ボルガレナのボルチンスカヤ
疑問が学びに変わるとき、疑問は学びに変わっている
文・武智倫太郎
國學院大學とnoteが、投稿コンテストを開催するらしい。
テーマは『#疑問が学びに変わるとき』である。
案内文を読んでいると、冒頭にこうあった。
『なぜだろう──。ふと浮かんだ疑問が、頭から離れなくなったことはありませんか?』
私は、ここで手が止まった。
なぜだろう。
頭から離れない疑問は、なぜ頭から離れないのだろう。
考えてみれば、それほど難しい話ではない。
頭から離れないから、頭から離れないのである。
逆に、頭から離れてしまった疑問は、もう頭から離れている。
頭から離れているということは、頭には残っていないということだ。
頭に残っている疑問は、まだ頭から離れていない。
頭から離れていないから、頭から離れない。
つまり、頭から離れない疑問とは、頭から離れていない疑問なのである。
ここまで、一つも間違ったことは言っていない。
間違っていないということは、正しいということだ。
ところが、何一つ分かった気がしない。
正しいはずなのに、分からない。
しかし、分からないということが分かった。
分からないことが分かったということは、それまでは分からないことすら分かっていなかったことになる。
いまは、分からないことが分かっている。
ということは、分かる前よりは分かっている。
私は少し学んだのかもしれない。
いや、学んだのかもしれないと思った時点で、すでに何かを学んでいるのではないか。
まだ何も始めていないのに、学びが始まっている。
学びというものは恐ろしい。
始まったと気づいたときには、もう始まっているのである。
そんなことを考えていたら、
突然『ボルチンスカヤ』という名前が頭に浮かんだ。
なぜだろう。
分からない。
分からないから疑問なのである。
疑問でなければ、分かっている。
分かっていることを『なぜだろう』と考える必要はない。
もっとも、分かっていると思っていたことが、本当は分かっていない場合もある。
その場合は、分かっていると思っているのに分かっていない。
これもなかなか難しい。
だが、今はそれどころではない。
ボルチンスカヤである。
ボルチンスカヤ。
聞いたことがある。
確かに知っている。
しかし、何者だったか思い出せない。
知っているのに知らない。
知らないのに、名前だけは知っている。
つまり私は『ボルチンスカヤについて、知っている範囲では知っているが、知らない範囲については知らない』のである。
これは当然である。
人間は、知らないことについては知らない。
だから調べるのである。
ところが、その瞬間だった。
さらに別の言葉が頭に浮かんだ。
『ボルガレナ』である。
ボルガレナ。
これも知っている。
いや、本当に知っているのか。
ボルチンスカヤ。
ボルガレナ。
ボルチンスカヤ。
ボルガレナ。
何度か頭の中で繰り返しているうちに、二つが勝手につながった。
そして、完成した。
ボルガレナのボルチンスカヤ。
ものすごく自然である。
どこにも引っかかりがない。
ボルガレナのボルチンスカヤ。
東欧か旧ソ連圏の女子バレーボール選手だろう。
身長は190センチくらい。
恐ろしく強い。
表情はほとんど変えない。
体育館には国家指導部の肖像画が掲げてある。
監督はコート脇で腕を組んでいる。
負けるとシベリアに送られそうな雰囲気がある。
おそらく社会主義国である。
国旗は赤い。
国営重工業が盛んである。
首都には巨大な中央駅と、必要以上に広い人民広場がある。
何も調べていないのに、情報がどんどん増えていく。
これは便利である。
調べなくても分かる。
ただし、調べていないので何一つ分かっていない。
そこで調べることにした。
疑問が浮かんだからである。
疑問が浮かんだ以上、疑問は浮かんでいる。
浮かんでいる疑問を調べれば、それは調べた疑問になる。
いよいよ学びが始まった。
ボルチンスカヤはいた
調べてみると、ボルチンスカヤは『アタックNo.1』に登場するソ連の強豪選手だった。
しかも、ただ強いだけではない。
殺人スパイク。
という技を使う。
殺人的なスパイクではない。
殺人スパイクである。
昭和は強い。
1970年の劇場版『アタックNo.1 涙の世界選手権』でも、日本チームを苦しめるソ連の強敵としてボルチンスカヤと、その殺人スパイクが登場する。
だから私はボルチンスカヤを知っていたのだ。
知っていた理由が分かった。
理由が分かったということは、それまでは理由が分かっていなかったということである。
分かっていなかったことが分かった。
学んでいる。
どうやら、学んでいるらしい。
問題はボルガレナである。
私はいつの間にか、ボルチンスカヤとボルガレナを勝手に結びつけていた。
しかも、何の根拠もないのに、ボルガレナのボルチンスカヤという関係だけは、妙にしっくりくる。
ところが、ボルチンスカヤはソ連の選手である。
そして、そのソ連はもう存在しない。
では、ボルガレナとは何なのか。
こちらも調べてみた。
すると、2026年版『攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL』に、本当に『ボルガレナ代表』という人物が出てくる。
また知っていた。
私は知らなかったのに、知っていたのである。
正確に言えば、覚えていたことを覚えていなかった。
覚えていたことを忘れていたのだから、忘れていた。
しかし、忘れていたものを思い出した以上、今は忘れていない。
つまり、忘れていたことを思い出すとは、忘れていたものが忘れていない状態になることである。
ここまで来ると、だんだん何を調べているのか分からなくなってくる。
だが、分からなくなってきたということが分かっている以上、まだ完全には分からなくなっていない。
人間の頭は意外と雑である
どうやら私の頭の中では、『アタックNo.1』のボルチンスカヤと、『攻殻機動隊』のボルガレナが接続されていたらしい。
理由は分からない。
だが、おそらく『ボル』である。
ボル。
たった二文字。
二文字一致しただけで、私の脳は二つの作品の国交を正常化した。
1970年のスポ根アニメと、2026年のサイバーパンクが外交関係を樹立した。
そして、ボルガレナのボルチンスカヤが誕生した。
人間の記憶というのは、思ったより雑である。
生成AIが存在しないことをもっともらしく答えると、『ハルシネーションだ』と人間は怒る。
しかし人間も『昔どこかで聞いた気がする』だけで、存在しない関係を作る。
しかも、その関係に妙な確信まで持つ。
AIより悪質かもしれない。
AIには少なくともログが残る。
人間には、『そんな気がした』しか残らない。
しかし、ここからがおかしい
疑問が一つ解決した。
ボルチンスカヤはどこから来たのか。
分かった。
ボルガレナはどこから来たのか。
これも分かった。
では、疑問はなくなったのか。
なくならなかった。
むしろ増えた。
なぜ、私は二つを結びつけたのか。
なぜ『ボル』は旧社会主義圏っぽく聞こえるのか。
そもそも『旧社会主義圏っぽい音』とは何なのか。
なぜボルチンスカヤという名前を半世紀近く脳のどこかに保存していたのか。
人間は何を基準に、どうでもいい固有名詞を保存しているのか。
なぜ大事なパスワードは忘れるのに、殺人スパイクは忘れないのか。
ここで重大なことに気づいた。
調べる前より、分からないことが増えている。
これはおかしい。
私は学んだはずである。
学んだのだから、知識は増えている。
ところが、知識が増えた結果、知らないことも増えた。
つまり私は、学ぶ前より知っている。
しかし同時に、学ぶ前より知らない。
これはどういうことなのか。
知っていることが増えたから、その周囲にある知らないことが見えるようになったのである。
知らないことが見えるようになったということは、それまで知らなかった『知らないこと』を知ったということである。
つまり、知らないことが増えたのではなく、知らないことを知ったのである。
かなり深い。
ような気がする。
少なくとも字面だけは深い。
学べば学ぶほど、分からなくなる
学校では、勉強すると分かることが増えると教わる。
だが、実際には少し違う。
分かることが増えると、分からないことの存在も分かる。
だから、もっと調べる。
もっと調べると、もっと分かる。
もっと分かると、もっと分からないことが見つかる。
すると、さらに調べる。
つまり、学べば学ぶほど、学ぶべきことが増える。
学ぶべきことが増えるということは、学ぶ前より学ぶべきことが多くなったということである。
知識というものは、知らないことを減らすために増やしているはずなのに、知識を増やすほど、知らないことの総面積が広がっていく。
山に登ると景色が広がる。
景色が広がると、見える山が増える。
見える山が増えると、登っていない山が増える。
登ったのに、登っていない山が増えた。
何かがおかしい。
だが、おかしいと思えるところまで登ってきたのだから、少なくとも登る前とは違う場所にいる。
たぶん。
役に立たない疑問は、役に立たないのか
もう一つ分かったことがある。
今回調べたことは、ほぼ何の役にも立たない。
ボルチンスカヤを知っていても、世界は変わらない。
ボルガレナを知っていても、人類の知性が一段上がるわけでもない。
ましてや『ボルガレナのボルチンスカヤ』という、そもそも存在しない組み合わせをAIに何億回学習させたところで、AIが人類の一万倍の叡智を獲得するとは思えない。
仮に、人類の一万倍賢いとされるAIが、『ボルガレナのボルチンスカヤという人物は存在しません』と瞬時に答えられるようになったとして、それを人類の一万倍の叡智と呼んでよいのか。
私は少し迷う。
しかし、AIに世界中の文章を読ませるということは、こういう知識も読ませるということである。
哲学も読む。
物理学も読む。
歴史も読む。
『アタックNo.1』も読む。
ボルチンスカヤも読む。
ボルガレナも読む。
人類が書き残したものを全部読ませて、もっと計算資源を積めば、もっと賢くなるという。
計算資源を十倍にすれば、もっと賢くなる。
百倍にすれば、さらに賢くなる。
一万倍賢くなれば、人類の一万倍賢い。
ここまで来ると、冒頭で私がやっていたことと、それほど違わない気がしてくる。
一兆円。
十兆円。
百兆円。
計算資源を積み上げ、発電所を建て、データセンターを建て、人類がこれまで書いた文章を片っ端からAIに食わせる。
そして最後に『ボルガレナのボルチンスカヤという人物は確認できません』と返してくる。
考えてみれば、この『ボルガレナのボルチンスカヤ』は、人類が半世紀かけて忘れかけていた殺人スパイクについて、ものすごい量の電気を使って間違えずに答えられる機械を作ったことを確認するための、壮大な思考実験になってしまった。
もちろん、そんなつもりで調べ始めたわけではない。
ボルチンスカヤが気になっただけである。
それがいつの間にか、発電所を建て、データセンターを建て、人類の書いたものを片っ端から読み込ませた先にある『叡智』とは何か、という話になっている。
それは確かに進歩なのだろう。
では、それが叡智なのか。
分からない。
分からないということは、まだ叡智が何なのか分かっていないということである。
分からないから、また疑問が増えた。
ボルチンスカヤを調べていただけなのに、気がついたら人類の知性について考えている。
これが学びなのかもしれない。
学びというものは恐ろしい。
始める前には、どこへ行くのか分からない。
どこへ行くのか分からないから、始めてみないと分からないのである。
では、この学びは無駄なのか。
無駄かもしれない。
しかし、無駄であることが分かったのも、調べたからである。
調べなければ、無駄であることすら分からなかった。
つまり、無駄だと分かるためには、一度その無駄をやってみる必要がある。
そう考えると、無駄を無駄だと知るために使った時間は、無駄ではなかったことになる。
すると、無駄ではない。
だが、無駄ではないなら、最初から無駄ではなかった。
そうなると、無駄だと知るために調べたという前提そのものが崩れる。
ボルチンスカヤを調べていただけなのに、いつの間にか無駄とは何かを考えている。
これはもう哲学である。
疑問が学びに変わった
最初に戻ろう。
私は『なぜだろう──。ふと浮かんだ疑問が、頭から離れなくなったことはありませんか?』という一文を読んだ。
そして、ボルチンスカヤが頭から離れなくなった。
続いて、ボルガレナが頭から離れなくなった。
最終的には、ボルガレナのボルチンスカヤが頭から離れなくなった。
調べた。
少し分かった。
分かった結果、分からないことが増えた。
その分からないことを考えた。
考えた結果、さらに分からなくなった。
しかし、考える前よりは知っている。
つまり私は、分からなくなることによって、分かるようになったのである。
これが、『疑問が学びに変わるとき』なのかもしれない。
疑問が学びに変わるとき、それまで疑問だったものは学びに変わる。
しかし、学びに変わったことで新しい疑問が生まれる。
すると学びは再び疑問になる。
疑問になった学びを調べると、また学びになる。
つまり、疑問は学びになり、学びは疑問になり、その疑問がまた学びになる。
だとすれば、疑問が学びに変わる瞬間とは、疑問が疑問でなくなる瞬間ではない。
次の疑問が生まれる瞬間なのかもしれない。
おぉ。
最後に意味のあることを言ってしまった。
ここまで書いてきたことが全部台無しである。
しかし心配はいらない。
私には、もう次の疑問がある。
ボルチンスカヤとボルガレナが別物であることは分かった。
では、ボルガレナのボルチンスカヤは、どこにいるのだろう。
そんな人はいないことは分かっている。
だが、いないことが分かっている人を、なぜ私はこれほど鮮明に思い浮かべることができるのかが、分からないではないか。
分からないということは、まだ疑問が残っているということである。
疑問が残っているということは、まだ学べるということだ。
どうやら、学びは終わらないらしい。
終わらないから、まだ終わっていないのである。

