今日ときめいたこと775ー「孟母三遷」なんて言うつもりはないけれど、ホントによく変わったもんだ😂
ボルネオ島で生まれた娘3人の教育には選択肢がないながらも気を遣った。
仕事をしていたこともあって長女が生まれてすぐnursary保育園を探した。現地の友人が比較的良いとされていたFamily Planning家族計画協会 という組織の運営する半官半民のnursery を紹介してくれた。町にはプライベートのnursery がたくさんあったけど、まあ、そこが一番マシだった。一応看護師が常駐していたし。施設?それはもう日本などとは比べ物にはならないくらい汚かった。
何度も仕事を辞めて子育てしようかと思ったけど、マレーシア人は子供に優しいという一点で譲歩した。保育士などという資格制度などなかっただろうと思う。唯一マレー人の保母さんが看護師資格を持っているだけだった。長女はそこで現地の離乳食porridgeを食べて元気に育った。多民族の保母さんに見てもらったおかげで彼女は英語、マレー語、中国語が話せた。ただし親はそれに気づかなかった。英語を話すことは知っていたが、ある日中国人の友人が彼女と中国語で話したところ話せることがわかった。ついでにマレー人の看護師に確認したらマレー語も話すという。知らぬは親ばかり。
二女が生まれて7ヶ月してオーストラリアの大学院に子連れ留学をした。キャンベラのnursery の施設は素敵だった。でも保育士は冷たい感じで馴染めなかった。それでも長女と二女をそこに預けて学校に通った。でもこの年頃はよく病気になる。学校も休まざるを得なかった。そうこうしているうちにこのnursery が倒産した。ベビーシッターを雇ったりもしたがよく行った小児科医のおばあちゃんに「子供には両親が必要だ。夫の元に帰れ」と行くたびに言われ心がくじけた。学業を断念することにした。自分の能力の限界も感じていたし、長女の情緒も不安定だったと思う。もともと無理な話だったのだ。頭でわかっても体でわからないと納得しない性分なのだ。
またボルネオに戻った。長女は今度はボルネオの州都で唯一のインターナショナルスクールの幼稚園に入学した。その学校でただ1人のイギリス人の先生が担任になった。ラッキーだった。通い始めてすぐに長女の発音はマレーシア英語からBritish accentになった。そうこうしているうちに三女が生まれ二女と一緒に中国人の経営するnursary に入れた。三女が生後8ヶ月になったところで、首都クアラルンプールに引っ越すことになった。
初めに入居したコンドミニアムは「日本人村」と言われるほど日本人が多く住んでいた。建物の中にnursery があって日本人はみんなそこに入れていた。まるで日本の幼稚園だ。教育内容も教員のレベルも低そうで、大体日本人の悪ガキをコントロールできていなかった。そこを3日でやめさせた。
ちょっと離れたところにイギリスの教育制度に準拠するインターナショナルスクールの幼稚園があり長女はそこの二年次に入学した。教師はほとんどインド人で中国人がちらほらといた感じだった。そこはいわゆるお勉強の幼稚園で4歳でもう読み書きができた。二女と三女はイギリス人が自宅で経営する小さなnursary に入れた。
長女が5歳になった時、日本人学校の幼稚園に入れるかどうか迷った。クアラルンプールの日本人学校は建て替えたばかりだったけど(見にも行っていないが)、気が進まなかった。そこで首都で一番歴史があったインターナショナルスクールを見に行くことにした。インターナショナルといってもアメリカの教育制度に準拠したアメリカンスクールだ。欧米の子弟はみんなそこで学んでいた。
校長とアドミッション担当者に会い、いろいろ質問した。そこで日本人の感覚で、使用している教科書を見せて欲しいと言ったら、「ない」と言われて驚いた。教師が適宜教材を作ったりteam teachingで教えるという。
私の怪訝な顔(おそらく不安そうな顔をしていたのだろう)を見て校長が言った。「学校は計算が早くできるようにさせたり、単語をたくさん覚えさせたりするだけのところではないと思います。日本の教育はその傾向が強いですよね」
私は長女をここに入れることを決めた。二女もここに一年通った。
三女は例のイギリス式幼稚園に通った。数日で長女の発音はAmerican accent に変わった。
そして日本人村から出て、日本人が住んでいない学校近くのコンドミニアムに引っ越すことにした。この時オットは逆に単身ボルネオに駐在していたので全部1人で決めた。群れることが苦手な私は日本人が周りにいないことですごく開放的な気分になれた。
長女が4年生になる時帰国命令が出た。日本に帰ったら学校をどうしようか。日本の学校は夏休みに一時帰国するたびに2〜3ヶ月体験していたので、この学校を知ってしまったらもう日本の学校に入れるのは忍びなかった。アメリカンスクールには知識の習得以外に得るものがより多くあった。
調布のアメリカンスクールに入れることに決めた。一家で面接に行き、3人とも入学許可が得られない時は辞退する旨を伝えた。幸運にも3人に許可が降りた。学校はクアラルンプールの学校とほぼ同じだった。一クラス14〜5人で4クラスぐらいあったろうか。クアラルンプールの学校と同じようにボランティアとして毎日娘の教室で手伝いをした。娘たちが自転車で通える距離に家を借りた。
この学校に入ってからの経済的苦労は過去記事にあるので割愛する。すごい貧乏物語である。

