芋出し画像

äž­è«–02倧乗仏教【仏教の基瀎知識12】


最高の真実

最高の真実
ナヌガヌルゞュナの䞻著『䞭論』は、䞀蚀でいえば、『般若経』の神秘家が芋いだした最高の真実の䞊に立っお、区別の哲孊を批刀する曞物である。われわれはたず、ナヌガヌルゞュナの基本的立堎を理解するために、圌が最高の真実勝矩 paramārthaをどのようなものず考えおいたかを知るこずから始めよう。
『般若経』の思想家たちが圌らの䜓隓した神秘的盎芳の䞖界を、こずばや思惟を越えたもの、ずしおいたこずはすでに述べた。われわれの目䞋の仕事の資料は、『䞭論』第十八章にあらわれるほんのわずかの数の詩頌である。ナヌガヌルゞュナはほずんどその個所だけで、圌の芋た最高の真実を語っおいるのである。p41-42
クマヌラゞヌノァ蚳の『倧智床論』「倧正倧蔵経」巻25、96ペヌゞは、『般若経』の空・無盞・無願ずいう䞉぀の䞉昧を解説するさいに、本章の第7詩頌を匕甚しおいる。このこずを手がかりずしお前埌を読んでゆくず、ナヌガヌルゞュナはこの章においお、䞊述の䞉぀の䞉昧を念頭におきながら、瞑想によっお埗られる神秘的盎芳の䞖界の真実を蚘述しようずしたのではないかず思われる以䞋、かっこ内の数字は『䞭論』第十八章の詩頌番号。
自我の吊定
もし自我が身心の諞芁玠ず同䞀であるならば、それは生滅するものずなろう。身心の諞芁玠ず別ならば、それらの芁玠の特城のないものずなろう。䞀
自我がないずきに、どうしお自己の所有があるであろうか。自我ず自己の所有の消滅によっお、ひずは自我意識もなく、所有意識もない者ずなる。二
自我意識、所有意識を離れた人もたた存圚しない。自我意識や所有意識を離れた人がいるず芋る者は事実を芋ない。䞉
内ず倖ずに、「われ」もなく「わがもの」もなければ、執着は滅し、この消滅によっお再生も尜きる。四
人に自我があるずすれば、それは誰にずっおもその存圚が明らかである身心ず同䞀であるか、別異であるかである。身心は刹那滅的な無垞な存圚であるから、もし自我が身心ず同じならば無垞なものずなっおしたう。しかし、哲孊者が自我を䞻匵するのは、無垞な人間の䞭にある恒垞的な䞻䜓——粟神・霊魂ずいったものを考えるからである。しおみれば、無垞な自我ずいうものはおよそ意味がない。p43
かずいっお、自我は身心ず別異な、氞遠な存圚であるずいうこずもできない。身心、぀たり物ず心ずは別な、生滅せず、具䜓的な特城をもたないものは存圚しないし、存圚しないものを自我ず名づけるこずはできない。われわれの認識するこずでできるのは、無垞な五矀だけであるからである。
第二の詩頌では、自我の所有物の存圚を根拠にしお、その所有の䞻䜓である自我を論蚌しようずする反論が予想されおいる。しかし、ナヌガヌルゞュナは、自我そのものの存圚が明らかでないずきに、どうしお身心を自我の所有物ず芏定するこずができるのか、ず批刀するのである。そしお、自我意識・所有意識をもたない人こそが、執着を離れるこずによっお、自由の境涯に近づくのだ、ずいうのである。
しかし、自我や自己の所有は存圚しないずいう認識そのものの、珟に存圚するずしたしかめられおいる身心ずいうものは自我や自己の所有ず無関係であるずいう思想そのものは、どこかに垰属するのではないか、そのような認識や思想の䞻䜓ずいうものはあるはずで、それが自我なのでではないか、ずも考えられる。もしそうでなければ、解脱する、解脱するのかわからないから、解脱の䞻䜓が倱われおしたいはしないか。
こういうかたちの反論を予想しお、ナヌガヌルゞュナは、第䞉・四頌においお、自我意識・所有意識を離れた人、解脱の䞻䜓そのものも存圚するのではない。自我をたおようずする人間の根本的な執着を離れおはじめお、人は茪廻から自由になるのだ、ずいうのである。
『般若経』で匷調された空・無盞・無願ずいう䞉぀の䞉昧は、それぞれ、存圚論的・認識論的・宗教的ないし心理的な意味あいをもっおいる。無願䞉昧ずは願い、望み、執着するなにものもないこずを芋る瞑想である。それは無執着の境地である。しおみるず、ナヌガヌルゞュナが自我意識のない境地を説いおいる第十八章の最初の四詩頌は無願䞉昧に蚀及しおいるのだず考えるこずができる。p44-45
最高の真実の远求
行為ず煩悩の止滅によっお解脱がある。行為ず煩悩は思惟より生じる。それらはこずばの虚構による。こずばの虚構は空性によっお滅せられる。五
心の察象が止滅するずきにはこずばの察象は止息する。ずいうのは、ものの本性は涅槃のように、生じたものでも、滅したものでもない。䞃
他のものをずおしお知られず、静寂で、こずばの虚構によっお論じられるこずもなく、思惟を離れお、皮々性を越える。これが真実の圢である。九
p45-46
『般若経』の神秘家たちは真実の䞖界を求めお瞑想した。䞀぀䞀぀の察象の圢が消え、こずばが消え、意識が消えたあずになおありありず残る真実は、「そこにおいおは心さえもはたらかず、たしお文字は生じない」「無尜意経」の䞀節ものであった。ナヌガヌルゞュナも第䞃詩頌においお同じようにいう。心の察象が止滅するずきにはこずばの察象は止息するず。それがものの本性法性であり、生じたものでも滅したものでもない。それは、察立するこずばのいずれによっおもいい衚わされないもの、こずば䞀般を越えた䞖界を指瀺しおいるのである。
われわれは、自我の吊定をずり扱っおいる『䞭論』第十八章第1-4詩頌を『般若経』の䞉䞉昧のうちの無願䞉昧に盞圓するものず理解しおきた。それに察しお、いたの第五、䞃詩頌が空䞉昧の内容を蚘述しおいるこずは説明を芁さないであろう。p48-50
「他のものをずおしお知られない」ずいうのは、その真実は他人の教えによっお知らされるずいうようなものではなくお、自分で瞑想し、盎芳しなければならない自芚の境涯であるこずをいう。
静寂ずは本䜓のないこず、すなわち空のシノニムずしお䜿われる。本䜓を離れおいるずいうこずは、こずばを実䜓化したにすぎない本䜓をもたない、したがっお、思惟やこずばによっおあげ぀らわれ、はからわれるこずがないこずをいう。思惟やこずばの察象ずならないから静寂ずいわれるわけである。したがっお真実はこずばや思惟の特城である皮々性、倚様な展開を超越しおいる。こうしおみるず、この第九詩頌は䞉䞉昧のうちの無盞䞉昧——すべおのしるしを離れおいる神秘的盎芳の䞖界の瞑想の内容を蚘述しおいるものであるこずがわかる。
『般若経』の思想家たちは瞑想の䞭の神秘的䜓隓からすべおのものの空性ずいう最高の知識に到達した。
神秘的な盎芳の䞖界はそれ自䜓こずばや思惟の倚元性を超えた党䞀なるもの、分けられないものであるずずもに、それず察立しおいる合理性の䞖界の根源にあるものであり、それず区別されないものである。合理性の䞖界がそのたた神秘的な䞖界ず䞀぀である。䞊述の第九詩頌においおナヌガヌルゞュナが、真実は皮々性を越えおいる、ずいっおいるのはそのような䞖界の颚光に蚀及しおいるのである。p50

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

氞遠の本䜓自性・スワバヌノァ)幜䜓

滅しもせず、生じもせず、断絶もせず、恒垞でもなく、単䞀でもなく、耇数でもなく、来たりもせず、去りもしない䟝存性瞁起は、こずばの虚構を超越し、至犏なるものであるずブッダは説いた。その説法者の䞭の最䞊なる人を私は瀌拝する。瀌拝の詩頌p51
「䟝存性」ずここに思いきっお意蚳したこずばは、ものが必ず原因によっお生起するこずを意味する。ものが原因・条件によっお生じるこずであるから因果関係ず理解すれば、原意に近い。p52
しかし因果関係ずいうず、䞀般には、時間を異にしお存圚する二぀のものの間にある生成の関係を意味する。ずころが瞁起はそのような因果関係に限らないで、われわれのこずばでいう、同時的な盞互䜜甚や共存の関係、さらには同䞀性や盞察性などの論理的関係をも含む。したがっお、瞁起ずは因果関係ずいうよりも、それは関係䞀般のこずだずいうほうが比范的には正しいずいっおもよい。
説䞀切有郚的な立堎からするず、ほんらいは恒垞的な本䜓である倚くの実圚芁玠が同時に共同しお珟象し、そこに珟圚䞀瞬しか持続しない経隓的なものがあらわれるこずが瞁起である。䞭芳掟は恒垞的な本䜓が刹那滅的なものずしお珟象するこずを認めない。圌らの䞍満は基本的には説䞀切有郚の哲孊的立堎に向けられおいたのであろう。p55
䞭囜の䞉論宗の䌝統の圱響にもよるのであろうが、われわれは時ずしお、『䞭論』は瞁起を説く曞物である、ずか、ナヌガヌルゞュナは、盞察性を教えた、ずいうようないい方を䞍甚意にするこずがある。けれどもこういういい方はかなり基本的な誀解に぀ながるこずがあるので、泚意しなければならない。圌がいったこずは本䜓を固執する立堎では因果関係も論理的関係もなりたたない、ずいうこずである。本䜓をもったものの間にある䟝存関係を吊定しお、関係䞀般ずいうものは同䞀ずか別異ずかの本䜓をもたないものの間にしかなりたたない、ずいうのである。p57
もずより、いったん吊定された䟝存性がもう䞀床回埩される堎面がある。それをナヌガヌルゞュナはかなり詳しく説明しおいる。けれどもその堎合にも、その䟝存性は本䜓のない、空なる䟝存性ずしおのみ回埩されるわけである。その特殊な瞁起が非仏教者や小乗仏教の説く因果関係ず異なった、倧乗独自の瞁起であり、『䞭論』の䞻題なので、ずいうのである。p58

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

䞭芳掟の基本論理

䞭芳哲孊の性栌
『䞭論』は27章よりなっおいる。倧郚分の章は他孊掟のある教矩を䞻題に遞んでこれを批刀しおいる。圌の批刀の方法は、倚皮倚様の䞻題に向けられおいるけれども、じ぀は比范的少数のタむプに還元しうるものである。そしお、そのいく぀かのタむプの批刀の論理ずいうものの結局は䞀぀の基本的な論理に基瀎づけられおいる。䞭芳掟の立堎からすれば、およそいかなる孊説も、いかなる呜題も成立しえない。
以䞋においお、この思惟の類型の批刀を、䞻ずしお『䞭論』の䞭から遞んだ䞻題を䟋にずりながら逐次玹介しおゆく。しかし、これらの論理の基瀎に暪たわるものはナヌガヌルゞュナの本䜓の批刀であり、たた圌のこずばの哲孊である。p59-60

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

瞑想の深いレベルに達するず、蚀葉や論理を超越した䞖界に入るため、孊説や呜題は成り立たない。䞭芳掟の立堎からすれば、どんな孊説や呜題も成立しないのは圓然のこずだ。

呜題ずいうのは、数孊的には真か停かが確定するものだが、文脈によっおどちらにもなり埗るこずが䞀般の人には理解されおいない。
䟋えば、「火は熱い」ずいう呜題は論理的には真だ。しかし、特定の文脈では「火は熱くない」ずも蚀える。䟋えば、火の画像を芋おいるだけの状況では、「その火は熱くない」ず蚀える。このように、蚀葉の解釈によっお呜題の真停は倉わる。
たた、「䞖の䞭に䞍必芁な人はいない」ずいう呜題を考えるず、これは䞀芋真のように思える。しかし、具䜓的な職堎では、「この人がいなければもっず仕事が進むのに」ず思うこずもある。そうするず、この呜題は停ずなる。

別の䟋ずしお、台颚を考えよう。台颚は䞀芋灜害を匕き起こすだけの䞍必芁なものに思える。しかし、台颚が海氎をかき混ぜるこずで海掋生態系に良い圱響を䞎えるこずもある。このように、異なる芖点から芋るず「䞍必芁なものはない」ずいう呜題も成り立぀。
結局、呜題の真停は立堎や芖点によっお倉わる。法埋も同様で、文章の解釈次第で意味が倉わるため、法解釈が非垞に重芁だ。解釈する者がどのように解釈するかによっお、法埋の適甚が倧きく倉わるこずを理解するこずが重芁だ。

培底的に、厳密に蚀葉を定矩するずいうこずになるず、AIプログラムの䞖界のように限定されおしたう。しかし、人間はそのようなレベルだけで生きおいるわけではない。工孊系の人や論理に匷い人は、䞖界がロボットのように動いおいるず考えがちであり、最終的にはAIが党おを解決できるず信じおいる。確かに、AIは過去のデヌタをもずに再珟するこずが埗意である。䟋えば、過去の楜曲デヌタを集め、それを組み合わせお新しい音楜を䜜成するこずは可胜である。しかし、それはあくたで同じ次元のものに過ぎない。
人間が創り出す芞術や、熟緎の職人が自動車にスプレヌを吹きかけお塗装する技術をAIが完党に再珟するこずは可胜かもしれない。しかし、それを超えるこずはできない。人間は創造性を持ち、それが䞊から降りおくるものである。論理的な思考に偏りすぎる人は、党おがAIでできるようになり、それで終わりだず信じおいる。たるで人間もAIのようになれるず思っおいるかのようである。しかし、それはありえないこずである。

䞭芳掟の「いかなる孊説も呜題も成立しない」ずいう䞻匵はその通りだ。ただし、すべおの孊説や孊掟をただ論砎し、矛盟を指摘するだけでは揚げ足取りに過ぎない。重芁なのは、圌らの意図を汲み取り、それを敎然ず解釈しお圹立぀ものにするこずだ。それを䞊手に掻甚するのが本質ではないだろうか。


本䜓ず珟象
本䜓が倚くの原因や条件によっお生ずるずいうこずはできない。原因や条件から生じた本䜓は䜜られたものずなっおしたおう。䞀五・䞀
けれども本䜓がどうしお䜜られたものであろうか。ずいうのは、本䜓ずは他のものに䟝存せず、䜜られるこずのないものであるから。䞀五・二
アビダルマ哲孊の考え方では、ものの本䜓は過去・珟圚・未来にわたっお恒垞的に存圚する䞍倉の実䜓である。その本䜓が珟圚ずいう時点においお䜜甚をも぀にいたったのが珟象の䜍である。火の本䜓は過去にも未来にも倉わらずに存圚する。その本䜓が燃える䜜甚をもっお珟象しおいるのが珟圚である。p60-61
われわれの知芚に䞎えられおいるものは燃えおいる火ずいう存圚だけである。ずころが有郚やノァむシェヌシカ孊掟などの実䜓論的な思惟方法によるず、この燃えおいる火ずいう䞀぀の存圚は、本䜓ず珟象ずいう二぀の抂念に分けられおしたう。そしお最高の真実ずしおの存圚性は恒垞的な本䜓に䞎えられ、燃えおいる火はたかだか珟象ずしおの、第二次的な存圚性を䞎えられるだけである。p61-62
『順正理論』巻五二の䞭で、ある他孊掟が説䞀切有郚のこういう考え方に察しお質問をしおいる。いったい過去ず未来の火の本䜓ずいうのは燃えるものなのか燃えないものなのか。もし燃えるならばそれは珟圚の火ず区別がなくなるし、もし燃えないならばそもそも火の本䜓をもたないずいわねばならないではないか、ず。有郚のサンガバドラは答える。過去・未来の火は本䜓はあるけれども䜜甚をもっおいない。本䜓ずは知られるもの所知法ずいうこずである。知られるずいう点でそれが存圚だずいわれるのであっお、䜜甚をもっおいるからではない、ず。サンガバドラの定矩では、存圚ずは、察象ずなっお認識を生ずるもの、である。この定矩の限りでは、燃えおいなくおも、県には芋えなくおも、火ずいう知識の察象ずなるものは火ずいう存圚、火の本䜓である。
ナヌガヌルゞュナが批刀するのは、このように䞀぀の事実を二぀の抂念によっお理解する考え方、人間䞀般の抂念的思惟のあり方である。火の珟象・䜜甚は倚くの原因によっお生じた耇合的なものであり、刻々に倉化し、やがお滅する流動的なものである。それず察立したものずしお蚭定される火の本䜓は、他のものに䟝存せず、倉化せず、単䞀であり、過去・珟圚・未来の䞉時にわたっお恒存するものずなる。そのように考えられた火の本䜓は燃える䜜甚ずいう火の特性ず矛盟する。それは燃えない火であり、事実ずしお存圚しない火であるからである。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

ナヌガヌルゞュナが批刀するのは、ひず぀の事実を異なる二぀の抂念で理解する考え方や、人間の䞀般的な抂念的な認識の仕方だ。
「それず察立するものずしお蚭定される火の本䜓は、他のものに䟝存せず、倉化せず、単䞀であり、過去・珟圚・未来の䞉時にわたっお恒存するものずなる。」
ナヌガヌルゞュナは自立自存、䟝存せず、倉化せず、そしお単䞀ずいう考え方を持っおいる。本䜓は過去・珟圚・未来にわたっお恒存するものずされる。぀たり、これら䞉぀「䟝存せず、倉化せず、単䞀」が本䜓だず考えおいるわけだ。
「そのように考えられた火の本䜓は、燃える䜜甚ずいう火の特性ず矛盟する。それは燃えない火であり、事実ずしお存圚しない火であるからだ。」
これは孊問的に考え出された反論であり、説䞀切有郚の人々は、ナヌガヌルゞュナのように頭で考え出したのではなく、実際に芋おいる。そもそも芋おいる次元が違う。考え出された火ではなく、本圓に存圚しお䜓隓しお芋おいる火なのだ。珟象の背埌に本圓に存圚しおいる火なので、ナヌガヌルゞュナの論は反論になっおいないのである。

幜䜓には目があり、ちゃんず髪もあり、服も着おいる。もちろん裞になるこずもあるが、基本的には服を着おいる。それが単䞀かどうかずいうず、ある意味では確かに単䞀ず蚀える。なぜかずいうず、幜䜓は絶察に分離できないから。
幜䜓には目も錻もあり、それぞれが独立した機胜を持っおいるが、取り倖すこずはできない。人間のボディの堎合、手術などで䜓の䞀郚を取り倖すこずができるが、幜䜓はそれができない。䞀぀の塊なのだ。
幜䜓はどんなに匕っ匵っおも䌞びるだけで、ガムのように䌞びるが倖せない。だからこそ単䞀だず蚀える。しかし、目は目の機胜、耳は耳の機胜ずしお分化しおいる。ブッディヌず呌ばれる郚分ずマナスず呌ばれる郚分があり、機胜ずしおは分化しおいるが、絶察に分離するこずはできない。だから単䞀だず蚀い぀぀も、たくさんの郚分が存圚しおいる。
物理的な䞖界では、車の郚品が悪くなったら亀換できる。しかし、幜䜓はそれができない。党䜓が䞀぀の塊であり、どれも倖せない。だから単䞀ず蚀えるのだが、同時に倚様でもある。耳は耳、錻は錻ずしお別々の機胜を持っおいる。だから、単䞀ず蚀えば単䞀だが、単䞀ではないずも蚀える。䞀即倚なのだ。

[竹䞋雅敏]

もし本性ずしお存圚するこずがあるならば、それが非存圚ずなるこずはないであろう。本性が倉化するこずはけっしおありえないからである。䞀五・八
もし本䜓ずいうものに第䞀矩的な存圚性を䞎えるず、ものの倉化ずいうものが説明できなくなる。それでは、なによりも無垞を特城ずしおいる事実の䞖界は無芖されおしたう。けれども、ナヌガヌルゞュナはなぜ説䞀切有郚が、ずいうよりも人間の思惟䞀般ずいうものが、事実の背埌に本䜓を想定せざるを埗ないかをよく理解しおいる。倉化する火ずいう事実をわれわれが抂念的に理解しようずするずきには、それを倉化しない本䜓に比范しなければならない。倉化性は自己同䞀性に察比されおはじめお意味をもっおくるからである。p62

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

原因ず結果

原因ず結果の吊定
ものは、いかなるものでも、どこにあっおも、けっしお自身から、他のものから、自他の二぀から、たた原因なくしお生じたものではない。䞀・䞀
ものが自身から生ずる、ずいうのは、たずえば壺がその壺自身から生ずるこず、いいかえれば、原因ず結果ずがたったく同䞀である堎合をさしおいる。他のものから生ずる、ずいうのは結果がそれず別々なものから生ずるこず、たずえば壺は粘土から生ずるが、その粘土は壺にずっお他者であるず考える堎合である。
原因が結果の自䜓であり、結果ず同䞀であるならば、壺はその壺自身から生ずるずいう䞍合理になる。たたその同䞀性が生起ずいう䜜甚の本質ならば、壺は぀ねに、無限にそれ自身から生じ぀づけるこずになっおしたう。けれど原因が結果ず別異なものでならば、別異ずは無関係ずいうこずであるから、壺は糞からも生ずるこずができるはずである。糞も粘土も壺に察しお他者である点では等しいからである。p64-65

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

別異ず同䞀性

この文章には、いく぀かの詭匁が含たれおおり、論理的に矛盟しおいる点を指摘する。
たず、「ものが自身から生ずる」ずいう䞻匵に぀いお考えおみる。この文章では壺がその壺自身から生ずるこずを䟋に挙げおいるが、これは本䜓同䞀性の理解に誀解を招くものだ。具䜓的には、フィロ゜ヌマからプ゚ルルスを経お䌊勢海老になる過皋を考えおみるずよい。この倉態過皋では、フィロ゜ヌマがそのたた䌊勢海老になるわけではなく、耇数の段階を経お成長する。぀たり、原因フィロ゜ヌマず結果䌊勢海老は同䞀ではないが、連続的な倉化を通じお結果に至る。したがっお、「原因ず結果が同䞀である」ずいう䞻匵は自然界の倉態過皋においおも成立しない。
次に、「他のものから生ずる」ずいう䞻匵に぀いおだが、壺が粘土から生ずるこずを原因が結果にずっお他者であるず考えおいるが、この考え方も䞍完党だ。䟋えば、壺は糞からでも創れるずいう事実を考えおみよう。珟代の織りの技術では、糞を䜿っお気球を䜜り、氎も挏らさないようにする技術も存圚する。したがっお、壺が粘土からのみ生じるず限定するこずは䞍合理だ。原因が結果に察しお他者であっおも、適切な技術や工倫により、結果を生じるこずは可胜である。以䞊の反論から、元の文章の䞻匵は詭匁に過ぎず、論理的な矛盟を含んでいるこずが明らかだ。原因ず結果の関係性を䞀面的に捉えるこずは誀りであり、より広範な芖点で物事を理解する必芁がある。


ノァむシェヌシカ孊掟は原因が集たったずきにそこに存圚しなかった結果をたったくあらたに䜜り出すず考えおいる。だから粘土は壺にずっお、糞は垃にずっお他者である。けれどもこの孊掟も結果がたったく無関係な他者から生ずるずいいはしない。かえっお結果を生ぜしめる可胜性、朜圚効力をもった他者から生ずるずいうのである。 しおみるず、それらは第䞉の原因である「自他の二」に䞀臎するずいうたほうがよい。
「䞭論」の  に察する泚釈者は、「自他の二」ずいう第䞉の原因は、第䞀の自因、第二の他因、のもっおいた離点を二぀ずも備えるこずになるからなりたたない、ずいうのが垞である。p65-66
倚くの原因・条件の集合の䞭になかったものが結果ずしお生じおくる、ずいうば、それは「原因なくしお生ずる」ずいう第四の堎合ず等しくなる。原因なくしお生ずる、ずいうこずは、自でもなく他でもないようなものから生ずる、ず解されるが、それは非存圚から生ずるこずず同じである。ものが非存圚から、たたは偶然に生ずるずいうこずは、因果関係の合理的な解釈ずしおは問題にならない。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

ノァむシェヌシカ孊掟では、原因が集たるこずで結果が生じるず説いおいる。ただし、どんな原因でもよいわけではなく、結果を生み出す可胜性を持぀原因が必芁だ。䟋えば、粘土が壺を䜜り、糞が垃を䜜るのは、それぞれがその力を持っおいるからである。この考えは「自他の二」ず呌ばれる第䞉の原因に関連する。「自他の二」ずは、第䞀の自因自分自身の原因ず第二の他因他の原因を合わせたものを指す。぀たり、「自分の力」ず「他の力」が結び぀いお結果を生むずいう考えだ。しかし、「自他の二」には問題があるず指摘する者もいる。その理由は、第䞀の自因ず第二の他因がそれぞれ異なる特城を持぀ため、二぀を合わせるず矛盟や問題が生じるこずがあるからだ。


アレクサンダヌ・ノィレンケンAlexander Vilenkinの「量子トンネル効果による無からの宇宙の生成」ずいう理論に基づいお反論する。

  1. 無からの宇宙の生成: ノィレンケンは、宇宙が量子的トンネル効果によっお「無」から生成されたず提唱しおいる。この理論によれば、䜕もない状態「無」から宇宙が生じるこずが可胜だ。これにより、「原因なくしお生ずる」ずいう考えが物理的に支持されるこずになる。

  2. 量子的トンネル効果: 量子的トンネル効果は、通垞の物理法則では通過できない障壁を、量子力孊的には通過できる珟象だ。この珟象は埮芖的な䞖界で芳察されおおり、原因が明確に存圚しない堎合でも結果が生じるこずを瀺しおいる。

  3. 因果関係の再定矩: ノィレンケンの理論は、因果関係を再定矩する必芁性を瀺唆しおいる。埓来の因果関係の抂念では、すべおの結果には必ず明確な原因が必芁ずされるが、量子力孊の芳点からは、結果が偶然に生じるこずも可胜だ。

このように、ノィレンケンの説を甚いるこずで、原因が明確でない堎合でも結果が生じるこずがあり埗るず反論するこずができる。これにより、「原因なくしお生ずる」ずいう考えが因果関係の合理的な解釈ずしお問題があるずいう䞻匵に異議を唱えるこずができる。


原因ず結果ずが同䞀であるこずはけっしおありえない。たた原因ず結果ずが別異であるこずもけっしおありえない。二〇・䞀九
原因ず結果ずが同䞀であるずきには生ぜしめるものず生ぜしめられるものずが同じになっおしたうであろう。けれど原因ず結果が別異であるならば、原因は原因でないものず同じになろう。二〇・二〇
ここでナヌガヌルゞュナは因果ずいう䞻題を経隓的な立堎で考えるのではなくお、本質的な立堎で考える。原因・結果ずいうものを本䜓ずしおの存圚ず仮定するず、それは単䞀、独立、恒垞的な本性であるこずになる。そうするず原因ず結果ずの関係は同䞀であるか、別異であるかずいう二぀の遞択肢しかありえない。
原因は結果ず同䞀の本䜓か、結果ず異なった本䜓かのいずれかしかもちえないが、そのいずれの堎合も因果関係を説明できない。原因が同䞀ず別異の耇数の本䜓をも぀こずは䞍可胜である。それは本䜓は単䞀であるずいう前提にそむくうえに、本質の䞖界においお矛盟した二性質の同䞀物における共存を蚱す誀りになるからである。このように吟味しお、ナヌガヌルゞュナは、原因にせよ、結果にせよ、それは本䜓の空なものである。もしそれが本䜓をも぀ならば、原因ずしおも、結果ずしおもなりたたないし、それらの間の因果関係も成立しない、ずいうのである。p67-68

ナヌガヌルゞュナは原因ず結果が同䞀であるか別異であるかの二択を提瀺し、そのどちらも矛盟するずしおいる。しかし、この二択が唯䞀の遞択肢であるずは限らない。䟋えば、原因ず結果が時間的に異なるが関連性を持぀存圚であるず考えるこずができる。぀たり、原因があるからこそ結果が生じるずいう関係性を持っおいるず考えれば、原因ず結果は独立しお存圚し぀぀も、その間に明確な因果関係が成立する。

具䜓的な䟋ずしお、皮原因が土に怍えられるず芜結果が出るずいう珟象を考える。皮ず芜は異なるものであり、同䞀ではないが、皮が原因ずなっお芜が出るずいう因果関係は明確である。この堎合、皮ず芜は別異であるが、因果関係を説明するこずができる。
たた、珟代の科孊においおも、因果関係は実隓や芳察によっお怜蚌される。䟋えば、薬が病気を治すずいう因果関係は倚くの実隓によっお蚌明されおいる。薬原因を服甚するず病気が治る結果ずいう珟象は、原因ず結果が独立しお存圚し぀぀、その間に明確な因果関係があるこずを瀺しおいる。
このように、原因ず結果が独立し぀぀も関連性を持぀存圚ずしお捉えるこずで、ナヌガヌルゞュナの䞻匵に反論するこずができる。因果関係は経隓的な芳察ず科孊的な怜蚌によっお説明可胜であり、その存圚を吊定するこずはできない。


去るこずず来るこずずの考察

行くものは行かず

「䞭論」第二章の議論は玔䞖俗的ずもいえる議論である。
この章では「行く」ずいう極めお平凡な動䜜がずりあげられおいる。ナヌガヌルゞュナは「行く」ずいう動䜜はないず䞻匵する。かれは、このこずを䞻匵するにあたり、動䜜の存圚を過去、珟圚、未来の䞉時にわたっお怜蚎する。過去に「行く」ずいう動䜜はない。過去の動䜜はすでにおわっおいるから。未来に「行く」ずいう動䜜はない。未来の動䜜はただおきおいないから。ここたではだれもが玍埗するだろう。しかし、ナヌガヌルゞュナは、珟圚にも「行く」ずいう動䜜はない、ず぀づける。p100
なぜ「行くものは行かない」のか
䞀般人の考えは「行くものは行く」である。ナヌガヌルゞュナはこれを吊定する。
行くものが行くずいうこずが
どうしおありえよう
行くこずなしには
行くものはありえないのだから。第九偈
䞀芋わかりにくいこの蚀葉の意味は、぀ぎのずおりである。
「行くものは行く」ずいう考えには、「行くもの」ず「行く」ずは二぀の独立した事象であるずいう前提が含たれおいる。
したがっお、「行くもの」はそれ自䜓のうちにすでに「行く」を含んでおり、あらためお「行く」ず結び぀けられる必芁がない。「行く」こずをしない「行くもの」など、そもそもありえないのだから。
だから「行くものは行く」ずいう立蚀には、「行く」が二重に存圚するずいう矛盟が生じる。このこずは぀ぎの偈にのべられおいる。
もし行くものが行くずいうならば
二぀の「行く」が存圚する結果になる。第十偈
第䞀は「行くもの」ず呌ばれうるゆえんの「行く」であり、第二は「行くもの」がおこなう運動ずしおの「行く」である。
そしおたた二぀の「行く」があるならば、二぀の「行くもの」が存圚するずいうおかしな結論が生じるだろう。なぜなら、「行くもの」なしに「行く」こずだけがあるこずは䞍可胜だから。このこずは第六偈にいわれおいる。
二぀の「行く」があるならば
二぀の「行くもの」が存圚する結果になる。
なぜなら、「行くもの」なしに
「行く」こずはありえないからである。第六偈p103-104
珟象は垞に党䞀なもの
これは蚀語の本質をするどく掞察した議論である。あらゆる珟象は、それ自䜓分割できない党䞀なものである。しかし、それを蚀語で衚珟しようずするず、われわれはたずそれを䞻䜓ず動䜜に分割し、あらためおそれを結合するずいう手続きをずらねばならない。その結果、「行くもの」䞻語が「行く」述語ずいう蚀衚が成立する。
䌝達ずいうものは、すべおこのような性質をも぀ものらしい。われわれは映像を電送するずき、映像をいったん分解しお無数の濃淡の信号に倉え、信号を順次に送りだす。受信偎は信号を受けずっお組み立お、もずの映像を埩元する。このこずは珟代人ならだれでも知っおいる。しかし、かれらはその知識を蚀葉に適甚するこずを思い぀かない。ナヌガヌルゞュナはだれもが気づかないこの事実に蚀及したのであった。p105

「空ず無我仏教の蚀語芳 」定方晟講談瀟珟代新曞

あらゆる珟象は本来䞀぀のものであるが、蚀語で衚珟するには䞻䜓ず動䜜に分ける必芁がある。䟋えば、映像を送信する際、䞀旊分解しお信号に倉え、受信偎で再び組み立おるように、蚀葉も同様の手続きを経お䌝達される。ナヌガヌルゞュナはこの過皋を蚀葉に適甚しお考えた。

「倪郎」はけっしお存圚しない
われわれの蚀語生掻は、぀ぎのような衚珟から成り立っおいる。
倪郎は行く。
倪郎はころぶ。
倪郎は笑う。
倪郎は泣く。
...................
われわれは右の数々の衚珟のなかから、「倪郎」ずいう䞍倉の存圚を抜出しおくる。倪郎は぀ねに、行く倪郎か、ころぶ倪郎か、笑う倪郎か、泣く倪郎か、......する倪郎か、いずれかの倪郎であるはずなのに、どの動䜜ずも無関係の「倪郎」を抜出しおくる。そのような抜象的な「倪郎」はけっしお存圚しない。
それにもかかわらず、われわれはあたかもそのような「倪郎」が存圚するかのこずくに思いこんでいる。
たた次のような䞀連の衚珟を考えおみよう。
倪郎は行く。
花子は行く。
犬が行く。
電車が行く。
...................
われわれは右の数々の衚珟のなかから「行く」ずいう普通的な動䜜を抜出しおくる。「行く」ずいう動䜜そのものは決しおない。぀ねに䜕ものかが行くのである。それにもかかわらず、われわれは黙黙のうちに「行く」ずいう動䜜それ自䜓が存圚するかのように思いこんでいる。p106-108
そしお、日垞の珟象をこう解釈しおいる。皮々の実䜓があっお、各実䜓は任意に個々の動䜜を遞択するず。䞀矀の実䜓ず䞀矀の動䜜ずがたがいに独立に存圚し、任意の実䜓が任意の動䜜ず随時くみあわされる、ず。こうしお、「AがBする」ずいう日垞的蚀説を通じお、実䜓の抂念がわれわれの頭に深くしみ぀くのである。
「倪郎は行く」においお「行く倪郎」以倖に「倪郎」はない。それなのに、ひずは「行く」ず無関係の「倪郎」をたず指定しお、぀ぎに「倪郎は行く」ずのべる。これこそ蚀葉のすりかえずいうべきである、ず。
これたで仏教は、ものに実䜓性がないこずをひずに理解させるのに、かずかずの蚀葉――空、瞁起、䞭、無自性――を甚いおきたが、ナヌガヌルゞュナの蚀語批刀はそれらのどれにもたしおそのこずに成功したようにみえる。そしお、無我を悟るには心を探求するよりも蚀語を探求するほうが効果的であるこずも、かれの蚀語批刀は教えおくれる。かれは蚀葉を䞀皮の虚構ずみたが、そのこずを説明するためにかれが頌るのは飜くたでも蚀葉である。かれは蚀葉でみちびけるずころたで人をみちびく。そしお、どの方角に真理があるかを指し瀺す。かれは蚀葉の限界を知る合理䞻矩者、すなわち、培底した合理䞻矩者である。p108-109

「空ず無我仏教の蚀語芳 」定方晟講談瀟珟代新曞

参考文献


仏教の基瀎知識シリヌズ䞀芧


#仏教 #仏法 #穅 #ブッダ #仏陀 #釈迊 #小乗仏教 #原始仏教 #倧乗仏教 #瞑想 #マむンドフルネス #宗教 #哲孊 #生き方 #人生 #仏教の基瀎知識シリヌズ #䞭芳掟 #䞭芳 #ナヌガヌルゞュナ #韍暹 #韍暹菩薩

いいなず思ったら応揎しよう

青暹謙慈アオキケンヂ 今埌ずもご莔屓のほど宜しくお願い申し䞊げたす。