下北沢に「自由に撮って」と書いた写ルンですを放置してみた
どうも、写ルンです放置おじさんです。
街に写ルンですを放置し始めて、もう二年近くになる。
同じことを繰り返しているようで、毎回まったく違う街へ行き、毎回まったく違う人と出会い、毎回、自分の思い込みが書き換えられていく。

だから、このシリーズは街を巡る記録というより、自分の頭の中のイメージを現像していく記録なのかもしれない、と最近考えている。
今日も今日とて
現像された写真を見て、気付かされる。
私が見ていたのは街ではなく、街に対する私自身のイメージだったということに。

コンクリートジャングルだと思っていた東京にも、人々の営みがあり、喜び悲しみ、誰にも語られることのない時間がある。
写ルンです放置は、街の魅力や誰かのイメージを写すのではない。誰にも語られることのない時間を写すのだ。
街とは、そうした時間の総体であると思う。結果として、その街そのものが写るのだ。
だから今日も、写ルンですを放置する。
下北沢、開演前
今回、私が向かったのは、下北沢。
下北沢といえば、音楽、ファッション、演劇などのカルチャーの街だ。
音楽なら SHELTER や BASEMENTBAR。演劇なら 本多劇場。
決して大きくはない下北沢という街から日々、作品が世界へ羽ばたいていくのだ。

たくさんの観光客が訪れるこの街において、その裏側にはカルチャーを生み出す人間もいる。
そんな彼らの、語られることのない時間を。
静かに、しかしたしかに燃えたぎる情熱を。
下北沢に訪れた人々の手によって写したい。
写ルンですよ元気で
とはいえ、久方ぶりにシモキタへ来た私。
記憶にあるシモキタとは違う。駅前がやたらと綺麗になっていた。
新たな玄関口となるバスロータリーができたらしい。

晴天中の晴天。こんな日には写ルンですがよく似合う。
私の記憶の中のシモキタとは違う景色に若干戸惑いつつも、ロータリー周りで設置できそうな場所を探す。
せっかくなら新しくできたバスロータリーの近くがいい。
東口を出て、コメダ珈琲方面へ向かう階段の横に放置してみる。

決して邪魔にならないよう、手すりの柱のすぐ横。
ここなら誤って踏まれることはないだろう。
しかし意外にも、写ルンですを地面に置くのは鴨川デルタ以来だ。
階段であれば、皆、下を向いて歩く。
だから気づいてもらえそうだと思ったのだ。
それじゃあ、写ルンです。
頑張ってくれ。
そういって、私は写ルンですから離れる。
しばしシモキタの街を散策してみよう。
シモキタは記憶で歩く街だ
オオゼキ前を通り、ヴィレバンへ。そして本多劇場。
本多劇場では仕事をしたことはないが、近隣の小劇場 楽園では、実は仕事をしたことがある。
東京を拠点に活動していた劇団”まぼろしのくに”の舞台写真を担当していた私は、彼らの公演である『カイコ』の撮影で訪れていた。

駅前のオオゼキは、その撮影の休憩時間に飲み物を買いに行った思い出がある。私が最後にシモキタを訪れたのはその公演の時期だったから、恐らく2023年である。
3年で駅前は変わった。彼らもいつしか公演をしなくなった。
ただ、シモキタの喫煙所だけは何も変わっていなかった。
換気が全くされない煙の中、今日も役者たちが本番を控えてタバコを吸い溜めしているのだろう。
シモキタは地図ではなく、記憶で歩く街だ。

語られない時間の多い街だ
だから私は思う。街は建物でできているのではない。誰にも見られない時間でできている。
華やかな街ほど、その裏側には、誰にも語られない無名の時間がある。ライブハウスのステージに立つ数十分のために、何年も歌い続ける人がいる。数時間の舞台のために、照明も当たらない稽古場で、何ヶ月も台詞を繰り返す人がいる。

私は舞台写真家として8年間ほど、語られない時間を彼らの間近で撮影してきた。
私たちが「カルチャー」と呼ぶものは、作品そのものではないかもしれない。誰にも見られない時間がぐちゃぐちゃに重なり合った跡を、あとからそう呼んでいるだけだ。
私は、その時間に敬意を払いたい。
それは、自分にも覚えがあるからだ。
私も昔は、何者かになりたかった。写真で生きていきたいと、本気で思っていた。芸事や、表現の世界は甘くなく、語られない時間しかなかった。
自分が積み重ねてきたものが、思いもよらない形で他人のものになっていく景色も見てきた。
だから私は、下北沢に写ルンですを置いたのだ。
成功した誰かではない。有名になった誰かでもない。まだ何者でもない誰かの、語られない時間を掬い上げたいのだ。
そしてそれは表現者だけの話ではない。
人は皆、語られない時間を過ごしている。幸せも悲しみも抱えて生きているのだ。私は、写ルンですで、全ての人生を受け入れたい。

写ルンですは無事か
そんな懐古に浸っていたら4時間ほど経っていた。
急いで駅前に戻り、写ルンですを確認する。
あった。
ポストの上に移動していた。
心優しい人が踏まれる懸念で、移動させたのかもしれない。

そして残り枚数は0枚。
ありがとう、下北沢。
ポストに貼られたステッカーの数に若干、シモキタ味を感じるが、急いで現像へ。今回はカメラのキタムラ新宿西口店である。
そろそろ案件が来ても良さそうな頃合いであるが。
信頼と実績のカメラのキタムラ。読者諸君、ぜひ利用してほしい。

現像後、写っていたのは。
下北沢、開演



名前も知らない誰かの「今日この瞬間」という舞台だった。
なんでもない午後だったかもしれない。だがその時間が今日、下北沢にはあったのだ。



この時間の堆積が下北沢を作っていく。
街は変わる。人も変わる。だが断絶ではない。人生という線が下北沢で交わり、変化していくのだ。



これらの写真を撮った人は、写真のことは覚えていないかもしれない。
だが、このフィルムは覚えている。
写真ってそういうことなのだ。




その人が夢を追っているのか、夢を諦めたばかりなのか、それとも何事もない休日を過ごしているだけなのか、私にはわからない。
だが、わからないままでいい。シャッターが切られたその瞬間、笑顔だったという事実。ただそれだけでいい。


下北沢、客電が落ちる
下北沢という街は、カルチャーの街だ。
でも私には、作品より先に人が見える。
まだ誰にも知られていない人。
何者かになろうとしている人。
あるいは、夢を追うことをやめた人。
友人と笑う人。
一人で買い物を人。
待ち合わせをする人。
そのどれもが、この街をつくっている。

私には、その人たちの物語はわからない。この写真を撮った人が、どんな人生を歩んでいるのかも知らない。だけど、わからないままでいい。
写真は、人の人生を理解するためのものではない。
理解できないまま、その人の存在を受け入れるためのものなのだと思う。

だから私は、これからも街へ写ルンですを置く。きっと次の街でも、私の予想は裏切られる。そしてまた、私の思い込みが現像される。
その繰り返しでいいのだ。
誰にも語られなかった時間は、今日もどこかで静かに流れている。
自分が何者かわからなかった時間も。
夢を追い続けた時間も。
夢を諦めた時間も。
誰にも評価されなかった時間も。
そのどれもが、確かに誰かの人生だった。
私は、その時間を掬い上げたい。
あなたが語れなかったのなら、代わりに私が写す。
あなたが歩いてきた時間が、確かにここにあったのだと、私が伝え続ける。
だから、写ルンですが街中に放置されていたら、写真を撮ってほしい。
あなたの「語られなかった時間」を、写ルンです放置おじさんに託してほしい。
ほな!
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