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夏の特別編から見えたもの

夏の特別編を書き終えたあと、不思議なことに気付いた。

最初は、ただ「少し変わった企画」を書くつもりだった。

ところが完成した作品を見返すと、私はホラーを書いたという感覚よりも、一つの構造を発見したという感覚の方が強かった。

だから今回は作品の解説ではなく、その作品を通して見えたものを書いてみたい。


人は「内容」より先に「ラベル」を読んでいる

今回の作品は、最初から最後まで「ホラー」とは書いていない。

夏の特別編。

それだけだった。

だから読者は、

「少し雰囲気の違う思想記事なのかな。」

そんな気持ちで読み始めるはずだ。

そして前半は、本当に思想記事として成立している。

「人は自分で考えている。」
「対話は思考を変える。」
「成長と最適化は似ている。」

どれも普段考えていることの延長線上にある。

だから違和感なく読み進められる。

しかし、気付けば読者は記事ではなく、一人の人物の心の中に立っている。

私は書きながら、一つのことに気付いた。

人は文章を読む前に、その文章に貼られたラベルを読んでいる。

「フィクションです」は何を指しているのか

作品の最後には、

※本作品はフィクションです。

と書いた。

でも、書き終えたあとに自分自身が困った。

いったい何がフィクションなのだろう。

前半の思想は、普段考えていることだ。

対話が思考を変えることも、繰り返しの会話で考え方が変わることも、現実の体験をもとに書いている。

では、後半なのか。

ところが後半も、

「主人公はAIだった。」

とは一度も書いていない。

「監査官がAIだった。」

とも書いていない。

最後に残るのは、

Who is AI?(AIは誰?)

という問いだけだ。

そう考えると、「フィクションです」という一文すら、どこを指しているのか分からなくなった。

境界線は、思っているほど明確ではない

ネットには、

実話もある。
創作もある。
脚色もある。
再構成もある。
AIが書いた文章もある。
人が書いた文章もある。

それらは同じ画面に並び、同じような見た目で流れてくる。

私たちは普段、

「これは現実。」
「これはフィクション。」

と簡単に分類している。

でも、その境界線は本当にそんなにはっきりしているのだろうか。

今回の作品を書いていて思った。

怖かったのはAIではない。
フィクションでもない。

私たちが、ラベルを信じることが当たり前になっていることだった。

作品を書いたつもりが、思想が生まれていた

最初は一本の夏の特別編を書く予定だった。

ところが完成したあと、次々と新しい問いが見えてきた。

「ホラーはいつ始まったのか。」
「読者はどこで現実から物語へ入ったのか。」
「『フィクションです』とは何を意味するのか。」
「人は何を根拠に現実と創作を区別しているのか。」

作品を書いて終わるはずだった。

しかし実際には、作品そのものが新しい思考を生み出していた。

それは予定していたことではない。

けれど、振り返ってみると、それこそが今回一番の収穫だった。

今回の夏の特別編は、一つのホラー作品として終わった。

しかし私にとっては、それ以上に、

「人は何を信じて文章を読んでいるのか。」

という、新しい問いを残してくれた作品でもあった。

そして、その問いは今もまだ、答えより先に考え続けている。

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