見出し画像

モダン・ダイアローグ 8 ふみを残す者


ふみを残す者


登場人物

ソクラテス ……問いを重ねる老人

ムネーメー ……人に読ませるために
        書かれたものでなくても、
        残す価値があると考える女

クリティコス …読む者に届くまで、
        文章は書き直すべきだと
                          考える男

青年 ……………書きためた紙を、本に
                          まとめようとしている者


広場の端の小さな書庫で、
青年が紙の束を揃えていた。
机に底を打ちつけるたび、
違う場所から一枚ずつはみ出した。
向かいではムネーメーが、
針に糸を通していた。
ソクラテスが入口から覗いた。

「ずいぶんあるね」
「六十篇です」
「読むのかね」
「書いたんです」

老人は、机の上の束を見た。

「いつから?」
「三か月前から」
「それでは、私と話している暇など
 なかったのではないかね」
「話したあとに書きました」

ソクラテスは一枚に手を伸ばした。
青年は、そっと束を引き寄せた。

「まだ揃えているので」

老人は手を引っ込めた。

「何のために書いたのかね」
「忘れないためです」
「何を?」
「自分が、何を考えていたのかを」

ムネーメーが糸の先を切った。

「一冊では厚すぎるわね」
「二冊でもいいです」
「これからも増える?」

青年は少し笑った。

「たぶん」
「なら、棚も空けておかないと」

書庫には、背の高さも色も違う本が
並んでいた。
題のないものもあった。
ソクラテスが尋ねた。

「自分の図書館を作るつもりかね」
「そんな立派なものではありません」
「では、何だろう」

青年は紙の端を撫でた。

「僕がいたことくらいは、
 分かるようにしておきたいんです」

入口で、男が足を止めた。
返しに来た本を脇に抱えている。
クリティコスだった。

「名前だけなら、一行で済む」

青年が顔を上げた。

「名前を残したいわけではありません」
「では、その六十篇で、君の何が分かる?」
「読めば、少しは」
「誰が読む?」

青年は、すぐには答えなかった。

「僕でもいいんです。何年かあとに」
「今の君には分かることが、
 そのときの君にも分かるとは限らない」

クリティコスは本を机に置いた。

「昨日、君が広場に貼っていた文章を読んだ」

青年の手が止まった。

「どうでした」
「途中で分からなくなった」
「どこがですか」
「二人の男が話していた。
 途中から、どちらが喋っているか
 分からなくなった」
「前を読めば分かると思います」
「戻って読んだ。それでも分からなかった」

青年は束の中から一枚を抜いた。
目で行を追い、指を置いた。

「ここから、別の男です」
「それは、どこに書いてある?」

青年は紙を見ていた。
ムネーメーが言った。

「そこを直せば、綴じられるわね」
「そこだけではない」

クリティコスは答えた。

「君には分かっていた。
 だから、読む者にも分かると
 思ったのだろう」

青年は抜いた紙を机に置いた。

「でも、立派な文章でなければ
 残してはいけないんですか」
「残すなとは言っていない」
「これは僕の記録です。
 誰かに褒めてもらうためだけに
 書いているわけではありません」

ソクラテスが尋ねた。

「では、なぜ広場に貼ったのかね」

外では、掲示板の前を人が通り過ぎていた。
青年は、その方を見た。

「誰かが読んでくれればとは思います」
「読んでくれなくても?」
「書きます」
「それでも、読んでほしい?」

青年は少しして頷いた。

「その二つは、いけませんか」
「いや。君が先ほど、
 どちらかを隠したように見えたのでね」

ムネーメーが棚から薄い帳面を取った。
表紙の角が、布で補われている。

「これを読んでみて」

クリティコスが受け取り、開いた。

「豆。油。薪……」
「これも、ふみよ」
「買い物の帳面だろう」
「残ったものよ」
「私が言っているのは、読ませるものだ」
「その次を読んで」

男は頁をめくった。

「今日も、二人分炊いた」

そこで読む声が止まった。

「夫を亡くしたあとも、
 母はこの帳面を使っていたの」

ムネーメーは言った。

「誰かに伝えるつもりで書いたとは
 思えないけれど」

クリティコスは、開いた頁を見た。

「これは伝わる」
「上手だから?」
「余計なことを書いていないからだ」

ムネーメーは帳面を受け取った。

「前には買い物が書いてある。
 後ろには、膝が痛いと書いてある。
 あなたなら、その一行だけ残す?」

クリティコスは少し考えた。

「人に読ませるなら、その方が強い」
「でも、あなたは先に、豆や油を読んだわ。
 いきなりその一行だけ渡されても、
 同じように読んだ?」

クリティコスは帳面に手を伸ばした。
前の頁へ戻り、もう一枚めくった。
品物の名と金額が並んでいた。

「……同じではないかもしれない」
「私は切り離したくないの。
 母は、夫を亡くした人であるほかにも、
 いろいろあったから」

クリティコスが言った。

「だが、今の一行がなければ、
 私はその帳面を読み続けなかった」
「そうでしょうね」

ムネーメーは返された帳面を棚へ戻した。
彼女は帳面の背を押し、
隣の本と揃えた。
青年は、自分の束から
最初に書いた一枚を取り出した。

「これは、今読むとひどいんです」

ソクラテスが尋ねた。

「字が?」
「考えがです。
 よく知りもしないことを、
 ずいぶん偉そうに書いている」
「今は知っている?」
「少なくとも、これを書いたときよりは」
「では、書き直すのかね」

青年は、抜いた紙を束の横に置いた。

「入れないでおこうかと思っていました」

ムネーメーが顔を上げた。

「残しておけばいいのに」
「恥ずかしいんです」
「そのときは、そう考えたのでしょう」
「はい。でも、今は違います」
「変わったことも分かるわ」

クリティコスが尋ねた。

「どこを読めば?」

ムネーメーは彼を見た。

「あとに書いたものを読めば」
「この一枚だけ読む者もいる。
 君が今もそう考えていると思ったら?」

青年は紙を裏返した。
裏には何も書かれていなかった。
ムネーメーが言った。

「全部に説明をつけていたら、
 何も残せなくなるわ」
「説明が必要なものはある」

クリティコスは答えた。

「昔の自分だからという理由で、
 間違いまで大事に飾ることはない」

青年が紙を表に戻した。

「これを書かなければ、
 僕は自分がこう考えていることにも
 気づかなかったかもしれません」

クリティコスは黙っていた。

「頭の中では、もっと筋が通っていたんです。
 書いてみたら、途中が繋がっていなかった。
 だから、別のものを読んで……」

青年は束の後ろの方を持ち上げた。

「それで、これを書いたんです」

ソクラテスが二枚を見た。

「初めから、こちらを書けたらよかった?」
「書けなかったと思います」
「しかし、こちらだけ残したい」

青年は二枚を並べた。
古い方には、題の下に
大きな字で自分の名が書いてあった。

「僕は、何を考えていたかを
 残すつもりだったんですけどね」

誰も答えなかった。
しばらくして、ムネーメーが尋ねた。

「直したら、残るのは何?」

クリティコスが顔を上げた。

「読める文章だ」
「この人が三か月前に
 何を考えていたかは、そこに残る?」
「考えの筋は残る」
「筋になる前は?」

クリティコスは答えなかった。
青年が言った。

「途中が繋がっていなかったところを、
 僕は繋げて書き直しました」

ソクラテスが尋ねた。

「繋がっていなかったことは、
 どこかに書いてあるかね」

青年は二枚を見比べた。

「書いてありません」
「では読む者には、
 君は初めから繋げられた人間に見える」

クリティコスが言った。

「それの何が悪い」
「悪いとは言っていない」
「では?」
「届く形へ直していくうちに、
 記録が記録でなくなることはないかね」

クリティコスは答えなかった。
やがてクリティコスが、
背の高さの違う棚を見た。

「去年、そこから何冊借りられた」

ムネーメーは棚を見た。

「数えていない」
「一冊も出ない年もあるだろう」
「あるでしょうね」
「では君が守っているのは、
 読まれなかったという事実だ」
「捨てたものは、
 誰かが来ても読めないわ」
「その帳面もか」
「ええ」
「あれは、君がいるから読める」
「どういう意味」
「君がいなくなったあとに開いた者は、
 二人分炊いた、を読むだけだ」

ムネーメーは答えなかった。
青年が二人を見た。
ムネーメーが糸を机に置いた。

「綴じるのは、明日にする?」

青年は首を振った。

「いつまでも直していそうなので」
「それでもいいと思うが」

クリティコスが言った。

「あなたは、そうでしょうね」

青年は少し笑って、筆を取った。
古い紙の上の余白に、
書いた日を入れた。
その下に、小さく書き加えた。

〈今は、そう思っていない。
 ただ、どこから間違えたのかは、
 まだうまく説明できない。〉

クリティコスが覗いた。

「その先を書いた方がいい」
「分かったら書きます」

青年は、その一枚を束の最初へ戻した。
続いて、二人の男の話を手に取った。
途中の行に線を引き、
誰が言ったのかを書き足した。

「これなら、分かりますか」

クリティコスは受け取って読んだ。

「ああ」
「では、それも入れます」

ムネーメーは紙を二つの束に分けた。
今度は、青年が一方の束を押さえた。
重なった紙に穴があき、針が通った。
一冊を綴じ終えると、
ムネーメーは残りの束にも針を通した。
ソクラテスが尋ねた。

「これで、君が残るのかね」

青年は、紙の間を抜ける糸を見ていた。

「全部ではありません」
「書かなかったことは?」
「残りません」
「書けなかったことも?」

青年は頷いた。

「そちらの方が、多いかもしれません」

針がもう一度、紙を抜けた。

「それでも、これだけは」

青年は束を押さえる手に力を入れた。
窓の外が暗くなり、
ムネーメーが灯りをつけた。
二冊になった六十篇を机に置き、
残った糸を引き出しにしまった。

「棚は、あそこが空いているわ」

青年は一冊を手に取った。
紙の束だったときより、
少し重く感じた。
クリティコスが手を差し出した。

「そちらを借りてもいいか」
「読むんですか」
「ほかに何をする」

青年は本を渡しかけ、止めた。

「最初の方は、まだ……」
「直っていないのか」
「直せないんです」

男は手を出したまま待っていた。
青年は一冊を胸の前で押さえた。

「一枚だけ、抜いてもいいですか」
「どれだ」
「最初のです」
「今、糸を通したところだろう」

ムネーメーが引き出しに手をかけた。

「抜くなら、私が解くわ」

青年は綴じ目を見ていた。
しばらくして、本を渡した。

「そのままで」
「なぜだ」

青年は空いた手を見た。

「抜いたら、あとで、
 抜いたことを説明したくなるので」

ムネーメーが少し笑った。
クリティコスは本を脇に挟んだ。

「返すときに、聞かせてください」
「何を?」
「どこで分からなくなったかを」
「最初の一枚で分からなくなったら」

青年は少し黙った。

「それも、聞かせてください」

クリティコスは頷き、
返しに来た本を机に残して出ていった。
青年は、残った一冊を棚へ運んだ。
隣に、ムネーメーの母の帳面があった。

「これも、借りていいですか」

ムネーメーは少し迷った。

「字が読みにくいわよ」
「読めないところは、聞きに来ます」

彼女は棚から帳面を抜き、
布で補った角を確かめてから渡した。
ソクラテスは、入口で二人を待っていた。
青年は灯りのそばで帳面を開いた。
さっきの頁より、ずっと前だった。

「この人は、誰ですか」

ムネーメーが隣から覗いた。

「ああ、その人はね」

ソクラテスは入口から戻り、
ゆっくりと椅子を引いた。

いいなと思ったら応援しよう!