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G-DRAGONはどうやって「G-DRAGON」になったのか? ― 11年の練習生生活、そしてK-POPを超えたアイコンへの軌跡

前回の記事ではBIGBANGのデビューと20周年を取り上げましたが、その中でG-DRAGONについては「芸能人の芸能人」という一言で片付けてしまいました。今日はその一言の裏にある物語を、もう少し深く掘り下げてみます。8歳の練習生が、世界のファッション界も注目するアイコンになるまでの道のりです。


0. デビューよりずっと前 ― 8歳になる前から、すでに「芸能人体質」だった

G-DRAGONの芸能活動歴は、SMエンターテインメントにスカウトされた8歳のときよりもさらに前にさかのぼります。1995年、5~7歳の頃、彼は当時の人気グループ룰라(ルラ、고영욱=コ・ヨンウクらのメンバーで構成されたグループ)のパロディ子供グループ「꼬마 룰라(ッコマ・ルラ=「ちびルラ」の意)」として活動していました。メンバーのコ・ヨンウクの役を任され、身振りまで真似て紹介する姿を見せていたそうです。この頃の映像は今でもたびたび話題になり、2025年のこどもの日には本人が自身のSNSに当時の「뽀뽀뽀(ポッポッポ=韓国の国民的幼児向け番組)」出演映像や、꼬마 룰라 時代の活動映像を投稿したこともありました。

その後、SMエンターテインメントで5年、YGエンターテインメントに移って6~7年、合計11年にも及ぶ練習生生活を送ることになりますが、その間もすでに舞台経験を積んでいました。2001年1月、13歳のG-DRAGONはオムニバスアルバム《2001 대한민국 HIPHOP FLEX(2001テハンミングク・ヒップホップ・フレックス)》に自身のソロ曲「Realize Yourself」を収録し、事実上デビュー前に初めての「ソロ音源」を残しています。

2002年には、YG Familyのコンピレーションアルバム収録曲「멋쟁이 신사(モッチェンイ・シンサ=Hip Hop Gentlemen)」に、TEDDY・지누션(Jinusean)・MASTA WUらと共に参加しています。14歳の練習生がYGの看板的な先輩たちと並んでステージに立つ姿で、後にYGのプロデューサーへと成長していくG-DRAGONの出発点を感じさせる場面でもあります。

1. 8歳の練習生、11年という時間

G-DRAGON(本名:권지용=クォン・ジヨン)は8歳のときにSMエンターテインメントにキャスティングされ、芸能生活をスタートさせました。当時代表だった이수만(イ・スマン)氏が幼い彼を直接見出したと言われており、SMだけで約5年を練習生として過ごしています。その後2002年にYGエンターテインメントへ移籍し、同い年の태양(テヤン)と共に、さらに6~7年の練習生生活を続けました。二つの事務所を合わせると実に11年。2006年、サバイバルドキュメンタリー『리얼다큐 빅뱅(リアルダキュ・ビッグバン)』を通じて選抜されるまで、デビュー前からすでにK-POP史上でも屈指の長い下積み期間を経てきたことになります。

2. BIGBANGの頭脳 ― デビュー曲の代わりに自分の曲を差し出した少年

BIGBANGデビュー翌年の2007年、グループをスターダムに押し上げた曲「거짓말(コジンマル=噓)」は、もともとG-DRAGONが自分のソロ曲として書いた楽曲でした。ところが当時代表だった양현석(ヤン・ヒョンソク)氏がこの曲をBIGBANGのタイトル曲に選び、結果としてメロンチャート6週連続1位という記録を打ち立て、グループの方向性そのものを変えてしまいます。このエピソードは、G-DRAGONが単なるメンバーではなく、グループの音楽を設計する人物だったことを示す象徴的な場面としてよく語られます。以後も彼はBIGBANGのほとんどの楽曲に作詞・作曲・プロデュースとして関わり、「アイドルでありながら自分の音楽を自ら書く人」という珍しい立ち位置を築いていきました。

3. ソロアーティストG-DRAGONの始まり

2009年、初のソロアルバム《Heartbreaker》は当時のK-POPソロアーティスト最高売上を記録し、その年のMnet Asian Music Awards(MAMA)で最優秀アルバム賞を受賞しました。2012年のEP《One of a Kind》は収録曲「그XX(That XX)」が大ヒットし、ソウル歌謡大賞ベストアルバムを受賞。2013年の《Coup D'Etat》は韓国人ソロアーティストとして初めてビルボード200に複数エントリーする記録を打ち立て、MAMAでは4部門を独占しました。この時期を経てG-DRAGONは「BIGBANGのリーダー」を超え、単独でチャートと授賞式を動かすソロアーティストとして完全に確立されていきます。


3-2.「鼻歌を歌っているだけ」という不当な批判 ― トップライナーという概念がなかった時代

G-DRAGONは今の言葉で言えば「トップライナー(すでに作られたビート・トラックの上にメロディと歌詞を乗せて曲を完成させる役割)」に近い存在です。実際YG内部でも、トラックはTEDDYや용감한 형제(ヨンガマン・ヒョンジェ=Brave Brothers)のような「トラックメーカー」が作り、その上にG-DRAGONがメロディ・ラップ・歌詞を乗せるという分業体制が早くから根付いていました。今でこそポップス業界ではトップライナーとトラックメーカーの役割分担は当たり前に受け入れられていますが、2000年代後半から2010年代前半の韓国では、この概念自体が一般に知られていませんでした。その結果、「他人が作り上げた曲に鼻歌を乗せているだけではないか」という心ない批判がついて回り、「거짓말」がPretty Tempoの「Sky High」やDaishi Danceの「Moon Garden」に似ているという指摘、「Heartbreaker」がFlo Ridaの「Right Round」に似ているという指摘など、1枚のアルバムだけで3曲が盗作疑惑に挙がるという事態も重なり、「G-DRAGONは本当に作曲家と言えるのか」という疑いがしばらくの間、彼につきまとい続けました。
これについて当時YG代表だった양현석氏は、G-DRAGONが共同作業をする場合でも、メロディ・ラップ・歌詞はすべて本人が直接作ったものだと繰り返し説明しています。作曲家の방시혁(パン・シヒョク)氏も同業者として、「いつも嫉妬してしまうほどの、とてつもない才能を持つ作曲家でありプロデューサー」だと公にG-DRAGONを評価し、著名な作曲家たちとの共同作業が多いという理由だけで彼の作曲能力が過小評価されていると指摘しました。今振り返ると、この時期にG-DRAGONが受けた批判の多くは、当時の大衆が「トップライナー」という制作方式そのものを理解していなかったことに起因する、不当なバッシングに近かったという見方が強くなっています。

4. シャネルが選んだ顔 ― ファッションアイコンになる

2016年、G-DRAGONはアジア人男性として初めてシャネルのアンバサダーに抜擢されます。韓国人としても初のグローバル・ラグジュアリーブランドのアンバサダーでした。性別や国籍の境界を曖昧にする彼のジェンダーレスなファッションはその後も世界のファッションメディアで継続的に取り上げられ、2026年現在もシャネルのグローバルアンバサダーとして活動を続けています。G-DRAGONを皮切りに、その後複数のK-POPアーティストがグローバル・ラグジュアリーブランドの顔になっていく流れが作られたと評価されています。
G-DRAGONが身につけたアイテムは、そのまま流行になることが少なくありませんでした。足首まで上がるハイトップスニーカー、トム・ブラウンやクロムハーツといったブランドを韓国国内に定着させたのも彼です。トム・ブラウンのカーディガンは彼が着用した後、中高生までもが真似するほど広まり、Vansのスニーカーのかかとを折って履くスタイルを流行させ、ブランド側がわざわざ「折って履く用」のスニーカーを別途発売するほどでした。日本ではMCMのリュックがブランド名の代わりに「G-DRAGONバッグ」と呼ばれるほど人気を集め、韓国の男性アイドルのファッションコーディネートの多くが基本的にG-DRAGONの影響を受けているとも言われています。パールネックレスやドレープの効いたシルクシャツのような、当時は男性が着こなすのが難しいとされていたアイテムをいち早く取り入れ、ジェンダーレスなスタイルの先駆けにもなりました。
ファッションへの関心は自身のブランドにもつながっています。彼が手がけた「PEACEMINUSONE(ピースマイナスワン)」は、「平和(PEACE)という理想にたどり着きたいが、結局たどり着けない、欠けた(MINUS)現実と理想の交差点(ONE)」という意味を込めたブランドで、シャスタデイジーのロゴから花びらが一枚欠けているデザインが特徴です。単なるアイドルグッズではなく、一つのファッションブランドとして認められ、今も継続的に新作を発表しています。

5. 危機、そして二度の不起訴・無嫌疑

華やかな成功ばかりではありませんでした。2011年、日本で大麻を吸引した疑いで検察に送致されましたが、大麻だと知らずに吸引したことと、その量がごく微量であったことを理由に起訴猶予処分となりました。2023年には再び薬物投与の疑惑に包まれ、仁川(インチョン)警察庁の捜査を受けましたが、この際G-DRAGON自ら警察署に出頭し、簡易試薬検査から毛髪・爪の精密鑑定まで受け、結果はすべて陰性でした。最終的に「嫌疑なし」で事件は終結し疑いは晴れましたが、この時期に感じていたプレッシャーの大きさは、後の放送で本人が「追い詰められて、危険な考えまでした」と直接語るほどでした。

6. 再びステージへ ― POWER、Übermensch、そして今

長い活動休止を経て2024年10月31日、7年4か月ぶりのソロ新曲「POWER」を発表し、各音楽配信サイトのリアルタイムチャートで1位を獲得しました。続く2025年2月には正規3集《Übermensch(ユーバーメンシュ)》をリリース、ビルボードのワールドアルバムチャートで3位、トップアルバムセールスチャートで10位に入り、28以上の地域のiTunesアルバムチャートで1位を獲得するなど健在ぶりを証明しました。同年、ソウル・高尺(コチョク)スカイドームなどで行われた《Übermensch》ワールドツアーも成功のうちに終えています。
音楽以外での存在感も相変わらずです。2025年上半期には自ら企画・プロデュースしたMBCのバラエティ番組「굿데이(グッデイ=Good Day)」に出演し、정형돈(チョン・ヒョンドン)と11年ぶりにバラエティ番組で再会しました。そして2024年のMAMAで披露したソロステージ「WONDER STAGE」は、客席にいた他の芸能人たちが立ち上がって歓声を上げる場面が話題となり、「芸能人たちの芸能人」という彼の異名をあらためて証明することになりました。



6-2. 정형돈とのブロマンス ― ミュージックビデオに隠されたグッとくるポイント

G-DRAGONと정형돈の縁は2011年の「무한도전(ムハンドジョン=Infinite Challenge)」のディナーショーから始まりました。当時정형돈がG-DRAGONのファッションを遠慮なく指摘し、「ちゃんと管理しろよ、芸能人なんだから」とお説教する場面が大きな笑いを呼び、ここから「GD見てるか?」という流行語まで生まれています。ファッションセンスの悪さで有名だった정형돈が、堂々とG-DRAGONにファッションを教えるという構図自体が一つのミームになったわけです。ところが2013年の「무한도전 자유로 가요제(自由路歌謡祭)」で、G-DRAGONはパートナーに他でもない정형돈を選び、このとき정형돈が直接選んでくれたヒョウ柄コートと赤いトレーニングパンツの組み合わせを、素直に受け入れました。

この縁は9年後、思いがけない形でよみがえります。2022年に発表されたBIGBANGの「봄여름가을겨울(ポムヨルムガウルキョウル=Still Life)」のミュージックビデオで、G-DRAGONは2013年に정형돈がコーディネートしてくれた服とほぼそっくりの服装で登場しました。この場面についてG-DRAGON自身も後に「コピーしたとまでは言わないが、知らず知らずのうちに影響を受けていた」と認めています。승리(スンリ)脱退後初めて、4年ぶりに発表したカムバック曲であり、T.O.P.も共に参加した4人体制としては事実上最後の楽曲となった「봄여름가을겨울」の中に、デビュー初期にバラエティ番組で出会った親友との思い出をそっと忍ばせていたことになります。二人のケミストリーは今も続いており、2024年には정형돈がG-DRAGONが愛用するスカーフスタイルで再登場し、変わらぬ友情を見せてくれました。






7. 20年後、再び完全体で

2026年8月、BIGBANGデビュー20周年に合わせて発表された新曲「빅(BiiiG)」は、全曲G-DRAGONが作詞・作曲を手がけました。同じ月にはコーチェラのステージにもBIGBANGとして立ち、ダイヤモンドで飾られたイヤモニまで話題を集めるなど、20年前とはまったく違う存在感を見せつけました。8歳で練習生になり19歳でデビュー、そこからさらに20年 ― 一人の人間がアイドルからソロアーティストへ、そしてファッションアイコン兼ブランドオーナーへ、さらに完全体BIGBANGのプロデューサーへと移り変わっていく過程をこれほど間近で見届けられるケースは、K-POPの歴史の中でも決して多くありません。


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