中央大学科目等履修生(高校生) 三
中央大学文学部の「特別教養(歴史研究)」全14回の授業のうち、はじめの7回(2~8回)は担当の先生方による講義となっている(初回はガイダンスである)。
では残りの6回は何をするのかといえば、科目名が示すように、実際に歴史研究をやってみようというものだ。
その内容は、実際に大学の保有する博物館へ行って、展示や収蔵の方法を見学したり、史料の修繕法を学んだりといったものである。
そして、その最後を締めくくるのが、提示された無数の史料のうちから一つを選択し、選択したものの翻刻や、資料作成当時の時代背景などの調査といったことに複数班に分かれて挑戦。最終的にはスライドにまとめ、檀上に出て発表することになる。
もっとも。一班だいたい6~10名(合計二班)で、発表者・研究者がともに自分一人ではないというのはせめてもの救いであったが、その一方、これまでお世話になった先生方の前で発表するということになるのであるから、けっして気楽にできるものではない。
話は戻るが、前半8回の講義を終えると、不意にどこか寂莫感というか、茫漠とした感情に襲われた。
無事に前半を乗り切れたことに対する安堵というわけでは、どうもないようで、むしろ、ああこれで終わってしまうのか、といった感情に近かったと思う。
むろん、これからも講義は続く。それに、ナマの史料に触るなんて経験、そうそうできることではないのだ。実際、この科目に参加を決めた当初は、前半の先生方持ち回りの講義よりもむしろ、こちらの方に魅かれていたのだ。
だというのに、いざ蓋を開けてみれば、先生方の語るそれぞれの研究対象や、歴史へのアプローチの仕方というものはどうにも魅力的で、個性的で、気づけば8週間が過ぎ、いつもあの教室で聴講した、毎回新たな先生が日替わりで登壇する形をとった、研究紹介は終わってしまった。
今回のテクストとなる「歴史学の見方・考え方」という本は、中央大学文学部の研究者17名の研究を、それぞれの筆を通して紹介する、オムニバス形式の一冊であった。
これだけの人数が、それぞれ違った方面の研究に取り組むことができるというのは、内容が被らないという点では大きなメリットであるのだろうけれど、言い換えれば、それは人類史上の何千年という膨大な(そして、理系の立場から言えば本当にちっぽけな)時の流れの中に起った数多の文明や国家の残した、茫漠とした歴史の海のほんの一角で、僅かな部分を見るだけでその全体を把握しようともがき続けているということになる。
なんて、つかみどころのないものなのだろうか。
歴史というものは。
こんなこと、理系の分野では考えたことがなかった。
獣医学にしろ天文学にしろ、自然科学全体でいえば本当に小さな一点でしかなく、その自然科学すらも、実際の世界に占める大きさは微小だというのに。
哲学にしろ、宗教学にしろ、これまで僕が興味を持ってきた科目ではそんなこと、考えた事がなかったというのに。
なぜ、歴史学だけ。
「歴史家」のように、専攻する学問の後ろに「家」を付け自分を指すことのできる分野は他にはなかなかないと言ったのは、どの先生だったか。
心理学も、民俗学も。まあ、「医家」という言葉はあるにはあるが、これは純粋に技術を修めた人のことを指すのであって、学問の道を歩む人のことではないから、除外してよいのではないか。
そう考えれば、確かに歴史学は異質なのかもしれない。
他の学問、例えば自然科学、例えば哲学、宗教学、心理学etc.
これらはすべて、新たに道を切り開いていく性質を持つ学問だ。よく言えば、法則であったり類似性であったりというものを見つけていくものだが、一方ですべてが仮定に基づくものであるといってしまえる(そう言っては元も子もないが)。*
その一方で。確かに歴史家は仮定を立てる。
しかし、あくまでもそれは「過去に向き合うため」のものだ。
その先生は、歴史というものは未来に活かすために学ぶものではないと言われた。
いまのところ、歴史家でも何でもない僕に、その真意は分からない。
でも、歴史というものは確かに過去にあったことであり、それが何億という人の生きた時代と繋がっていることを考えれば、これほど異質な学問はないように思える。
結局のところ、歴史とは何なのか。
文字に書かれたものか。それとも、いわゆる「史実」のように、紙には書かれなかったが実際に起きたことを指すものか。
どちらが正しいのであれ、どうやら歴史というものは、思っていた以上に漠然としていて、確たる形を持たないもののようだ。
それからしばらく。
身体を壊して、2週間休んだ。その間に、ぜひやりたいと思っていた「資料の保存」についての講義は終わってしまった。
