荒川に「自由に撮って」と書いた写ルンですを放置してみた
上京して9年目になろうとする2025年の年の瀬。
初めて荒川を歩いた。
「川と言えば鴨川」で育った私は、荒川を毛嫌いしていた。
(だってなんかオシャレやし、シティ派っぽい感じが気に食わないから)
多摩川と浅川は別。上京組に寄り添ってくれる感じがしてなんか落ち着く。
まあそんな話はどうでも良くて、私はたまたま2025年の年の瀬に荒川を歩いたのだ。
年末年始が暇すぎ&用があって、歩くことになったわけであって、決して自分から歩きに行ったわけではない。
断じて違うから!私が東京に染まるわけがないから!
日本の首都は京都!!東京は東の都!!京都が本家!!
今回歩いたのは荒川とはいえ北の方。
赤羽駅から北に進んだ岩淵町のあたりだ。

赤羽駅から北区随一の繁華街、赤羽一番街を通り過ぎ北に向かう。
こんな飲み屋街の近くに鴨川のような川があるわけない…。
そう思っていた時期が私にもありました。

ななななななんか、シティだけど、程よいシティで寄り添ってくれる感じがあるぞ!
そうして歩いていると鴨川デルタにも似た場所を見つけた。
私以外に誰もいない。


徐にポケットから写ルンですを取り出す。
そう、私は写ルンです放置おじさんである。
「自由に撮って」とメモを取り付けた写ルンですを街中に放置するというよくわからない活動をしている。
こんな場所があったら写ルンですを放置するほかない!

そして何やら不思議な塔のようなものがあった。
調べてみると、青野正という彫刻家の『月を射る』という作品のようだ。
調べてみると1996年に荒川リバーアートコンテストで特賞を受賞した作品らしい。
少なくともそれくらいの時期からこの荒川の赤水門に聳え立ち、東京のビル群と、荒川を挟んだ埼玉の歴史をずっとここから見ていたのだろう。

私はこういう場所が好きだ。
都市という喧騒を少し離れた場所からじっと見つめるような、それでいて緑に囲まれ人々の憩いになる場所。
なぜ今まで荒川を歩かなかったんだろう。
私は『月を射る』の荘厳さに見惚れつつ、近くにあったベンチに写ルンですを置かせてもらった。
胸いっぱいに冬の冷たい空気を吸い込んで、吐いて。
こういう時間がずっと続けばいいのに。

河川敷の近くにあったお地蔵さんに、写ルンです放置が無事成功することを願って帰路に着く。
あれから2日経った2025年12月28日。
赤羽再上陸。
「写ルンですが無事そこにありますように」
そうお地蔵さんに心の中で語りかけながら、設置した中之島へ向かう…。

『月を射る』が目に入った時、自分がやっていることがどうしようもなく不安になった。
不特定多数の人に対して、自ら関係しに行く行為。
壊れるかもしれない場所に、あるいはなんらかの事情で紛失する可能性がある中、写ルンですを放置すること。
どうしようもなく、不安になるのだ。
写ルンですを放置することによって、何かが動き出してしまう。
現代ではあまり体験できない感覚である。
なぜか、写ルンですを放置したベンチを見ないように見ないようにと、『月を射る』から目を離さずに端を渡る。
結果を知るのが怖いからだと思う。
もし写ルンですがなくなったとしたら。
あるいは悪意によって壊されていたとしたら。
いや。
私は、性善説を証明したかったのか?
そうではない。
ただ、写真というメディアを再び関係性の記録に引き戻すこと。
写真を個人の表現から街と他者に拡大すること。
そして見た人に笑顔になってもらうこと。
だったら、写ルンですがなくなったとしても問題ない。
写ルンです放置によって関係を求めた結果、返ってこなかったという答えも正しい一つの正解である。
だが、現実は違った。

写ルンですはそこにあった。
そして残り枚数は。
ゼロ。
私が勇気を出して不特定多数に向けた行動に、名前も顔も住んでいる場所も人生も知らない人たちが好意的に受け止め、反応を返してくれた。
しかもそれが写ルンです、ひいては写真というメディアによって。
言葉はいらない。写真に写ったことが全て。

お地蔵さんに「ありがとう」と伝えて帰路に着く。
向かうはカメラのキタムラ。
この写ルンですにどんな人生が写っているんだろう。どんな関係性が写っているんだろう。
ポケットに写ルンですをカイロのように入れて寒空の下を歩く。
雑多とした赤羽の街も、暖かく感じた。

すぐさま最寄りのカメラのキタムラへ。
現像には2時間かかるらしい。
果たして何が写っているのか。
1時間50分後
予定時刻を待てないのが写ルンです放置おじさんである。
10分早いが写真を受け取りに行く。
そこに写っていたのは…





それぞれの人生が写っていた。
名前も知らない誰かが見ていた景色が写っていた。
私が写ルンですの無事を気にしながら、眠れない夜も、『月を射る』は、確かにそこにあったのだ。
当たり前だが、私が生きているこの瞬間、世界の裏側にも同じ時間を過ごしながら生きている人がいる。
その人の見ている景色、今までの人生、それは知る由もない。
だが、この写ルンです放置によってそれが垣間見れる。
嗚呼、ちゃんと生きているんだ、と。




なにをどう撮っても自由。
だからこそ写る。
写真は上手くなくても成立する。
撮影者が写真を撮影した、その事実だけで写真は写真として生き続ける。
だから、写真にミスショットなど存在しない。

真っ黒な写真も、荒川に訪れた誰かが写ルンですを見つけて写真を撮った、その証なのだ。
意味はわからなくていい。



写真は平気で嘘を着く。
なんらかの意思伝達として用いられた瞬間に、写真は世界そのものではなく、表現という名のもと世界を上塗りしてしまう。
それが悪いわけではない。
ただ、私は目の前に広がる世界に誠実でいたい。
写ルンです放置で撮影された写真たちは、どれも第三者から見て意味のある写真ではない。だからこそ、そこに写ったものは間違いなく本物なのだと思う。

やっぱりやってよかった。
こうして私は、美しき2025年最後の写ルンです放置を終えた。
年末年始は、京都に帰れないため、写ルンです放置おじさんの兄(実兄)に、京都の鴨川デルタに写ルンですを放置してもらう。
では次の写ルンです放置にて。
InstagramとYouTubeにて設置と回収の様子も動画化しています。
今までの写ルンです放置はこちらから。
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