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R. Pipes, ボルシェヴィキ体制・第6章-07、第三節/検閲③。

 第三節/共産主義と検閲③。

 (07)  独立系プレスは、1918年の夏に、最終的に廃絶された。これは、予想されたボルシェヴィキの内戦での勝利の2年前のことだった。
 その過程はモスクワで、7月7日に全ての非ボルシェヴィキの日刊紙の閉刊とともに始まった。その日、ラトヴィア人兵団は、左翼エスエルの蜂起を鎮圧した。(注50)
  この閉刊措置は緊急の手段だったが、7月6日以前に行なわれた、新聞紙、雑誌、小冊子、広報、印刷物の発行の許可が取り消されることによって、二日後に合法化された。それ以降、このような出版物は、政府やロシア共産党の機構が作成して配布したものを除いて、発行が禁止された。(注51)
 この禁止は、もともとは首都に対してのみ適用された。そして、ロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国の最終的な確立と勝利まで効力があるものととされた。(注52)
 しかし、まもなく、ボルシェヴィキが支配する全領域へ拡張され、二度と廃止されなかった。
 1918年7月19日、〈Izvestiia〉は、ロシア・ソヴィエト社会主義連邦共和国(RSFSR)の憲法を掲載した。その第14条は、労働者に「真の」(true)見解発表の自由を保障するために、政府は首都の印刷物(〈pechat〉)からの防衛を廃止し、労働者と貧農層に出版を委ねる、と定めていた。(注53)
 この条項は、非ボルシェヴィキのプレスに残されていたものを組織的に抑圧する、法的根拠を提供した。
 この年の末までに、合わせて200万の発行部数のあったモスクワの150の日刊紙が閉鎖された。(注54)
 諸地方のプレスも、同様の運命に遭った。
 赤色テロルが始まった1918年9月までに、暴虐(atrocities)について報道する独立したプレスは、ソヴィエト・ロシアには、残っていなかった。
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 (08) レーニンは、日刊新聞紙とともに、そのいくつかは18世紀から存在していた月刊雑誌、ロシアで著名な「厚い諸雑誌」(thick jounals)を廃絶させた。〈Vestnik Evropy〉、〈Russkii Vestnik〉、〈Russkaia mysl’〉その他数十の雑誌だ。
 一撃のもとで突然に、ロシアの指導的な論壇誌、美学の普及のための主要な媒体が、消え失せた。
 この国は、情報や意見は国家の排他的な領分だった、そういうかつての使徒ペテロ以前のロシアを支配した状態へと後戻りした。(注55)
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 (09) レーニンは、ツァーリ体制に似て、書物(books)に対しては多大の寛容さを示した。書物は、比較的に少数の読者にしか読まれなかったからだ。
 しかし、彼は、この分野でも、出版所とプレスの印刷を国有化することによって、表現(expression)の自由を制限した。
 レーニンが1917年12月に設立し、Narkompros のもとに置いた国立出版所(Gosizdat)は、書物の出版を独占するものとされた。この権能によって、国立出版所はのちに、書物の検閲も任されることになる。(脚注)
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 (脚注) これにつき、A. I. Nazarov, Oktiabr’ i kniga(Moscow, 1968), p.135-p.188 を見よ。Gosizdat は実際には、ようやく1919年5月に機能し始め、1921年12月12日に、検閲する職責を獲得した。
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 出版(publishing)の統制は、1919年5月27日に導入された出版物(paper)の国家独占によって、効果的なものになった。(注56)
 1919-1920年に、国家は、書物とその他の出版物の販売を、独占した。(注57)
 1919-1923年、いくつかの私的な出版会社が、しばしばGosizdat からの委託を受けて仕事をすることで、ペテログラードとモスクワで何とか継続した。
 地方では、独立した出版は、完全に終止符を打った。その地域では、1919年までに、事実上は全ての書物が、Gosizdat の地方支部を発行者にしていた。(注58)
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 (10) 1921年10月、チェカは、予防的な軍事検閲を実施する権限を与えられた。(注59)
 「軍事機密」という語は、定義されなかった。すなわち、この手段の効果は、軍事問題とは関係のない出版物を検閲する権力を拡大することだった。
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 (11) 1920年、遡及的検閲を行なう珍しい試みがなされた。
 レーニンは、政治的啓蒙のための主要委員会と称される新しいプロパガンダ部局(Glavpolitprosvet)に、Krupskaia 〔レーニンの妻〕を任命していた。彼女は、ソヴィエトの図書館から「時代遅れ(obsolescent)の文学を排除(purge)」するべきだ、と決定した。
 Krupskaia は、啓蒙人民委員部に、ソヴィエトの図書館は、つぎの94人の著作を2部ずつ「特別保管所」(Spetskhran)に残すほかは、全ての著作物を廃棄するよう、指示させた。94人に含まれたのは、Plato、Descartes、Kant、Schopenhauer、Herbert Spencer、Ernst Mach、Vladimir Solovev、Nietzsche、William James、Leo Trostoy、Peter Kropotkin だった。(脚注)
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 (脚注)  SV, No.21/22(1923), p.8-9; R. Fülöp-Miller, Geist und Gesicht des Bolshewismus(Zurich, 1926), p.75. 1923年にもう一度発せらているので、この命令は、実行されなかったように見える。S. A. Fediukin, Bor’ha s burzhuaziei v usloviiakh perekhoda k NEPU(Moscow, 1977),p.170-1 は、人名列挙はKrupskaia が行なったのではない、彼女はそれを取り消した、と主張する。Pravda, No.81(1924年4月9日), p.1を見よ。
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 ④へ。