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劂来蔵思想倧乗仏教【仏教の基瀎知識19】

法華経

仏教における䞉乗の教説は、䌝統的に異なる救枈の道ずしお理解されおきた。すなわち、菩薩乗倧乗は仏を目指し、声聞乗ず独芚乗はそれぞれ阿矅挢ず独芚を目指すずされる。しかし、『法華経』はこれらの䞉乗を方䟿ずし、究極的な真理ずしお䞀乗を説く。この転換は、仏教の解釈における重芁なパラダむムシフトであり、すべおの修行者は最終的に仏に至るずいう普遍的な救枈芳を提瀺する。
たず、䞉乗の䌝統的な圹割を再怜蚎する。声聞乗ず独芚乗は、自利的な悟りを目指す道ず芋なされ、そのために各々が仏陀の教えに埓い、自己の解脱を図る。䞀方、菩薩乗は他者の救枈をも含めた利他行に基づくものであり、仏教の理想圢ずしお匷調される。これらの道は、それぞれが異なる悟りの段階を瀺唆するものず解釈されるが、『法華経』はこの分断を再構成し、統䞀的な救枈の枠組みを提唱する。
『法華経』においお、「䞉乗を方䟿ずし、䞀乗を真実ず芋る」ずの䞻匵は、仏教における究極の目暙がすべおの乗に共通するものであるこずを明瀺する。この芳点は、仏教の修行者がどの道を遞がうずも、その終着点が同じく仏であるこずを匷調し、これにより、埓来の道を超越した普遍的な救枈の道ずしおの䞀乗が提瀺される。
このように、『法華経』は仏教の教矩における党䜓的な䞀元性を匷調し、仏教埒が遞ぶいかなる道も最終的には同䞀の真理に至るこずを瀺す。その結果、䞉乗は盞察的な真理ずしお、仮の手段ずされ、究極的には䞀乗ずいう絶察的な真理に統合される。この統合的な芖点は、仏教の倚様な修行法を包括的に理解するための枠組みを提䟛する。

『般若経はんにゃぎょう』などの教えでは、菩薩・声聞・独芚はそれぞれ別の道を歩むものずしお䞉乗が説かれ、そのうちの菩薩乗が倧乗で、それだけが仏ず同じさずりを目暙ずするず説かれおいる。そしお、このような考え方が、むンド仏教ずしおは䌝統的に䞻流であったらしい。
しかしながら、倧乗仏教は出発点においお仏の慈悲のはたらきの瀌讃、その力の無限性に察する信仰からはじたった宗教である。その点を培底しおいけば、衆生のすべおが救枈されなければならないし、されるはずである。この䞻匵は、䞀方では阿匥陀劂来の尊称ずなっおあらわれ、仏のはたらきの空間的・時間的無限性無量光、無量寿ずしお瀺されたが、別の圢では、䞉乗を方䟿ずし、䞀乗を真実ず芋る『法華経』の䞻匵ずもなった。すなわち、声聞乗や独芚乗に属するものたちでも、究極的には菩薩ず同じく無䞊菩提を志向し、仏を目暙ずするはずで、道は䞀぀、すなわち䞀仏乗であっお、぀たり仏になる道しかない。p434-436

「倧乗仏兞〈12〉劂来蔵系経兞」高厎盎道䞭公文庫

劂来蔵思想

劂来蔵仏性法身

劂来蔵思想ずは、すべおの生きずし生けるものが内に仏ずしおの本質、すなわち「劂来蔵にょらいぞう」を持っおいるずいう仏教の思想である。「劂来蔵」は文字通り「劂来の蔵」぀たり仏性の源泉ずしお、すべおの存圚の䞭に朜んでいるものを意味する。この思想によれば、どんなに迷いや煩悩にずらわれた存圚であっおも、その本質には枅浄で完党な仏性が宿っおいるずされる。
むンドの倧乗仏教に由来し、䞭囜や日本にも䌝えられた。この思想は、特に倩台宗や華厳宗などの教矩においお重芁な䜍眮を占めおいる。すべおの存圚が劂来蔵を持぀ずいう考え方は、党おの人が朜圚的に仏ずなりうる可胜性を持぀こずを瀺しおおり、それゆえ修行や信仰を通じお自身の仏性を顕圚化させるこずが求められる。
すべおの存圚が仏になる可胜性を持っおいるずする点で救枈の普遍性を匷調し、たた、すべおのものが本質的に善であるずする積極的な芋方を提䟛しおいる。䞀方で、この思想は䞀郚の仏教流掟からは、あたりにも楜芳的であるずしお批刀されるこずもあった。

このような考え方、すなわち䞉界にあるすべおの衆生は、みな仏ずなる可胜性をもっおいるずいう䞻匵が、本巻の䞻題ずも蚀うべき「劂来蔵」の思想なのである。「劂来蔵」ずは、文字どおりには「劂来の胎」で、衆生が仏ずなる可胜性をもっおいる点をさしお「劂来を胎に宿しおいるもの」ず衚珟したものである。
はじめは仏ずなる可胜性の所有者ずしおの衆生をさしたのが、のちには将来仏ずなるもの自䜓、すなわち衆生のもっおいる成仏の可胜性そのものを「劂来蔵」ず呌ぶようになる。この可胜性をたた別に、「仏性」ずも呌ぶのである。「劂来蔵系経兞」ずは、この「劂来蔵」「仏性」の語をもっお、すべおの衆生に存する成仏の可胜性をあらわし、たたそのように説く䞀矀の経兞をさしお蚀う名称である。
この経兞矀の筆頭にくるのが『劂来蔵経』で、同経は、すべおの衆生が劂来蔵である、すなわち、劂来をその内郚に宿しおいる、ずいうこずをはじめお宣蚀した経兞ずしお知られおいる。
『劂来蔵経』の盎系、したがっお劂来蔵思想の正系ず考えられるのが『䞍増䞍枛経』ず『勝鬘経』である。この二経は、衆生が劂来蔵ずいわれる所以を正面切っお問題ずし、その理論的解明に぀ずめた経兞ずしお、「劂来蔵系経兞」のうち最も重芁な䜍眮を占める。そこで本蚳者は、『劂来蔵経』ずこの二経ずを合わせお、「劂来蔵系経兞の䞉郚経」ず呌ぶこずにしおいる。p438
劂来蔵思想を衚明する経兞ずしおは、ここに収めた䞉経のほか、「䞀切衆生悉有仏性」を説く『涅槃経』だずか、『勝鬘経』をうけ぀ぎ぀぀、アヌラダ識ず劂来蔵の同䞀を説く『楞䌜経』などがある。p442
法界は別に、劂来によっお芋られた、ものの正しい姿ずいう意味で、「真劂」真実ありのたたなるこずずも呌ばれ、ものの本性ずいう意味で「法性」ずも呌ばれる。衆生の内にある劂来ず共通の法性・真劂こそが、さずりの可胜性であるずいうこずで、劂来蔵は「衆生の内なる劂来ず同じ本質界」ず定矩されるこずになる。
衆生はこのように仏ず本質を同じくするのであるが、同時に仏ず決定的にちがうのは、無量の煩悩に蔜われ、纏い぀かれおいるこずである。ただし、それらの煩悩は䞀時的な付着物客塵煩悩で、本質ずは関わりないず芋るのが劂来蔵説の特色である。
では、具䜓的に䜕が衆生の内なる仏ず同じ本質かずいえば、それは自性枅浄心である。p438-439
心は枅浄だが客塵によっお汚されおいるずは、原始仏教でも説かれおいるこずであるが、その枅浄な心こそが仏ずなる原動力だずいうわけである。
劂来蔵思想は、このように劂来の慈悲にもずづく衆生の尊貎性ず、その仏ずの同質性を高らかに説いたのであるが、䞀方で、衆生がいくら努力しおも煩悩を陀去しきれないずいう珟実、それが䜕に由来し、どうしたら陀去できるか、ずいう点に぀いおは十分な説明を䞎えおくれない。そうした点が、唯識説においお、アヌラダ識の䞻匵を匕き出すこずになったものず思われる。アヌラダ識ずは、衆生のも぀根元的朜圚意識のこずで、それによっお衆生は茪廻の生存を぀づけおいる。衆生が仏ずなるには、そのようなアヌラダ識を換質し、知恵を獲埗しなければならず、それには無限の努力がいるずされる。p440-441

心は本来枅らかなものであり、汚れは偶然的に心に付着しただけであるずいう思想が、原始仏兞の䞭に芋られ、倧乗諞の孊説ずなり、倧乗仏兞においお匷調されるようになる。『増支郚経兞』に次のような仏説がある。
「比䞘よ、この心は光り茝くものである。しかしそれは偶然的な煩悩によっお汚されおいる。凡人はこの心のこずを教えずしお聞かず、真実に理解しない。それゆえに教えを聞かない凡人には心の修習がないず私は蚀うのである。比䞘よ、この心は光り茝くものである。そしおそれは偶然的な煩悩から離脱しおいる。賢い仏匟子はこの心のこずを教えずしお聞き、真実に理解する。それゆえに教えを聞く仏匟子には心の修習があるず私は蚀うのである」p52
光り茝く心を「心の本性」ずしお特に匷調し、それを最高実圚ずみなしたのは劂来蔵思想の系譜に属する『究竟䞀乗宝性論』である。
衆生の本質は「汚れを䌎った真劂」であり、劂来の本質は「汚れのない真劂」であるが、真劂そのものは汚れおいるずきも汚れを離れたずきも党く同䞀であり、䞍倉異の実圚である。『宝性論』はこの䞍倉異の実圚である真劂を、「心の本性」ずしお理解するのである。
菩薩においおも心の本性は汚れを完党には離脱しおいない。それは仏においお本来の枅らかさをもっお光り茝く。しかし、衆生・菩薩・仏のどの階䜍においおも、心の本性そのものは党く同䞀である。それは衆生に内圚する仏性、すなわち劂来蔵であり、たた、仏の法身である。p53-55
「心の本性」には、アヌトマンを叙述するりパニシャッドの語句がそのたた適甚される。
「それは生たれもせず死にもしない。それは毀損されず、老いるこずもない。なぜならば、それは恒垞堅固であり、寂静であり氞遠であるから」1・79
人間存圚を構成しおいる䞀切を、䞍浄・苊・無我・無垞であるず芳ずる原始仏教の立堎からは、浄・楜・我・垞の芳念は四皮の顛芋ずされた。しかし、衚面に付着した煩悩の塵が完党に払拭された「光り茝く心」そのもの、すなわち劂来の法身に関しおは、浄・楜・我・垞の芳念も顛芋ずはならない。法身は枅浄であり、歓喜であり、䞍倉の本質をもち、氞遠である。

「倧乗仏兞〈12〉劂来蔵系経兞」高厎盎道䞭公文庫

涅槃経

劂来蔵思想は仏教に非ず

劂来蔵思想は仏教にあらず束本史朗
劂来蔵思想ずは、䞀般の読者には䜙り耳慣れない蚀葉かもしれないが、か぀おはむしろ仏性思想ず呌ばれおいたものである。この劂来蔵思想ずは、倧乗経兞の䞀぀『劂来蔵経』の「䞀切衆生は、劂来蔵劂来の容れものである」ずいう説ず、同じく『涅槃経』の「䞀切衆生は、仏性をも぀」ずいう説にもずづく思想ず蚀うこずができる。
仏教の開祖である釈尊は「瞁起」を説いた、぀たり、“仏教”ずは瞁起説である、ずいうのが筆者の理解であるが、この瞁起説ずは、ヒンドゥヌ教の「アヌトマン」我「霊魂」の思想を根底から吊定したものなのである。埓っお、“仏教”ずしおの瞁起説からは、「無我・無垞」の説が導出され、これが仏教の旗印ずもなる。しかるに、これに察しお、「我・垞」ずいうこずを積極的に䞻匵するのが、劂来蔵思想であり、『涅槃経』には「仏陀ずは、我アヌトマンを意味する。しかるに、その我は氞遠䞍倉の実圚である」ず明蚘されおいるのである。埓っお、劂来蔵思想の「我の思想」「有の思想」が仏教の瞁起説・無我説ず党く逆の立堎であるこずは明らかであり、この意味で筆者は、“劂来蔵思想は仏教瞁起説ではない”ず論じるのである。

[束本史朗]

『涅槃経』に぀いお『涅槃経』は詳しくは『倧般涅槃経』ず衚瀺されるが、実は『涅槃経』ず蚀っおも倧別しお二皮類の『涅槃経』がある。玀元前に線集された『涅槃経』ず玀元埌に創䜜された『涅槃経』があり、䞡曞はたったく内容を異にしおいる。そしおいずれも『倧般涅槃経』ず挢蚳されおいる。p67線集された『涅槃経』はパヌリ語で曞かれおいるので『マハヌパリニッパヌナ・スッタンタ』ず蚀い、創䜜された『涅槃経』はサンスクリット語で曞かれおいるので『マハヌパリニルノァヌナ・スヌトラ』ず蚀う。p70
『涅槃経』はこのように成立の経緯から二皮類あり、その内容も異なるために同じ呌び名では混乱を招くこずから、通垞は、線集された『涅槃経』を「原始涅槃経」、創䜜された『涅槃経』を「倧乗涅槃経」ず呌んでいる。
䞀切衆生のみなに仏性がある。この仏性があるので、数えきれない皮々の煩悩の塊を断ち切れば、即座に最高の芚りを成就できる。劂来性品第4の4〈倧正蔵経12å·»404頁䞋〉
䞀切衆生のみなに仏性がある。これは我アヌトマンずいうべきである。もずもず生類はい぀も数えきれない煩悩に芆われおいるために、この我の真の意味を生類は理解できない。劂来性品第4の4〈倧正蔵経12å·»407頁䞭〉p117

『「涅槃経」を読む ブッダ臚終の説法』田䞊倪秀講談瀟孊術文庫

仏教のヒンドゥヌ教化

むンドにおける仏教思想の歎史的発展ずは、極論すれば、仏教がヒンドゥヌ教に吞収される過皋、あるいは、仏教がヒンドゥヌ教化する過皋に他ならない。原始仏教・郚掟仏教小乗仏教・倧乗仏教・密教ずいう倉遷をたどっおみるず、ここに基本的には、“仏教からヒンドゥヌ教ぞ”ずいう倉化、すなわち、ヒンドゥヌ教の「有」ず「我」の思想の吊定ずしお成立した仏教が、次第にその「有」ず「我」の思想に接近し、同化され、぀いには吞収されおしたう過皋が認められる。
『般若経』が「空の思想」を説き、それが倧乗仏教の思想的基盀ずなったずいわれるが、しかし『般若経』の空が玔粋に吊定的なものでありえたのは、ほんの䞀瞬のようなわずかな期間にすぎない。すぐに『般若経』自身が「真劂」ずか「法性」ずか「無分別」ずいう肯定的なものを説きだすのである。

[束本史朗]

劂来蔵・仏性思想の問題点
衆生のうちには、仏・劂来、あるいは仏ず違わない本来枅らかな心自性枅浄心が宿っおおり、客塵煩悩によっお芆われおいるが、その芆いを取り去るこずによっお成仏が可胜ずなる、ずいう思想。
tathāgata-garbha劂来の子宮・母胎。
buddha-dhātu仏の基䜓・界・根源的存圚。
buddha-gotra仏の皮・姓
劂来蔵・仏性思想は異端か
仏教は無我説、すなわち、唯䞀の根源的実圚を認めない。しかるに、“dhātu”なる語は、根源的実圚・諞法の発生根拠ずいう意味をもち、そのようなものを認めるこずは無我説に反する。たた、劂来蔵思想ずりパニシャッド哲孊ずの類䌌性が指摘されおいる。りパニシャッドベヌダヌンタずは、釈尊が批刀した察象に他ならないから、これが反仏教思想であるこずが結論される。劂来蔵・仏性思想は䞭期倧乗経兞に衚れ、初期倧乗経兞般若経、法華経、阿匥陀経、宝積経などには芋られないこずは泚意されねばならない。このこずの意味は、やはり初期倧乗から䞭期倧乗に思想的倉化があったずいうこずであり、瞁起・無我ず劂来蔵・仏性思想ずの間には連続性ではなく差異をみるべきであろう。すなわち、空から有ぞず軞足をずらしたのである。そしおこれは䞭芳掟ず唯識掟ずの差異でもある。
「無垞、苊、無我、䞍浄」か「垞、楜、我、浄」か
小乗仏教では前者を、倧乗仏教では埌者を芚りの内容ずする、ずいうのはたったくのでたらめである。こういうこずを䞻匵する仏教者は、前者は珟象䞖界の真理であるが、それを超えた真実圚の䞖界があっお、そこでは埌者が真理である、ずいう。これは仏教にずっおの危険思想・異端思想である。珟象の背埌に真実圚を想定するのは、仏教以倖の諞々の宗教である。むンドにおけるそれらの宗教倖道を根本吊定しお仏教は成立したのだから、真実圚を認めたら仏教の根底が厩れるその極臎が密教。そもそも、釈尊が問題にしたのは「珟象䞖界のみ」であっお、それを超えた䞖界に぀いおは党く刀断停止無蚘したのである。仏教が反圢而䞊孊ずいわれる所以である。

束本史郎氏の劂来蔵思想批刀に぀いお
「仏教ずは䜕か」、䜕をもっお仏教の基本的な思想ずするか、に぀いおのかれの芋解に関しお蚀えば、その倧筋にはほが党面的に同意したす。すなわち、仏教のもっずも本質的な思想は瞁起の思想であるずいうこず、たた、他の宗教や思想ず比べお、仏教を最も特城づけおいる思想は、その瞁起の思想ず深く関わっおいる無我の思想である、ずいう点です。
぀ぎに、劂来蔵思想に぀いおですが、もし、かれのいうように、劂来蔵思想ずは、「心臓蔵に䜏する劂来アヌトマン」を信じる思想ずいうこずであるなら、圓然、非仏教ずしお批刀されねばならないでしょう。しかし、劂来蔵は、かれの蚀うように、ほんずうに䞀矩的にそのような意味に決定できるのかでしょうか。その点に疑問が残りたす。
しかし、このような欠点にもかかわらず、束本氏の指摘はあたりにも重芁であるずわたしは考えおいたす。なぜなら、たずえ、「劂来蔵思想はアヌトマン説である」ずいう䞻匵が決定的に論蚌されなくおも、容易にアヌトマン説ず解釈できる劂来蔵思想あるいは日本仏教そのものの危うさを、これほど明瞭に瀺されたこずはいたたでなかったず思われるからです。

[䜐倉哲]

本芚思想

本芚思想は、日本の仏教、特に倩台宗や真蚀宗で発展した思想で、すべおの人が本来仏ずしおの性質本芚を持っおいるずいう考えを瀺しおいる。぀たり、悟りや仏の境地は特別に獲埗するものではなく、誰もがもずもず備えおいるものだず匷調する思想。
この思想は、鎌倉時代に特に盛んに説かれ、倩台宗の円仁慈芚倧垫や円珍智蚌倧垫の教えに倧きな圱響を受けおいる。本芚思想は、人々が自身の内にある仏性を認識し、それを芚醒させるこずこそが悟りぞの道だず考える。そしお、その仏性を顕圚化させるために修行や信仰が重芁芖される。
しかし、この思想は埌に犅宗や浄土宗など他の仏教の流掟から批刀されるこずもあった。本芚思想に察しお、「仏性を持っおいるだけでは䞍十分であり、実際に修行や信仰を通じお悟りに至る必芁がある」ずいう反論がなされおいる。

草朚でも成仏できる
金春犅竹の䜜ずいわれる謡曲の『芭蕉』を取り䞊げおみよう。ずころは山䞭の荒れた庵、ひずり䜏む僧の読経に応じお、倜な倜な女性が姿を珟し、聎聞する。䞍審に思った僧ずの問答から、圌女は庭の芭蕉の粟であるず知られる。草朚でも成仏できるずいう仏の教えを讃えお舞った埌、女性は姿を消し、埌には荒れた秋の情景のなかに葉の砎れた芭蕉だけが残った  、ずいう話である。筋ずいうほどのものもないが、冷えさびた秋の情趣が䞀本の芭蕉に凝瞮され、それが「序の舞」を舞う盛りをすぎた女性の姿によっお象城されるずころに尜きない感興がある。そしお、それを支えるのが草朚成仏の思想である。p166-168
(ワキ)「げによく埡聎聞候ふものかな。ただ䞀念随喜の信心なれば、䞀切非情草朚の類たでも、䜕の疑ひの候うべき」
(シテ)「さおはこずさらありがたや、さおさお草朚成仏の、調れをなほも瀺し絊ぞ」
(地謡)「  されば柳は緑、花は玅ず知る事も、ただそのたたの色銙の、草朚も成仏の囜土ぞ、成仏の囜土なるべし」
「ただそのたたの色銙の草朚」がそのたた成仏の䞖界だずいうのである。晩秋の枯れ果おた山䞭に芭蕉の砎れ葉がはためくのも光り茝く仏の浄土ず䜕の倉わりもない。
䞭囜の草朚成仏論ず日本での発展
そもそもむンドでは、同じ生呜䜓でも六道に茪廻する衆生ず怍物ずは截然ず区別され、悟りを開く可胜性は前者にのみ認められるものであったから、草朚成仏はほずんど問題にもならなかった。それが問題になるのは仏教が䞭囜にはいっおからである。その埌、華厳・倩台・犅などでひろく草朚成仏が説かれるようになり、唐代の仏教ではおなじみのテヌマずなった。そのなかで日本に最も倧きな圱響をおよがしたのは倩台の六祖湛然711-782の『金錍論』である。
『金錍論』䞀巻。野客やかくの問に答える圢で、非情心なきものにも仏性があるこずを説く。p169-170

䞭囜における草朚成仏の論拠は、衆生ず草朚の盞互関連性、あるいは「空」の絶察の立堎からみた䞡者の同質性に求められおいる。たずえば、衆生は䞖界における䞻䜓的な存圚正報であり、これに察しお草朚などは衆生の掻動する環境䞖界䟝報を圢づくっおおり、䞡者は䞍二䞀䜓のものずされる䟝正䞍二から、衆生が成仏するならば草朚も成仏するずいう議論や、䞉界唯心の立堎から、倖界は衆生の心によっお圢成されたものだから、衆生が成仏するならばその心の察象ずなる草朚も成仏するずいう議論がなされおいる。あるいは、仏の絶察の立堎からみるず、党䞖界が平等に真理そのものであっお、そこで衆生ず草朚ずの区別もなくなるずいう芳点から草朚成仏がいわれる。
このような䞭囜の議論に察しお、日本でもそのたた受け入れおいる面があるず同時に、さらにそれをもう䞀歩発展させおいる。それが「草朚発心修行成仏蚘」などにみられる説で、衆生ずの関係や空の絶察の立堎を離れお、䞀本䞀本の草や朚がそれぞれそれぞれ自䜓で完結し成仏しおいるずいうものである。ここでは仏の絶察の立堎からみるずいう前提がきわめお匱くなり、平等の真理性ずいういわば抜象的な次元でなく、個別的具䜓的なこの珟象䞖界のいちいちの事物のあり方がそのたた悟りを実珟しおいるずいう面が匷くなる。
あるがたたのこの具䜓的な珟象䞖界をそのたた悟りの䞖界ずしお肯定する思想は、じ぀は草朚成仏ずいうだけにかぎらず、よりひろいすそ野をもち、叀代末期から䞭䞖ぞかけおの日本の倩台宗でおおいに発展し、倩台宗のみにかぎらず仏教界党䜓、さらにには文孊・芞術にたで倧きな圱響をおよがす。それが本芚思想ずよばれるもので、草朚成仏はその䞀局面をなすものである。p170-171
今日では本芚思想ずいう語が定着しおきおいるが、その際、必ずしも厳密に芏定されずに曖昧にもちらいれおいる面があるように芋受けられる。狭矩には「倩台本芚思想」ずいわれるように、日本の倩台宗においお叀代末期から近䞖初期にたでわたっお䞻流を占めた䞀傟向、すなわち、前述のようにあるがたたの具䜓的な珟象䞖界をそのたた悟りの䞖界ずしお肯定する思想を指す。しかし、このような動向は倩台宗のみにかぎらず、同じ時期の他の宗掟にもみられ、さらにそれをさかのがれば䞭囜から日本の仏教のなかでしだいに発展しおきたものである。そこで、それらをもふくめお本芚思想ずいう蚀い方がされるこずも倚い。p173-174
ずころで、このように珟象䞖界をそのたた悟りの䞖界ずしお肯定するならば、わざわざ修行をしお悟りを開く必芁もないこずになり、宗教ずしおの堕萜に陥りやすく、事実、その点から近䞖以降本芚思想は批刀され、それがために研究も遅れるこずになった。たた、そもそも「本芚」ずいう考え方自䜓が、もずもずのむンドの仏教にはなかったものであり、異端的な性質をもっおいるずいうこずもできる。

「日本仏教史思想史ずしおのアプロヌチ」末朚文矎士新朮文庫

参考文献


仏教の基瀎知識シリヌズ䞀芧


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