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借金4000万/うつ病/トップ当選/元市議のしくじり人生

私のキャリアを簡単にハイライトしますと、群馬県で生まれて、大学で上京して、大学卒業前にシェアハウスの会社を起業して、WEB制作会社で2社目の会社を起業して、会社を譲って28歳で地元群馬に戻って、30歳の時に高崎市議会議員選挙に初出馬して初当選して、34歳の時に2回目の選挙でトップ当選して、38歳の任期満了のタイミングで議員引退して、起業家に戻った、みたいな、そんなやつです。これだけ見ると順風満帆なキャリアに見えますが、綺麗なキャリア語ったところでなんも面白くないと思うので、ちゃんと裏の話をしようと思います。


人生のどん底part.01

消費者金融を借りまくった起業初期

私の1度目のどん底は、最初の起業から2年後くらいのこと。一応日本では一番最初の「シェアハウス」の会社を起業しまして、テレビや雑誌や新聞にもたくさん取り上げられてた時期があったのですが、華々しく見られてた裏側では2年間月給3万円しか給料が取れない期間が続き、5社の消費者金融からお金を借りまくって、もうどの消費者金融も貸してくれなくなって、人生詰んだと思うには十分なくらいまでは、落ちました。

私もまぁまぁな社会不適合レベル高めな人間なんですが、シェアハウスにも社会不適合な愛すべきクソ野郎がたくさん住んでまして、家賃滞納額が合計数百万円あったり、私の経営能力が著しく低かったりで、そんな状況に陥った感じです。その後の復活劇の話は長くなりそうなので、別で書きたいと思います。

テレビ放送。なんの番組だろうこれ。

コミュニティ屋さんとしてのシェアハウス事業

シェアハウス事業って一般的には不動産事業に括られることが多いですが、私の場合は、軸足は完全にコミュニティ事業でした。良い物件があったら新しい棟を増やす、とかではなく、コミュニティの中で愛せる愛されるコミュニティリーダーが出てきたら、その周りにコミュニティをつくるように新しい棟を増やす、みたいな展開をしていたような感じです。

どんな業務してたかって言うと、ただいまおかえりを言ったり、夜な夜なチューハイ片手に話したり、ホームパーティー開催したり、ロウソク灯して家族会議したり、あと毎年東京から富士山まで無一文で歩いていく富士バカっていうイベントやったり、仕事と遊びの境界は極めて曖昧ですが、めっちゃカジュアルに紹介すると、そんな仕事でした。

なぜ始めたかというと、大学時代にコーチングの武者修行で300人くらいの相談に乗らせてもらってる中で、自分らしくいられる居場所の少なさを痛感して、家族みたいな、みたいな、人の居場所になれるようなコミュニティを東京で作りたくて、大学時代に出会った友達と2人でシェアハウスの会社を起業をしました。

今でもそのコミュニティというか、一緒に過ごした仲間たちは宝物ですし、楽しいことも大変だったことも含めて、本当に愛おしい時間でした。

富士バカのアフターパーリー

群馬に帰りたい!

幼い頃に育った環境の温かさや、上毛かるたという郷土愛洗脳ツールによって、上京してからも群馬愛が抜けなかった私は、いつか群馬に帰るっていうことをなぜか決めてまして、会社を譲ることを目指して立ち回り始めたのが27歳くらいの時。途中、オフィスのあった池袋高崎の真ん中くらいにある行田に住んで悪あがきをしてみたりもしつつ、何とか東京から離れられる算段がつき、群馬に移住することに。

社長退任式の様子。Facebookから引用

市長を目指して?群馬へ移住

コミュニティ屋さんとして自分は群馬で何が出来るんだろうっていうのを考えた時に、シェアハウスをやるのも地域柄しっくり来ないし、なんとなく「地域コミュニティを支えてる地方政治ってコミュニティ屋さんの仕事かも!」と思って、社長退任式では「群馬に帰って市長になるわ」と仲間たちに言い放って東京を離れてきました。

当時の私は、地方政治の仕事って市長しか知らなくて、地元に帰ってから市議会議員っていう仕事があることを知り、「もしかしたら、コミュニティ屋さんの仕事って市議会議員の方が近いかも」と思い始めて、市議会議員を目指した感じの流れです。

なので政治リテラシーはほぼゼロからのスタートでした。

雀荘からJCへ

地元を10年近く離れていた自分が、つながりを作るために最初に訪れた場所は雀荘でした。雀荘に遊びに行き、知らないおっちゃんと麻雀を打って仲良くなるという活動を始めましたが、半年くらい続けるうちに「なにか違う」と思い始めました・・・そんな時、同年代くらいの経営者がたくさん入っている青年会議所(JC)っていう集まりがあることを知り、JCの門を叩きました。

「市議会議員になりたいんですけどどうしたらいいですか?」って色んな人に言ってたら、JCの中に市議会議員をやっている先輩がいることを知り、その先輩に相談しました。ちょうどその先輩が市議会議員を辞めるタイミングも重なり、運も味方して、その方の地盤を受け継がせていただき、2015年に30歳で初出馬することに。

(今思うと、現役の市議会議員にそんな相談するのは決して得策ではないです)

いざ、市議選へ

よそ者・落下傘としての市議選出馬

私が生まれた場所は安中市という場所でして、隣の高崎市は昔から生活圏ではあったので、東京に住んでいた私にとっては群馬全体が地元で、高崎も全然「地元」なんですが、選挙に出るとなるとその土地で生まれ育ったわけではない人間は大体「よそ者」です。いわゆる落下傘候補と呼ばれるやつで、あいさつ回りを始めた初期の頃は「どこの馬の骨かもわからないやつが」と言われたこともありました。

落下傘候補(らっかさんこうほ):その土地に地縁・血縁の無い人が立候補すること。または立候補したその人本人を指す言葉。

wikipediaより引用

よく選挙では3つのバン(地盤看板かばん)が必要だとかって言われます。私にはひとつもありませんでしたが、運良く地盤を譲っていただけて、地域の方々に受け入れてもらうのは決して簡単なことではありませんでしたが、結果的に、地域の方々に支えられて、たくさん愛していただき、今でも住んでいる大好きな地域を地盤に選挙を戦いました。

地盤(じばん):地域に後援会や支持者ネットワークがある状態を「地盤がある」って言う。ここで言う地域とは、選挙区全体ではなくて、選挙区の中でも特定の地域(町や学校区など)を指すことが多い。
看板(かんばん):候補者の知名度や、肩書き・イメージなどを指す。有名人や有名な団体の長などの場合「あの人は看板がある」って言われる。看板があるかないかの線引きは曖昧。
鞄(かばん):お金の入った鞄=選挙資金のこと。「かばんがある候補は派手な選挙運動ができる」みたいに使う。

人が集まるところに、人は集まる

JCやお祭りで一緒に汗を流した仲間・後輩・先輩たちが応援してくれたこと、地盤を譲ってくれた先輩が二人三脚で選挙を戦ってくれたこと、地域の人たちが自分の家族のように私を可愛がってくれて勝たせようとしてくれたこと、家族・親戚が血眼になって一緒に戦ってくれたこと、地元の友達が応援にかけつけてくれたこと、東京からたくさんの選挙権のない仲間たちが応援に駆けつけてくれたことなどが、最初の選挙で当選できた要因ですが、そのどれもが、互いに相乗効果を持って、応援の輪が波紋のように広がっていくのを感じました。

東京からかけつけた選挙権のない仲間たち

不思議なようで当たり前のような話ですが、人間には「人が集まるところに、人は集まる」という習性があり、それが例え選挙権があろうがなかろうが、そこに人が集まっているという状況が生まれると、さらに人が集まってくるものです。なので、最初の「人が集まる」を作り出すまでが一番大変な時期でして、私にとって、人が集まらない時期にも支えてくれた先輩・後輩・仲間がいたことが、本当にありがたいことでした。

地元地域での決起大会の様子

議員生活のはじまり

肩書きの取り扱いに困惑する議員初期

2位当選という素晴らしい成績で当選をさせていただき、議員生活がスタート。同期や先輩議員にも恵まれ、地域の方々にも良くしてもらい、新しい環境・新しい立場での仕事は、充実感もたくさん感じられました。一方、議員という肩書きは当時の私にとって非常に大きく、困惑したり調子に乗ったり調子に乗らないように自戒したり、とにかく肩書きの扱い方が分からず、浮足立った感覚で暮らしていたのも事実です。

当選後の地元の新聞

ちゃんとするのが苦手で、ADHD傾向が強くチック症に悩まされていた社会不適合性のまぁまぁ高い私が、急に議員という立場になり、地域の方や市役所の職員さんから特別扱いをしていただく機会が増え、なんなら時に「先生」なんて呼ばれるようになり、それはそれは、まるで自分が素晴らしく高尚な人間なのではないかと錯覚しそうになるほどでした。

そうしているうちに、徐々に議員という肩書きが、元来私が大切にしてきたアイデンティティや「らしさ」までをも侵食していきました。聖人君主のような扱いをされる機会が増えるにつれ、次第に自分でも聖人君主のような振舞いをしようとするようになり、「失敗しちゃいけない」「評価を下げるようなことは絶対にしちゃいけない」「ちゃんとしなきゃちゃんとしなきゃ」と、がんじがらめの箱に自らを追い込んでいくようになります。

評価を下げるのが怖い…人の目が怖い…

自分で会社をやっていた頃は、お客様は神様でもなんでもなく、自らもお客様を選んでいたし、人間関係を自ら選べるということは、自分が豊かに暮らすために大切にしていた条件でした。それが議員になったらどうでしょう。気づくと、漏れなく関わるほぼ全員が税金を払っているお客様になり、私はそのお客様の税金で飯を食わせてもらっている立場になり、お客様を選ぶ権利など一ミリもなくなりました。

割とそういうのを真面目に考え過ぎてしまうこともあるんですが、自分の中で急に「お客様は神様かもしれない…」と思うようになりました。悪い意味でね。

お客様を選ぶ権利を失った私は、時に二枚舌のような回答をする(あっちで言ってることと、こっちで言ってることが違う)こともあったし、「価値を出すこと」よりも「評価を下げないこと」に必死になることも増えました。常に評価の対象になっていた感覚もあったため、人の目がずっと怖かった

平日にスーツを着ないで私服で街を歩くことなんか出来なかったし、家にいる時も、駐車場に自分の車が置いてあるのが外から見えるため「サボっていると思われていないだろうか…」という意識が家の中にまで付きまとうくらいでした。それが怖くて、どうにか忙しくするために、自ら地域プロジェクトを立ち上げまくったり、場を作ったりをしていたところもあったかもしれません。

予算執行権がない…議員の権限について

私の議員生活は、税金に頼らない地域プロジェクトを立ち上げることと、公助ではなく共助で回る生態系を作り出すことに必死になった8年間だったのですが(詳しい内容は別途また書きます)、そうせざるを得なかった理由のひとつが「予算執行権」でした。

議員は、首長が「来年はこういうことにお金を使います」と出してきた予算案を見て、質問したり意見を言ったり賛成したり反対したりする権利はありますが、その予算を使って何かを実行する権利は持っていません。「そんなくらい議員になる前から知っておけよ」って思う方も中にはいると思いますが、そんなことも知らずに議員になったのが私です。

なんとなく、議員になったら地域を変えられる、何かを決められる、大きな力を動かせる、といった漠然としたイメージを持って議員を志したのですが、想像してたよりも権限が小さいことを、なってから認識しました。

余談ですが、議員の発言で時々見受けられる「あの道路はオレが作りました」「あの施設は私が建てました」っていう自慢話は、アレオレ詐欺って呼ばれたりするみたいです。たしかに、「アレ」は「オレ」が作ったんじゃなくて、市役所の職員さんが発注して、土建屋さんが汗水流して作った道路なので、たしかにたしかに。

会社で言うと社外取締役?二元代表制?

実行する立場ではないけど、意見をしたり、時に背中を押したり、時にブレーキをかけようとしたりする立場が議員の立場なので、会社に例えると、議員の立場は社外取締役とかが近い気がしています。私が議員になる前の政治リテラシーほぼ0だった頃に持っていたイメージは、首長が代表取締役で、議員は取締役くらいなイメージを持ってましたが、なってみると社外取締役でした。「そんなくらい議員になる前から知っておけよ」って思う方も中にはいると思いますが、そんなことも知らずに議員になったのが私です。

地方政治における首長と議員の関係は二元代表制と言われます。この二元代表制という言葉は、「両翼」「両輪」と対等な横並びに例えられることが良くあり、対等な関係で進んでいくというニュアンスでそう例えられるのですが、この表現は若干のバイアスが掛かった例えだと私は感じています。同じように「対等ではない」「権限が小さい」と感じている議員さんは多いと思います。ニュアンス的には、前輪/アクセル(首長および執行部)と後輪/ブレーキ(議会)の表現の方が実態に近いです。

二元代表制:住民が首長(知事・市長)と議員の両方を別々の選挙で直接選ぶしくみのこと。両者が対等な立場で互いをチェックし合う点が特徴です。

やべぇ。選挙で約束しちゃった…

予算執行権がないことも知らず議員になった私は、選挙の時に堂々と公約を掲げた自分に対して、じわじわと違和感が滲んできました。つまりは、掲げた公約を実行する権限も責任も持てない立場なのに、「これ絶対やった方がいい!」って意見することしかできないのに、オレ、選挙の時に「これやります」って宣言しちゃったよね…?ヤバくない?

選挙のときに作ったパンフレット

議会の中でも、上記のパンフレットで掲げた内容はすべて意見として「これ絶対やった方がいい!」って発言はしました。発言はしたものの、議会活動によって実現したものはほぼありません。市長がやらないって言うから実現しなかった!と市長のせいにするのは簡単ですが、市長には市長の思い描く街づくりのイメージがあって、ここに予算を割くということは他の予算が減るということでもあって、私の意見を受け入れて実行するのが正しいわけでもなんでもないし、なんならただ自分がやりたいことを言っただけでもあって…

抜いた刀の納めどころ

議員選挙で公約を掲げた場合、「行政に対してこういう意見をします!」という約束は確実に果たせます。議会で発言すれば果たせるので。ただし、「これを実現します」という約束をしてしまったのであれば、それを責任を持って果たすのであれば、一つしか道は残されていません。そう、自分でやるってことです。税金に頼らず、自らリスクを背負って、やればいいのです(怖)

結果的に、パンフレットに掲げた公約は私なりに全て形にしたのですが、そんな経緯もあり、私の議員生活は、地域プロジェクトを立ち上げまくった8年間でした。私以上に民間プロジェクトを立ち上げた議員を知らないくらいまでは、やりました。一方で、行政のチェック機関としての議員活動は、他の議員さんの方がよっぽど一生懸命やってたと思います。私なりに議員として最大限の正解を追いかけた結果ではありますが、これが議員としての正解では決してない(むしろ一般的に間違い寄り)と思うので、自慢には決してなりませんが、自分に対して胸を張れた8年間は送れた気がしています。

人生のどん底part.02

野外音楽フェスティバルの復活?

私が掲げた公約の中で、最も具体性のある(誤魔化しようがない)公約が「野外音楽フェスティバルの復活」でした。ここで4000万円の負債を背負うことになるのですが、この話はまた後編にしたいと思います。つづく

野外音楽フェスティバル「グンマー★一揆」の様子

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