R. Pipes, ボルシェヴィキ体制・第6章-05、第三節/検閲①。
R. Pipes, Russia under the Bolshevik Regime (1994).
第6章・プロパガンダとしての文化。
第三節/共産主義と検閲①。
(01) 共産主義体制は、二つの装置によって文化活動を統制した。文化組織に対する検閲と独占だ。
検閲は、ロシアの伝統だった。最初に1826年に制度化され1906年まで施行されたが、これはヨーロッパの他国が検閲を放棄してからだいぶ経っていた。
1864年まで、検閲は、最も負担となる「予防的」(preventive)な形態で実施された。すなわち、全ての原稿は、出版または上演の前に、それら許可を得るために、検閲を受けなければならなかった。
検閲のこういう形態は、近代のツァーリ・ロシアに独特のものだった。
1864年に、新しい検閲法典が、「予防的」なそれを「制裁的」(punitive)なそれに変えた。それによると、執筆者や編集者は、問題となる内容が公表されたあとで、訴追に服した。
検閲は、1906年に廃止された。しかし、1914年に、ロシアは、他の交戦諸国と同様に、軍事検閲を導入した。
臨時政府は、1917年4月27日、プレスに対する残っている規制を撤廃し、行政的制裁から解放した。但し、軍事機密の暴露については別だった。(注35)
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(02) ボルシェヴィキが権力を掌握したまさにその日に採択した最初の法令(law)は、彼らのクー・デタに反対する新聞の抑圧を求めるものだった。このことは、ボルシェヴィキが情報と世論を統制することに認めた重要性を示している。
新聞の抑圧は、1917年10月27日の人民委員会議の布令(decree)によって行なわれた。この布令は、「一時的で緊急な措置」として、全ての「反革命的」新聞の閉鎖を命じた。(注36)
ボルシェヴィキの心理にはもっと切迫した物事が他にあるとき、このように急いだのは、レーニンの確信によって説明することができる。すなわち、「プレスは、政治的組織にとっての中核であり、基盤だ」。(注37)
換言すると、プレスの自由は政治的党派の結成の自由と同等の意味をもつ。
この布令は印刷組合を含む全ての分野からの抵抗に遭遇し、ボルシェヴィキのそれを含む全てのプレスを閉刊させると脅かしたので、静かに停止しなければならなかった。
これに代わったのは、別の、1918年2月の、より緩やかな検閲制度だった。これによると、出版する権利は、企業の編集者の名前と住所が当局に届けられている場合は、全ての市民に認められた。
諸新聞は、政府の布令と規制を第一面に掲載するよう要求された。(注38)
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(03) 包括的な検閲の仕組みがなくとも、新しい体制は、つぎの5年以上にわたって、プレスの自由を規制するさまざまの手段を採用した。そのうち、積極的な効果をもったのは、独立の出版活動を窒息させることだった。(注39)
まず、大都市に、Sovnarkom〔人民委員会議〕に従属した「プレス人民委員会(Commissariats of the Press)」を設立した。これは、敵対的な出版物の発行を停止させ、それらを没収する裁量的権限をもった。(注40)
1917年12月の布令は、類似の権限をソヴェトに与えた。(注41)
1918年1月28日、新しい抑圧制度が生まれた。革命審判所に付属したプレスに関する革命審判所が、「虚偽のまたは歪曲した情報」を出版した罪のある編集者や執筆者を審理することとされた。(注42)
この段階での検閲の責任のほとんどは、実際には、チェカ(Cheka)にあった。チェカは、その地方支部を通じて、敵対的な出版物に関する情報を収集し、その責任者たちを革命審判所へと引き渡した。
チェカは、彼らの見方では共産主義独裁の打倒のために活動している新聞を閉刊させた。
このようにして、ボルシェヴィキによる支配の最初の7ヶ月(10月~5月)に、130以上の「ブルジョア」および社会主義の新聞が閉刊された。(注43)
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