今日ときめいたこと758ー「日本史はいかに物語られてきたか」(河野有理著・新潮選書)を読む
本のタイトルからとても興味を持った。著名な歴史学者から今まで私が出会った本を書いた作家まで、どんな歴史観を持っていたのかについて解説している。
この本に登場するのはざっと20人。1人ずつの章立てになっている。著者がどうして彼らを選んだのかはわからない。
百田尚樹、渡部昇一、坂本多加雄、西尾幹二、上野千鶴子、網野善彦、佐藤誠三郎、山口昌夫、小松左京、梅原猛、吉本隆明、山本七平、松本清張、司馬遼太郎、遠山茂樹、家永三郎、羽仁五郎、山川菊栄、高群逸枝、平泉澄
若い頃に読んだけどさっぱりわからなかった吉本隆明。なぜ左翼の学生に支持されるのか疑問だった。西尾幹二は「新しい歴史教科書を作る会」のメンバーとして有名だった。今は自前の教科書不採択やらあいつぐ退会やらで自然消滅状態だとか。
山本七平は「イザヤ・ベンダサン」の名前で日本人論を展開していた。家永三郎は教科書裁判でその名を知っていたが彼の歴史観の変遷には驚いた。小説家として有名な百田尚樹は今や保守党の代表だ。この本の著者は「彼には史観が欠けている」と書いている。小松左京の近未来小説は読んだことがないが「日本沈没」のあらすじは知っている。社会派と言われた松本清張、国民的作家の司馬遼太郎。司馬史観とか言われて学者の歴史学より国民への影響力が大きい、特に明治時代については。
浅学の私が言い切ってしまうのは非常に無謀であることを承知の上で言ってしまうと、ここで取り上げられている人のほとんどが歴史学を古事記、日本書紀、天皇制、天皇の歴史を起点としていることに驚きを感じた。日本の歴史学は、それらをどう解釈するかで論争を繰り返した歴史のように感じる。ユニークなのは上野千鶴子である。フェミニズムの立場から「実証史学」の第一次資料は国家によって、つまり男性の視点で、作られたものであり、女性の視点が欠落していることを認識していないと指摘する。
日本の歴史は古事記や日本書紀から始めなければいけないものなのか。浅学無知な私には理解ができない。古事記や日本書紀は私にしてみれば物語、お伽話の世界にしか感じられない(まともに読んだことがないので偉そうなことは言えないが)高校の日本史も縄文・弥生時代から始める理由があるのか。そこから学ぶ意味を教えて欲しかった。遺跡だ発掘土器だのの内容と年代を覚えることにどんな意味があったのか。
私が大学に入った時、初めて唯物史観なるものを知った。入った大学が当時「マル系7割、近系3割」(経済学のこと)なんて言われていたところで、講読の教材にはマルクス・エンゲルスのものが選ばれていた。当時冷戦真っ只中だったから。井上清の「日本の歴史」を読んだ時には、「へー、こういう歴史の考え方があるのか」と感心したものだ。と同時に高校の歴史でこんな歴史観があることを紹介してもらいたかったと残念に思ったものだ。
閑話休題
で、この著書で登場した個々人の考え方が概観できたが、読後の感想は何だかとても中途半端な気分だ。どうしてみんな古事記・日本書紀、天皇制にこだわるのか。この著書は、今般の皇室典範改正を意識して書かれたものなのだろうか。日本史を学ぶには記紀から始めなければいけないのだろうか?いずれにしても皇紀2600年とか万系一世とか神話とか、私には全く興味のないことだ。これって浅学無知だから言えてしまうのだろうか?
