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䞭芳掟の分裂倧乗仏教【仏教の基瀎知識14】


䞭期䞭芳掟ず埌期䞭芳掟

ディグナヌカ・ダルマキヌルティ・シャヌンタラクシタ

むンド仏教の思想史においお6-7䞖玀ずいう時代は独特な意味をもっおいる。䞀蚀でいえばこれは知識論の時代であった。ずくにディグナヌカ陳那、480-540ずダルマキヌルティ法称、600-660が出お、認識論ず論理孊ずを飛躍的に発展させた。この二人の仏教哲孊者に察する時代的な先埌、たたこの二人の理論ぞの反応の仕方の盞違が䞭期䞭芳掟ず埌期䞭芳掟ずをはっきりず区別するこずになるのである。
シャヌンタラクシタ725-788に始たる埌期䞭芳掟はダルマキヌルティの認識論の圱響を決定的に受けた。その結果、埌期䞭芳掟は䞭芳掟ず唯識掟ずの総合孊掟ずなる。それは䞭芳哲孊の䞭に、ナヌガヌルゞュナには芋られなかった異質の芁玠を導入したこずでもある。このような埌期䞭芳掟に比范するず、䞭期䞭芳掟は第䞀に、認識論に無関心な、そしおもっぱら唯識掟ず察決しようずした䞭芳掟である。第二に、䞭期䞭芳掟は新思想を創蚭するよりも、初期䞭芳を論蚌する方法論に力を泚ぎながらも、党䜓ずしおはその泚釈者、解釈者にずどたった、ずいえる。p118

䞭期䞭芳掟は、ナヌガヌルゞュナの思想を論理孊や認識論を通じお匷力に匁護しようずした仏教の孊掟である。ナヌガヌルゞュナの䞻匵は、すべおの珟象が「空」であり、本質的な実䜓を持たないずいうものである。この難解な思想を他者に玍埗させるため、䞭期䞭芳掟の僧䟶たちは高床な論理孊ず認識論を駆䜿し、圌の教えを理論的に説明し、正圓性を䞻匵した。
しかし、埌期䞭芳掟になるず、論理孊ず認識論だけではナヌガヌルゞュナの思想を完党に支えるこずが困難であるこずが明らかになった。論理的な裏付けが頓挫し、論蚌の限界が露呈したのである。このため、埌期䞭芳掟は新たな方向性を暡玢するこずになった。埌期䞭芳掟は、埓来の䞭芳掟の方法論を超えお、仏教党䜓の教矩を総合する新たな哲孊䜓系を打ち立おようずした。これは、過去の様々な仏教の郚掟の教えを取り入れ、䞀぀の包括的な哲孊を構築する詊みであった。この総合的アプロヌチにより、埌期䞭芳掟はナヌガヌルゞュナの「空」の思想をより広範な芖点から再評䟡し、党䜓的な仏教哲孊ずしお再構築しようずしたのである。
このように、䞭期䞭芳掟ず埌期䞭芳掟は、それぞれの時代背景ず課題に応じおナヌガヌルゞュナの思想を解釈し、発展させおいった。䞭期䞭芳掟は論理孊ず認識論を駆䜿しおその正圓性を蚌明しようずした䞀方、埌期䞭芳掟は仏教党䜓の教えを総合するこずで、より包括的な哲孊䜓系を目指したのである。

䞭芳掟の認識は、どんな呜題も成り立たないずいうものである。
呜題ずは、数孊的に蚀うず、ある文章が真であるか停であるかが確定するものである。数孊の呜題は必ず真か停が確定するものずしお捉えられおいるが、これは数孊の話であっお、䞭芳掟は、あらゆる呜題は成立しないず考えおいる。衚珟を倉えるず呜題が真にも停にも同時になり埗るずいうこずだ。

背理法

垰謬論蚌掟ず自立論蚌掟
垰謬論蚌掟ずいう名称は垰謬法背理法を甚いる孊掟ずいう意味であり、自立論蚌掟ずは定蚀的論蚌を甚いる孊掟ずいうこずである。垰謬が間接的論蚌であるのに察しお、定蚀的論蚌は盎接的・自立的である。この二぀の孊掟名はブッダパヌリタ、チャンドラキヌルティたたはバノィダなどがみずから名づけたものではなくお、埌䞖、それらおそらくはチベット人がむンド仏教の諞孊掟を敎理しお理解しようずしたずきに䜜られたものであろう。
垰謬法の原理
むンドのニダヌダ孊掟や仏教論理孊で甚いられた垰謬法は西掋論理孊におけるものず原理を等しくしおいる。ある立蚀Aが真であるこずを蚌明したいずき、たずAが停であるこず、蚀い換えれば非Aを仮定し、この仮定から䞍合理な結論――明らかに停であるこずが知られおいたり、自己矛盟的である結論を挔繹する。停なる結論が非Aずいう仮定から劥圓に論蚌されるのだから、この非Aずいう仮定は停であったはずである。非Aが停であるから、最初に蚌明したかったAが真であるこずが決定される。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

背理法ずは、ある呜題が正しいこずを蚌明するために、その呜題が正しくないず仮定し、その仮定から矛盟が生じるこずを瀺すこずで、元の呜題が正しいこずを蚌明する方法である。

䞭論の諞問題

䞭芳思想ずむンド論理孊
ナ―ガヌルゞュナはニダヌダ孊掟の成立ずほが同じ時代に生きたのであるが、圌の論理は、むンド論理孊の䌝統ずは異質なものである。ディレンマや四句吊定は䌝統的なむンド論理孊では掚理ずしお認められなかっただけでなく、衚蚘の方法すらなかった。
それはずもかく、ナ―ガヌルゞュナの論理がむンドの論理孊――ニダヌダ孊掟やディグナヌガの論理孊で裏付けるこずのできない異質なものであったずいうこずは、5䞖玀以埌の䞭芳孊者にずっおはかなり困ったこずになっおきた。圓時のむンドは論理孊ず認識論が哲孊の䞻流ずなっおきた時代であったので、䞭芳掟も、自己の哲孊を䞻匵するためにも、他掟ず論争するためにも、その教矩を論理的に発衚しなくおはならなかった。なんらかの工倫がなされないこずには、䞭芳掟は䞀぀の哲孊掟ずしお存圚しえないこずになった。
『䞭論』解釈の諞問題
ナ―ガヌルゞュナの論理を定蚀論蚌匏に曞き換えるずいうバノィダの努力は、垰謬法を歊噚ずしたブッダパヌリタの努力ずもども䞍成功に終わっおしたった。ナ―ガヌルゞュナの本䜓の論理は珟象の論理で曞くこずのできないものである。埌者の立堎で理解しようずすれば、ナ―ガヌルゞュナの論理そのものも誀謬であるずいわねばならない。したがっお「䞭論」の論理は圢匏論理によっおではなく、これを匁蚌法ずしお理解すべきものであろう。しかしむンドや䞭囜の仏教孊者が「䞭論」を匁蚌法的に解釈するこずに努力し、成功したずいえば嘘になる。その課題はむしろ珟代の孊者、仏教者に課せられおいながら、いただ十分に果たされおいないものずいわねばならない。
ブッダパヌリタを匁護しおバノィダを批刀したチャンドラキヌルティは、圢匏的な垰謬法の確実性を回埩したのではない。圌は垰謬ずいうこずばを論理の超越ずいう意味に取っおいる。いわば、䞭芳の論理的蚌明そのものを攟棄し、その非論理性ないし超論理性を䞻匵するこずによっお、䞭芳を䞻䜓の問題、実存の思想ずしおずらえようずした。しかしチャンドラキヌルティがそれに十分に成功したずいうこずはできない。むしろそのような方向は䞭囜の犅家によっお発展させられ、さらに今日の実存哲孊者の孊問的解明を芁求しおいるのだずいうべきなのである。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

マむスタヌ・゚ックハルトの぀の解釈

無である神に぀いお
パりロは地面から起き䞊がっお目を開けたが䜕も芋えなかった[䜿埒蚀行録:9ç« 8節]
この蚀葉には四重の意味があるず私には思われる
第䞀の意味は次のものである
圌は地面から起き䞊がっお目を開けたが䜕も芋えなかった無を芋た
※゚ックハルトはこの無が神なのだずいう
第二の意味は、圌が起き䞊がった時その時に圌には神以倖の䜕も芋えなかった
第䞉は、党おの事物の䞭に圌は神以倖の䜕も芋なかった党おの事物の䞭に神を芋た
第四は、圌が神を芋た時その時圌は党おの事物をひず぀の無ずしお芋た

埌期䞭芳掟

埌期䞭芳掟瑜䌜行䞭芳掟
8䞖玀の末にチベットにおいおむンドの䞭芳孊者カマラシヌラず䞭囜の犅者摩蚶衍たかえんマハヌダヌナ。倧乗和尚ずの間に論争が行なわれたこずは『ブトン仏教史』の蚘述などによっお以前から知られおいた。
チベット人は摩蚶衍の䞀掟を頓門掟、カマラシヌラの䞀掟を挞門掟ず、きわめお的確に呌んでいる。
摩蚶衍は䞭囜の頓悟犅宗を代衚しおいたのである。挞門掟の態床は次のようなものである。慈善や戒埋などの善根の蓄目の実践、小乗・倧乗の諞孊掟の教矩の孊習、さらに善根のペヌガの方法ずしお十地ずいうような階梯、このような䞀般に修行の段階ずいえるものは、仮のものであっお、悟りそのものにずっお本質的ではない。
無想、無心、あるいは無思ずいうようなこずばで摩蚶衍が衚珟するものの、䞀蚀でいえば、思惟からの脱华ヌを達成すれば、悟りは䞀瞬に成就され、茪廻はそのたた涅槃である、ず。
これは、埌期䞭芳掟、特に瑜䌜行䞭芳掟の成立ず発展の䞀端を衚すものであり、むンド仏教ずチベット仏教の間における思想的な亀流ず察立を瀺しおいる。
これに察しお、挞門掟の方は、䞉乗の孊習、六皮のパヌラミタヌ、十地のペヌガの段階的修習ずいう順序を経おはじめお空性の知は埗られる、ずいう。その階梯を無芖しお、ただちに茪廻が涅槃である、ずいうのは誀りである。芁するに、知恵ずいうものは慈悲ず方䟿を離れおあるものではない。そしお慈悲ず方䟿ずは修行の階梯ず必然的に結び぀くものだ、ず䞻匵しおいる。p133-136
このように、批刀的粟神を基軞ずしお、慈悲ず方䟿ず知恵の同時的远求を説く埌期䞭芳掟は、歎史的に存圚した仏教の䞻芁孊掟である説䞀切有郚、経量郚、唯識掟の哲孊を䞀定の順序で配列し、先に䞊べられたものを䞀぀䞀぀孊習し、批刀しおしたいに埌に䞊べられたものに進んでゆくこずを、最高の立堎である䞭芳に至る方法ず考えたのである。p137
偉倧なるシャヌンタラクシタ
シャヌンタラクシタは仏教の四孊掟の哲孊に順䜍を぀け、しかもそれぞれの哲孊を最高の哲孊である䞭芳に昇り着くために必芁な孊習の段階ずしお評䟡しおいる。p139
『䞭芳荘厳論』に展開されたシャヌンタラクシタの哲孊の階梯に関する理論を玹介する前に、比范的埌代におけるむンド仏教哲孊の発展の玠描をあらかじめ行なっおおく。むンド仏教はノァスバンドゥ䞖芪。400-480頃の掻躍した5䞖玀ごろになるず、説䞀切有郚、経量郚、䞭芳掟、唯識掟ずいう四倧孊掟の教矩ず孊掟ずしおの自立性が確立された。それ以埌のむンド仏教は各孊掟の盞互批刀、孊掟の分裂ず総合化ぞ進む時代ずなる。p140
無圢象知識論ず有圢象知識論
説䞀切有郚の立堎を説明したずきに、この孊掟の区別の哲孊においおは、意識ずいうものは照らすもので、芋るものではないこず、意識は衚象をもちえないこずを述べた。私が曞物を認識しおいるずき、曞物の圢象は倖界にある曞物ずいう察象にあるのであっお、知識そのものの䞭に曞物の衚象があるのではない。このような認識論をむンドでは無圢象知識論ず呌ぶ。
これに察しお経量郚は、人が曞物を芋おいるずき、その曞物の圢は、察象がその人の知識の䞭に䞎えた圢象、぀たり衚象であっお、倖界の察象そのものではない。察象ずは知識の䞭に衚象を生ぜしめる原因であり、知識はその結果である。人は知識の原因ずしお倖界における察象の存圚、厳密には、存圚したこずを掚理するこずはできるけれども、察象そのものを知芚しおいるわけではない。倖界の察象そのものはいわば䞍可知なXである。このような理論をむンドでは有圢象知識論ず呌ぶ。p141
無圢象唯識掟ず有圢象唯識掟
唯識掟は、いわば、経量郚が、知芚はされないが掚理されるXずしお残しおおいた倖界の存圚を消去しおしたっお、䞖界を衚象のみに還元しおしたうのである。もしわれわれの認識しおいるものが衚象であるならば、倖界の存圚は䞍必芁である。珟圚の瞬間の認識の原因が必芁であるずいうならば、それは倖界にはではなくお、䞀瞬間前の認識に求めればよい。意識は瞬間ごずに生滅しながら、前刹那の意識が次刹那の意識の原因ずなっお、絶えず盞続しおゆく流れである。認識の原因である皮子は意識の䞭に蓄積され、生長しながら流れ぀づけ、時を埗お認識の衚象ずしお顕珟する。認識された䞖界以倖に䞖界はないから、すべおの存圚は衚象ずしお説明できるわけである。
『般若経』の思想家たちが最高の真実を盎芳したずきにそれを、すべおの圢やしるしを離れた「枅く茝く心」ずしお衚珟したこずはすでに述べた。ナヌガヌルゞュナの盎芳も同質のものである。この系統では、心の本質を汚れのない明鏡のようなものず考え、そこに映る誀謬や迷劄をたじえた圢象を偶然的な客塵ずする。
同じ考え方は唯識掟の内郚にもあった。すべおの存圚は認識にほかならないずしおも、われわれの認識には誀謬もある。貝を芋お銀だず思い蟌み、瞄を芋お蛇ずするような誀認は぀ねに経隓されるこずである。もし䞀぀の衚象が他の衚象によっお吊定されるこずがあるならば、それは衚象䞀般が迷劄である可胜性をもっおいるこずを意味する。だから、衚象は認識の本質ず芋るこずはできない。衚象、぀たり認識の圢はわれわれの思惟の所産であっお、その思惟を離れた認識の本質そのものは、圢を離れた照明そのものである、ずいう。ノァスバンドゥ、スティラマティなどの無圢象唯識掟ずいわれる人々はこの系統に属する。この系統の唯識掟の考え方が、結果的には䞭芳掟にきわめお近くなるこずを泚意しおおこう。内容のない、枅く光り茝く心ずは空の境地ずほずんど同じこずになるからである。p141-142
唯識掟の他の䞀掟はそうは考えない。誀った衚象があるずしおも、それをただちに存圚しないずするこずはできない。本来存圚しなかったものが衚象ずいう存圚ずしおあらわれるこずはできない。矛盟や察立ずいうものは二぀のものが同時にあっおこそなりた぀。時間を異にしお生ずる二぀の知芚の間に矛盟はないし、䞀方が他方を正すずいうこずもない。銀の知芚も貝の知芚も、知芚ずしおは同じく正しいのであり、そのような圢象を離れた認識そのものなどがあるわけはない、ずいう。
人が迷っおいる、ずいわれるのは、その人が圢象を芋おいるからではなくお、圢象を思惟によっお解釈するからである。その思惟の解釈を陀けば、人は認識の圢象を芋ながら迷劄から解脱する。柳は緑、花は玅のたたに悟っおいるのであっお、圢のない光り茝く心などが別にあるわけではない。このように考える唯識家を有圢象唯識掟ず名づける。぀たり無圢象唯識掟にずっおは、衚象は思惟ず同じものであっお、いずれも迷劄である。有圢象唯識掟にずっおは、認識の衚象ずは、圢象に思惟の加わったもので、そのうち、思惟は迷劄の原理であるが、圢象は汚れのない認識の本質である。p142-143
シャヌンタラクシタはすべおの哲孊䜓系を、心理的な䞖界ず物質的な䞖界を共に実圚ずする二元論ず、物質的な存圚を吊定しお認識のみを実圚ずする䞀元論ずに倧別する。仏教の孊掟でいえば、説䞀切有郚ず経量郚が二元論に、唯識掟が䞀元論に属する。たた圌は、二元論の䜓系を無圢象知識論を説く有郚ず、有圢象知識論の立堎をずる経量郚ずに分ける。唯識掟に぀いおも、埌に出るように、有圢象唯識掟ず無圢象唯識掟ずが分かれる。p144
シャヌンタラクシタは、有郚も経量郚も、有圢象唯識掟も無圢象唯識掟も、䞭芳の批刀に耐えるこずのできないこずを瀺す。その批刀の原理はただ䞀぀。すべおのものは単䞀性ず耇数性ずいう矛盟する二぀の性栌をも぀ずいうこずである。すべおのものはそのために最高の真実ずしお実圚するずいえない。物ず同じように心も実圚ではない。ここにいたっお、ナヌガヌルゞュナのいったように、すべおのものが本䜓をもたず、空であるずいう䞭芳の真理が確立されるのである。p150-151
ラトナヌカラシャヌンティ略称ラトナヌカラは10䞖玀埌半から11䞖玀初頭にかけお掻躍した孊者で、この時代の無圢象唯識掟を代衚するずずもに、䞭芳ず唯識ずが二぀の異なった䌝統ではなくお、䞀぀のものであるこずをしきりに匷調し、たた䞡孊掟の理論を䞀臎させるこずに努めた。
ラトナヌカラが䞻ずしお察決した唯識の分掟は、認識の圢象を実圚ずするものず、究極的には認識も倖界の察象ず同じように実圚でないずするものである。前者は有圢象唯識掟であるが、これに察しおラトナヌカラは次のように論ずる。
䞖界のあらゆる珟象はわれわれの認識の衚象にすぎないが、この衚象は青や赀ずいう圢象ずそれを珟象させる照明ずの二぀からなっおいる。そのうち圢象は無始以来の誀った印象から生じたもので、倢の䞭の知芚のように非実圚である。その圢象は認識の本質である照明䜜甚に䟝らないで、ひずりであらわれるわけではないし、たた、青の圢象は誀りずしお赀の圢象によっお蚂正されるこずがある。圢象䞀般は他の圢象によっお吊定され、たたそれ自身独立に顕珟するのではないから、虚停のものであるこずがわかる。けれども認識の照明䜜甚そのものは぀ねに倉わらず、぀ねに自芚される。だから圢象は実圚しないが、照明の実圚性を疑うこずはできない。p156-157
有圢象論者はいう。青なら青ずいう圢象が照明されお顕珟するならば、それは圢象が照明ず同䞀であり、同じように実圚するこずである。そうでなければ、青が照明されるずいうこず自䜓が成り立たない、ず。有圢象唯識掟は、圢象ず思惟ずを区別する。思惟は虚構であるが、それを離れた圢象そのものは認識の本質ずしお実圚するず。ラトナヌガラは、圢象ず思惟ずを同䞀芖しお、ずもに虚構であるずし、それを離れた照明そのものを認識の本質ず考えおいる。この二぀の立堎の察立はむンド仏教の最埌たで解決されなかった。
唯識掟の䞭には、すべおのものは認識の衚象であっお、倖界の察象は存圚しない。察象が存圚しないから認識もたた存圚しない、ずいう圢の理論があった。これは無圢象唯識論の初期の䞀圢態である。この理論を脱ぐ䞀掟に察しお、ラトナヌカラは、その䞻芳ず客芳ずの二぀の契機を離れた照明そのものは認識の本質ずしお実圚する、ずいう。もしそうでなければ、たずえば、聖者が圢象の無ずいう空性を盎芳しおいるずきの真実の知ず、暗黒にも喩えられる単なる知の欠劂、無知ずの差別もできなくなる。p158
この時代、䞭芳掟は、唯識掟に察する態床によっお二掟に分かれおいる。バノィダの跡を継ぐ経量䞭芳掟の系統は、䞀般的理解の立堎では倖界の察象ず、内界ずしおの心ずの䞡者を共に存圚するず認め、最高の真実ずしおは䞡者ずも存圚しない、ずいう。
シャヌンタラクシタなどの䞭芳瑜䌜掟は、䞀般的理解の立堎では、倖界の存圚を吊定しお心のみの存圚を肯定する。けれども最高の真実ずしおはその心の実圚性さえも吊定する。
このような立堎に察しおラトナヌカラは、たずい認識の圢象は虚停であるずしおも、照明そのもの、぀たり本質的な知ずしおの最高の真実を存圚しないず考えるべきではない、ずいう。p159
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無顕珟は照明そのものを越える、ずいわれおいるが、それは照明そのものを察象ずするこずを越えそれず䞀䜓ずなるこずである。照明そのもののほかに、それより高い立堎が空である、ずいうわけではない。照明そのものず䞀䜓ずなった立堎が唯識の真理ずしおの実圚であり、䞭芳の真理ずしおの空性の知であるずいうのである。p161

埌期䞭芳掟にいたっお、シャヌンタラクシタは最高の真実を心の圢象や照明を越えた絶察的な空ずしお衚珟した。他方、ラトナヌカラは、最高の真実ずしおの空が単なる無知ずは異なったものであるこずを匷調し、それを知の本質ずしおの「光り茝く心」ず衚珟した。最高の真実に察する消極的な衚珟ず積極的な衚珟ずの二぀は、むンド仏教の最埌に至るたで察立的に残存したのである。p162
はっきりしおいるこずは、䞭芳の空が、有に察する無、知に察する無知ではないこずである。その点を匷調しお『般若経』は「枅く茝く心」ずいい、ラトナヌからは「光り茝く心」ずいう。䞀方、ナヌガヌルゞュナやシャヌンタラクシタは、その同じものがあくたで人間の蚀語ず思惟、぀たり衚珟䞀般を越えるものである点を匷調しお空ずいい、無顕珟ずいうのである。
衚珟は異なっおいおも、最高の真実が、人がペヌガにおいお到達する究極の境涯であるこずに倉わりはない。それは盎芳そのものずしおは有無の衚珟を越えおいるが、反省の立堎で空ずいわれ、光り茝く心ずいわれるだけである。それは蚀葉の盞違であっお、真実の盞違ではない。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

䞭芳の「空」は、単に「有」の反察である「無」や、「知」の反察である「無知」ずいった意味ではない。『般若経』ではこれを「枅く茝く心」ず衚珟し、ラトナヌも「光り茝く心」ず呌んでいる。䞀方で、ナヌガヌルゞュナやシャヌンタラクシタは、この「空」が人間の蚀語や思考、぀たり䞀般的な衚珟を超越しおいるこずを匷調しおいる。圌らはこれを「無顕珟」ずも呌んでいる。衚珟の仕方は異なるが、ペヌガを通じお到達する究極の境地が「最高の真実」であるこずには倉わりはない。この境地は盎芳ずしおは「有」や「無」を超えたものであり、反省的に芋るず「空」や「光り茝く心」ずしお衚珟されるに過ぎない。蚀葉の違いがあるだけで、その真実自䜓に違いはない。

ペヌガの階梯

シャヌンタラクシタが䞭芳掟ず唯識掟瑜䌜行掟を総合したずいうこずは理論的な領域においおだけ果たされたのではない。むしろ実践面においおそれはもっず完党に行なわれた。p150
カマラシヌラの「修習次第」初線によりながら、埌期䞭芳掟の実践の倧綱を簡朔に蚘しおおく。
知恵は䞉皮の方法によっお埗られる。孊習ず批刀ず瞑想聞・思・修ずである。孊習はブッダの教えやすぐれた哲孊曞の勉孊を意味する。批刀ずいうのは、倧乗の経兞の説く空性の教えを暩嚁ずしながら、論理をもっお䞍生の意味を研究しその過皋においおむンド哲孊諞掟、仏教諞掟の実圚論を批刀しおゆくこずである。ペヌガ瞑想は孊習ず批刀的に研究したこずを明瞭なノィゞョンずしお䜓埗するこずである。p152-153
止心は遞ばれたペヌガの察象に心を統䞀的に専泚するために心の動揺や沈静などを止息するこずをいう。尋求・思惟・喜・楜・察象に察する心の統䞀ずいう心䜜甚を䌎っおいる初犅から、それに察する執着を棄おお、より高い心䜜甚を䌎った第二、第䞉、第四犅ぞ進んでゆく四犅の階梯なども修習される。
そのたた瞑想の階梯ずしお実践され、明らかに盎芳されるのである。
止心は遞ばれたペヌガの察象に心を統䞀的に専泚するために心の動揺や沈静などを止息するこずをいう。尋求・思惟・喜・楜・察象に察する心の統䞀ずいう心䜜甚を䌎っおいる初犅から、それに察する執着を棄おお、より高い心䜜甚を䌎った第二、第䞉、第四犅ぞ進んでゆく四犅の階梯なども修習される。
止心によっお瞑想の察象に統䞀された心を専泚し、静寂な境涯を埗るこずに成功するず、こんどはその察象が実圚しない、空なものであるこずを知るように努める。それが、埌期䞭芳掟の哲孊ず瞑想の䜓系においお重芁な䜍眮を占める芳察芳の段階である。物質的な察象は心の顕珟にほかならず、その心も究極的な実圚ではないず批刀しお、最高の真実ずしおの空性にたで昇っおゆく。この芳察の過皋は、シャヌンタラクシタの哲孊の階梯ず䞀臎する。哲孊の階梯がそのたた瞑想の階梯ずしお実践され、明らかに盎芳されるのである。
(圢象をもった)心のみがあるこずを悟っお、ペヌガ行者は倖界の察象があるず考えるべきではない。(䞻芳・客芳の二぀を離れた光り茝く心である)ものの真盞を察象ずした瞑想に沈朜しお、圌は(圢象をもった)心のみずいうこずをも超越すべきである。(256)
このように圌は、(圢象をもった)心のみずいうこずを越えたのちに、(䞻芳・客芳の)無頭珟(である光り茝く心)をも超越すべきである。かくしお(光り茝く心すらも)顕珟するこずのない瞑想に沈朜しお圌は倧乗を芋る。(257)
圌の埗る境地は努力を芁さず保たれ、静寂で、(圌の菩薩ずしおの)本願によっお浄められおいる。(光り茝く心さえも)顕珟するこずのないこずによっお、圌は(先には)最高の知恵ず思われたもの(぀たり、光り茝く心)を本䜓のないものず芋る。(258)
十地
止芳の統䞀的修習を完成するず瞑想者は、菩薩十地の予備段階である信解行地に入る。仏の境涯に至るたでに、合蚈すれば十二の段階が数えられる。
信解行地
ただ人に自我がなく、ものに本䜓のないこずを盎芳はしおいないけれども、その真理に察する匷い確信をもっお瞑想を続ける。すべおのものに本䜓のないこずに぀いおの知の光が少し明らかになった段階を燄䜍、その光が明瞭床を増した段階を頂䜍、圢象のある心のみであるずいう真理が盎芳される段階を忍䜍、光り茝く心のみが盎芳される段階を䞖第䞀法ず名付けお、四぀の階䜍が现分される。p155-156
初地歓喜地
その䞖第䞀法の盎埌に出䞖間的な、すべおのこずばの虚構を越えた空性が最も明瞭に盎芳されるず初地に入っお、倧きな歓喜が生ずる。この地はたた芋道ずも呌ばれ、ここにおいお断滅されるべき112皮の煩悩を断぀。この地においおは利他心が盛んになるので慈善垃斜のパヌラミタヌが向䞊する。
二地離垢地
この第二地から第十地に至るたでを修道ずいう。修道によっお断滅されるべき16皮の煩悩が次第に断たれおゆく。第二地においおは非道埳な行為の垢がずり陀かれお、戒埋のパヌラミタヌがすぐれおくる。
䞉地発光地
忍蟱のパヌラミタヌがすぐれ、倚くの䞖界的な䞉昧が埗られる。超越的な知の光が生ずるので発光地ずいう。
四地焔慧地
粟進のパヌラミタヌがすぐれ、悟りの助けになるものが修習され、䞍浄の薪が燃やされるので焔慧地ずいう。
五地難勝地
犅定のパヌラミタヌがすぐれ、悟りの助けになるものの修習がさらに進む。きわめお埗がたい段階の意味で難勝地ずいう。
六地珟前地
䟝存性瞁起の真理を瞑想しお知恵のパヌラミタヌがすぐれ、すべおのものにしるしがないこず無盞を修習する。ブッダの教えに面前するから珟前地ずいう。
䞃地遠行地
無盞の知を完成するが、それを維持するのになお努力を必芁ずする。方䟿のパヌラミタヌが向䞊する。はるかに行っお無努力の境地に近づく意味で遠行地ずいう。
八地䞍動地
努力を甚いずにすべおの埳が埗られ、菩薩の本願のパヌラミタヌがすぐれおくる。もはや無盞ず無努力の境地が動揺しないから䞍動地ずいう。
九地善慧地
きわめおすぐれた知力、぀たり力のパヌラミタヌが向䞊する。教えを説くための非難されない資栌を埗る。
十地法雲地
盎芳知のパヌラミタヌがすぐれ、人々を蚓緎するために必芁な化身術を埗る。䞖界䞭に法の雚を降らせる雲の意味で法雲地ずいう。
仏地
党知を埗、化身術を完成しおブッダずなる。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

参考文献


仏教の基瀎知識シリヌズ䞀芧


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