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äž­è«–03四句吊定倧乗仏教【仏教の基瀎知識13】


四句吊定・テトラレンマ

蚀葉の䜿い方にはいろいろな問題がある。特に、ナヌガヌルゞュナや䞭芳掟ず呌ばれる仏教埒たちの蚀葉の䜿い方は、䞀般の人には理解しにくいこずが倚い。その䞭でも、「四句吊定テトラレンマ」ずいう抂念がある。これは論理孊的には意味をなさないが、仏教やむンド哲孊の本質に関わるもので、これを理解するこずで蚀葉の問題の難しさをある皋床解明できる。

圌らの蚀葉の䜿い方ず、数孊や物理孊のような厳密な論理の䞖界での蚀葉の䜿い方には倧きな違いがある。論理の䞖界では、蚀葉は厳密に定矩され、論理的に展開され、蚌明される。しかし、日垞生掻では、非論理的な蚀葉の䜿い方が倚く、そのために論理を圓おはめるこずは難しい。倚くの孊者や哲孊者は、蚀葉ず察象が䞀察䞀で察応しおいるず思い蟌んでいるが、非論理的な人々は䞀぀の蚀葉を倚矩的に、あるいは矛盟しお䜿うこずが倚い。それでも前埌の文脈や衚情、態床で意味が䌝わる。

日垞生掻では、非論理的な蚀葉の䜿い方がよく䌝わる。䟋えば、映画の名優はほずんど衚珟しないでわずかな動きで感情を䌝えるこずができる。蚀葉だけが䌝える手段ではなく、文孊者や哲孊者のように蚀葉を倧切にする人たちは、蚀葉でしか物事を䌝えられないず錯芚しがちだ。そのため、アヌトやダンスのような蚀語倖の衚珟を理解するのが難しい。

仏教は基本的に蚀葉を吊定する宗教であり、そのために理解が難しい郚分がある。四句吊定を理解するこずで、論理ず非論理の䞭間にある蚀語の本質に関わる郚分が明らかになる。

䞭芳者のこずばの吊定
ナヌガヌルゞュナは『広砎論こうはろん』51-55スヌトラおよびその泚論においおこずばの問題を扱っおいる。ナヌガヌルゞュナによれば、壺ずいうこずばずその察象である壺そのものずには同䞀ずいう関係も別異ずいう関係もない。もし同䞀ならば、壺ずいったずきに、倖界に粘土・蜆蜀・氎などの原因がなくおも壺が生じおくるであろうし、壺ずいうこずばを理解したずきに壺が存圚するこずにもなろう。しかし実際にはそういうこずはおこらない。しかし、壺ずいうこずばず壺ずいう察象がたったく別個なものであれば、壺ずいわれおも壺ずいう察象が蚀及されないこずになるから、それも正しくない。p85-86
こずばの本質
われわれはあるものを定矩し、名づけるが、そのこずばはけっしおその個物に固定しない。こずばは名づけられたものからすぐに分離し、同皮類の他のものに向かうからである。
たずえば、ピクニックに行っお草原で匁圓を食べようずしたずきに、そこに台になる石塊があったずする。「これを䜕にすべきか」ず問われたずき、われわれは䜕ずも答えられない。それをテヌブルにしお匁圓を茉せるか、腰掛けにしお尻を茉せるかはわれわれの決断である。しかしその決断ずしおの定矩が真であるこずをだれも䞻匵しえないであろう。この堎合、石塊は厳密に定矩されおもいないし、党く定矩されおいないわけでもない。p88-89
だから、定矩の察象も存圚しないし、定矩も存圚しない。定矩ず定矩の察象ずを離れたいかなる事物もたたない。5・5
ナヌガヌルゞュナがいっおいるこずは、こずば、その意味ずしおの定矩に厳密に䞀臎するものはないずいうこずである。こずばがそれず䞀臎するものをも぀ならば、どうしおその同じこずばが他のものに適甚されるのか。しかしたったく䞀臎しなければ名づけも定矩も行なうこずができない。こずばずその察象ずの関係は同䞀でもなく別異でもない。ずすれば、そのような矛盟した性質をも぀こずばも、察象も本䜓のない空なものである。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

※竹䞋雅敏氏によるず、霊的な䞖界では蚀葉を発するずそのものが珟れるこずがあるずいう。それはそれずしお。
実際、蚀葉ずそれが瀺すものは党く別もの。蚀葉はたんなるレッテルや蚘号、PCデヌタのファむ名のようなもの。
この問題は、ナヌガヌルゞュナの「空」の思想を理解する䞊で重芁な䟋である。䞀般的な垞識では、石は石であり、テヌブルや怅子ずしお䜿うこずはできるが、その本質は倉わらないず考える。すなわち、石の本性は固定されおおり、䞀時的にテヌブルや怅子ずしお利甚されるだけである。
察照的に、ナヌガヌルゞュナの考え方では、物に本質や固定された性質は存圚しない。圌は、石がテヌブルずしお䜿われるならば、それはテヌブルであり、怅子ずしお䜿われるならば、それは怅子であるず䞻匵する。ナヌガヌルゞュナにずっお、物の存圚はその䜿われ方や芋られ方によっお決定され、固定された本質はない。
䞀般の人々は、石には石の本質があるず認識する。すなわち、石は初めから終わりたで石であり、たたたたテヌブルや怅子ずしお䜿われるだけだず考える。しかし、ナヌガヌルゞュナはこの本質を吊定する。圌にずっお、石は単に石ず名付けられおいるだけであり、テヌブルや怅子ずしお䜿甚されれば、その瞬間にそれらに倉わるず考える。これは、物の本質が存圚しないずいう「空」の思想を反映しおいる。
したがっお、物に固定された本質があるずする䞀般的な認識ず、ナヌガヌルゞュナのように本質がないずする芋方では、物の存圚や意味に぀いおの理解が倧きく異なるこずになる。この䟋を通じお、ナヌガヌルゞュナの「空」の思想が、いかに物の本質や存圚に぀いおの䞀般的な考え方ず乖離しおいるかが明らかになる。

ナヌガヌルゞュナがいっおいるこずは、
こずば、その意味ずしおの定矩に厳密に䞀臎するものはないずいうこずである。

四句吊定

四句吊定
「䞖尊はその死埌に、存圚するずも、存圚しないずも、その䞡者であるずも、䞡者でないずも、いうこずはできない」25・17。
『䞭論』にはこの圢の四句吊定ははなはだ倚い。有名な詩頌「有でなく、無でなく、有無でなく、䞡者の吊定なるものでもない、四句を越えた真実を䞭芳者は知る」プラゞュニャヌカラマティ『入菩提行論泚』第9章匕甚が瀺すように、四句吊定は䞭芳の真理を衚わすものず理解されおきた。しかし、四句吊定に぀いおは論理的にも応甚の面からも困難な問題がある。p92-93
論理的な問題ずは次のようなものである。第䞀の呜題をpずすれば、四句は、p・非p・pか぀非p・非pか぀非非pず曞き衚わせる。圢匏論理の立堎、いい換えれば、この四句を同䞀の論議領域に属するものずする立堎から芋るず、第䞉句pか぀非pは明らかに矛盟の原理にそむいおいる。第四句の非非pはpに等しいから、第四句は非pか぀pの意味であり、実質的に第䞉句に等しくなる。圓然、これら四句のすべおを吊定するず、ずいうこずも意味をもたない。したがっお四句吊定を圢匏論理の䞭で理解するこずは困難である。むしろ、ある論議領域においおなりたっおいる䞀぀の呜題を、それず異なった、より高次な論議領域から吊定しおゆく過皋ずしお、四句吊定は匁蚌法的な性栌をもっおいるず考えなくおはならない。
「すべおは真実であり、あるいはたた真実でない、真実でありか぀真実でない、真実でないのでもなく真実でもない。これがブッダの教説である」ずいう詩頌18・8に察しお、チャンドラキヌルティは、人々にブッダの党知性を尊敬させるために、すべおは真実だず第䞀句を説き、倉化するものは真実でなく、真実であるものは倉化しないず教えるために、すべおは真実でないず第二句を教え、第䞉に、ものは凡倫にずっおは真実だが、聖者にずっおは非実であるず第䞉句を教え、すでに煩悩ず誀った芋解ずからほずんど自由になった人に察しお、子を生たない女の子䟛は癜くもなく黒くもないように、すべおの珟象は真実でもなく真実でなくもないず第四句を教える、ずいう。p94

䞭芳掟の論理は、䞖界のどんなものも本圓には存圚しないずする。このため、「ある」ず蚀っおも「ない」ず蚀っおも、どちらも正しいこずになる。なぜなら、䞖界は「空」であり、実䜓がないからだ。どんな呜題も成り立たず、同時にどんな呜題も成り立぀ので、䜕を蚀っおも正しいこずになる。これは䞀芋矛盟しおいるようだが、圢匏論理の枠内に収たっおいる。

蚀葉の䜿甚ず論理の根本的な違いに぀いお

人間の脳は非垞に論理的に構成されおいるが、蚀葉自䜓は必ずしも論理的に甚いられおいるわけではない。これは、日垞のコミュニケヌションにおいおしばしば芋受けられる。
たずえばボヌアは、量子力孊における察立する抂念が盞補い合うこずで䞀぀の䞖界を圢成するず提唱した。これは、圌が易の倪極図に共感し、自身の家王に取り入れたこずからも明らかである。倪極図は、陜ず陰が互いを生み出し、察立しながらも䞀぀の䞖界を圢成するずいう思想を衚しおいる。
たた、人間の思考は察立する二぀の抂念で捉えがちである。䟋えば、男ず女、光ず闇、善ず悪などである。これらの察立する抂念は、調和しながら䞖界を圢成しおいるず考えられる。しかし、論理の䞖界では異なるアプロヌチが取られる。論理では、「Aでない」ずは、単に「Aではない」こずを意味し、必ずしも「B」を意味するわけではない。論理的には、党䜓の集合から特定の芁玠を陀倖するだけであり、それが別の特定の芁玠を指すわけではない。
蚀葉は察立する二぀の抂念で捉えられるが、論理は党䜓の集合から特定のものを陀倖するのみであり、それが別の特定のものを意味するわけではない。これが、蚀葉ず論理の根本的な違いである。この違いを理解するこずは、蚀語䜿甚や論理的思考を深める䞊で重芁である。

四句吊定の意味
「すべおのものは真実である」「いかなるものも真実でない」「あるものは真実であるものは非実である」「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」ずいうものをはじめずする倚皮類の四句は、それぞれの問題に関するさたざたな人々の意芋ずしおある。けれども四句の䞀々の芋解はそれをも぀人の特定の理論的立堎、特定の論議領域においおのみなりた぀。いずれの呜題も䞀定の条件の䞋でのみ肯定されたり吊定されたりするのであっお、無条件に、絶察的に真であるこずはできない。このように、四句のいずれをも絶察的なものずしおは吊定するのが四句吊定の意味であり、䞭芳の真理である、ずいうこずになる。
「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」ずいう第四句は、最高の真実ずしお䞭芳の宗教的真理を瀺しおいるから、その限りにおいおは吊定されるべきものではない。けれどもその真理は第䞀句のなりたっおいる論議領域、あるいは第二、第䞉句ず同䞀の領域においお成立しおいるわけではない。いい換えれば、第四句も第䞀ないし第䞉句のなりた぀諞領域においおは吊定されるべき性質のものである。p96-97
そのように䞭芳の真理も䞖間の立堎、䞀般的な論理の領域においお真であるずはかぎらない、ずいうずころに、仏教者の無執着の粟神を芋るこずができる。『般若経』では、空に執着するものに察しおは、空をも空ずる必芁のあるこずが匷調されおいる。神秘的盎芳ずしおの空を䞖間的な有の䞖界においおそのたた劥圓するず考えるこずは危険である。そこに䞀般の理解䞖俗の䞖界ず最高の真実勝矩の䞖界ずを匁別し、二぀の領域を䞀応異なったものず自芚する必芁が生じおくる。すべおのものの空を悟った聖者がいた䞀床垞識的な有の䞖界、䞀般の論理の䞖界を回埩する、ずいうこずも、䞊述のような四句吊定の粟神から出おくるものである。

぀たり、四句吊定ずは、これらの呜題のいずれも絶察的な真理ではないずする考え方である。これが䞭芳の真理であり、物事の絶察性を吊定するこずで、真実を盞察的に捉えるずいう哲孊的な立堎ずなる。
特に、第四句「いかなるものも真実でなく、いかなるものも非実でない」は、䞭芳掟の宗教的真理を瀺すものであるが、この真理も他の立堎ず同じ条件䞋では成立しない。したがっお、第四句も特定の条件䞋では吊定されるべき性質を持っおいる。
䞭芳の真理に぀いお考えるずき、それが䞖間の䞀般的な論理の範囲で真実であるずは限らないずいう点が重芁だ。これは、仏教者の無執着の粟神を瀺しおいる。『般若経』では、空すべおのものが本質的に空であるこずに執着する人々に察しお、空自䜓もたた空であるず理解する必芁があるこずが匷調されおいる。神秘的な盎芳ずしおの空を、䞖間的な存圚の䞖界でそのたた受け入れるこずは危険である。
䞭芳の真理は、䞖間の䞀般的な論理では必ずしも真実ずは限らない。『般若経』は、空に執着するこず自䜓も空であるず理解する必芁があるず説いおいる。空を䞖間的な存圚の䞖界にそのたた適甚するのは危険であり、䞖俗の䞖界ず勝矩真実の䞖界を区別し、異なるものず認識する必芁がある。すべおのものが空であるこずを悟った聖者が、再び垞識的な䞖界や䞀般の論理を受け入れるこずも四句吊定の粟神に基づいおいる。

ナヌガヌルゞュナ思想たずめ


空性の真意
䟝存性瞁起をわれわれは空性であるずいうのである。その空性は仮の名づけであり、それは䞭道ず同じこずである。䟝存しないで生じたものなど䜕もないのであるから、空でないものなど䜕もない。24・18-19
ものが空であるずいうこずは、そのものが本䜓ずしお存圚するのではなくお、原因や他のものに䟝っお生じおきおいるずいうこずである。われわれがいう空性ずは本䜓のない存圚ずいうこずであっお、存圚の無ではない。空性ずいう衚珟も、たずえば、車茪や車軞や車䜓の集たりをかりに車ずいうように、仮の名づけにすぎない。車ずいう実䜓があるず思い蟌むのが誀りであるように、空ずいう本䜓があるず考えおはいけない。p101-102

❌瞁起空本䜓が無い無自性

ナヌガヌルゞュナは「瞁起」をお互いに䟝存し合うこずずし、これを「空」ず呌んでいる。぀たり、「瞁起」は「空」ず同じ意味だず蚀っおいる。
空性ずいうのは本䜓のない存圚であっお存圚の無ずいう意味ではないずしおいる。しかし、この぀をむコヌルで぀なげお「瞁起空無自性」ずするすなわち、瞁起は無自性であるずいうのは間違いである。

💮瞁起非自性空

「瞁起」ずは、自分だけで存圚せず、他のものに䟝存しお存圚するこずを意味する。これを「非自性」ず蚀う。぀たり、自立しおいないずいうこず。ものは本䜓でないずいうこず。
䞀方、「空」ずはものは本䜓がないこず぀たり「無自性」を瀺す。぀たり、「瞁起」は互いに䟝存し合っお存圚するこずを指し、「空」はその根本にある本䜓の䞍存圚を意味する。

たた車ずいうこずばでかりに呌ばれるものがないのではないように、空であるずいわれるものは存圚しない、ずいうわけでもない。そのようにものの本䜓の存圚、その滅ずしおの非存圚のいずれをも越えるものであっお、それはシャカムニ・ブッダの説いた䞭道のほんずうの意味である。生成や倉化は、ものが空である、ずいうこずの䞊に成りたっおいるのであるから、空性を吊定するもののにはすべおの生成や倉化は成りたたない。本䜓ずいうものは䜜るこずのできないものである。もし善が善の本䜓をもち、悪が悪の本䜓をも぀ならば、善をなし、悪をなすずいうこずもいえない。だから、空性こそが道埳や宗教を成りたたせるものである。
この空性を䌚埗する人にはすべおのものが䌚埗される。空性を䌚埗しない人にはいかなるものも䌚埗されない。24・14、『迎諍論』70

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

「いずれをも超えるもの」ずいう難しい衚珟より、単に「ものは無垞」ず蚀ったほうがわかりやすい。本䜓は仮に集たった圢に過ぎず、やがお消えおいく。぀たり、ものは無垞であり、氞遠に存続するものはない。それが瞁起であり「空」だず蚀っおいるに過ぎない。

ゎヌタマ・ブッダの「䞭道」は、快楜ず苊行の䞡極端を避けるこずを意味しおいる。それに察しおナヌガヌルゞュナは、この抂念を広げ、自分なりに解釈した。ナヌガヌルゞュナは䞭道に぀いお、「存圚ず非存圚のどちらも超えるもの」ず述べおいるが、これはブッダの蚀葉を拡倧解釈したものだ。
ナヌガヌルゞュナの考えは、「生成や倉化は、党おが空であるこずに基づいおいる」。倉化するこず自䜓が無垞であり、無垞ずは倉化を意味する。したがっお、倉化ず無垞は同じこずだ。
ナヌガヌルゞュナにずっお、無垞は空の衚れであり、空を吊定するこずは生成や倉化が成り立たなくなるこずを意味する。空を吊定するこずは自性を認めるこずになり、自性を認めるず倉化ができなくなる。
結局、ナヌガヌルゞュナが蚀っおいるのは非垞にシンプルなこずで、「空を理解するこずが倉化や無垞を理解するこず」ずいうこずだ。

二諊ずいうこず
二぀の真理二諊に䟝っお諞仏の説法は行なわれる。䞖間䞀般の理解ずしおの真理䞖俗諊ず最高の真実ずしおの真理勝矩諊である。24・8
これら二皮の真理の区別を知らない人々はブッダの教えにある基深の実矩を知らない。24・9
蚀語習慣によらないでは最高の真実は説きえない。最高の真実に埓わないでは涅槃は悟りえない。24・10
ここに䞀般の理解ず蚳したものの、本来は、そのパヌリ語圢sammuttiが意味するように、䞀般の人々が䞀臎しお認めるこずを意味したのであろう。䞀般の人々ずいうのは、最高の真実を芋おいるペヌガ行者以倖の人々ずいうこずで、ふ぀うの䞖間の人々や孊者などのこず。したがっお、サムムティずいうのは、䞖間的・科孊的な䞀般的理解、垞識のこずである。p105-106

䞀般的には正しいずされおいる垞識や慣行は、実は、真実をおおう誀解にすぎない。盎芳においおあらわになっおいた真の実圚は、それが思惟ずこずばの察象ずなったずたんに、おおい隠されおしたう。人がものを理解するずいうこずは、刀断し、こずばによっおそれを衚珟するこずである。こずばなしには䜕䞀぀理解されないが、そのこずばず思惟の䞖界は真実からの倱墜にほかならない。こう考えおみれば、䞀般の理解を真実をおおうものずする解釈は、「こずばの虚構は空性によっお滅せられる」ずいい、真実は「こずばの虚構によっお論じられない」ずいったナヌガヌルゞュナの真意を埗たものである、ずいうこずがわかる。p107
アビダルマ仏教者は珟象の䞖界ず本䜓の䞖界、制玄された䞖界ず無制玄的な䞖界、さらに蚀い換えれば、俗なるものず聖なるものずいう二぀の䞖界を぀ねに意識しおいる。ナヌガヌルゞュナの芋方からすれば、それは、珟実の䞖界のほかにもう䞀぀の、こずばを実䜓化した䞖界を重ねおいるこずである。ナヌガヌルゞュナはこのこずばの䞖界を虚構であるずいう。ほんずうにあるものは、人間のこずばによる理解以前の、はだかの珟実ただ䞀぀である。その珟実はこずばによっお捕らえられないもの、こずばの虚構を吊定するものである、ずいう意味で最高の真実である。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

人間は、蚀葉によらなくおも理解できるし、動物は人間のような蚀葉を介さなくおも理解できるし、意思疎通できる。人間ず動物の関係も同様である。ナヌガヌルゞュナの理解は論理で説明できる䞖界だけで、論理を超えた霊的䞖界を認識しおいない。

勝矩の意味
しかし、説䞀切有郚もその本䜓の䞖界を勝矩――最高の真実ず呌び、珟象の䞖界を䞖俗――䞀般の理解の䞖界ず呌んでいた。ナヌガヌルゞュナの二぀の䞖界が説䞀切有郚の二぀の䞖界ずはっきりず異なっおいるのは、最高の真実が空性ずいわれる点にある。いた私が芋おいる壺は各瞬間に生滅をくり返すもので、ある時には芋られ、ある時には芋られなくなるものである。有郚は、そのような壺の背埌に、壺の本䜓が氞遠に存圚するずいいう。ナヌガヌルゞュナは、しかし、そのような壺の本䜓ずは実䜓化されたこずばであり、虚構にすぎないずいう。その本䜓がないずいうこずが最高の真実であるずいうのである。本䜓ずいう虚構のおおいを取り陀かれたずき、珟象はそのたた真実の䞖界である。だから、本䜓ず珟象ずいう二぀の存圚の䞖界ではなしに、こずばの虚構を離れた䞀぀の真実の䞖界――空の䞖界があるだけである。
こずばの䞖界
もずより、ナヌガヌルゞュナもこずばそのものを吊定しおはいない。こずばずは日垞的な䞖界を成りたたせる情報亀換の䜜具である。「明日は雚でしょうか」ずいうずき、われわれは雚の本質やその存圚性を問題にしおいるのではなくお、雚ず明日ずの時間的関係だけを気にしおいるのである。
しかしそのようなこずばの日垞的効甚を越えお、こずばに察応する本䜓があり、この珟実のほかにこずばの意味する本質の䞖界があるず考えるこず、䞀般に圢而䞊孊的な思匁の䞖界はすべお虚構である、ずナヌガヌルゞュナはいうのである。
そういうこずばを離れお珟実を芋よ、ずナヌガヌルゞュナはいう。その事実の䞖界だけが存圚の䞖界である。最高の真実である。だから、ナヌガヌルゞュナが、こずばず珟実ず二぀の真理を区別せよ、ずいうずき、それは二぀の䞖界を区別しおいるのではない。p108-109
倢幻の䞖
生滅し、たえず倉化するこの䞖界はあたかも幻のごずく、倢のごずく、かげろうのごずく、たた蜃気楌のようなものである、ずナヌガヌルゞュナはいう7・34、17・33。
その幻においお、浄ず䞍浄、涅槃ず煩悩、解脱ず束瞛、制玄されたものず無制玄的なもの、聖なるものず俗なるもの、劂来ず凡倫ずいうような二぀の䞖界を区別するこずは誀りである22・7-9。
䞍浄に執着するこずが頓倒であるならば、浄に執着するこずも頓倒である。そのような執着も執着されるものもないず知るこずによっお頓倒そのものもなくなる。空性ずはそういうこずである。そこで分けられた二぀の察立する䞖界が、本䜓がない、ずいうこずを通しお䞀぀になる。それは『般若経』の哲人が芋た䞍二の䞖界ず同じものである。p112-113
迷悟䞀劂
劂来の本性であるもの、それをこの䞖間の人々も本性ずする。劂来は本䜓なきものであり、この䞖間の人々も本䜓なきものである。22・16
涅槃には茪廻ずのいかなる差別もない。涅槃の時間的限界は茪廻の時間的限界である。その二぀の間にはほんの埮现なずれもない。22・19-20
迷った䞖間人ず悟った劂来ずは同じ空性ずいう本性をもっおいる。この䞖間ず区別され、この䞖間ず離れたずころに劂来を求めおもむだである、ずナヌガヌルゞュナはいう。ものの空性を芋るこずのほかに悟りはないし、その空性ずは䞖間の人々、䞖間の事物のありのたたの姿である。茪廻ず涅槃はその領域においおも時間においおもけっしお区別されない。p114-115

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

たずめ

  1. 最高の真実は「空性」である

    • 物事の本䜓や本質は存圚せず、それがないずいうこずが真実である。

  2. 珟象ず本䜓の区別は虚構である

    • 壺のような珟象は絶えず倉化し、その背埌に氞遠の本䜓があるず考えるのは間違いだ。本䜓ずいう抂念は虚構であり、取り陀けば珟象そのものが真実になる。

  3. 日垞の蚀葉は珟象の説明に過ぎない

    • 蚀葉は日垞生掻の情報亀換の道具であり、蚀葉が瀺す本䜓を求めるのは無意味だ。

  4. 察立する二぀の䞖界の区別は誀りである

    • 聖なるものず俗なるもの、涅槃ず茪廻など、二぀の䞖界を区別するのは間違いであり、党おは空性ずいう真実に統䞀される。

  5. 悟りずは空性を理解するこず

    • 物事の空性を理解するこずが悟りであり、劂来悟りを埗た者も䞖間の人々も本質的には同じである。


参考文献


仏教の基瀎知識シリヌズ䞀芧


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