モダン・ダイアローグ 20 石を置かぬ者
石を置かぬ者
登場人物
ソクラテス ………問いを重ねる老人
アンティモス ……大きな国の側で、四十年、
境の石を見てきた老いた番人
青年 ………………小さな国の側の番人。
相手は選べると考えている者
草を採る女 ………境の両側の山で草を採り、
どちらの国にも売る女
山を越える道の途中に、
低い石が一つ立っていた。
道は、その石で右と左に分かれてはいない。
石の向こうも、こちらも、同じ土だった。
石の脇に、板が一枚置いてあった。
線が引かれ、小石が並べてある。
二人の番人が、その前に座っていた。
一人は老人、一人は青年だった。
ソクラテスが坂を上ってきて、足を止めた。
「今、私はどちらにいるのかね」
アンティモスが顔を上げた。
「石より手前なら、大きい方の国です」
「爪先が、向こうへ出ているようだ」
「では、爪先だけ他所さんですね」
「爪先には、通行の許しがいるかね」
「そこまでは、聞いておりません」
青年が笑った。
アンティモスは、盤へ目を戻した。
「そちらの番だよ」
青年は小石を一つ、指で挟んだまま、
線を数えていた。
「まだ考えています」
「朝から考えとる」
「あなたが、うまくなったからです」
ソクラテスは板の前にしゃがんだ。
「これは、どちらの国の遊びかね」
「大きい方のです」
アンティモスが答えた。
「教えたのは私です」
「初めは、どうだった」
「三日で、負けなくなりました」
「勝てなくなった、ではなく?」
「私が、手を緩めるのをやめましたので」
草を採る女が、石の向こうから戻ってきた。
籠に草を入れ、湧き水のそばへ置く。
束を作り、根を切り、土を落とした。
「どちらで採ってきたのかね」
女は顔を上げずに答えた。
「上の斜面」
「石の、どちら側だろう」
「両方」
「籠の中では、分けてあるのかね」
「同じ草よ」
女は束を結んだ。
「明日は、小さい方の国で売る」
「今日は?」
「大きい方で売った」
アンティモスが言った。
「同じ値でな」
「値は、買う人が決めるのよ」
ソクラテスは境の石を見た。
「この石は、いつからここに」
アンティモスが答えた。
「私が来たときには、ありました」
「君の言葉は、この山のものではないね」
「南の者です」
「この石は、動いたことがあるかね」
「三十年ほど前に、七歩ばかり」
「石が歩いたのかね」
「両方の国の使いが来て、置き直しました」
「そのとき、山は動いたか」
「動きません」
「草は」
女が答えた。
「同じところに生えてる」
青年は、まだ小石を握っていた。
「置かないのかね」
「置きます」
だが、置かなかった。
そこへ、下から人の声が上がってきた。
女が立ち上がり、道の下を見た。
しばらくして、腰を下ろした。
「戦が始まったって」
「どこで」
アンティモスが尋ねた。
「北の平野。二つの国が」
「二つとは」
女は、境の石を指した。
「ここと、ここの向こう」
アンティモスは板を見た。
それから青年を見た。
青年は握った手を、膝の上へ下ろした。
「昨日まで、何もなかった」
アンティモスが言った。
「銀の取り分で揉めていたそうよ」
女は次の束を結んだ。
「上の人たちが」
アンティモスは立ち上がり、腰の帯を直した。
それから青年の前へ回り、正面に座った。
「さあ、おまえさんと私は、
今日から敵どうしになった」
「何を言うんです」
「私は、この境を預かる百人の長だ。
首を持っていけば、北へ行かずに済むほどの
褒美が出る」
青年は動かなかった。
「殺してくれ」
ソクラテスがアンティモスを見た。
「首を渡せば、君の心は南へ帰れるのかね」
「帰れません」
「では、何を……」
アンティモスは答えなかった。
ソクラテスは板へ目を落とした。
「この遊びは、途中で終わると、
どうすることになっている」
「決まりはありません」
「勝ちにも、負けにもならない?」
「なりません」
アンティモスは、盤の縁に手を置いた。
「四十年、ここに座っておりました。
途中で立った者は、何人もおります」
「その盤は、どうした」
「崩しました」
「今日は、崩せない?」
「この子の番です」
青年が口を開いた。
「僕は、あなたを敵とは思いません」
「思わなくても、敵だ」
「誰が決めたんです」
「国が決めた」
「僕の敵は、ここにはいません」
ソクラテスが尋ねた。
「どこにいるのかね」
「北です。僕はそこへ行って戦います」
「北にいるのは、どういう者だろう」
「向こうの国の兵です」
「この老人も、向こうの国の兵だ」
「この人は、水を分けてくれました」
ソクラテスは湧き水を見た。
「北の兵は、誰にも水を分けていないのかね」
「……分けているでしょう」
「誰に」
「向こうの、誰かに」
女が草の根を切った。
「私にも分けてくれたよ」
青年が女を見た。
「北の兵が?」
「去年の夏、平野で。喉が渇いてたから」
「その人も、戦っているんですか」
「知らない。名前も聞いてない」
青年は、握った手を開いた。
小石が、掌の上にあった。
ソクラテスが尋ねた。
「君は、敵を自分で決めたのだね」
「決めました」
「では、北のあの兵の敵は、誰が決めた」
「……向こうも、自分で決めたのでしょう」
「その者が、君を選んでいたら」
「そのときは、戦います」
「それは、君が選んだことになるかね」
青年は答えなかった。
アンティモスが言った。
「この子は、私を殺さん。
だが、北の誰かは殺す」
ソクラテスがアンティモスへ向き直った。
「君は、それを責めているのかね」
「責めてはおりません」
「では、何を言っている」
「知り合いだけを助ける者は、
知らん者は殺してよいと、
どこかで決めた者ではないか、と」
「君は、決めなかった?」
「私は、決めた側におります。
だから、首を差し出したのです」
ソクラテスは首を傾げた。
「差し出せば、決めた側から出られるのか」
「出られませんな」
「では、なぜ差し出す」
アンティモスは、しばらく黙っていた。
「早く終わらせたかったのです」
「戦をかね」
「この盤を」
女が束を籠へ入れた。
「終わらせるのは、あんたじゃないでしょう」
「私が始めた遊びだ」
「始めた人が、終わらせるとは限らないよ」
ソクラテスが青年に尋ねた。
「君は、北で誰と戦うのかね」
「向こうの兵と」
「顔を知らない者と?」
「はい」
「知ってしまったら、どうする」
「……戦えないかもしれません」
「では、知らないままにしておく?」
青年は立ち上がった。
掌の小石を、盤の上へ持っていった。
線の上で、手が止まった。
「置かないのかね」
「置いたら、あなたの番になります」
「なるね」
「僕は、いません」
青年は手を引いた。
小石は、掌の中に残った。
「北へ行きます」
「その石は」
「持っていきます」
アンティモスが顔を上げた。
「置いていけ」
「なぜです」
「盤の石は、盤のものだ」
「僕の手番です」
青年は、道を下りていった。
足音が聞こえなくなるまで、
誰も何も言わなかった。
ソクラテスが盤を見た。
「今は、誰の番かね」
アンティモスが答えた。
「あの子の番です」
「君は、待つのか」
「待ちます」
「戦が終わるまで?」
「あの子が戻るまで」
「戻らなかったら」
「そのときは、私の番にはなりません」
女が籠を背負った。
「雨が降れば、石は流れるよ」
「板は、木の下へ寄せます」
「風もある」
「石を、少し押しつけておきます」
女は道の下を見た。
「私は、明日も両方の国へ行く」
ソクラテスが尋ねた。
「戦の間もかね」
「草を待ってる人がいるから」
「どちらの国の人だろう」
「どっちも」
「君は、どちらの側にいると思われるかね」
「両方の側から、向こうの者だと思われる」
「怖くはないか」
「怖いわよ」
「では、なぜ行く」
「こっちも、あっちも治らないからね」
女は坂を下りていった。
夏が過ぎ、秋になった。
アンティモスは板を木の下へ寄せ、
朝ごとに、石の数を確かめた。
戦の音は、ここまでは届かなかった。
空も、いつもと同じだった。
ある日、ソクラテスがまた坂を上ってきた。
その少しあとに、女も来た。
籠は空だった。
「北のこと、聞いた?」
アンティモスは石の数から目を上げた。
「聞いておらん」
「小さい方の国が負けた」
「兵は」
「みんな殺されたって」
アンティモスは、盤の前に座った。
それから、石を一つずつ数え直した。
二度数えて、手を止めた。
「一つ足りん」
女が盤を覗いた。
「持っていった分でしょう」
「ああ」
「同じのを拾ってくる?」
「いや」
ソクラテスが尋ねた。
「なぜだね」
アンティモスは、盤の縁を指でなぞった。
「あの子は、私を敵にしなかった。
それで、あの子は死んだ」
「君を敵にしていれば、生きていたか」
「生きていました」
「君が死んで?」
「そうです」
ソクラテスは板の上の線を見た。
「では、あの子は間違えたのかね」
「間違えておりません」
「正しかった?」
「正しいことをして、死にました」
「それは、同じことかね」
アンティモスは答えなかった。
女が湧き水のところへ行き、
小石を一つ拾って戻ってきた。
「同じ大きさよ」
アンティモスは、それを受け取った。
線の上へ置こうとして、手を止めた。
それから、盤の脇へそっと置いた。
