳)ずいうものです。
***
このように、「瞁起」ずいう抂念は、「無我」ずか「無垞」ずずもに、仏教の基本的な抂念の䞀぀ずしお確立されおいたものであっお、仏教埒であるならば、どの宗掟であっおも認めおいたものです。
したがっお、ナヌガヌルゞュナは、瞁起ずいう抂念を持っお、「自性」を䞻匵するサノァスティノァヌダ掟説䞀切有郚批刀を展開したしたが、サノァスティノァヌダ掟たち自身は自分たちが瞁起を吊定しおいるずは思っおいたせん。
ナヌガヌルゞュナは、自性ず瞁起が矛盟察立しおいお、自性を認めれば瞁起が成立しなくなるこずを瀺そうずしたすが、サノァスティノァヌダ掟たちは、むしろ、すべおが空であり、ものに自性がなければ、瞁起も成立しないず考えたす。
***
反察者いわくもしもこの䞀切のものが空であるならば、なにものも生起するこずなく、たた消滅するこずもない。なにものを断ずるがゆえに、たたなにものを滅するがゆえに、ニルノァヌナが埗られるず考えるのか。䞭論 24:1
答えおいわくもしもこの䞀切のものが䞍空であるならば、なにものも生起するこずなく、たた消滅するこずもない。なにものを断ずるがゆえに、たたなにものを滅するがゆえに、ニルノァヌナが埗られるず考えるのか。䞭論 24:2自性論者は、もし䞀切が空であり自性がないずするず、いったい䜕が生起し、たた消滅するのか。
それでは、悲苊を匕き起こす原因や条件を断滅するこずによっお悲苊からの解攟ニルノァヌナが埗られるずいうブッダの瞁起の教えを吊定するこずになるのではないのか。
そのように空説を批刀したす。
それに察しお、ナヌガヌルゞュナは、もし䞀切が䞍空でありすべおに自性があるずするず、自性は自立しお存圚する䞍倉䞍滅の性質をもっおいるので、いかなるものも生起するこずなく、たた滅するこずもなくなるであろう。
たさに、それこそが、ブッダのニルノァヌナの瞁起の教えを吊定するものではないか、ず切り返しおいるわけです。
぀たり、ここでは、自性ずいう抂念の含意する恒垞性の問題に泚目しお批刀が展開されおいるわけです。
それは、次のような䟋にも芋られたす。
原因の滅するこずによる静寂が「滅尜」ずいわれおいる。しかし、実䜓ずしおprakrtya滅尜しないものがどうしお滅尜するず蚀えるであろうか。(六十頌劂理論 20)
もし生起も消滅もなければ、いったい䜕が消滅しお涅槃するのであろうか。ず聞くならば、答える自性ずしお、生起するこずも消滅するこずもないこずが解脱なのである。(空䞃十論 24)
さらにたた、自性ずいう抂念の含意する自立性の問題に泚目しお、ナヌガヌルゞュナは次のような批刀も展開したす。
原因ず結果が同䞀であるずいうこずは、決しおあり埗ない。原因ず結果が別異であるずいうこずも、決しおあり埗ない。もしも原因ず結果ずが䞀぀であるならば、生ずるものず生ぜられるものずが䞀䜓ずなっおしたうであろう。たた原因ず結果ずが別異であるならば、原因は原因ならざるものず等しくなっおしたうであろう。(äž­è«– 20:1920)
぀たり、もし、ものはすべおそれに内圚しおいる自性によっお自立しおいるずいう立堎に立぀ず、原因ず結果は同䞀物を指すか、それずも、たったく別々の物を指すか、そのどちらかずなりたす。
ずころが、もし原因ず結果がたったく同じものを指しおいるずするず、原因ずか結果ずか蚀えなくなりたす。
たた、別々のものずしお独立に存圚しおいるならば、どちらがどちらの原因であるずいうようなこずも蚀えなくなりたす。
したがっお、自性論に立おば、因果関係は成立しなくなる、ずいうわけです。
぀たり、仏教埒ならば圓然認めなければならない因果関係を認める立堎に立぀ならば、ものが独立しお存圚しおいるずいう自性論は捚おねばならない、ずナヌガヌルゞュナは論敵を远い぀めるわけです。
こうしお、ナヌガヌルゞュナは、ものがさたざたな原因や条件によっお生起し消滅する瞁起の珟象は、自性がないからこそ可胜であるこずを䞻匵し、ものが自性ずしお生起も滅尜しないこずを「䞍生䞍滅の瞁起」ず呌びたす。

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盞䟝性の瞁起

仏教にはその思想や実践を代衚する様々な抂念がありたすが、「䞭道」もそのひず぀ず蚀えたす。
もずもず、䞭道ずは、快楜䞻矩ず犁欲䞻矩ずいう極端な生き方を吊定した初期の仏教の修行の姿勢を意味しおいたず考えられたすが、瞁起を盞䟝関係の芖点から芋るナヌガヌルゞュナは、その瞁起思想を䌝統的仏教の䞭道の抂念ずも結び぀けたす。
空性ず瞁起ず䞭道ずは意味の等しいものである、ず蚀われた、たぐいない人ブッダをわたしは瀌拝いたしたす。廻諍論「瀌拝の蚀葉」
「瞁起ず䞭道ずは意味の等しいもの」ずいう䞻匵は、圌の瞁起の抂念が盞䟝関係を意味するこずがわかれば、理解しやすいず思われたす。
ものが存圚し、か぀無であるずいうこずは同時に成立しない。
しかし無ずいうこずがなければ有ずいうこずもない。
぀ねに、有ず無の䞡方がある。
そしお有なくしお無もない。(空䞃十論19)
ここでも「無ずいうこずがなければ有ずいうこずもない 、有なくしお無もない」ずいうナヌガヌルゞュナの瞁起思想の代衚的な衚珟が䜿われおいたすが、このような「有」ず「無」の盞䟝関係から、圌は「有」ずか「無」に執着する立堎を「倒錯」ずか「劄想」ず批刀し、これを吊定したす。
愚かな人はものに自性を想定しお、有るずか無いずかず倒錯する誀りのために煩悩に支配されるから、自らの心によっお欺かれる。(六十頌劂理論 24)
瞁起によっお存圚するものは、氎に映った月のように、有でも無でもない、ず蚀う人々は、邪説に心が奪われるこずがない。(六十頌劂理論 45)
有ず無を劄想せず、ものを認識する人には、誀った認識によっお苊悩する煩悩の過倱がない。(六十頌劂理論 47)

もしも、本性䞊、あるものが有であるならば、そのものの無はあり埗ないであろう。䜕ずなれば、本性の倉化するこずはけっしお成立しないからである。本性が無であるずき䜕ものの倉化するこずがあろうか。
たた本性が有なるずき䜕ものの倉化するこずがあり埗るであろうか。「有り」ずいうのは垞䜏に執着する偏芋であり、「無し」ずいうのは断滅を執する偏芋である。故に賢者は「有りずいうこず」ず「無しずいうこず」に執着しおはならない。(äž­è«– 15:810)
このように、「有」ず「無」のいずれかに執着する立堎を偏芋ずしお吊定するのがナヌガヌルゞュナの存圚論ですが、このような立堎が可胜になるのは、もちろん、「有」ず「無」は盞互䟝存しおいお、それらには自立的な存圚根拠はない、ずいう瞁起思想があるからです。

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サヌンキダ哲孊では「自己」ず「プラクリティ」がある。自己は「有」ず考え、プラクリティは「無」ず考えるのがよい。これらは圢而䞊孊的な抂念であり、「有」ず「無」の蚀葉で説明するのが適切である。

物が存圚し、無であるこずは同時に成立しない。サヌンキダ哲孊者は自性を仮定し、それを䜓隓的に知っおいる人もいる。存圚を認めるが、同時に無ず定矩しおいるため、存圚ず無は同時に成立しないずいうこずになる。しかし、無がなければ有もない。垞に有ず無の䞡方が存圚する。無なくしお有も無もないわけではなく、有は自立自存しおおり、䞍生䞍滅であるため、片方がなければ片方がないずいうこずは成立しない。これは盞互䟝存ではなく、自立しおいる。したがっお、この議論は党お吊定できる。

愚かな人は物に自性を想定し、有るずか無いずかを議論のために煩悩に支配されるず蚀っおいるが、サヌンキダ哲孊では「有」ず「無」を蚭定し、意識をプラクリティあるいはプルシャに持ち䞊げるこずで解脱を目指しおいる。煩悩から脱するこずを目的ずしおいるため、この論理には根拠がない。「有」ず「無」で議論するこずにより煩悩に支配されるずいう䞻匵には根拠がなく、自らの立堎を擁護する蚀葉でしかない。

「瞁起」によっお存圚するものは氎に映った月のように「有」でも「無」でもないずいう人は、挫折に心が奪われないず蚀うが、サヌンキダ哲孊でも説䞀切有郚でも「瞁起」によっお存圚するものは「有」でも「無」でもないずされる。氎に映った月のように「有」でも「無」でもないわけではなく、単に必芁のない郚分である。このような文章は無意味である。

誀った認識によっお苊悩する煩悩の過倱がないずいうが、これを認めない立堎の人には根拠がない。これは無意味な蚀葉の䞊びに過ぎない。

もしもその本性䞊あるものが有であるずするならば、そのものの無はありえない。そのものが無になるこず、なくなるこずはない。本性が無である時、䜕者が存圚し倉化するこずがあろうか。しかし、あるものが有であるならば、それを自己ず認めおいるのではなく、五蘊の䞭の䜕かが有であるならばずいう意味が理解しづらい。本性䞊有であるずいう意味が分からない。ある個人が自己プルシャずプラクリティ、すなわち有ず無を本性ずしお持っおいるのではないか。物も魂を持ち、石や花などすべおの生呜も自己プルシャずプラクリティを本性ずしお持っおいる。

本性䞊、どんなものも「有」でありか぀「無」である。本性が2぀あるずされ、「有」ず「無」ずいう二぀の性質を持぀。ゆえに、本性に関する議論は成り立ち埗ない。本性が無である時、䜕者も倉化するこずがないずいう考え方は誀りである。「無」の本質は無垞であり、倉化するものである。自性が本性であるからこそ倉化する。プルシャずいう本性があるため、それを保持しようずする力が働くのである。

本性が無である時、䜕者も倉化するこずがないずいう考え方は成り立たない。むしろ、本性が無を持぀ため、珟圚の状態を維持しようずする力が働くのである。「無」だけが本性ずいうこずはなく、「有」ずいうのは執着であり偏芋であり、「無」ずいうのは断滅を意味する偏芋である。この五蘊のものが五感に認知される状態を「有」ず呌び、認知されなくなった状態を「無」ず呌んでいるだけである。「有」ず「無」は別の抂念であり、これは圢而䞊孊的抂念ず珟象孊的抂念を混同した議論である。

議論ずは立堎に応じおどうにでも解釈できるものであり、逆の立堎から反論するこずが可胜である。このような立堎を認めるこずを嫌う人も存圚し、そのような人々は、この考え方を愚かず芋なすこずがある。愚かな人々は、苊しみから逃れられないずされるが、実際には、修行しお悟りを埗るこずが重芁である。

瞁起ず因果

これがあれば、かれがある。
これが生ずれば、かれが生ずる。
これがなければ、かれがない。
これが滅すれば、かれが滅する。
ずいう有名な定型句や、支瞁起などに兞型的に瀺されおいたすが、それらは䞀芋、因果関係ずも芋られるので、瞁起関係ず因果関係ずはずきにしお混同されるこずがありたす。
しかし、瞁起関係には、因果関係に芋られないいく぀かの特城があり、因果関係ず同䞀ず考えるこずはできたせん。
瞁起の思想ず因果の思想は混同されやすいのですが、瞁起の思想だけにしか芋られない特城がありたす。
それは、瞁起は぀ねに「順芳ず逆芳」のペアで衚珟されおいるずころです。
「これがあれば、かれがある」あるいは「これが生ずれば、かれが生ずる」の盞圓する郚分が順芳ず呌ばれおいる郚分で、「これがなければ、かれがない」あるいは「これが滅すれば、かれが滅する」に盞圓する郚分が逆芳ず呌ばれおいたす。

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「瞁起」の関係はペアになっおおり、「因果関係」はペアに なっおいない。
䟋えば、火ず煙の関係を考えおみる。䞀般的には、火が原因で煙が結果ず捉えるのが普通だ。火があれば煙が立ち䞊るし、火がないずころで煙が立぀こずはない。したがっお、「火があれば煙が立぀」ずいう呜題は垞に成り立぀。たた、「煙があるならば火がある」ずいう呜題も成り立぀。぀たり、煙の原因は火であり、火がなければ煙は立たない。この関係を「因果関係」ず呌ぶ。火が原因で煙が結果ずしお珟れるずいうこずだ。

䞀方、「瞁起」ずいう抂念を考える堎合も同じように、火ず煙の関係が圓おはたる。瞁起の本質は、「これがあれば圌がある、これがなければ圌がない」ずいう関係だ。぀たり、「火があれば煙がある、火がなければ煙がない」ずいう二぀の呜題が成り立぀。

ここで泚意すべきなのは、瞁起の関係には時間的前埌関係が必ず存圚するずいうこずだ。火が先に存圚し、その結果ずしお煙が埌に発生する。原因が先で結果が埌になるずいう時間的な前埌関係が瞁起の重芁な芁玠ずなる。

このように、因果関係ず瞁起の関係は、火ず煙の䟋で説明するこずができる。火が原因で煙が結果ずなり、時間的な前埌関係を持぀こずが瞁起の本質だ。

因果関係ず盞䟝関係
ナヌガヌルゞュナの䞻芁な論敵が説䞀切有郚小乗郚掟仏教の䞀぀であったらしいこずはよく知られおいたすが、瞁起に関しおは、説䞀切有郚のみならず、小乗郚掟仏教は䞀般に、それを時間的生起関係ず理解しおおり、それに察しお、䞭芳掟は、盞䟝関係ずしおの瞁起を明確にしおいたす。
浄に䟝存しないでは䞍浄は存圚しない。
  䞍浄に䟝存しないでは浄は存圚しない。䞭論23
「䞀」がなければ「倚」はなく、「倚」がなければ「䞀」はない。したがっお、ものは瞁っお起こる瞁起のであっお、自立しおいるのではない。
空䞃十論7
䞭芳掟が瞁起を盞䟝性の意味に芳じおいる以䞊、「これがあるずき、かれがあり、これが生ずるこずから、かれが生じる」云々ずいう句もその意味に解釈されなければならない。
  小乗においおは、瞁によっお起こるこず、時間的生起関係を意味するず解されおいたこの句が、䞭芳掟【倧乗】においおは「あたかも短に察しお長がごずし」ずか、あるいは「長ず短のごずし」ずいうように党く法ず法ずの論理的盞関関係を意味するものずされるに至った。
長ず短が盞䟝っおそれぞれ成立しおいるように、諞法は盞互に䟝存するこずによっお成立しおいるずいう。䞭村元、同䞊、148頁
ナヌガヌルゞュナや般若経の著者達は、䟝存関係ずしおの瞁起を説くこずによっお、いかなるものも自性がない無自性・無我ずいう、空の思想を展開するこずができ、よっお、倧乗仏教を支える倧きな柱を建おるこずに貢献をしたした。
瞁起を語るずきのナヌガヌルゞュナの特殊な蚀い回しに泚意しなければなりたせん。それたでの、
これあるに瞁りおかれあり。
これなきに瞁りおかれなし。
ずいう蚀い方を、次のような蚀い方に換えおいたす。
かれなきに瞁りおこれなし。
これなきに瞁りおかれなし。

぀たり、順芳の郚分「これあるに瞁りおかれあり」を「かれなきに瞁りおこれなし」ず蚀い換えるこずによっお、「かれなきに瞁りおこれなし。これなきに瞁りおかれなし」ずいう盞互䟝存ずしおの瞁起を語るこずになったのです。
その兞型的な䟋を挙げれば、
無明に瞁っお行があり  無明の滅によっお行の滅がある。
ずいう䌝統的な瞁起の衚珟を、ナヌガヌルゞュナは、
行がなければ無明も生じないし、 それ無明がなければ行も生じない。(空䞃十論 11)ずいうふうに、衚珟しおいたす。
䞭村元(『』1980幎)も、初期の仏教では郚分的にしか蚀われおいなかった盞䟝性を、ナヌガヌルゞュナは「培底的に拡匵解釈した」のだ、ず蚀われおいたす。
ずころが、これらの研究はいずれも、
これあるに瞁りおかれあり。
これなきに瞁りおかれなし。
ならば。でなければでない。
かれなきに瞁りおこれなし。
これなきに瞁りおかれなし。
でなければでない。でなければでない。
の二぀の瞁起説を比べお、前者を「これ」から「かれ」ぞの「䞀方向的」な関係すなわち時間的生起関係であるず解釈し、埌者を「これ」ず「かれ」の「双方向的」な関係すなわち盞䟝的関係である解釈しおいたす。

぀たり、これらの孊者たちは、衚珟の皮盞的な郚分だけにずらわれ、その論理的構造の分析を怠ったがゆえに、「ならば」ず「でなければでない」が論理的に同倀であり、同じ意味を持぀異なった衚珟であるこずを芋逃しおいるのです。
瞁起は、それが「䞀方向的」に衚珟されおいようがいたいが、順芳ず逆芳のペアで語られおいるがゆえに、すべお必然的に盞䟝的関係ずなるのです。
それでは、なぜ、ナヌガヌルゞュナは瞁起が盞䟝的関係であるこずを瀺そうずしたのでしょうか。
この答えはあきらかです。
瞁起が盞䟝的関係であるこずを瀺すこずによっお、ナヌガヌルゞュナがなそうずしたこずは、もちろん、自性論批刀空です。
「䞀」がなければ「倚」はなく、「倚」がなければ「䞀」はない。
したがっお、ものは䟝っお起こる瞁起のであっお、自立しおいるのではない。(空䞃十論 7)
行がなければ無明も生じないし、それ無明がなければ行も生じない。
この䞡者は盞互に原因ずなっおいるから、それらは自性によっお成立しおいるのではない。(空䞃十論 11)ナヌガヌルゞュナは、「めでたい瞁起のこずわりを説きたもうブッダを、もろもろの説法者のうちでもっずもすぐれた人ずしお敬瀌する『䞭論』瀌拝の蚀葉」、ずブッダを「瞁起の説法者」ずしお賛矎したすが、぀ねによく気を぀け、自我に固執する芋解を打ち砎っお、䞖界を空なりず芳ぜよ。
そうすれば死をのりこえるこずができるであろう。( 1119)ずいうようなブッダの蚀葉を考えおいたのかもしれたせん。
ナヌガヌルゞュナにしおみれば、瞁起を「培底的に拡匵解釈した」のではなく、あやたった郚掟仏教の瞁起解釈時間的生起関係を批刀しお、ブッダの説いた瞁起無我・無自性・空に垰れ、ず䞻匵したに過ぎないのでしょう。

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察偶

⇒参考蚘事

䞭村博士が蚀うように、前の方は時間的前埌関係であり、埌ろの方は盞互䟝存関係である。曞き換えが可胜かずいう点だが、できない。なぜできないかずいうず、論理には非垞に重芁な点があり、時間を含む堎合、単玔な曞き換えができないからだ。

区別の哲孊

『般若経』の思想家たちが、空・䞍二・平等ずいうようなこずで衚わそうずしおいた䞖界は神秘的盎芳の䞖界である。察立や区別ずいうものは、人間の思惟ず蚀語によっお生じおきおいる。蚀語を吊定し思惟を超越した玔粋な盎芳の䞖界にはおよそ区別ずいうもの、察立ずいうものが存圚しない。それは無区別・平等の䞖界である。ナヌガヌルゞュナはこのような『般若経』の神秘的盎芳の䞖界を受け継いだ哲孊者であった。
しかし、ナヌガヌルゞュナが䞖に出たころ、「般若経」的なものだけが思想界の䞻流であったわけではない。他方には、たさに『般若経』ず察立する、区別の思想が匷力な、より䞀般的な思朮ずしお存圚しおいた。p23

説䞀切有郚や分別説郚の基幹であった䞊座郚は、分別論者ずも呌ばれる。分別論者ずはものを区別し分析しお論ずる者の意味である。初期経兞にしばしばあらわれる範疇には、五矀五蘊・十二領域十二凊・十八皮十八界などがある。p24

説䞀切有郚はこのような範疇衚によっお分類された存圚芁玠をさらに小さな単䜍に现分類する。存圚の现小単䜍をいよいよ厳密に芏定し、それら盞互の関係を明らかにしおゆくのである。そのような過皋を通じお有郚が到達した最終的な範疇が五䜍䞃十五法ず呌ばれるものである。p25
説䞀切有郚がこのように存圚の分析、区別の哲孊を远求したもずもずの動機は、それによっお、自我の存圚を吊定するこずにあったこずはたしかである。氞遠な倉化しない人栌䞻䜓ずしおの自我は、どんなに存圚を分析しおも芋いだされない。存圚の究極的な芁玠ずしおの䞃十五法の䞭に自我は含たれない。だから自我は存圚しない。こうしお仏教の䞭心的教矩ずしおの無我説を論蚌しようずしたのである。それは早くから経兞においお、五矀が䞀切である、ずいうこずによっお、その五矀に含たれない自我の存圚を吊定したのず同じ仕方であった。p26

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

䞭論や般若経では、蚀葉に頌らない広倧な䞖界が存圚するこずを匷調しおいる。非論理的な蚀葉を倚甚するのは、その蚀葉の圌方にある真実ぞず人々を導こうずするためだ。これをたず理解すべきである。

圌らは、存圚の究極的な芁玠ずしお五䜍䞃十五法の䞭に自我は含たれないず䞻匵しおいるが、実際には択滅無為がサヌンキダ哲孊のプルシャに盞圓しおいる。぀たり、これが実は自我なのだ。圌らの䞭で少なくずもノァスミトラはこのレベルに到達しおいるにもかかわらず、それがサヌンキダ哲孊における自己実珟、すなわちプルシャであるこずに気づいおいなかったず思う。
「択滅無為」ずいう意識状態に到達しお、このサマディを䜓隓し、その埌に戻っおくるず、その意識に名前を぀ける必芁が出おくる。むンドの哲孊者たちはこれを「アヌトマン」や「プルシャ」、぀たり「自己」ずしお名付けた。垞に芋る存圚ずしおの自己だ。
ずころが、ノァスミトラは同じ意識状態に到達したが、「無我」ずいう蚀葉に固執するあたり、「択滅無為」、぀たり「知恵による煩悩の消滅」ずしお衚珟した。
同じ意識状態であれば、同じ呌び方をするのが良いず思う。「我は無い」ず蚀い匵るのではなく、もっず分かりやすい衚珟がいいず思う。「択滅無為」を「知恵による煩悩の消滅」ず蚀っおも、それで「自己は無い」ず理解できない人が倚い。それよりも、究極の自己が存圚するず説明する方が分かりやすい。同じこずを蚀うなら、分かりやすい方が良い。
蚀わんずするこずを理解しようずすれば、すぐに分かるこずなのに、蚀葉にこだわっお、その蚀葉のレベルで論争しおいるのが仏教だず匷く感じる。

[竹䞋雅敏]

実圚論の生成

しかし有郚の哲孊のメリットは無我の論蚌ずいうこずに尜きるわけではない。むしろ、その範疇的思惟がそこぞ必然的に導いおいった実圚論にこそ、この孊掟の哲孊の最倧の特色があるのである。範疇にもずづいお存圚を区別し、存圚の芁玠を芏定しおゆくずいう操䜜は、存圚の究極的芁玠、原子的な芁玠に行き぀くたで続けられるはずであっお、途䞭で䞭止されおしたっおはならない。
しかしその堎合に、究極的芁玠ずはどのような基準によっお定められるのであろうか。有郚は、ただ䞀぀の本䜓ずただ䞀぀の機胜をもっおいるものが究極的芁玠である、ず考えた。二぀以䞊の本䜓、二぀以䞊の機胜から構成されおいるものの党䜓は、ほんずうに存圚するものではない。

たずえば人ずいうものは心ず身䜓からできおいるずき、実圚するものは心ず身䜓であっお、その二぀の総合䜓ずしおの人ずいうものは実圚ではない。心ず身䜓をさらに现かく分類すれば、残るものは五矀ずか、十二領域ずか、十八皮ずか、五䜍䞃十五法ずいう存圚芁玠ずなっおしたう。
実圚するものはそれに特有の本䜓ず䜜甚をもっおいる。いいかえれば、実圚するものは二぀以䞊の本䜓ず䜜甚をもちえない、ずいうこずである。これが有郚の範疇論的実圚論の基本原理である。もし意識が理解する機胜ず芋る機胜ずをも぀ならば、意識ず県ずを別々な芁玠ずしお区別する意味はなくなっおしたう。唯䞀の本䜓ず唯䞀の䜜甚を各芁玠に配分するこずずその芁玠を実圚ずみなすこずずは同じこずである。もしこの原理が無芖されるならば、謂䞀切有郚の、区別の哲孊ずしおの範疇論は厩壊しおしたうわけである。p29-30

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

説䞀切有郚は、すべおの存圚が単䞀の本䜓ず単䞀の機胜を持぀究極的芁玠で成り立っおいるず定矩し、䞖界を䞃十五の究極構成芁玠に分類した。
しかし、ここに倧きな問題がある。単䞀の本䜓に単䞀の機胜を持぀ものなど珟実には存圚しない。この矛盟に気づいたのがナヌガヌルゞュナだ。圌はこの矛盟点を培底的に突き、説䞀切有郚の理論を厩壊させた。
もし䜕かが「究極の本䜓」であり、それが唯䞀の存圚で、ただ䞀぀の機胜しか持たないずしたら、それは他のものず関わるこずができない。䟋えば、ある物質が党く倉わらず、他の物質ずも圱響を䞎え合わないずする。そうなるず、䞖の䞭の党おの出来事が「瞁起」原因ず結果の連鎖、盞互䟝存によっお成り立っおいるずいう考えが吊定されるこずになる。
䜕かが他ず圱響を䞎え合わずに単独で存圚するなら、物事の成り立ちの説明ができなくなる。すべおが他ず関わりあっお成り立぀ずいう「瞁起」の考えを吊定するこずはできないずいうこずだ。

意識・物・心

氞遠なる本䜓
さお有郚のもう䞀぀の思想的特色をなしおいる氞遠なる本䜓svabhāvaずいう芳念を簡朔に説明しおおこう。区別の哲孊ずしおの範疇論的実圚論が有郚の思想の織物の暪糞ずなっおいるずすれば、その瞊糞をなすものが氞遠の本䜓の哲孊である。説䞀切有郚ずいう孊掟名も、じ぀はこの孊掟が、すべおのものは過去・珟圚・未来を通じお氞遠にある、ず䞻匵したこずに由来する。p30
有郚の䞉䞖実有説の論蚌をみおみよう。「倶舎論」巻においお有郚はこの理論をいく぀かの方法で蚌明しおいるが、そのうち最も基本的で、他の蚌明の前提にもなっおいる論蚌は次のように展開される。p37-38
もし過去および未来の察象が実圚でないならば、ひずが過去ず未来ずのものに぀いお行なう認識は察象をもたないものずなろう。しかし察象のない認識などはありえない。したがっお、われわれが過去および未来のものを考えるこずができるずいうこずはそれらが実圚しおいるこずを瀺す、ず。
経量郚や唯識掟などの考え方からすれば、過去においお芋たもの、未来においお芋るであろうものを意識するこずは蚘憶ないし掚理の問題である。そしお蚘憶や掚理があるからずいっおその察象が倖界に実圚するずはかぎらない。
しかし有郚は、知芚ず掚理ずを認識ずしおは同じであり、認識である以䞊は実圚する察象をもたねばならない、ず考えおいるのである。
ここたでくるず、有郚のいう本䜓ずは、思惟の察象ずしおのもの、いいかえれば、こずばの察象ずしおのもの、のこずであるこずがわかる。この理論は他の二぀の有郚の理論を前提にしおいる。—぀は、さきに觊れたように、この孊掟は知芚盎芳ず思惟ずを同じ認識である以䞊本質的には等しいものずしお扱うこずである。他の䞀぀は、有郚が認識は非存圚を察象にするこずはできない、したがっお認識があればその察象は実圚するず考えおいるこずである。p38
過去ず未来にある猫も認識の察象ずなるから実圚する、ずいう有郚に察しお、経量郚はもしそうならば過去ず未来の猫も珟圚にあるこずず同じになっおしたう、ず非難する。猫は物質的な諞芁玠や心理的な諞芁玠の耇合䜓であっお実圚ではない。実圚するのはこれらの単䞀な本䜓ずしおの諞芁玠である。珟圚に珟象しおいる猫は、䞀瞬埌には諞芁玠に分散しおしたう。次の瞬間にはいたたで別々に分散しおいた諞芁玠が集合しお珟象し、猫になる。だから、諞芁玠が集合しおいるか、分散しおいるかずいう点で珟圚ず過去・未来ずは違う、ず有郚は答える。p39
『俱舍論』においお経量郚に远及された有郚は答えに窮しおしたう。䞉時にわたっお恒垞な本䜓ず刹那滅的なその珟象ずは、同䞀の時間においおは調和するこずはできないからである。しかし、有郚の本䜓ずいうものは、われわれが理解したように、思惟の察象、こずばの察象ずしお珟象の䞖界ず違った䞖界にあるずいわねばならない。それは珟象の知芚の時間にあるのではなくお、思惟の時間にあるものである。われわれの認識は知芚ず思惟、珟象ず本䜓の亀錯したものずしおあらわれる。経量郚・䞭芳掟・唯識掟は知芚、ずいうより盎芳だけを事実の䞖界ずしお認め、思惟の䞖界は人間の構想――ナヌガヌルゞュナにいわせれば虚構――ずしおのみ認める。それは実圚ではない。有郚にずっおは、その関係が逆になっおいお、思惟の䞖界を本䜓ずし、事実の䞖界を珟象ず考えおいるだけのこずである。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟


参考文献


仏教の基瀎知識シリヌズ䞀芧


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