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般若心経03倧乗仏教【仏教の基瀎知識17】


「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

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仏説摩蚶般若波矅蜜倚心経
芳自圚菩薩、深般若波矅蜜倚を行ぜし時、五蘊は皆空なりず照芋しお、䞀切の苊厄を床せり。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色即是空、空即是色。受想行識もたたかくのごずし。舎利子よ、この諞法は空盞なり、䞍生にしお䞍滅、䞍垢にしお䞍浄、䞍増にしお䞍枛なり。この故に空の䞭に色なく、受想行識なく、県耳錻舌身意なく、色声銙味觊法なく、県界なく、意識界もなし。無無明なく、たた無無明尜、ないし老死の尜くるこずなく、たた老死もなし。苊集滅道なく、智なく、たた埗もなし。埗る所なきをもっおの故に、菩提薩垂䟝般若波矅蜜倚を行じ、心に眣瀙なし。眣瀙なければ、恐怖あるこずなし。䞀切の顛倒倢想を遠離しお、涅槃を究竟せり。䞉䞖の諞仏も般若波矅蜜倚に䟝るが故に阿耚倚矅䞉藐䞉菩提を埗たたえり。故に知るべし、般若波矅蜜倚はこれ倧神呪、これ倧明呪、これ無䞊呪、これ無等等呪なり。胜く䞀切の苊を陀き、真実にしお虚劄ならざる故に、般若波矅蜜倚の呪を説く。すなわち呪を説いおいわく、
掲諊、掲諊、波矅掲諊、波矅僧掲諊、菩提薩婆蚶。般若心経。

「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

挢蚳本文芳自圚菩薩 行深般若波矅蜜倚時 照芋五蘊皆空 床䞀切苊厄
読み䞋し芳自圚菩薩、深般若波矅蜜倚を行ぜし時、五蘊は皆空なりず照芋しお、䞀切の苊厄を床せり。
原兞和蚳高貎なる芳自圚菩薩が深遠な般若波矅蜜倚の修行を実践しおいるずき、五蘊あり、しかも、それらは自性空であるず芋極めた。
マントラをゞャパする修行
芳自圚菩薩が行った深遠な般若波矅蜜倚の修行ずは、䞀䜓どんな修行だったのか、これを明確にしおおきたしょう。それは、「掲諊、掲諊  」のマントラを誊ずなえるこずなのです。マントラを静かにあるいは心の䞭で䜕床も繰り返しお誊える修行を念誊法ねんじゅほうサンスクリット語で「ゞャパ」ずいいたす。その結果が、「五蘊は皆空なりず照芋しお、䞀切の苊厄を床せり」ずいうこずなのです。
このあず芳自圚菩薩が「舎利子よ」ず語りかけ、「五蘊皆空」の説明が始たりたす。「色䞍異空」に始たり、「無智、亊無埗」たでの段萜が、その具䜓的な内容です。
なぜそのような玠晎らしい成果が埗られるかずいうず、これが「般若波矅蜜倚」ず称するマントラを念誊する修行だずいうのです。䞉䞖の諞仏も同じようにしお最高のさずりを埗おいるのだずしお、「故知ゆえに知るべし」ず続きたす。
では、そのマントラはどういうものか、お教えいたしたしょうず芳自圚菩薩が蚀い、最埌に「矯諊、矯諊  」の句が瀺されるのです。p41-42

「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

尟題これが般若波矅蜜倚のマントラである

その盎埌に尟題が添えられおいたす。玄奘蚳では、「般若波矅蜜倚心経」ずなっおいたすが、原兞では「以䞊で、プラゞュニャヌ・パヌラミタヌ・フリダダ般若波矅蜜倚のマントラ、提瀺し終わる」ずなっおいお、先に述べたように「経」にあたる話はありたせん。ですから、これを「尟題」ず蚀っおいたすが、それはしいおタむトルを探せばこれが盞圓するずいうこずでしお、私はこれも本文の䞀郚ず考えおよいのではないかず思っおいたす。
぀たり、この「尟題」は『般若心経』党䜓のタむトルなのではなく、「矯諊、矯諊  」の句をうけお「これが般若波矅蜜倚のマントラである」ず蚳すべき文なのです。この最終句たでが、芳自圚菩薩の台詞ず解すべきでしょう。これが『般若心経』の党䜓の構成です。
「フリダダ」の正しい解釈
タむトルの「般若波矅蜜倚心」ずは「般若波矅蜜倚のマントラ」のこずでした。『般若心経』の本文にそっおタむトルの意味を考えれば、明癜にこの䞊ないこずであるにもかかわらず、なぜこれたでそのように理解されおこなかったのでしょう。
倚くの解説者が挢字の「心」を珟代流に勝手に解釈しおいる原因の䞀぀は、「心」ずいう挢字に「真蚀」ずいう意味があるずは思いもよらないからでしょう。
では、「フリダダ」にマントラの意味があるかずいいたすず、そのような意味は䞀般のサンスクリットの蟞曞には茉っおいたせん。ですから、サンスクリットを読める珟代の孊者も誀解しおしたうのです。しかし、むンドの文献ではフリダダ・マントラずいう蚀い方は珍しいこずではなく、フリダダがマントラの別称ずしお甚いられるこずはよくあるのです。p43-44 
珟代の『般若心経』の解説曞の䞭では最も評䟡の高い䞭村元・玀野䞀矩蚳泚『般若心経金剛般若経』岩波文庫では、挢蚳の経題に぀いおの蚻で、「梵文原兞に最初からこの経名が附いおいたのではない。原文の最埌に『智慧の完成の心真蚀を終る』ずあったのを、挢蚳者が冒頭に持っおきお題名ずしたのである」ず蚘し、「心」の埌に括匧で「真蚀」ず蚀い換えおいるのは、たったく正しい理解にもずづいおいたす。
以䞊のこずを繰り返しおたずめたすず、『般若波矅蜜倚心』ずは経兞の最埌の「矯諊、矯諊、波矅矯諊、波矅僧矯諊、菩提、薩婆蚶」のマントラをさしたす。したがっお、『般若心経』の経題は「般若波矅蜜倚のマントラを説いた経」ずいうのが正解です。p47

「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

五蘊皆空

原兞では色ず空の関係を、
Ⅰ「色性是空 空性是色」
Ⅱ「色䞍異空 空䞍異色」
Ⅲ「色即是空 空即是色」の䞉段に分けお解説しおある。
しかし玄奘はⅡずⅢの二段に省略した。䞭村元

【挢蚳本文】舎利子、色䞍異空、空䞍異色、色即是空、空即是色、受想行識、亊埩劂是。
【読み䞋し】舎利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず。色すなわちこれ空、空すなわちこれ色なり。受想行識も、たたたたかくのごずし。
「色䞍異空、空䞍異色」ず「色即是空、空即是色」は同じこずを蚀っおいるのか、それずも䜕か違った意味合いのこずを䌝えようずしおいるのか。さらにたた、「色䞍異空」ず「空䞍異色」、「色即是空」ず「空即是色」ずは、それぞれ䞻語が入れ替わっおいるが、このように䞻語が亀代するこずによっおやはり䜕か別のこずを䌝えようずしおいるのだろうか。だれしもこうした疑問を抱かれるこずでしょう。p90-92
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「色䞍異空、空䞍異色」「色即是空、空即是色」は、原兞では「色は空性であり、空性は色である」「色ずは別に空性はなく、空性ずは別に色はない」「色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である」ずなっおいたす。挢蚳は二段に分かれおいるのに察しお、原兞では䞉段に分かれおいたす。䞭村元博士は次のように解釈しおいたす。「玄奘は原文に䞉段に分けおあったものを故意に二段に省略したずいうこずになる。短い心経の䞭で無意味に同じこずを䞉床繰り返す必芁はあるたい。䞉段それぞれに意味があったず芋るべきであろうが、やはりに䞉段に分けるこずにそれほど重芁な意味があったのだずしたら、それを二段に省略した玄奘は重倧な過ちを犯しおいるこずになりたす。玄奘が二段に省略しおもかたわないず刀断した理由をここで考えおみるべきでしょう。」p93-94
サンスクリット文法では、䞻栌語尟が添えられた二぀の語が䜵眮された文ずいうのは、二぀の名詞語幹の衚瀺察象が䞀臎しおいるこずを瀺しおいるのであっお、どちらか䞀方の語尟が䞻語たたは述語を衚しおいるのではない、ずされおいたす。どういうこずかず蚀いたすず、たずえば「色は空性である」ずいう文があるず、私たちは通垞、「色は」が䞻語であり、「空性である」が述語であるず考えたす。これは日本語でも、ほかの倧方の蚀語䟋えば英語でも同じです。
しかし、サンスクリット文法によれば、「色」ずいう語ず「空性」ずいう語が䞻栌語尟をもっお䜵眮されおいる堎合、これはそれぞれの語の衚瀺察象が同䞀であるこずを瀺しおいる文であるずみなすので、この際、どちらの語が先にあっおもかたわないのです。぀たり語順は関係ないのです。そうである以䞊、「色は空性である」ず「空性は色である」は、十分違わず同じこずを述べおいる文だずいうこずになりたす。p94-96
「色ずは別に空性はなく、空性ずは別に色はない」「色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である」も同じです。これらはすべお「五蘊皆空」ずたったく同じこずを、ただ「色」に぀いお述べた文であるず断定せざるを埗ないのです。ではなぜ、同じこずをそんなに䜕床も繰り返しお述べる必芁があったのでしょう。
埋蔵倧品ずいう初期の仏兞には、釈尊が法を説く堎合、「私は䞉床この矩を説く」ずいう衚珟がよく出おきたす。たた、成道埌の釈尊に梵倩が脱法を䞉床懇請し、それで釈尊は脱法を決意したずいう話も䌝わっおいたす。仏法僧の䞉宝に垰䟝するずきいう「䞉垰䟝文」は今でも䞉床唱えるこずになっおいたす。むンドでは叀くから重芁なこずを䞉床繰り返しお蚀うずいう習慣があったのです。でも、むンド人でない玄奘は、二床繰り返せば十分だず思ったのでしょう。それだけのこずです。
【挢蚳本文】舎利子、是諞法空盞。䞍生䞍滅、䞍垢䞍浄、䞍増䞍枛。是故空䞭、無色無受想行識、無県耳錻舌身意、無色声銙味觊法、無県界乃至無意識界、無無明亊無無明尜、乃至、無老死亊無老死尜、無苊集滅道、無智、亊無埗。
【読み䞋し】舎利子よ、この諞法は空盞なり。䞍生にしお䞍滅、䞍垢にしお䞍浄、䞍増にしお䞍枛なり。この故に空の䞭には色なく、受想行識なく、県耳錻舌身意なく、色声銙味觊法なく、県界なく、ないし意識界なく、無明なく、たた無明の尜くるこずなく、ないし老死なく、たた老死の尜くるこずなく、苊集滅道なく、智なく、たた埗もなし。
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『般若心経』本段では、実は「五䜍䞃十五法」に分類される以前に普及しおいた「五蘊・十二凊・十八界」ずいう分類法がずりあげられおいたす。p153
次に「十二瞁起」がずりあげられ、無明を根本原因ずするダルマの因果系列が瀺されたした。
『般若心経』は四諊八正道を吊定しおいるのではありたせん。もしそうなら、釈尊の初転法茪を吊定しおしたうこずになりたす。
『般若心経』が吊定しおいるのは、あくたでもダルマの実圚性、それだけなのです。p169
たず、この「智」ゞュニャヌナが般若の智慧プラゞュニャヌではないこずはたしかです。原語のサンスクリットが違いたすし、般若の智慧を説いおいる経で、それを吊定しおいたのでは、それこそ『般若心経』は支離滅裂な経ずいうこずになっおしたいたす。
この「智もなく」は「苊・集・滅・道なく」に続くものですから、八正道の成果ずしおの智慧ず解すべきでしょう。もろもろのダルマを結合させるはたらき、すなわちダルマの獲埗䜜甚のこずを「埗」プラヌプティずいい、分離させるはたらきのこずを「非埗」アプラヌプティずいうのです。結局、このようにしお芳察されるダルマがこずごずくさたざたな角床から蚀及されたこずになりたす。それらがすべお芳自圚菩薩によっお「ない」ず䌝授されたのです。 p170-172

「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

矯諊咒

【挢蚳本文】以無所埗故、菩提薩埵、䟝般若波矅蜜倚故、心無眣瀙、無眣瀙故、無有恐怖、遠離䞀切顛倒倢想、究竟涅槃。
【読み䞋し】埗る所なきをもっおの故に、菩提薩垂は般若波矅蜜倚によるが故に、心に眣瀙なし。眣瀙なきが故に、恐怖あるこずなし。䞀切の顛倒倢想を遠離しお涅槃を究竟せり。p174
本段冒頭の「埗る所なきをもっおの故に以無所埗故」の䞀句に぀いおですが、わが囜の䌝統的な蚓読の仕方では、この䞀句はこの段の䞀郚ずせず、前の段萜の文章に含たせお、「智もなく、埗もなし、埗る所なきをもっおの故に」ず読たせおいたす。
しかし、原兞には、この䞀句の前に「この故に」ずいう接続詞がありたすから、やはり本段の䞀郚ず考えるべきでしょう。 p175
「プラゞュニャヌ」は「知る」を意味する動詞語根「ゞュニャヌ」に「プラ」ずいう接頭蟞が぀いた語の名詞圢です。この接頭蟞は「前に」ずいう意味があるこずから、ほずんどの孊者はプラゞュニャヌを、知識以前の知、すなわち「無分別知」のこずだず説明するのですが、そうではなく、この接頭蟞「プラ」は、「前方に進める」ずいう意味にずらなくおはなりたせん。぀たり、通垞の知を䞀歩進めた高床な知、たたは高床な知をもたらす知がプラゞュニャヌなのです。
決しお通垞の意識以前の、たずえば動物的あるいは幌児的な、分別のない状態に戻るこずではありたせん。その境地は私たちの芖界をはるかに超えおはいたけれども、すべおを包含しおいたのです。p180-181
「心に眣瀙なし」に぀いお説明したす。この「心」の原語は「チッタ」です。経題の「心」フリダダずは別で、これこそ私たち人間の内面の心をさす蚀葉です。アビダルマ論垫たちはダルマを分類しお最終的に「五䜍䞃十五法」ずいう䜓系にたずめあげたのですが、実に心そのものも䞀぀のダルマにほかなりたせんから、心を劚げるものもなければ、劚げられるもの心もないずいうこずになるのです。p182-184
いかなる恐怖も、その原因が䜕であれ、心から生じるずいえるでしょう。
『般若心経』は「心の倧切さ」を説く経などでは党然なくお、むしろその反察に、心ずいうようなものはないのだ、ないずいうこずが芳察できるレベルがあるのだ、ずいうこずを説いおいる、それこそ恐るべき経兞なのです。p185
次の䞀文、䞀切の「顛倒倢想を遠離しお」は、「ない」ず芳察されるダルマを「ある」ず錯誀しおいるレベルに察しお、きっぱりず「ない」ずいっおいるのです。
最埌の句、「究竟涅槃」は、䌝統的には「涅槃を究竟せり」ず蚓読したす。
「涅槃」ずいう蚀葉は、普通は次のように説明されおいたす。「もずは吹き消すこず、吹き消した状態を意味するが、仏教では燃え盛る煩悩の火を吹き消しお、悟りの智慧を獲埗した境地をいう」『䜛教倧事兞』小孊通。
なぜ䞊蚘の事兞ないし蟞兞のような説明がなされおいるかずいうず、「ニルノァヌナ」の語源が、「颚などが吹く」ずいう意味の動詞語根「ノァヌ」から掟生した名詞だず考えられおいるからです。p186-189
倖囜のパヌリ語研究者の間では、「ニルノァヌナ」の語根は「ノァヌ」ではなく、「ノリ芆う」であろうず考えられおいたすパヌリ聖兞協䌚線『パヌリ語-英語蟞兞』参照。空海は『般若心経秘鍵』の䞭で、「劚げのない自由な境地が涅槃に入るずいうこずである無瀙離障は入涅槃の矩」ず解説しおいたす。空海は明らかに原語「ニルノァヌナ」の語根は「ノリ」ず考えおいたず思われたす。
空海の解釈によりたすず、「心に眣瀙なし」ずいう前の文ず脈絡がぎたっず合う、ずいうこずにお気づきでしょうか。「芆いのない、劚げのない状態」が涅槃なのです。そのような状態たで「ない」ずしおしたえば、『般若心経』はたるで意味䞍明の経兞になっおしたうでしょう。
本段で涅槃はしっかりず肯定されおいたす。このこずからも『般若心経』は䜕でもかんでも、「空」ずいっお吊定しおいるのではないこずがお分かりいただけるでしょう。p191-192

「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

『般若心経』で説かれる「般若の智慧」を吊定するずなれば、この経兞自䜓が矛盟だらけずいうこずになっおしたうだろう。しかし、犅問答のような衚珟を奜む人がいるのも事実だ。特に、『般若心経』が「般若、般若  」ず繰り返し「空」の智慧を匷調しながら、最終的にはその重芁な智慧すらも存圚しないず説明する孊者がいるこずには驚かされる。だが、こうした奇抜な解釈は、意倖にも䌝統的に根匷い支持を持っおいるものだ。

【挢蚳本文】䞉䞖諞仏、䟝般若波矅蜜倚故、埗阿耚倚矅䞉藐䞉菩提。
【読み䞋し】䞉䞖の諞仏は般若波矅蜜倚によるが故に阿耚倚矅䞉藐䞉菩提を埗たたえり。p194
本段の趣旚は、「さずれるものは般若波矅蜜倚による」ずいうこずにありたす。いったい釈尊をはじめずする諞仏がさずりを開いたのは般若波矅蜜倚によるなどずいうこずは、初期のいかなる仏兞にも蚘されおいないこずでした。しかし、倧乗の菩薩たちは、埓来の䌝承を芋盎し、釈尊の教えの真意は䜕であったかず远及し、倧胆にも、仏の厇高なさずりの境地さえも、実は般若波矅蜜倚によるのであるず確信し、ここに般若波矅蜜倚を高々ず賞揚する䞀巻の経兞が誕生したのです。p196
【挢蚳本文】故知、般若波矅蜜倚、是倧神呪、是倧明呪、是無䞊呪、是無等等呪、胜陀䞀切苊、真実䞍虚故、説般若波矅蜜倚呪。即説呪曰、掲諊、掲諊、波矅掲諊、波矅僧掲諊、菩提、薩婆蚶。般若心経。p214
【読み䞋し】故に知るべし、般若波矅蜜倚はこれ倧神呪なり、これ倧明呪なり、これ無䞊呪なり。これ無等等呪なり。よく䞀切の苊を陀き、真実なり、虚しからざる故に、般若波矅蜜倚の呪を説く。すなわち呪を説いおいわく。
掲諊、掲諊、波矅掲諊、波矅僧掲諊、菩提、薩婆蚶。般若心経。

本段は「故に知るべし」ずいう蚀葉で始たりたす。『般若心経』党段の䞭で、ここだけが匷い呜什口調になっおいたす。芳自圚菩薩が舎利子に最終的な䌝授を行う最も重芁な堎面です。
- 倧神呪 = マハヌ・マントラ偉倧なる真蚀
- 倧明呪 = マハヌ・ノィディダヌ・マントラ偉倧なる明知の真蚀
- 無䞊呪 = アヌッタラ・マントラこの䞊ない真蚀
- 無等等呪 = アサマサマ・マントラ比類なき真蚀
 p215-217
挢蚳本文は、「胜陀䞀切苊、真実䞍虚故、説般若波矅蜜倚呪」ず続きたす。
この箇所は䌝統的には、「よく䞀切の苊を陀き、真実にしお虚しからず。故に般若波矅蜜倚の呪を説く」ず読み䞋したす。珟代の解説曞でもこちらの読み方をするほうが倚いようです。p221-222
「故に」ずいう語を次の「般若波矅蜜倚の呪を説く」にかけお読んでしたうのだず思われたすが、原兞では、「停りがないから、真実である」ずいう文構成になっおいたす。「故に般若波矅蜜倚の呪を説く」ずいう読み方はただしくありたせん。
「真実」にあたるサンスクリットは「サトダ」ですが、ここでも「サトダ」は、真理ずいった抜象的なものではなく、「確実な、信頌の眮ける、効き目のあるもの」を意味しおいたす。むろんこれは般若波矅蜜倚のマントラのこずをさしおいたす。
次の「䞍虚」にあたるサンスクリットの「アミティダヌ」は、「矛盟しおいない」「嘘停りでない」を意味したす。
かくしお、この本文党䜓は、「般若波矅蜜倚のマントラは、すべおの苊を鎮める、確実な、信頌の眮ける、効き目のある蚀葉である。なぜならば、矛盟なく、嘘停りのないものだから」ずいうこずを述べおいるず、ご理解いただけるでしょう。
珟行の䞉぀の蚳し方
䞀぀は「ガテヌ」矯諊を、「埀く」を意味する動詞の過去完了圢の男性名詞「ガタ」の単数栌ずみお、「埀けるずき」ず解釈する仕方です。
「埀けるずきに、埀けるずきに、圌岞に埀けるずきに、圌岞に完党に埀けるずきに、さずりあり、スノァヌハヌ」
もう䞀぀は、「ガテヌ」矯諊をやはり「埀く」を意味する動詞から掟生した、女性名詞の「ガタヌ」たたは「ガティ」の単数呌栌ずみお、「埀ける者よ」ず解釈する仕方です。
「埀ける者よ、埀ける者よ、圌岞に埀ける者よ、圌岞に党く埀ける者よ、さずりよ、幞あれ。」
実はもう䞀぀、代衚的な蚳し方がありたす。それは枡邊照宏博士の蚳です。
「到れり、到れり、圌岞に到れり、圌岞に到着せり、悟りに。めでたし。」p229-230
これは、「ガテヌ」矯諊を、「埀く」を意味する動詞の過去完了圢の男性名詞「ガタ」の単数䞻栌ず解釈したものだず思われたす。正芏のサンスクリット文法では、こうした解釈はできたせん。これは原文を、叀代東郚むンド語釈尊の時代に甚いられおいたず掚定される叀語ずみお、その文法を適甚しお解読した結果です。
結論を蚀いたすず、これはだれかがどこかぞ埀くずか埀かないずかいうこずではなく、このマントラは最埌の「姿婆蚶」を陀いお、䞀蚀䞀句、すべお「般若波矅蜜倚」を蚀い換えたものです。あくたでも般若波矅蜜倚を称えた、「般若波矅蜜倚のマントラ」なのです。
ただ、最埌の「姿婆蚶」スノァヌハヌだけは別で、これは䟛物を捧げる際に唱える定型的な終句ずしお甚いられおきたもので、「成就あれ」ずいうほどの意味の蚀葉です。p232-233

「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

仏母

諞仏がさずりを埗るのは般若の力に䟝るのであるずいうこずから、倧乗仏教埒は般若波矅蜜倚を、仏母ずしお尊び厇め、その絶倧な功埳を宣揚したのです。このこずは玄奘蚳『倧般若波矅蜜倚経』六癟巻はもずより、矅什蚳『倧品般若経』によっおも確認できるこずです。ならば、般若波矅蜜倚を仏母ずしお称えるマントラが『般若心経』に掲げられおいおも䜕らふしぎなこずではありたせん。そうであるなら、
「母よ、母よ、般若波矅蜜倚なる母よ、どうかさずりをもたらしたたえ——。」
マントラの党文の意味はおよそこのようなものでしょう。釈尊ご生誕の聖地ルンビニヌの守護神は、生母マヌやヌ摩耶倫人です。
今はネパヌル領のその珟地名「ルンミンデヌむ」の原意は、「倱われた女神」です。数癟幎の時を経お、仏陀の母は「般若波矅蜜倚」ずしお祀り、倧乗仏教の原動力ずなったのでした。

「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

自性空般若心経の空

挢蚳本文芳自圚菩薩 行深般若波矅蜜倚時 照芋五蘊皆空 床䞀切苊厄
読み䞋し芳自圚菩薩、深般若波矅蜜倚を行ぜし時、五蘊は皆空なりず照芋しお、䞀切の苊厄を床せり。
原兞和蚳高貎なる芳自圚菩薩が深遠な般若波矅蜜倚の修行を実践しおいるずき、五蘊あり、しかも、それらは自性空であるず芋極めた。

倧乗仏教の先駆をなした経兞が、般若波矅蜜倚経です。般若経、ず略しお呌ばれたすが、この名称の経兞は実にたくさんあっお、なんず玀元前埌から六癟幎の長きにわたっお経々ず生み出されおきたした。その集倧成が、玄奘の挢蚳した『倧般若波矅蜜倚経』六癟巻です。倧乗仏教埒にずっお、般若波矅蜜倚は、新しい仏教運動のスロヌガンであり、いわば合い蚀葉でした。p59
それだけではありたせん。諞仏がさずりを埗るのは般若智慧の力に䟝るのであるずいうこずから、般若波矅蜜倚そのものが神栌化されるようになりたした。倧乗仏教埒は般若波矅蜜倚を、諞仏を生む母、すなわち「仏母」ずしお尊び厇め、その絶倧な功埳を宣揚したのです。
般若波矅蜜倚が女尊ずされたのは、原語「プラゞュニャヌ・パヌラミタヌ」が女性名詞だったからです。p60-61
「般若心経」も、般若経の䞀぀であるこずは蚀うたでもありたせん。般若波矅蜜倚を䞻題ずする経兞です。「般若心経」は般若波矅蜜倚のマントラを説いた経であるず先に申し䞊げたしたが、その「矯諊、矯諊  」のマントラは、仏母ずしおの般若波矅蜜倚に察する祈りの蚀葉だったのです。
玄奘蚳の「般若心経」には「仏母」ずいう蚀葉は甚いられおいたせんので、読者の䞭にはただ銖をかしげる方もいるかもしれたせんが、埌代の斜護蚳の経題は「仏説仏母般若波矅蜜倚経」ずなっおいお、「聖仏母」ずいう蚀葉を冠しお般若波矅蜜倚が仏母であるこずを明確に瀺しおいたす。チベット版の「般若心経」でも、「バガノァティヌ女尊仏母たるプラゞュニャヌ・パヌラミタヌのフリダダ」ずサンスクリットの経題が明蚘されおいお、そのこずが確認できたす。
それは埌代の解釈ではないかず思われる方もいるかもしれたせんが、「般若波矅蜜倚はこれ諞仏の母」ずいうこずは他の般若経では既に頻繁に述べられおいるこずなのです玄奘蚳「倧般若波矅蜜倚経」第305308巻、矅什蚳「倧品般若経」第14巻・第27巻参照。
読者の皆さんには意倖でしょうが、「般若心経」は、仏母たる般若波矅蜜倚を本尊ずする経兞なのです。
「般若心経」は小品ながらも、般若経の䞭でも特異な地䜍を占め、独立した䞀巻の経兞ずしお重んじられおきたした。
実は、「般若心経」は般若経の集倧成である「倧般若波矅蜜倚経」六癟巻の䞭に含たれおいたせん。「般若心経」だけがいわば陀倖された栌奜になっおいお、その理由は今ひず぀定かではありたせんが、それほど特別な経兞ずみなされおいたずいうこずなのでしょう。p63

「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

深般若波矅蜜倚ず六波矅蜜

ずころで、なぜ「深深遠な般若波矅蜜倚」ずいうのでしょうか。この「深」の䞀語は䜕を意味しおいるのでしょう。この「深」にあたるサンスクリットの「ガンビヌラ」は「甚だ深い」ずか「尋垞ではない」を意味したす。深般若波矅蜜倚ずは、芁するに普通の般若波矅蜜倚ではないずいうこずです。すなわち倧乗仏教においお、ただ般若波矅蜜倚ずいうず、これは菩薩の実践埳目六波矅蜜のこずをさしたす。
しかし、ここでは普通に考えられおいるような埳目の䞭の䞀぀ずいう意味合いではないずいうこずを匷調するために「深」ず圢容されおいるのです。明らかに普通に考えられおいる般若波矅蜜倚ずは䞀線を画した「尋垞ではない」ものです。そのために「深般若波矅蜜倚」ず蚀っおいるのですから、ほずんどの解説曞がこの字矩を無芖しお般若波矅蜜倚の六の実践埳目の説明に終始しおいるのは芋圓違いず蚀わざるをえたせん。p63〜65

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色即是空

【挢蚳本文】舎利子、色䞍異空、空䞍異色、色即是空、空即是色、受想行識、亊埩劂是。
【読み䞋し】舎利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず。色すなわちこれ空、空すなわちこれ色なり。受想行識も、たたたたかくのごずし。
【原兞和蚳】シャヌリプトラよ、ここにおいお、色は空性であり、空性は色である。色ずは別に空性はなく、空性ずは別に色はない。色なるものこそが空性であり、空性なるものこそが色である。受・想・行・識に぀いおもたったく同様である。p90

本段は「五蘊皆空」を蚀い換えたものですから、「色即是空」は、「五蘊皆空」ずたったく同じこずを「色」に぀いお述べおいるのです。
しかし、サンスクリットに粟通したむンド人ならば、「色は空性である」ずいう、このサンスクリットの原文を芋たら、これは文法的に成立しない文だず必ず蚀うでしょう。原語の「シュヌニャタヌ」は抜象名詞でしお、「空なるこず」を意味し、「空なるもの」を意味する「シュヌニャ」ではないのです。
なぜこんな砎栌の構文が甚いられおいるかずいうこずです。少なくずも、珟存するサンスクリット写本のすべおは、「シュヌニャタヌ空性」の語を甚いおいるのです。やはりこの語でなければならなかったのでしょう。p98-100
䞀芋砎栌の構文に思われたすが、「シュヌニャタヌ空性」ずいう蚀葉を甚いるこずによっお、レベルの差異を明らかにする仕組みが蚭けられおいたのです。p101
サンスクリットの名詞はすべお䜕らかの動詞正確には、動詞の語根から掟生しおいるのですが、この「シュヌニャ空なるもの」ずいう語は「膚らむ」ずいう意味の動詞から掟生した名詞で、「膚らんだ状態」ずいうのが原矩です。ちょうどシャボン玉が膚らんだような状態をさしたす。
さらに芳察を深めるず、膚らんだシャボン玉がはじけお消えおしたうように、あらゆる枠付けが消えおしたい、たったく開攟された広がりが珟出するでしょう。実は「空」の最も本質的な意味は、こうした状態、぀たりたったくの開攟的な広がりです。すなわち、完党に開攟された境地に至るずいうこずです。p106-107

「真釈 般若心経」宮坂宥措角川゜フィア文庫

「色即是空⇒色空」「氷即是氎⇒氷氎」のようなかんじ。
般若心経のいう「空」ずはサヌンキダ哲孊でいう「自性」ずいう意味での「空」だずいうこず。竹䞋雅敏説

サヌンキダ哲孊における「自性スノァバヌノァ、svabhāva」ずは
物質䞖界の根源である「プラクリティprakriti」の本質的な性質を指す。サヌンキダ哲孊は二元論を基瀎ずしおおり、「プルシャpurusha、玔粋な意識」ず「プラクリティ物質的な根源」ずいう二぀の根本的な実䜓が存圚するず考える。
プラクリティは䞉぀の「グナguna、性質」、すなわちサットノァsattva、玔粋性、ラゞャスrajas、掻動性、タマスtamas、惰性から構成されおいる。これらのグナの組み合わせず倉化によっお、宇宙のあらゆる物質的珟象が生じる。
「自性」は、このプラクリティが持぀固有の性質や本質のこずを指す。具䜓的には、プラクリティに由来するあらゆる存圚や珟象が、それぞれ固有の性質を持぀ず考えられおいる。぀たり、自性ずは、物質的な存圚がその根本的な性質に基づいお持っおいる固有の特城であり、サヌンキダ哲孊ではこの自性を持぀こずが物質的珟象の基瀎ずなる。
このように、サヌンキダ哲孊における「自性」は、物質の本質や性質を説明するための抂念であり、それが様々な圢で珟れるこずで物質䞖界が構成されおいるずされる。

諞法空盞

【挢蚳本文】舎利子、是諞法空盞、䞍生䞍滅、䞍垢䞍浄、䞍増䞍枛。
【読み䞋し】舎利子よ、この諞法は空盞なり。䞍生にしお䞍滅、䞍垢にしお䞍浄、䞍増にしお䞍枛なり。
【原兞和蚳】シャヌリプトラよ。ここにおいお、存圚するものはすべお空性を特城ずしおいお、生じたずいうものではなく、滅したずいうものではなく、汚れたものではなく、汚れを離れたものでもなく、足りなくなるこずもなく、満たされるこずもない。p114
埋蔵倧品「倧犍床」におさめられおいる「五比䞘篇」は、釈尊がサヌルナヌトで五人の比䞘に察しお行った最初の説法初転法茪の様子を䌝えおいたすが、そこでは、五蘊に぀いお次に匕甚するように述べおいる箇所がありたす。
「比䞘らよ。このこずを考えおみよ。色は恒垞であろうか、それずも無垞であろうか」
「無垞です」
「では、無垞なるものは苊であろうか、それずも楜であろうか」
「苊です」
「無垞にしお苊、そしお倉空するものダンマを、これは私のものである、これは私である、これは私の自我である、ずみなすこずは劥圓であろうか」p127–129
「いえ、違いたす。」以䞋、受・想・行・識に぀いおも同じ説論が繰り返される
「比䞘らよ。五蘊は、私のものではない、私はでない、私の自我ではないずこのように正しく芳察するならば、高貎なる匟子は、色を厭い、受を厭い、想を厭い、行を厭い、識を厭う。厭えば、離貪し、欲を離れお解脱する」
ここで最も重芁なこずは、釈尊の瞑想においお顕珟した諞法は、瞑想の䞭で滅尜されるべきものであったずいうこずです。諞法は瞑想の䞭においお初めお顕珟するものですが、最終的に吊定されなければならないものだったのです。
原兞では「ここにおいお、シャヌリプトラよ」ずいい、ここにおいおむハずいう蚀葉を添えおいたす。p147
【挢蚳本文】是故空䞭、無色無受想行識、無限耳錻舌身意、無色声銙味觊法、無限界乃至無意識界、無無明亊無無明尜、乃至、無老死亊無老死尜、無苊集滅道、無智、亊無埗。
【読み䞋し】この故に空の䞭には色なく、受想行識なく、県耳錻舌身意なく、色声銙味觊法なく、県界なく、ないし意識界なく、無明なく、たた無明の尜くるこずなく、ないし老死なく、たた老死の尜くるこずなく、苊集滅道なく、智なく、たた埗もなし。
本段の意旚は、「空の䞭には䜕もない」ずいうこずですが、問題は䜕がないかずいうこずです。蚀うたでもなく、ここに列挙されおいるのはすべお「自己ずいう経隓䞻䜓を構成する芁玠ずしお瞑想の䞭に顕珟しお存圚するもの」ずしおのダルマ諞法です。p150–151
【挢蚳本文】以無所埗故、菩提薩埵、䟝般若波矅蜜倚故、心無眣瀙、無眣瀙故、無有恐怖、遠離䞀切顛倒倢想、究竟涅槃。䞉䞖諞仏、䟝般若波矅蜜倚故、埗阿耚倚矅䞉藐䞉菩提。
【原兞和蚳】この故に、ここにはいかなるものもないから、菩薩は般若波矅蜜倚を拠り所ずしお、心の劚げなく安䜏しおいる。心の劚げがないので、恐れがなく、ないものをあるず考えるような芋方を超越しおいお、たったく開攟された境地でいる。過去・珟圚・未来の䞉䞖に出珟するすべおの仏は般若波矅蜜倚を拠り所ずしお、無䞊の完党なさずりを成就しおいる。p174, 194

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遠離䞀切顛倒倢想

「遠離䞀切顛倒倢想」ずいう蚀葉は、文字通りには「すべおの誀った考えや幻想から遠ざかる」ずいう意味だが、ここでの説明では特に「自性が存圚しない」ずいう倧乗仏教の考え方から離れるこずを指しおいる。
倧乗仏教では、「自性がない」、぀たり「すべおのものには固定された本質がない」ずいうこずが「空」の教えずしお重芁芖されおいる。しかし、この解釈では、その「自性がない」ずいう考え自䜓が誀ったものであり、その誀りを捚お去るこずで、真に解攟された状態に至るずされおいる。
぀たり、「遠離䞀切顛倒倢想」ずいうのは、倧乗仏教が説く「自性がない」ずいう考え方を誀りずしお捉え、それを超越するこずを意味しおいるずいうこずになる。これは、䞀般的な倧乗仏教の教えずは正反察の解釈ずなっおいる。竹䞋雅敏説

「般若心経」䌝授の逞話

今さらこんなこずを蚀うず驚かれるかもしれたせんが、『般若心経』は経兞ずしおはごく短いものながら、実は出所の異なるいく぀かの文が巧みに線集されお䞀巻の経兞ずしお成立したものなのです。
最初期の般若経ずしお、八千頌からなる「小品般若経」があり、次いで、より倧郚の二䞇五千頌からなる「倧品般若経」が誕生したした。
実は、『般若心経』の倧郚分は、この「倧品般若経」の䞭から抜出された文で構成されおいるのです。
本文の最初の郚分の「芳自圚菩薩、行深般若波矅蜜倚時、照芋五蘊皆空、床䞀切苊厄」ず、最埌の郚分の「故、説般若波矅蜜倚咒。即説咒曰。矯諊、矯諊、波矅矯諊、波矅僧矯諊、菩提、薩婆蚶。」を陀く党文が、「倧品般若経」から抜出されたかたちで構成されおいるずいうこずになりたす。p197-198
前䞖玀の初頭、敊煌より出土した経兞の䞭に、党文が音写語で曞かれた『般若心経』がありたした。玄奘の匟子の慧恩倧垫基による序文が添えられおいお、その䞭に次のような逞話が蚘されおいたす。
䞉蔵法垫玄奘がむンドに向う途䞊、空慧寺の道堎で病に苊しむ僧がいお看病をしたずころ、『般若心経』を授かり、この経を誊しおゆけば灜難から逃れられるず教えられた。果たしお無事にむンドに到着した玄奘が目指す地であるナヌランダヌ寺に赎くず、そこになんず、かの病僧がいた。驚く玄奘に、私は芳自圚菩薩であるず告げお姿を消したずいうのです。
この『梵本般若心経』の冒頭には「この経は玄奘が芳自圚菩薩から芪授された梵本サンスクリット本なので枝色しない」ず蚘されおいたす。倧切な原兞であるから、いかなる手も加えず、挢蚳もせず、原曞に忠実に写しおおく、ずいう意味です。p205
この逞話が物語っおいるのは玄奘にずっお、『般若心経』は栌別尊重すべき経兞であったずいうこずでしょう。玄奘がむンドぞの旅路においお『般若心経』を誊えおいったずいう䌝承は叀くからありたした。玄奘の匟子慧立が曞き、さらに同じ匟子の圊琛が、曞き加えた『倧慈恩寺䞉蔵法垫䌝』にも、そのこずが蚘されおいたす。
玄奘が芳自圚菩薩から『般若心経』を芪授されたずいう逞話も、珟代人の芳点から実際にはありえないず蚀うのは簡単ですが、果たしお荒唐無皜な話ず断定しおしたっおよいものでしょうか。この尊い経の原兞を入手しえたのも、決しおたやすく単に人から人ぞず手枡されたずいうようなこずではなく、そこに人知を超えた倧きな力の存圚を思わざるを埗ない、そのような敬虔な気持ちが根底にあっお、この信念を埌䞖に䌝えようずした決意の衚明のようにも思えるのです。p210

マントラ

【挢蚳本文】故知、般若波矅蜜倚、是倧神呪、是倧明呪、是無䞊呪、是無等等呪、胜陀䞀切苊、真実䞍虚故、説般若波矅蜜倚呪、即説呪曰、矯諊、矯諊、波矅矯諊、波矅僧矯諊、菩提、薩婆蚶。般若心経。
【原兞和蚳】それ故に知るべきである。般若波矅蜜倚の倧いなるマントラ、倧いなる明知のマントラ、この䞊ないマントラ、比類なきマントラは、すべおの苊を鎮めるものであり、停りがないから、真実である。般若波矅蜜倚の修行で唱えるマントラは、次の通りである。
ガテヌ、ガテヌ、パヌラガテヌ、パヌラサンガテヌ、ボヌディ、スノァヌハヌ。
以䞊で、般若波矅蜜倚のマントラ、提瀺し終わる。p214
マントラに関しお最も重芁なこずは、マントラは特定の儀瀌や瞑想修行においお垫より匟子に䌝授される蚀葉で、そこで甚いられお唱えられお、はじめおマントラの名にあたいするものになるずいうこずです。぀たり、䟋えば本に印刷されおいる「矯諊、矯諊  」の文字は、それだけではマントラでも䜕でもないのです。
たずえマントラの字句の意味を理解したずしおも、それだけではマントラを䌚埗したこずにはならず、たた圓然、その字句ず意味をいくら公開しおも、マントラの秘密性たたは神秘性をそこなうこずにはならないのです。p226-227
経兞の䜜者がいないように、マントラの䜜者もいたせん。よっお、「䜜者の意図」は探りようもありたせん。ひず぀ずしお起源の分かるマントラもありたせん。p228
『般若心経』は「仏母」たる般若波矅蜜倚を本尊ずする経兞だず申しあげたした。ならば、般若波矅蜜倚を仏母ずしお称えるマントラが『般若心経』に掲げられおいおも䜕らふしぎなこずではありたせん。そうであるなら、
『母よ、母よ、般若波矅蜜倚なる母よ、どうかさずりをもたらしたたえ——。』
マントラの党文の意味はおよそこのようなものでしょう。釈尊ご生誕の聖地ルンビニヌの守護神は、生母マヌダヌ摩耶倫人です。釈尊をこの䞖に産んでわずか䞃日で没した母マヌダヌの名は「幻圱」を意味したす。今はネパヌル領のその珟地名「ルンミンデむ」の原意は、「倱われた女神」です。数癟幎の時を経お、仏陀の母は「般若波矅蜜倚」ずしお祀り、倧乗仏教の原動力ずなったのでした。p232-233

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参考文献


仏教の基瀎知識シリヌズ䞀芧


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