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唯識説倧乗仏教【仏教の基瀎知識18】

サヌンキダ孊掟の諞原理

珟象的存圚は倚皮倚様であるが、サヌンキダ孊掟はそれらに共通する䞉皮の芁玠を認める。すなわち、玔質・激質・闇質である。玔質に富むものは明るく、軜快であり、激質のたさったものは刺激的、掻動的であり、闇質性のものは暗く、鈍重である。䞉芁玠は混合しお個々の珟象的存圚を構成し、いずれの芁玠が優䜍を占めるかによっお珟象的存圚は倚様になる。倚様ではあっおも、䞉芁玠から成るずいう点においお、すべおの珟象的存圚は共通性をもっおいるのである。
原因ず結果は等質的であり、原因が倉化しお結果になるのであれば、共通性をもった珟象的存圚はすべお同䞀の原因の倉化によっお生じた結果であるず考えられる。そこでサヌンキダ孊掟は、あらゆる珟象的存圚の根源に唯䞀の質料因を想定し、それを原質prakrtiたたは第䞀原因pradhānaずよんだ。
原質は玔質・激質・闇質の䞉構成芁玠から成っおいる。この䞉皮の構成芁玠のあいだの均衡がやぶれるず、原質から諞原理が順次に開展するのである。最初に思惟機胜が生じ、それから自我意識が開展する。自我意識から䞀方には十䞀皮の噚官思考噚官・五皮の知芚噚官・五皮の行為噚官が、他方には五皮の玠粒子音・感觊・色・味・銙が開展し、玠粒子から五皮の元玠虚空・颚・火・氎・地が生じお察象界を構成する。
サヌンキダ孊説における倉化ずは、右のような諞原理の開展をいうのである。開展したものはすべお䞉皮の構成芁玠から成り、構成芁玠の排列のしかたによっおさたざたな様盞をずっおいる。倉化ずは、質料因が本質的には同䞀性を保ちながら、あらわれ方を異にするこずにほかならないのである。p134-136

仏教の思想「認識ず超越〈唯識〉」服郚正明・䞊山春平角川゜フィア文庫

八識ずサヌンキダ哲孊諞原理察応

チッタCitta⇒アラダ識阿頌耶識
チッタはサンスクリット語で「心」を意味する蚀葉で、非垞に広い意味を持぀。仏教やペヌガでは、心の掻動党般を指す。この「チッタ」が仏教の阿頌耶識あらやしきに察応するずいう考え方がある。阿頌耶識は、八識説における最も根本的な意識で、過去の経隓や業カルマを蓄える倉庫のようなものであり、すべおの意識の根源ずされる。
アハンカヌラAhaṃkāra⇒末那識たなしき
我執アハンカヌラは、サンスクリット語で「自己意識」や「゚ゎ」を意味する。自分を「私」ず認識する感芚を指し、自己同䞀性を圢成する。このアハンカヌラは、仏教の末那識に察応する。末那識は、自己意識ずしおの働きを持ち、自我ぞの執着を生む。垞に「自分」ずいう芳念を抱いおいる識意識で、根本的な無明無知から生じるずされる。
マナスManas⇒意識いしき
マナスはサンスクリット語で「思考」や「意識」を意味し、心が思考したり刀断したりする働きを指す。このマナスが仏教の意識に察応するず考えられる。意識第六識は、倖界の情報を受け取り、分析し、刀断する心の機胜で、私たちが日垞的に䜿う「考える力」に盞圓する。
五知芚噚官Pañca Jñānendriya⇒前五識ぜんごしき
五知芚噚官は、むンド哲孊で芖芚、聎芚、嗅芚、味芚、觊芚の五぀の感芚噚官を指す。これが仏教の前五識に察応する。前五識ずは、県識芖芚、耳識聎芚、錻識嗅芚、舌識味芚、身識觊芚の五぀の感芚的な意識のこずを指し、それぞれが感芚噚官に察応しおいる。これらの識は、倖界の情報を感芚的に捉える圹割を持぀。


唯識論の根本的間違い

唯識論アラダ識を䞭心ずした仏教の思想では、すべおのものはアラダ識から生み出されるずされる。アラダ識は、心の深局にある無意識的な局であり、倖界の物質的なものや自然界のものも、最終的にはこのアラダ識から生じおいるず考える。このような考え方においお、仏教は無垞すべおのものが垞に倉化し続け、恒垞的な実䜓が存圚しないこずを匷調する。これにより、仏教では「刹那滅」ずいう考え方が重芁ずなる。刹那滅ずは、すべおの珟象が䞀瞬䞀瞬に生起しおは消滅するものであり、氞続する実䜓ではないずいう考え方だ。
䞀方、サヌンキダ哲孊は「自性」ずいう䞍滅の存圚を前提ずし、それが質的に倉わらないたた展開しおいくずいう芳点を持っおいる。しかし、仏教ではこのような䞍滅の実䜓を認めず、垞に倉化し続けるこずを匷調する。そのため、仏教埒は恒垞的な実䜓を認めず、あらゆるものが刹那滅するものであるず䞻匵する。
ただし、霊的な䞖界に぀いおは、珟象䞖界ずは異なる芋解が存圚する。珟象䞖界は刹那滅であるが、霊的䞖界はそうではないず考える人もいる。そのため、「唯識論が刹那滅の論理に誀りがある」ず批刀する立堎も存圚する。しかし、唯識論におけるアラダ識は実䜓ではなく、瞬間的に生じおは消えるものであり、この論理は仏教の無垞芳に基づいおいる。

仏教は、無我や無自性ずいった抂念を無理に抌し進めるあたり、
誀りを次々ず重ねおしたったのではないだろうか。
その結果、理論の展開においお䜕床も同じ過ちを繰り返し、
道を螏み倖しおしたったずも蚀える。竹䞋雅敏

このようなサヌンキダ孊説における倉化の抂念を、そのたた「識」に適甚させるこずはできない。識は発生した刹那に滅し、次の刹那の識ず亀替する。珟圚の瞬間の識ず次の瞬間の識ずは別々のものであっお、前埌を通じお存続する同䞀の識ずいうものはない。「唯識䞉十頌」の蚻釈においお、スティラマティは、倉化を「他の様態になるこず」であるず定矩しおいる。それは「識の流れ」が他の様態になるこずを意味する。圌はさらに続けお、「原因の刹那が消滅するず同時に、原因の刹那ずは特質を異にする結果が発生するこずが倉化である」ず述べる。唯識説における「識の倉化」ずは、識ずいう基䜓がその本質を倱うこずなしに様盞を倉えるこずではなく、「識の流れ」においお、ある瞬間の識が盎前の瞬間ずは別のものずしお発生するこずを意味するのである。p136-137

仏教の思想「認識ず超越〈唯識〉」服郚正明・䞊山春平角川゜フィア文庫

服郚 思想的には、「識の倉化」の抂念の圢成に、サヌンキダ孊掟の圱響があるのではないかず思いたす。「識の倉化」の説明には、よく、サヌンキダ孊掟の「倉化」ずは違うずいうこずが匷調されおいたすが、そのこずは、この抂念がサヌンキダ説を念頭におきながら圢成されたこずを瀺しおいるように思うのです。
あるものが本質を倉えずに、その様盞を倉えるずいうのがサヌンキダ孊掟の「倉化」の抂念内容です。このサヌンキダの抂念を借りながら、倉異せずに持続する基䜓を吊定するずころに、「識の倉化」の抂念の、サヌンキダずの盞違がでおきたす。p238-240
䞊山 サヌンキダのプラクリティ原質は、仏教でいうず「自性」ずしお぀かたえられるわけですね。
服郚 そうです。
䞊山 ずころが、仏教では基本的に「自性」を吊定するわけでしょう。その堎合、転倉ずいう意味がだいぶ倉わっおくるんじゃないですか。
服郚 「識」が瞬間ごずに前の瞬間ずは異なったものずしお生じおくるこずを、サヌンキダ孊掟の術語を甚いお「パリナヌマ」ずいうのです。
服郚 それから自我意識を䞀぀の原理ずしお取り䞊げるのもサヌンキダ孊掟です。仏教でも叀くから自我意識を煩悩の䞀぀ずしおいたすが、唯識掟がそれを特に独立の識ずしお原理的に取り䞊げるのは、サヌンキダ孊説における自我意識が圱響を䞎えおいるのではなかろうかず思いたす。

仏教の思想「認識ず超越〈唯識〉」服郚正明・䞊山春平角川゜フィア文庫

唯識論の成立過皋

解説 枥矎泰雄
たず釈尊の教えをたずめた原始仏教が成立し、そのあず、BC䞉䞖玀ころから小乗郚掟仏教の哲孊であるアビダルマ論が぀くられる。玀元䞀䞖玀前埌から空の思想を説く倧乗仏教が起こり、その思想を䜓系化したナヌガヌルゞュナ韍暹の䞭芳掟が二、䞉䞖玀ころに圢成されるが、アビダルマ論の流れは廃れるこずなくノァスバンドゥ䞖芪の「倶舎論」のような重芁な著䜜が぀くられた。唯識論は、玀元四、五䞖玀ころ、マむトレヌダ圌勒ずノァスバンドゥによっお確立された。぀たりアビダルマず䞭芳の二぀の流れを統合する圢で、唯識の哲孊が生たれたのである。p346347
唯識論はアビダルマ論ず関係が深い。
アビダルマ論でいうダルマ法は、存圚するもの存圚者を構成しおいるさたざたの芁玠ずいう意味である。「倶舎論」では党郚で䞃十五のダルマをあげ、五぀の皮類に分類しおいる。五䜍䞃十五法。たず第䞀の皮類は、物質的あるいは感芚的存圚の芁玠ずしおのダルマ色法で、これは十䞀ある。原始仏教では、西掋の近代認識論のように䞻芳ず客芳を分離しない。しかし、アビダルマ論になるず、ダルマを客䜓的存圚ずしお、䞻芳から切り離しおずらえるようになる。぀たり、心が察象を認識する道具である感芚噚官ず、その察象を構成する物質を数え䞊げたのが十䞀の「色法」のダルマである。p352355
第二の皮類は、党䜓ずしおの「心」ずいうダルマで、これは䞀぀しかあげられおいない。「心」は、さたざたの心理䜜甚を統括する䞭心ずしお、人䜓の䞭で掻動しおいるからである。次に䞉番目のダルマずしおは、さたざたの心理䜜甚心所があげられおいる。これは最も倚くお、四十六ある。四番目は心に属さないダルマ心䞍盞応法で、これには文章や字母ずか、遺䌝子のようなもの柎同分などがあげられおいる。䜕でこういうものをダルマに入れたのか、よくわかりかねるが、これは、心でも物でもない存圚ずいう意味らしい。
最埌のダルマは無為法で、これは䞉぀あげられおいる。「択滅」は、瞑想が深たっおゆくずきに珟れおくるダルマである。これに察しお、珟䞖には起こっおくる条件がないために、氞遠に珟象しおこないものがあるず考えお、これを「非択滅」のダルマずよぶ。さらに、存圚の究極のダルマを想定しお、これを「虚空」ず名づけたのである。
唯識論は、ダルマの数を癟にふやしおいるが、分類のしかたは基本的に、「倶舎論」の考え方を受け継いでいる。
これらのダルマは、䞀瞬の䞭に生たれおは消えるもの剎那生滅ずされおいる。瞑想の䜓隓に即しおいうず、こういう考え方は、雑念や劄想が次々に起こっおは消える状態から考えたこずではないか、ず思われる。
さお、アビダルマ論ず唯識論は、どこがどうちがうのであろうか。アビダルマから唯識に至る間には、䞀切皆空の思想に立぀䞭芳掟の哲孊が生たれおいる。ペヌガにおける煩悩の分析はそれだけで終わるわけではない。ペヌガの目的は、煩悩を䜓隓的・反省的に認識するずずもに、それを乗りこえお行くこず、すなわち超越するずころにある。
『倶舎論』では、党䜓ずしおの「心」心法を䞀぀だけおいおいる。さたざたの心理䜜甚の党䜓を統括しおいる基本的なダルマである。八識説は、この抂念を発展させお、いわば立䜓的にずらえ盎し、誕生から死に至る個䜓の生呜における時間意識の基瀎に、個䜓を越えお持続するより深い生呜の時間的流れの領域を蚭定したのである。

仏教の思想「認識ず超越〈唯識〉」服郚正明・䞊山春平角川゜フィア文庫

唯識論・唯心論・唯我論

唯識思想は、倖界の事物ず自己の存圚を吊定する。たしかに山もあり、花もあり、自己もあるが、しかし、これらすべおは自己の心的掻動内の珟象にすぎないのである。だから、我われが認識するあらゆる珟象粟神的および物理的珟象は、それらを粟神掻動ずいう段階でずらえるならば、それらはすべお存圚するのである。぀たり粟神掻動識は存圚するのである。
「珟実に認められる倖的珟象ず内的粟神ずはすべお、なにか或る根源的なものによっお衚わされたものにすぎない」ずいうのが「唯識」の根本的定矩である。この根源的なもの、぀たり究極的存圚、根本的心的掻動を「阿頌耶識」ずいう。したがっお唯識ずは「あらゆる存圚は阿頌耶識によっお衚わされたもの、䜜り出されたものである」ずいう意味になる。
そしお、唯識思想の目指すずころは、
1客芳ずしおの察象は粟神の領域識の倖には存圚しないずさずり、
2それによっお、倖界の事物を実圚ずみる䞻芳の誀った認識およびそれにずもなうさたざたな苊悩煩悩を枛し、
3最終的には、自己の根源䜓である阿頌耶識をそのあるべき本来的状態に転換転䟝所䟝すなわち阿頌耶識を転ずるこずせしめる、こずである。

「唯識思想入門」暪山玘䞀第䞉文明瀟レグルス文庫

唯心論ず唯識論はどちらも心や意識を重芖する考え方だが、その意味合いや哲孊的背景には重芁な違いがある。
唯心論は、西掋哲孊においお発展した抂念で、珟実の根本的な実圚を物質ではなく心や意識に求める立堎を指す。物質的な䞖界は心の産物に過ぎず、心や意識が珟実を構成するずいう考え方が䞭心にある。ゞョヌゞ・バヌクリヌのような哲孊者が提唱した䞻芳的唯心論では、「存圚するずは知芚されるこず」であり、物質的な実䜓の存圚は吊定される。
䞀方、唯識論は、仏教特に倧乗仏教の瑜䌜行唯識掟ゆがぎょうゆいしきはで展開された思想で、「すべおの珟象は識しきすなわち心の働きに他ならない」ずする立堎を取る。唯識論では、私たちが経隓する珟象や䞖界はすべお心の識によっお構成され、倖界の独立した実圚を吊定するが、その背景には、心がもたらす錯芚や執着を乗り越えお真理に至るこずを目指す宗教的・修行的な意図がある。
芁するに、唯心論は心を実圚の基盀ずみなし、哲孊的に物質の存圚を吊定するこずに重点を眮くのに察し、唯識論は心の働きを解明し、それによっお悟りに至る道を瀺すこずを目的ずした仏教的な教えである。このため、唯識論は宗教的・実践的な偎面が匷く、唯心論は玔粋に哲孊的な探究に根ざしおいる点が異なる。


唯我論は、哲孊においお極端な圢の䞻芳䞻矩であり、自己の意識や経隓だけが唯䞀確実なものだずする立堎。唯我論を採るず、自分自身の心や意識だけが存圚するこずを確実に知芚でき、それ以倖の他者の存圚や倖界の珟実は、自己の意識の䞭にしか存圚しない可胜性があるず考える。
䟋えば、自分が芋たり感じたりする物や人々は、実際には自分の意識が䜜り出したものに過ぎず、他の人々が本圓に存圚しおいるかどうかは確かめようがない、ずする考え方である。このため、唯我論は他者の存圚や倖郚の珟実を確信するこずを吊定し、最終的には「私だけが存圚する」ずいう結論に至る。
唯我論は哲孊的に非垞に極端であり、倚くの哲孊者はこの立堎を避けるか、批刀しおいる。なぜなら、もし唯我論が正しいずすれば、他者ずのコミュニケヌションや倖界の理解がすべお無意味になっおしたうからである。このため、唯我論はしばしば思考実隓や批刀的な議論の䞭で扱われるが、実際に採甚されるこずは少ない。


五䜍説

仏教ではあらゆる存圚を総称しお法ダルマずいう。ただ、唯識思想は、倖的事物の存圚をたったく吊定し、あらゆる事物を心的なものに還元しおしたうから、その存圚論の存圚ずは、自己の「心」ず、およびその心によっお䜜り出された事物ずいうこずになる。p94−95
説䞀切有郚によっお〈五䜍〉説ずいう新たな存圚分裂法が確立された。五䜍ずは次の五぀をいう。
1色   「物質的なもの」。
2心 

 心的䜜甚の䞻䜓。
3心所 

 さたざたな心理䜜甚。
4䞍盞応行 

 物質色でも粟神心でもない存圚。
5無為 

 生滅する珟象ではなく、それでいお垞䜏なもの。真劂をいう。p99
唯識論僧行掟も前述した五䜍説をそのたた取り入れおいる。「俱舎論」ではふ぀う「五䜍䞃十五法」をたおるずいわれるのに察しお、唯識では「五䜍癟法」ずいわれ、合蚈しお癟皮の存圚芁玠を蚭定するにいたった。
ずころで、阿毘達磚仏教ずくらべ説䞀切有郚は、五䜍に含たれるすべおの存圚を実䜓的存圚実有ず考えたが、これに察しお唯識論僧行掟は、あらゆる存圚を識心・心所のなかに収め぀くし、物質色が倖界に実圚するこずを匷く吊定した。たた、䞍盞応行を、粟神掻動の䞊に仮りに抂念蚭定した第二次的存圚にしかすぎないずみなした。さらに、あらゆる存圚は粟神を離れお存圚しないずいう根本的立堎より、無為真劂さえもが本質的には識の領域に入れられる。なぜなら、「無為は識の実性である」からである。このように、究極的真理無為を粟神の真実のあり方実性ず考えるずころに、唯識思想の独特の真理芳を劂実にみるこずができる。p100−101
阿毘達磚思想では、存圚を色・心・心所・䞍盞応行・無為の五぀に䞊蚘的に分類するのに察し、唯識思想は、心・心所ずいう、倧きな粟神のふろしきの䞭にあらゆる存圚を包みこもうずするのである。

「唯識思想入門」暪山玘䞀第䞉文明瀟レグルス文庫

善悪の皮子しゅうじ

阿頌耶識の基本的特質
阿頌耶識は、あらゆる存圚を生み出す根源䜓である。自己をずりたく自然界噚䞖間、自己の肉䜓有芖身、感芚・知芚・思考などの䞻芳的認識䜜甚諞識はすべお根源䜓であるこの阿頌耶識から倉化しお生じたものである。
たた阿頌耶識はさたざたな経隓の圱響が貯えられる堎所である。粟神的あるいは肉䜓的掻動のすべおは、即座にその圱響を皮子ずしお阿頌耶識の䞭に怍え぀ける。そしおその怍え぀けられた皮子は阿頌耶識の䞭である期間貯えられ、成熟し、その結果さらに新たな存圚を生み出すにいたるのである。
阿頌耶識は存圚ず認識の根源䜓であるず同時に、善あるいは悪を成立せしめる基䜓でもある。仏教でいう悪を䞀蚀でいえば、それは貪むさがり、瞋いかり、癡むちに代衚される「煩悩」である。このような悪なる心理状態はすべお、阿頌耶識の䞭の煩悩皮子より生じ、生じ終われば同時に新たな悪の皮子を阿頌耶識の䞭に怍え぀ける。
しかしそれは同時に、我われが悪から善ぞ移り行く掛け橋でもある。阿頌耶識の䞭には悪の皮子に加え、善の皮子も存圚する。善の皮子ずは善を生み出す朜圚的力である。この善の皮子がなにかの機瞁によっお芜をふき、次に実を結び、最埌に新たな皮子を残す。このような善の皮子による䞀連の掻動が幟癟、幟千ず繰り返され、぀いに阿頌耶識党䜓が善の皮子だけで満たされる時、阿頌耶識があらゆるものを生み出すのであるから、いわば党存圚が善なる状態を完成したこずになる。p108109

「唯識思想入門」暪山玘䞀第䞉文明瀟レグルス文庫

唯識の八識説

原始仏教いらい、識ずしお、県識・耳識・錻識・舌識・身識・意識の六皮類をたおおきたが、唯識思想は、これら六識の奥に〈末那識〉ずいう自我意識を、さらにこれら䞃識を生み出す根源䜓ずしお〈阿頌耶識〉をたおるにいたった。
合蚈しお八皮類の識をたおるこずから、これを唯識の八識説ずいう。
このうち阿頌耶識は可胜態ずしおの皮子を自己の䞭におさめ぀぀、珟実態ずしおの存圚、぀たり、䞃識県識末那識ず有根身肉䜓ず噚䞖間自然ずを生み出す。
阿頌耶識は別名「䞀切皮子識」ずいわれるように、そのなかに、先倩的であれ、埌倩的であれ、我われの䜓隓業・カルマの圱響がすべお皮子ずしお怍え぀けられおいる。p118-119

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茪廻の䞻䜓

阿頌耶識はこの䞀生の間、我われの身心を維持し続ける、いわば生理的有機的基盀であるが、同時に、珟䞖から来䞖ぞず匕き継がれおいく茪廻の担い手でもある。阿頌耶識は茪廻説においおも重芁な圹割を挔じおいる。
では、生死流転する機構を唯識思想はどのように説明するのであろうか。
たず、ある䞀個人の珟圚の状態、぀たり、人間ずしお生たれたこず、寿呜が、たずえば八十歳であるこずなど、換蚀すれば、珟圚䞖における阿頌耶識の先倩的性質は、過去䞖にその人が行った業善ず悪ずの行為によっお決定される。p120-121
そしお、珟圚䞖においお過去の業の圱響力がなくなり、寿呜が぀きるずき、阿頌耶識は珟圚䞖から消滅し、新たに未来䞖に生たれかわるのである。
珟圚䞖においお善い行為善業を行なうか、あるいは、悪い行為悪業を行なうかによっお、未来䞖は、倩人や人間に生たれる、あるいは畜生・逓鬌・地獄に生たれるのである。ここに「善因善果、悪因悪果」ずいう仏教の基本的因果埋を歎然ず認めるこずができる。
未来を決定する業皮子を怍え぀けるのは六識であり、しかもそのうちで善あるいは悪なるものであるずいう点が重芁である。六識のうち業を起こす䞻䜓は意識であるから、ずりわけ意識的掻動、぀たり、あれこれず抂念的に思考する意識䜜甚こそが、我われの未来を決定する最も重芁な芁因である。

「唯識思想入門」暪山玘䞀第䞉文明瀟レグルス文庫

阿頌耶識瞁起

皮子ずしおの朜圚的゚ネルギヌが具䜓的に芜をふき、顕圚的掻動゚ネルギヌに倉化したものが日垞の諞経隓である。物を眺める、思いにふける、泣き笑う  、考える、しゃべる、動く——これらすべおの諞掻動をたずめお〈珟行〉ずいう。あるいは諞識の掻動であるから〈珟行識〉ずいう。
皮子は沈隠・䞍顕珟、珟行は顕顕・顕珟であるずいわれるように、前者は朜圚態、埌者は顕圚態であるから䞡者はたさに盞察立する抂念である。しかし䞡者は盞互に因果関係にある。なぜなら、皮子より珟行が生ずるから、その堎合には、皮子が原因で珟行が結果であり、たた、生じた珟行は即座に新たな皮子を阿頌耶識に怍え぀けるから、その堎合には珟行が原因で皮子が結果である。
このように深局心理ず衚局心理ずの有機的な盞互因果関係によっお党存圚が、たるで荒れ狂う河の流れのように、流動し぀づけおいるのである。これを「阿頌耶識瞁起」ずいう。p125
前述したように倖界に事物の実圚を認める実圚論者は、たずえばAずいう事物を芋るずいう認識の成立を次のように説明するであろう。「倖界の事物Aの印象すなわちAの衚象圱像A'を心が芋る」ず。
これに察し、唯識思想は、「圱像A'は心自身が倉化したもの、䜜り出したものであり、A'に察応する事物Aずいうようなものが倖界にあるのではない」ず説明するであろう。
ここで持ち出されるのが有名な〈阿頌耶識瞁起説〉根本的な阿頌耶識より党珟象が生起するずいう理論である。぀たり阿頌耶識の䞭にあるAずいう皮子が成熟し、芜をふき、A'ずいう圱像を䜜り出し、それを、同じく阿頌耶識䞭の皮子から生じた県識が眺めるずいう認識構築である。
そしおこの阿頌耶識瞁起説に基づくかぎり、倖界に梅の朚が実圚しなくおも、梅の朚を眺めるずいう知芚は成立するわけである。

「唯識思想入門」暪山玘䞀第䞉文明瀟レグルス文庫

唯識掟の哲孊的な立堎は、認識論ず存圚論に深く関わっおいる。
たず、唯識掟は「存圚ずは䜕か」ずいう問題に察しお、倖界が独立しお存圚するずいう考え方を吊定する。通垞、私たちは倖の䞖界が存圚し、それを私たちの意識が認識しおいるず考える。しかし、唯識掟では、倖界が実圚するずいう仮定自䜓が䞍芁だず䞻匵する。倖界が存圚するかどうかに関わらず、私たちが経隓しおいるものはすべお心の䞭で䜜り出された「衚象」に過ぎないず考えるからだ。
次に、唯識掟の認識論的な立堎では、認識のプロセスが重芁芖される。唯識掟によれば、意識は瞬間ごずに消滅し、その瞬間の意識が次の瞬間の意識を生み出す。これが連続的に続くこずで、私たちは絶えず䞖界を認識し続けおいる。この意識の連続性の䞭で、過去の経隓や蚘憶が蓄積され、それが「皮子」ずなっお新たな認識を生み出すずされる。このように、認識ずは過去の意識の蓄積が衚象ずしお顕圚化したものであり、それが私たちが知芚する䞖界だずいうのが唯識掟の䞻匵だ。
぀たり、唯識掟においおは、䞖界の存圚や認識はすべお䞻芳的な意識の䞭に閉じ蟌められおいる。倖界の独立した存圚を吊定し、すべおを意識の衚象に還元するこずで、圌らは存圚の本質を心の働きそのものに芋出そうずする。これが唯識掟の哲孊的な立堎だ。

自己の存圚蚌明は䞍可胜

自己の存圚に぀いお考察する際、最も厄介なのは、その存圚を蚌明するこずが本質的に䞍可胜であるずいう点だ。「私」ずいう抂念は盎感に属するものであり、論理によっお蚌明するこずができない。論理的蚌明は、前提ずしお絶察的に自明なものを仮定し、その仮定の䞊に挔繹的に組み立おられるものである。しかし、「自己の存圚」は、そのような仮定を必芁ずしない、盎感的に認識されるものであるがゆえに、論理の枠組みでは捉えきれない。
哲孊的に考察すれば、絶察的に自明なものずは䜕か、それは「私の存圚」である。これは他のいかなる前提を必芁ずせず、自らが自明であるず感じられるものであり、哲孊的思玢の出発点ずしお䜍眮づけられる。しかし、唯識論においおは「自己」は虚構ずされ、その代わりに「識」や「心」が絶察的な基盀ずしお仮定される。「私」ずいう存圚は虚構であり、ただ「識」のみが究極的実圚ずしお存圚するずされる。
この芳点から、唯識論は「識」や「心」が䞖界や自然を構築しおいるず䞻匵するが、その論理を突き詰めるず、䞖界は「私」のアラダ識によっお構築されおいるこずになる。唯識論は「私」ずいう存圚を吊定するが、アラダ識が存圚する以䞊、そのアラダ識が䞖界のすべおを䜜り出しおいるず考えるならば、「私」が唯䞀の実圚であるずいう独我論や唯心論ず類䌌した結論に至る。
アラダ識が究極的な実圚ずしお䞖界を創造しおいるのか、それずも「自性」が意識や物質を含むすべおを生み出しおいるのかは、蚀葉の違いに過ぎないずも蚀える。したがっお、哲孊的な説明ずしおは、よりわかりやすい抂念を採甚する方が有効である可胜性がある。䟋えば、「アラダ識」ではなく「自性」がすべおを創造しおいるず説明する方が、より明瞭で説明しやすいずいう芖点も提起される。


末那識

自我執着意識
仏教は、それたでのむンド思想界を支配しおいた我ātmanの考えを吊定しお、「あらゆる存圚には実䜓がない」ずいう䞻匵、぀たり〈諞法無我〉を旗印ずした。
ではなぜ自己は存圚しないのか──原始仏教いらい、仏教の理論の倧半は、この問いかけの解答を䞭心ずしお䜜られおきたずいえるであろう。そしお、その解答を䞀蚀でいえば、「自己存圚は瞁起であるから」ずいうこずになる。
぀たり、我われの自己存圚は、それを構成する五぀の芁玠色・受・想・行・識が、ある瞁によっお結合し、そこに粟神ず肉䜓ずをそなえた自己ずいう存圚が仮にでき䞊がったたでのこずであり、自己ずいう氞遠䞍滅の実䜓があるわけではない、ずいうのであるこれを五蘊仮和合説ずいう。p157−159
唯識思想も、もちろん根本的には瞁起説の䞊に成り立っおいる。しかし、粟神的なものの存圚しか認めない唯識思想は、識盞互の認識関係による無我の理論をみごずに築きあげたのである。
そしお、五蘊の結合䜓を自己ず考える自我意識に加えお、通垞の意識の奥にある、いわば朜圚的な自我意識の存圚を発芋したのである。その自我意識ずは、〈末那識〉である。
この末那識の根本的䜜甚は、末那識がそこから生じきたったもずの阿頌耶識を眺めお、それを〈自我〉であるず認識し、それに執着するこずである。
自我意識をたずめおみるず次のようになる。
(1) 抂念を甚いた意識的な自我意識——第六意識の働き。
(2) 意識閑䞋にある根源的な自我意識——第䞃末那識の働き。

「唯識思想入門」暪山玘䞀第䞉文明瀟レグルス文庫

四分説四皮の心的領域

【䞻芳】      【客芳】
心 (citta) ───────── å Ž (artha)
胜瞁 (ālambaka) ─ 所瞁 (ālambana)
胜取 (grāhaka) ─ 所取 (grāhya)
心ず塲ずは原始仏教いらい甚いられおいる甚語である。
胜瞁ず所瞁ずは阿毘達磚仏教以䟆の甚語であり、西掋でいう䞻芳・客芳に盞圓する最も兞型的なこずばである。䞻芳ず客芳ずの䞡者は、いずれか䞀぀だけで単独に存圚できるものず考えられおいるのに察し、胜瞁ず所瞁ずは、その挢蚳からしおも刀るように、䞡者は、いわば盞互䟝存関係をも぀ものずしお把えられおいるのである。
胜取ず所取ずは、唯識瑜䌜行掟の人びずが奜んで甚いた䞀切唯識の立堎から、存圚を認識論的に把えようずした態床の䞀぀のあらわれであろう。p144-146
四皮の心的領域四分説
唯識瑜䌜行掟の人びずは、客芳ず䞻芳ずの背埌に、さらに別の心的䜜甚を蚭定し、最終的には四皮類の心的領域を区分するにいたった。
これを《四分説》ずいい、唯識思想の重芁な教理の䞀぀である。
(1) 盞分
(2) 芋分
(3) 自蚌分自䜓分
(4) 蚌自蚌分
〈盞分〉ずは客芳ずしおの心的郚分である。〈芋分〉ずは、盞分を把握し認識する䞻芳ずしおの心的郚分である。そしお、盞分ず芋分ずに二極化する以前の心を〈自䜓分〉自蚌分ずいう。すなわち「心それ自䜓」が、芋られる偎ず芋る偎ずに二極化し、その察立の䞊に、感芚・知芚・思考などのさたざたな認識䜜甚が成立するのである。
さらに、以䞊の論理からすれば、自蚌分の奥にこの自蚌分の働きを確蚌するもう䞀぀の確蚌䜜甚が存圚するこずになる。したがっおそれを〈蚌自蚌分〉自蚌を蚌する分ず名づける。しかし、さらにこの蚌自蚌分を確蚌する䜜甚、さらにそれを確蚌する䜜甚  ず、無限の確蚌䜜甚を蚭定する必芁に迫られる。この無限遡行ずいう矛盟を救うために、蚌自蚌分は前の自蚌分であるずしお、党郚で四皮の心的郚分四分をもっお、ある䞀぀の認識䜜甚が完成するず考えるのである。p146-149

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因瞁倉ず分別倉

あらゆるものは阿頌耶識が倉化転倉 pariṇāmaしたものであるずみるのが唯識の根本思想である。しかし、その〈倉化〉のあり方に次の二皮類がある。
(1) 因ず瞁ずによっお倉化したもの因瞁倉。
(2) 分別の力によっお倉化したもの分別倉。
たずえば、庭の朚、石、自己の肉䜓は自己の心が䜜ろうず思っお䜜り出したものではない。それらは、阿頌耶識の察象盞分ずしお、たずえ眠っおいるずきでも存圚し぀づけおいるのである。p151ヌ153
`我われの肉䜓ず自然界、぀たり珟代でいう物質的なるものは、意志や感情などの衚局的心理䜜甚ずは無関係に䜜り出されたものである。これを専門的には〈因瞁倉〉のものである、ずいう。これに察し、感情や意志などの力によっお䜜り出された衚象、それらはすべお、自己の第六意識が無理に䜜り出した仮の衚象にしかすぎないのである。この意味でこれらを専門的には〈分別倉〉のものであるずいう。
我われは、い぀も過去を悔い未来を悩む。このほずんどが、分別が䜜り出したもの、぀たり、我われは、い぀も第六意識に翻匄されお、真の認識のあり方から遠く逞脱しおいるのである。

「唯識思想入門」暪山玘䞀第䞉文明瀟レグルス文庫

皮子はコヌザル䜓にある

䞉性説さんしょうせ぀

䞉性ずは、劄想された存圚圢態逌蚈所執性ぞんげしょしゅうしょう、他に䟝 存する存圚圢態䟝他起性えたきしょう、完党に成就された存圚圢態円成実性えんじょうじっしょう ず名付けられる䞖界の䞉皮のあり方を指す唯識思想の根本真実である。


有圢象唯識論・無圢象唯識論

無圢象唯識論では、アラダ識が最終的には吊定され、最高の実圚光り茝く心が個䜓に珟れ、芋る者ず芋られる者が分かたれるこずなく、絶察知に到達するず説いおいる。
䞀方、有圢象唯識論は、アラダ識を実圚する識䜓ず芋なし、その識䜓が倉化しお、芋る者ず芋られる者が生じるず䞻匵する。この説によれば、たずえ絶察知に達したずしおも、アラダ識そのものが吊定されるわけではなく、アラダ識内に朜んでいる煩悩の力が根絶されるだけである。したがっお、悟りを埗た埌でも芋る者ず芋られる者は存圚し続ける。
このような思想の流れを、埌に「有圢象唯識論」ず名付けた。それに察しお、アラダ識を吊定するこずで、最高実圚が二元性を離れお絶察知ずしお茝くこずを匷調する唯識説が「無圢象唯識論」ず呌ばれるようになり、最終的には䞭芳掟および䞭芳孊説ず結び぀いおいくこずになる。

劄想されたもの遍蚈所執、他によるもの䟝他起、および完党に成就されたもの円成実、たさしくこれら䞉぀の自性がある。それは剛険なる人々菩薩にずっお、孊問の察象ずしおきわめお深いものずいわれる。
䜕かの認識においおあらわれるもの、それが「他によるもの」であり、いかにあらわれるかずいう様態が、「劄想されたもの」である。前者は、他の原因にもずづいお起こるから「他によるもの」であり、埌者は分別のみずしおあるから「劄想されたもの」である。
そのあらわれる䞻䜓䟝他起性にずっお、かのあらわれた様態遍蚈所執性が、垞にたったく存圚しなくなった状態、これが「完党に成就されたもの」円成実性であるず知るべきである。それはもずもず倉化するずいう性質のないものだからである。
䜕ものかがあらわれ、芋られ、認識されおいるこずが根底ずなっお、その䞊に分別され、固定され、執着された遍蚈所執の䞖界がくりひろげられるが、その分別や執着が払拭されたずき、「あらわれる」こずがそのたたに、䞍倉に、円成実である、ずいうものである。
そのばあい、䜕があらわれるのか。真実ならざる分別があらわれられるのである。いかなる様態であらわれるのか。䞻芳ず客芳ずの二぀のものずしおあらわれられるのである。それ真実ならざる分別に実圚性がないずはどういうこずか。それ䞻芳・客芳の二぀のものずしお実圚するのではないこずである。そのこずはたた、かれ真実ならざる分別の本来のあり方法性、すなわち二぀のものがないずいう法性にほかならない。
「真実ならざる分別」が䟝他起であり、その分別においお、所取ず胜取、すなわち客芳ず䞻芳の「二぀のもの」が実圚的に考えられおいるこずが遍蚈所執であり、その実圚性ぞの執着が払拭されお非存圚ずなるずき、円成実性である。この䞻芳・客芳の二者察立の無なるこず、それが法性ずしお円成実なのであるが、その法性は、真実ならざる分別そのものののなかに芋出される法性本来のあり方である、ず述べおいる。
ここにいう「真実ならざる分別」ずは䜕か。心である。なんずなれば、それ心はそれが分別されたり、察象を分別したりするが、そのようには客芳ずしおも䞻芳ずしおも心はけっしお実圚しないから、これが真実ならざる分別、非存圚の分別ずいわれるのである。5その心は、因であるこずず果であるこずによっお、二皮に考えられる。すなわち、䞀はアヌラダ阿頌耶ず名づけられる識であり、二は起こっおいる識転識ず名づけられる䞃皮のものである。6
もろもろの汚染の皮子ずなる過去の行為の習慣性習気が積み重なっおいるから、心ずいうのであるが、最初のものすなわち、アヌラダずいう識はその意味においお心である。それに察しお、第二のものすなわち、起こっおいる識は、皮々の圢盞をもっお起こるから、心ずいうのである。7p206207
アヌラダ識は䞖界党䜓の因ずしおあり、これに察しお、その果ずしお珟象的な䞖界においお起こり、はたらいおいる識は䞃皮であり、すなわち「䞃転識」ずいわれる。䞃転識ずは、県・耳・錻・舌・身・意の六皮の識ず、第䞃にずくに我意識ずしおのマナス染汚の末那を加えた䞃皮である。p208
芁玄しおいえば、この虚劄なる分別は、次の䞉皮ずしお考えられる。すなわち、異熟的なものず、たた原因的なものず、さらに顕珟的なものずである。8
その第䞀のものは根本識である。なんずなれば、その本性が異熟だからである。それ以倖の二者は、珟に起こっおはたらいおいる識転識である。芋られるものず芋るものずの認識ずしおはたらいおいるからである。9
***
「異熟」ずいう語は、「果報」ずも蚳され、過去の行為・業が倉化し異、成熟熟しお、珟圚が結果ずしお成立しおいるこずを意味する。それが同時に未来ぞの原因ずもなるこずは、第䞃頌の「皮子」の語からも知られる。このようにあらゆる過去を担い、未来ぞの起点ずなるこずが、アヌラダ識が「根本識」ず名づけられるゆえんである。第九頌の「芋られるものず芋るものずの認識」は、「客芳ず䞻芳ずの察立による認識」ず解した。この二者の察立には、アヌラダ識に぀いおも考えられないわけではないが、それは意識䞋に属するから、なお未分明である。それに察しお、前䞃識においおは、客芳・䞻芳の察立が分明であるから、「顕珟的なもの」ずいう。前䞃識は、意識䞋の領域から抜け出し、はっきり意識されるものずしお珟実の䞖界にはたらく識であるから、「転識」ずいい、「珟行識」ずいう。p209210
「芋られるものず芋るものずの認識」の語を、山口益教授は「所芋を胜芋する、及び思量」ず蚳しお、「所芋を胜芋する」が六識のこず、「思量」が第䞃識のこずずされる。たた、これずは別に、「芋られるものず芋るものず、およびその認識」ずいうように読むこずもできる。このばあい、「認識」は「自己認識」の略ずも考えるこずができよう。もしそうであるならば、盞分芋られるもの・芋分芋るもの・自蚌分自己認識の䞉分の考え方が、すでにノァスバンドゥのなかにも芋出されるこずずなっお、思想史の䞊で重芁な意味をも぀こずになる。
蚀語的衚瀺は、劄想されたもの遍蚈所執の本質であり、蚀語的に衚瀺する䞻䜓が、他のものすなわち、他によるもの、䟝他起性の本質であり、蚀語的衚瀺の陀去されおいるこずが、もう䞀぀の他の自性すなわち、完党に成就されたもの、円成実性であるず考えられる。23p217
あたかも、呪文の力によっお幻術が぀くり出され、象の姿ずしおあらわれおいるようなものである。そこには象の圢盞があるだけであっお、けっしお象が実圚するのではない。[27]
そのばあい、実圚するかのように考えられた象は劄想された自性であり、その圢盞が他による䟝他起性である。そこに象が非実圚であるこず、これが完党に成就された円成実性であるずいわれる。[28] それず同じく、根本心根本識から、真実ならざる分別が䞻芳・客芳の二぀のものずしおあらわれる。その二぀のものはいかなる意味でも実圚せず、そこにはただこの圢盞があるだけである。[29]p219

「倧乗仏兞〈15〉䞖芪論集 」長尟雅人・梶山雄䞀・荒牧兞俊䞭公文庫

䞉分説

有圢象知識論の立堎では、認識ずは知識がそれ自身の䞭にある察象をみずから知るこず、すなわち知識が知識自身をみずから知る、ずいう知識の自己認識にほかならない。この䞀぀の事実を論理的に分析しお説明するず、知識のなかには察象の圢象ずいう客芳的契機所取・盞分ずそれを知る䞻芳的契機胜取・芋分ずその䞻芳的契機を知る自己認識契機自蚌分ずの䞉分がある、ずいうこずになる。知識は物質ず異なっお圢や倧きさをもたない、単䞀の存圚であるから、その䞭に䞉぀の郚分が実圚するわけではない。だから䞉分説ずいうのはあくたで論理的・䟿宜的な説明にほかならない。
自己認識を省略しおその機胜を䞻芳的契機に負わせれば二分説が成立し、自己認識をさらに知るもう䞀぀の契機蚌自蚌分を想定すれば四分説ずなる。このさい、蚌自蚌分を知る第五の契機は必芁ずされず、蚌自蚌分は自蚌分が知る、ずいう盞互䜜甚で代甚されるから、認識の五分説ずいうものは存圚しない。たた、知識は単䞀な自芚的存圚である、ずいう本来の意味に立ち返れば、知識の圢象が圢象自身を知り、その知芚をも自芚しおいるこずが認識である、ずいう䞀分説も成りた぀。p222-223
経量郚の有圢象知識論では、倖界の察象はけっしお知芚されないが、掚理によっおその実圚性が蚌明された。その倖界の察象がわれわれの知識の䞭に投げ入れた圢象、぀たり知芚像が実はわれわれにずっおの党䞖界である。倖界の察象そのものは「䜕かがある」ずしかいえないものであるが、それは知識の䞭では、たずえば壺ずか銀貚ずかの圢象をずっお顕われる。 瑜䌜行掟は、経量郚が芁請しおいた倖界の察象を無甚の存圚ず考え、それに代えお、盎前の心を認識の察象であるずいう。けだしそれは次の瞬間の心にずっお実圚する原因であるずずもに、その心の知芚像ず盞䌌した圢象をもっおいたはずだからである。ずころでこの、盎前の心から生じた知芚像をも぀珟圚の心は、それ自身、党䞀な実圚であるけれども、論理的に分析すれば客芳的契機ず䞻芳的契機の二぀に分けられ、さらにその䞻芳-客芳を自芚する自己認識を加えお䞉分されるこずはすでに述べたずおりである。p228-229

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

圢象虚停掟ず圢象真実掟

客芳ずしおの圢象はあるずきには壺であり、あるずきには銀貚であり、あるずきには芋殻である。しかしそれらの圢は倉わっおも、それらはそれぞれい぀でも芋えおいる。芋えおいるずは照出され、自芚されおいるこずである。しおみれば、心の圢象は䞻芳客芳ず照出䜜甚ずしおの自己認識ずの結合であるずいうこずができる。
さお私が浜蟺を歩いおいお銀貚を芋぀けお拟い䞊げるずする。ずころが䞀瞬埌にその銀貚は実は芋殻であったずわかるずする。それは銀貚の圢象が䞀瞬埌に拒吊されお芋殻の圢象に蚂正されたこずである。そのように拒吊され、蚂正されうる圢象は䞀般的にいっお虚停である。しかし、銀貚を芋えせ、芋殻を顕わしおいた照出性そのもの、いいかえれば自己認識は垞に、倉わらずにある。だから、䞻客の圢象は虚停であるが、自己認識は真実である、ずいうこずになる。これが圢象虚停論ず呌ばれる理論である。
この理論を瑜䌜行掟の䞉性説にあおはめお説明するずこうなる。䞖界ずは個人の根源的認識であるアヌラダ識の顕珟にほかならない。このアヌラダ識は恒垞的実䜓ではなくお、前々の瞬間から埌々の瞬間が因果の連鎖ずなっお、倉化しながら継続しおゆく認識の流れであり、その存圚は垞に前刹那に䟝存するから、「他に䟝るもの」䟝他起性ずいわれる。このアヌラダ識の構想䜜甚虚劄分別によっお、䞻客の圢象が内郚ず倖郚ずの二぀の䞖界に振り分けられた状態を「劄想されたもの」遍蚈所執性ずいう。「他によるもの」が劄想された䞻客の圢象を完党に離れ、解脱した状態を「完党に成就されたもの」円成実性ず呌ぶ。さきに述べた虚停なる圢象は「劄想されたもの」に属し、玔粋な照出䜜甚そのものずしおの自己認識は「成就されたもの」に属する。
圢象真実論は、しかし、圢象が虚停であるこずを肯んじない。銀貚の圢象が䞀瞬埌に貝殻のそれに拒吊蚂正されるずいうこずはありえないずいう。二぀の圢象は時間的に前埌しお珟われるのだから、その間に察立関係はないからである。銀貚の圢象の真実性を疑えば、貝殻の圢象の真実性を信じる根拠もなんら埗られないから、すべおの圢象が虚停であるこずになるのは、圢象虚停論者のいうずおりであるが、しかし、圢象を離れた自己認識を独立に認識するこずは誰にずっおも䞍可胜である。だから、圢象自䜓は真実であるが、われわれの構想䜜甚、いいかえれば意識ず自我意識の分別が圢象を誀っお解釈するこずによっお劄想された䞖界が顕珟するだけである。
圢象ず自己認識は切り離すこずのできないものであり、ずもに「他に䟝るもの」の本質をなす。他方、分別こそが「劄想されたもの」の本質である。したがっお分別さえ陀かれれば、圢象は圢象ずしおありながら「他に䟝るもの」は「完党に成就されたもの」に転換し、解脱は完成される。このようなものが圢象真実論の骚子である。いわば、われわれが解脱したその䞀瞬に、虚停なる圢象は消え倱せお、ただ光り茝く自芚のみが残る、ずいうのが圢象虚停論であり、解脱したずきにも緑や玅や癜の圢象は残るが、聖者はそれを柳の緑、花の玅、あるいは銀貚や貝殻の癜ず構想しないだけである、ずいうのが圢象真実論のいい分である。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

䞉性ず䞉無自性の察応

アヌラダ識が劄想されたものを離れお完党に成就されたものになるこずを「根拠の転換」転䟝ずいう。むンド的な芳念では、実䜓ずはあくたでも自己同䞀性を保぀もので、倉化するこずはない。したがっおアヌラダ識が転換するずいうこずは、それが実䜓ではなくお、空性を本性ずする実圚であるこずを瀺しおいる。事実、アヌラダ識の䞉性は䞉無自性ず裏裏をなしおいる。「劄想されたもの」は、衚象されたものずしおの自䜓をもたないから、盞無自性ず呌ばれる。「他に䟝る性質」は自䜓から生起するのではないから生無自性を真実ずする。「完党に成就された性質」は真劂にほかならず、最高の真実ずしお蚀葉や衚象を超越しおいるから勝矩無自性ずいわれる。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

䞉性
遍蚈所執性
劄想されたもの
䟝他起性他によるもの
円成実性完成されたもの

䞉無自性
盞無自性
衚象された盞自䜓をもたない
生無自性自䜓が生起するものではない
勝矩無自性蚀葉や衚象を超越する

䞉身説ず仏の四智

仏陀に法身・受甚身・倉化身の䞉皮を認める䞉身説は瑜䌜行掟唯識孊掟によっお完成された。䞉身の呌称や意味には盞違があっお、法身に盞圓するものは自性身ずも呌ばれる。受甚身は「報身」ずも呌ばれるが、䟋えば阿匥陀仏が安楜囜極楜をも぀ように、その仏囜土をもち、楜園の荘厳を具えた聖域においお法楜を享受受甚するが、そのばあい、自ら享受自受甚するだけでなく、他者に享受させる他受甚こずをも含む。倉化身は応身・化身・応化身などいろいろな呌び方がある。これは歎史的な仏陀であるゎヌタマ・ブッダ釈尊を始め、この地䞊にあらわれる皮々の化仏や暩化を含む。法身は絶察の真理ずしお垞䜏であるが、受甚身ず倉化身ずは、「摂倧乗論」に埓えば、無垞である。䞭囜や日本でもっずも䞀般的な䞉身の呌称は法身・報身・化身応身である。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟
  1. 法身 - 自性身垞䜏  コヌザル䜓

    • 「法を䞍滅の真理そのもの。理法ずしおの仏」

  2. 受甚身 - 報身  幜䜓

    • 「過去の願・行が原因で珟圚無限の力ずすぐれた容姿をもっお珟われおいる仏」

  3. 倉化身 - 応身・化身・応化身  肉䜓

    • 「䞖ず人を救うために、人の姿を珟した仏」

『摂倧乗論』は、「法身は転䟝根拠の転換を盞ずなす」ずいい、雑染分汚れた郚分の䟝他起性を転滅し、枅浄分の䟝他起性を転埗するこずが法身の獲埗であるずいう。さらに、法身の五盞を述べるうちに、倧円鏡智・平等性智・劙芳察智・成所䜜智の、仏陀の四智をあげおいる。同論に察するアスノァバヌノァ無性 450–530ごろの泚釈は四智を八識に配圓した。さらにスティラマティは『荘厳経論』9・60の泚においお、倧円鏡智を法身に、平等性智ず劙芳察智を受甚身に、成所䜜智を倉化身に配圓するこの䞉身ず四智ずの察応には異説もある。スティラマティの䞉身・四智・八識の察応は次のように衚される。
法身 = 倧円鏡智 - アヌラダ識の転䟝
受甚身 = 平等性智 - 自我意識の転䟝
     劙芳察智 - 第六意識の転䟝
倉化身 = 成所䜜智 - 前五識の転䟝

アヌラダ識の雑染分が転換されお、枅浄無垢にしおあらゆるものをその真盞においお、䞻客の分別なき圢で映す、法身の倧円鏡智ずなり、自我意識染汚末那が転じお、自ず他、涅槃ず生死の䞍二平等を芋、倧慈悲を生ずる平等性智ずなる。第六意識誀った思惟が転じお、枅浄なる思惟・芳察・教化の䜜甚をも぀劙芳察智ずなる。この二智は受甚身に垰せられる。五官の䜜甚は衆生救枈のためにあらゆるなすべきこずを成就する成所䜜智ずなり、倉化身を珟ずる。この八識・四智・䞉身の関係は法性ず慈悲・教化のあいだにきわめお具䜓的な関連を぀けたものであっお、瑜䌜行掟の転䟝の思想なくしおは成就されなかったものである。

「䞭芳ず空Ⅰ」梶山雄䞀著䜜集 第四巻春秋瀟

䞭蟺分別論

䞭蟺分別論の䜜者は、マむトレヌダ菩薩。圌は霊的な存圚であるため、霊胜力を持぀アサンガ菩薩が、マむトレヌダの教えを䌝える圹割を果たす。
次に、ノァスバンドゥ䞖芪ずいうが、マむトレヌダの教えを解釈し泚釈を加える圹割を果たす。マむトレヌダは「無圢象唯識掟」に属し、ノァスバンドゥは「有圢象唯識掟」に属するため、同じ教えであっおも解釈が異なる。

オヌム。仏陀に垰呜す。
【垰敬の詩頌】
菩薩の身䜓から生たれ出たこの論の䜜者すなわちマむトレヌダ菩薩ず、それをわれわれその他のものに䌝えた語り手すなわちアサンガ菩薩ずに瀌拝しお、この論の意味を明らかにするため、私ノァスバンドゥは、泚釈を斜すこずに力を傟けよう。p230
虚劄なる分別はある。そこに二぀のものは存圚しない。しかし、そこすなわち虚劄なる分別のなかに空性が存圚し、その空性のなかにたた、かれすなわち虚劄なる分別が存圚する。
ここで「虚劄なる分別」ずいうのは、知られるもの所取ず知るもの胜取ずの二者の察立を分別するこずである。「二぀のもの」ずは、この知られるものず知るものである。それら二぀のものは究極的には実圚しない。したがっお「空性」ずは、この虚劄なる分別が、知られるものず知るものの䞡者を離脱し䞡者が吊定されおいる状態である。「そのなかにたた、かれが存圚する」ずは、空性のなかに虚劄なる分別が存圚するこずである。p232−234
このようにしお、“或るものが或る堎所にないずき、埌者すなわち或る堎所は、前者すなわち或るものずしおは空である、ずいうように劂実に芳察する。他方たた、右のように空であるず吊定されたのちにもなお吊定されえないでなんらかあたったものがここにあるならば、それこそはいたや実圚なのであるず劂実に知る”ずいうように述べられおいる空性の正しい盞がこの詩頌によっお明らかに述べられた。

「倧乗仏兞〈15〉䞖芪論集 」長尟雅人・梶山雄䞀・荒牧兞俊䞭公文庫

ある駐車堎を考えおみよう。その駐車堎に車が䞀台も停たっおいないずき、その駐車堎は「車がない」ずいう意味で「空」ず芋なされる。しかし、その「空」であるずいう状態を芳察しおも、駐車堎そのものが消えるわけではない。駐車堎は䟝然ずしお存圚し、車を停めるスペヌスがそこにある。
この状況を通じお、「あるものが特定の堎所に存圚しないずき、その堎所はその『あるもの』に察しお『空』である」ず認識できる。しかし、「空」であるず認識されたずしおも、その堎所自䜓、぀たり駐車堎ずいう存圚が消えるわけではない。駐車堎ずいう実圚そのものは䟝然ずしおそこにあり、その存圚が吊定されるこずはない。
これが「空」の本質を瀺すものであり、あるものが欠けおいる状態を「空」ずしお理解する䞀方で、その背埌にある実圚の存圚を芋極めるこずが「空性」の正しい理解ずなる。

それゆえに、すべおのものは空でもなく、空でないのでもないずいわれる。それは有であるから、たた無であるから、さらにたた有であるからである。そしおそれが䞭道である。[1・2]
「空でもなく」ずいうのは、空性があるずいう点で、および虚劄なる分別があるずいう点で空でもないずいうこずである。「空でないのでもない」ずは、知られるものず知るものずの䞡者に぀いおは空であるからである。「すべおのもの」ずは、぀くられたもの有為——ここでは虚劄なる分別ず呌ばれおいるもの——ず、぀くられるこずのないもの無為——空性ず名づけられたもの——ずの䞡者をふくんで、「すべおのもの」ずいうのである。「いわれる」ずは、説明されるずいう意味である。
「有であるから」ずは、虚劄なる分別が有であるからであり、「たた無であるから」ずは、知るものず知られるものずの二぀のものが無であるからであり、「さらにたた有であるから」ずは、虚劄なる分別のなかに空性が有であるから、たたその空性のなかに虚劄なる分別が有であるからである。「そしおそれが䞭道である」ずは、すなわち、すべおのものが䞀方的に空なのでもなく、䞀方的に空でないのでもないこずが䞭道である。このようにしおここに述べられたこずは、『般若波矅蜜倚経』などのなかに、“この䞀切のものは空でもなく、たた空でないのでもない”ず述べられおいるこのこずに䞀臎するものである。

「倧乗仏兞〈15〉䞖芪論集 」長尟雅人・梶山雄䞀・荒牧兞俊䞭公文庫

空性

識が生起するずき、それは察境ずしお、有情ずしお、自我ずしお、および衚識ずしお四通りに顕珟する。しかし、それの識の顕珟ずしおの四通りの察象は実圚しない。それが存圚しないから、かれすなわち識もたた存圚しない。
「察境」ずは識が色圢などのあり方をもっお顕珟するこずである。「有情」ずは、自分や他人の身䜓盞続においお、識が五皮の感芚噚官五根ずしお顕珟するこずである。「自我」ずは、自我の芳念を構成する汚れた意染汚末那ずしおの顕珟である。「衚識」ずは、県識などの珟象面ではたらいおいる六皮の識ずしおの顕珟である。この知られるものずしおの察象が存圚しないから、それに察応する知るものずしおの識もたた存圚しないのである。
それゆえに、それすなわち識が虚劄なる分別であるこずが成立した。なんずなれば、識はそのたたに真実ずしおあるのでもなく、たたあらゆる点でないずいうのでもないからである。
識は虚劄である。なんずなれば、そのあり方は、顕珟が起こっおいるのず同じように「そのたたに真実ずしおあるのでもない」からである。かずいっお、「あらゆる点でないずいうのでもない」。迷乱ずいわれるかぎりのものは起こっおいるからである。
では、それは存圚しないずのみ、䜕ゆえに蚀わないのか。そうは蚀えない。なんずなれば、それすなわち識が滅尜するこずによっお、解脱のあるこずが認められるからである。
もしそうでないならば、迷いに束瞛されるこず、たたそれからの解脱ずいうこずなど、これらの事実が成り立たないであろう。したがっお、汚染の存圚ず枅浄な䞖界ずの事実を吊定するずいうあやたちを犯すこずにもなるであろう。
劄想されたもの遍蚈所執性、他によるもの䟝他起性、完党に成就されたもの円成実性ずいう䞉皮の自性が説かれたのは、順次に察象であるから、虚劄なる分別であるから、たた二぀のものが存圚しないからである。p237
埗られるこずにもずづいお、埗られないこずが生じ、埗られないこずにもずづいお、さらにたた埗られないこずが生じる。1・6
唯識すなわち、実圚するものはただ迷乱の虚劄なる分別のみであるずいうこずが「埗られる」、その「こずにもずづいお」、識のみであっお倖界は存圚しないから、察象の「埗られないこずが生じる」。すなわち、察象は非存圚である。察象が「埗られないこずにもずづいお」、唯識ずいうこずに぀いおもたた、「埗られないこずが生じる」。このようにしお、知るもの識ず知られるもの察象ずの二者は、無の性質のものであるこずを理解し、悟入するのである。p238

「倧乗仏兞〈15〉䞖芪論集 」長尟雅人・梶山雄䞀・荒牧兞俊䞭公文庫


参考文献


仏教の基瀎知識シリヌズ䞀芧


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