抹殺すべき宗教について
宗教についてはこれまで何度か書いてきたが、書き足りないことがあると思うのでまた書く。
世界三大宗教は、キリスト教、イスラム教、仏教である。
キリスト教は、イエスという人物が興した唯一絶対神を信じる一神教だ。
「キリスト」は救世主という意味で、だからキリスト教を日本語に訳せば救世教となる。
イエスはユダヤ教の一派のエッセネ派に入信したらしい。
入信の際、洗礼を受けているからだ。
洗礼はエッセネ派が始めた儀式で、それが後にキリスト教全体に広がった。
「死海文書(しかいもんじょ)」というのがずいぶん昔に発見された。

それに書かれていることは、イエスの死後にまとめられた新約聖書によく似ているそうだ。
「死海文書」はたぶんエッセネ派の誰かが書いたものなのだろう。
エッセネ派の教義はユダヤ教の主流とは大きく違っていた。
ユダヤ教には多くの戒律があった。
安息日に仕事をしてはならないというのはいいとして、安息日には排便してもいけないといった実行不可能な戒律もある。
その戒律をエッセネ派は否定していて、だからイエスはその戒律を破った。
それでイエスはユダヤ教主流によって磔(はりつけ)にされ殺された。
もっとも、磔にされたのは実はユダで、イエスは隠れて復活したように見せたという説がある。
というのも、エッセネ派では、「やがて神の子である救世主が出るが、その救世主は殺される。だが復活する」というようなことが信じられていたからだ。
エッセネ派のリーダーになったイエスが殺されて復活しなかったら、信者は失望するだろう。
それでユダがイエスに提案して「復活劇」が行われたのだという。
イエスの死後すぐ作られた新約聖書をよく読むと、イエスが殺される前後の記述におかしな部分がいくつかあることに気付く。
けれど、上述したような「復活劇」があったとしたら、それらのおかしな部分に納得がいくのだ。
ユダヤ教には変な戒律が多いが、キリスト教にも戒律はある。
父母を敬うことが推奨され、殺人、盗み、姦淫(女性と交わることや不倫のこと)などが禁じられている。
イスラム教も一神教である。
「イスラム」とはアラビア語の「イスラーム」が英訳された呼び方だ。
ムハンマドという人物が興した宗教で、偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじるとともに、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色がある。
宗教的倫理を越え、礼拝・家族・商取引・刑法・国際法に至るまで包括的に定義されていて、天国に行けるかは神が決めることで、死ぬまでは人間の間で問題にされないなどの点で、仏教やキリスト教とは大きく異なる。
イスラム教にも戒律はある。
有名なのは豚肉を食べてはいけないことだ。
そのほかにも、アルコールや薬物の摂取、ギャンブルや盗み、婚外の性行為や不倫、 無駄な殺生や動物虐待をするなといった戒律がある。
また、女性の服装に慎み深さが求められいて、体のラインが見えないような服装を着ることが推奨され、公共の場ではヒジャブ(頭を覆う布)を着用することが一般的になっている。
さらに男女の別なく、定刻になると毎日、聖地メッカに向けて長い時間、拝礼しなければならない義務も課せられる。
そのキリスト教とイスラム教は砂漠の中で誕生した。
何というタイトルの本だったか、司馬遼太郎と海音寺潮五郎の対談をまとめた本を読んだことがある。
そこで確か司馬さんが、キリスト教もイスラム教も砂漠の中で生まれた、周りに何もなく夜は満天の星空になるような砂漠のようなところで生きていると、唯一絶対神の存在を信じるようになったり、大きな啓示のようなものを感じるのではないかと言った。
なるほど、と私は思った。
小さな農村や大都会に住んでいたら、唯一絶対の神の存在なんて信じることはないだろうし、啓示を受けることもまずないだろう。
けれど砂漠ならそれはあり得るかもなと思った。
そして、司馬さんだったか海音寺さんだったかが、イエスもムハンマドも精神疾患だったのだろうと言った。
それもあるな、と私は思った。
統合失調症なら幻覚を見たり幻聴を聴いたりする。
それを神の啓示と受け取ることは十分にあり得る。
妄想癖があれば、啓示なんていくらでも受けるだろう。
このふたつの宗教を信じる人が世界人口の大半を占める。
仏教徒は少数派だ。
もとの仏教は悟りを開くのを目的としていて、そのため禅を組んだ。
釈迦は何かの神を拝めとか自分を拝めとは言わなかった。
後に仏教はいろいろな神を仏を守る存在として立てた。
例えばインドラとかブラフマン(宇宙万物の根本原理の意味の神で、日本では「梵天」と呼ばれる)などだ。
それらはバラモン教やヒンドゥー教の神である。
仏教教団を率いる後年の人たちが、仏だけでは物足りないからとヒンドゥー教の神々を持ってきたのかもしれない。
今の仏教宗派のほとんどは釈迦が死んで4百年から千年も経ってからまとめられた大乗経典に依るもので、だから釈迦の教えとはほとんど何の関係もない。
唯一、禅宗が釈迦の教えに近いことを始めた。
初期の禅宗は不立文字(ふりゅうもじ)、つまり経典(経典とは「釈迦の声」という意味である)に依らずに、ひとり座禅をして悟りを開くことを目指すものだったからだ。
今の禅宗は、信者を集めるためか信者を安心させるためか知らないがお経を上げる。
他の仏教諸派と同じく葬式仏教になり、信者が死ねば僧はお経を上げ、寺院の墓地に信者の遺骨を埋める。
悟りを開くことを目指して座禅をすることもやっているのだろうけど、寺の経営のほうを優先しているのだ。
堕落してしまったわけだ。
日本天台宗にも止観という禅に似た修行がある。
禅を組んで、例えば水の流れる様子だけを考えつづける。
そうすると、その部屋に誰かが入ってきたとき、その人は部屋の中から溢れ出てくる水でずぶ濡れになるという。
ホンマかいなと思うが、とにかく禅に似た修行法があるのは確かなようだ。
経典は釈迦の死後に作られたもので、小乗経典でさえ釈迦が死んで百年も経ってからまとめられたものだ。
大乗経典ともなると、前述したように釈迦の死後、4百年から千年も経ってからまとめられている。
小乗経典に書かれていることさえ少し怪しいのに、大乗経典ともなると、それが釈迦の教えかとなると、信じるほうがどうかしていると思ってしまう。
ただし、釈迦は自ら悟りを開くことを目指したわけで、そんなことのできる人は何百万人にひとり(いや、地球にひとかふたりというレベルかも)という稀有な例だと思う。
そんな宗教が広まるはずがない。
それで後年の弟子たちが、信者を増やすために大乗経典を作ったのだと思う。
小乗経典では多くの戒律を守って禅定(ぜんじょう。座禅を組んで瞑想すること)しなさいと説いている。
その戒律とは、殺生するな、盗むな、女性と交わるな、酒を飲むな等だ。
さらに、すべての欲から離れよ、楽しみを捨てよといった、普通の人ではとても実践できないようなことを強調している。
多くの大乗経典では戒律にあまり触れていない。
それをいいことに、日本真言宗の開祖である親鸞は妻帯した。
その風習が広まり、他宗の僧までが妻帯するようになった。
現代では僧の妻帯は当たり前のようになっている。
昔は女性が僧になることはあまりなかったので女犯の戒だけがあったが、尼さんが増えてからはどうなっているのだろうか?
キリスト教も、前述したように当初は戒律が多かった。
やはり女性と通ずることは禁じられていた(キリスト教に女性の神父はいるのだろうか? いるとしたら、男性と通ずることが禁じられていると思う)。
それが後にカトリックと呼ばれる宗派になる。
戦国時代に日本に来た宣教師たちはカトリックが多かった。
織田信長は彼らカトリックの宣教師たちの清廉さと禁欲さに好意を持ち、その逆に日本仏教が乱れていることに怒りを覚えた。
信長の比叡山焼き討ちのひとつの理由は、そこにあったと思う。
信長軍が比叡山延暦寺(日本天台宗の総本山)に火を付けて回ると、いるはずのない女とその子どもたちがたくさん逃げ出してきたという。
親鸞が妻帯した影響を受け、日本天台宗も堕落していたのだろう。
しかし、彼らカトリックの宣教師はキリスト教を日本に広めるだけでなく、日本をキリスト教国にして植民地にしようともくろんでいた。
それで日本はキリシタン禁止令を出し、江戸期以降はプロテスタントのオランダだけと交易を続けた。
プロテスタントは、カトリックの戒律の厳しさを嫌ったせいもあるが、それよりも神父の地位が絶大すぎることに反発を覚えた人たちによって建てられた宗派だ。
カトリックでは、神と信者の間に神父が入り、だから神父の存在は信者にとって神に近いものになっていた。
プロテスタントは、信者が神と直接つながることのできるような宗教になっている。
プロテスタントにも神父はいるが、カトリックのように神に近いような権力は持たない。
神父は妻帯も許され、神父は信者と近い関係になった。
そんなところは仏教の歴史と似ている。
イスラム教については、近年はイスラム原理主義というのが台頭してきて、世界各地でテロを起こしている。

もとのイスラム教の教義にそんなことはか書かれていないようだから、普通のイスラム教徒はそんなことはしない。
しかし今はイスラム原理主義が幅をきかせてしまっている。
そういう物騒な教義を持つ宗教は抹殺すべきだ。
キリスト教の母体となったユダヤ教の聖典である旧約聖書には、「特定の戦争で相手国を撲滅させてもいい」と書いてあるそうだ。

ユダヤ人は、生まれた聖地エルサレムの地で迫害され、ヨーロッパに逃げても迫害された。
そのひとつの理由は、ユダヤ教の教義によってユダヤ人たちが他の民族を低く見たからではないかという気がしてならない。
ユダヤ人はユダヤ教の教義にしたがって他の民族を殺すということはしなかった(逆にナチスによって大量虐殺された)。
太古のユダヤ教徒は神の言葉を信じて他の民族を迫害したのかもしれないが、今のユダヤ人はそんなことはしないのだ。
それは現代の倫理観から彼らは彼ら自身を律しているためだろう。
それでも、旧約聖書の「特定の戦争で相手国を撲滅させてもいい」という部分は削除すべきだと思う。
そうしないと、「ユダヤ原理主義」を唱える輩(やから)が出てきて、恐ろしいことが起こるのではないとかという気がするのだ。
ヨーロッパやアメリカに逃げたユダヤ人が故郷に帰ってきて建国したイスラエルは、ユダヤ民族がいなくなってそこに定着していたパレスチナ人を迫害し狭い区画に閉じ込めるだけでなく、それらパレスチナ自治区と戦争を始め、さらに隣国にまで戦争を仕掛けている。
これはユダヤ教の聖典である「旧約聖書」に書かれている「特定の戦争で相手国を撲滅させてもいい」を実践しているのではないか。
そんな宗教は有害でしかないと思う。
キリスト教徒だって、イエスは「隣人を愛せよ」(新約聖書)と言ったのに、中世になると十字軍を作って他国を侵略したり、魔女狩りをしたりした。

このことは、宗教が大きな力を持つと、とんでもないことをやる恐れがあることを示している。
そうならないように、宗教者も信者も襟(えり)をただすべきだ。
特に国教になんかにしてはならないと思う。
明治になって日本は神道(しんとう)を尊重し、国教的な扱いをするようになった。
神道は、開祖や教祖、教典を持たず、また一神教とは対照的に森羅万象あらゆるものに神が宿るという思想に基づくものだ。
日本人が昔から農耕や漁労など自然と交わり生活を営む中から生まれた信仰といえ、神話、八百万(やおよろず)の神、自然や自然現象など多くの事柄を含むアニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教でもある。
そんな変哲もない神道を尊重して明治政府が特に重視したのが、天皇家の祖とされるアマテラス(天照大神)だった。
伊勢神宮に祀られている神である。
特に右翼は天照大神の子孫である天皇こそ日本の柱だと信じて国を動かそうとした(今でも右翼は天皇が天照大神の子孫だと大真面目で信じている)。
神道は江戸期から国粋主義者を作った。
国粋主義とは、日本の文化・伝統の独自性を強調・発揚し、これを保守しようとする政治思想で、これは神道を土台にした考え方なのである。
彼らは、蒙古襲来で蒙古軍が撤退したのは神風が吹いたからだと信じた。
江戸幕府は檀家制度を作って全国民を各地域の寺院の檀家にした。
これは戸籍制度にもつながったが、全国民を仏教徒にすることになり、密かに反対する人たちがいた。
反対派は主に神道を信じる人たちで、江戸期を通じてその思想は次第に広まっていった。
幕末にはその思想が大きくふくらみ、国粋主義者を多く出したのだ。
志士たちが愛読したのは「大日本史」で、これは徳川御三家のひとつ水戸藩が編纂した歴史書である。
「大日本史」は尊王(天皇を尊ぶこと)こそ肝要で、武権で天皇(後醍醐天皇)と敵対した足利尊氏を最大の悪人と規定している。
暗に徳川幕府を批判したものと志士たちはとらえた。
志士とは、天皇を尊ばず黒船来航でさっさと開国した幕府の姿勢に怒り狂った人たちのことを言う。
志士たちは「大日本史」の思想を掲げて尊王運動を始め、アメリカの圧力に屈してばかりの幕府を罵り、尊王攘夷を唱えはじめた。
攘夷とは、夷狄(いてき。外国人)打ち払うという意味である。
やがて志士たちは、攘夷を行わない幕府を倒すしかないと思うようになり、討幕運動が始まって幕府は滅ぶ。
明治政府を建てた志士の多くは幕府を倒したら攘夷思想を捨ててたちまち開国派になったが、彼らの中に神道信仰はまだ生きていた。
明治政府が仏教を禁止して(廃仏毀釈=はいぶつきしゃく)神道を尊重したのはそのためだろう。
明治政府は大国清と戦って勝ち(日清戦争)、大国ロシアにも勝利した(日露戦争)。
これらの勝利が日本国民を狂わせた。
「神州日本は不敗だ」という誇大妄想が国民の間に浸透してしまった。
軍部ももちろんそうで、昭和に入ると大国アメリカを相手に愚かにも戦争を始めた。
敗戦間近には、神風特攻隊などという非人道的なものを作り、うら若い兵士たちを敵艦に突っ込ませた。
アメリカ軍が沖縄に迫ると、本土決戦までの時間が稼げると軍部が考え、軍部のその見方に天皇はうなずいた。
沖縄は軍部と天皇の犠牲になったのだ。
国家が宗教を国教にしたり保護したりすると、その宗教の信者たちを狂わせることもあるという最低最悪の例だ。
宗教家なら、政治とは無縁の場所で信者や社会のために奉仕するのが務めだろう。
日本はもちろん、世界各国で新興宗教ができている。
それらの多くは、キリスト教や仏教などの教義の一部を切り取って建てられている。
日本のオウム真理教(今のアレフ)は仏教の一部を切り取って作られた新興宗教たが、地下鉄サリン事件のようなとんでもないテロを起こした物騒な宗教だ。

あるジャーナリストがオウム真理教に偽って入信して信仰活動をしばらく続けた。
座禅をするのが主な修行だったそうで、何時間も座禅をして瞑想していると、目をつぶっているのに光が見えてくるという不思議な体験をしたという。
そんな光が見えても何も変わらないのだが、信者たちは悟りに近づいたと思うようで、それでいまだに信者になる人がいるのだろう。
韓国の旧統一教会はキリスト教的な新興宗教らしいが、日本人からどんどん金を取れという恐ろしい教えを持つ。
仏教やキリスト教などの大宗教とは何の関係もなく、神の啓示を得たと唱える怪しい人物が興した新興宗教もある。
その中にも、信者を集団自殺をさせたりするおかしな宗教もあるので要注意である。
そういう宗教はどんどん抹殺すべきだ。
宗教団体に認定する基準を徹底的に見直し、物騒なことをしそうな宗教がはこびらないように行政も強く監視しなければならない。
仏教に限って言えば、大乗仏教の中には、釈迦の教えとはまるで違うとはいえ、かなりまともなことを教義にしている宗派もある。
そういう宗派は、仏教を名乗らずに別の名前で布教すればいい。
真言宗にしろ天台宗にしろ浄土宗にしろ日蓮宗にしろ禅宗にしろ「仏教」とは付いていないが、依りどころにしているものは仏典だ。
それもほとんどは大乗経典である。
それは釈迦の教えではないのだから、つまり悟脱を目的とするものではないのだから、仏教と名乗るべきではないと思うので、仏典を依りどころとしない宗教としてやっていけばいいと思う。
だいたい、仏教の経典を毎日誦(よ)む、または誦ませるのはおかしいと思う。
経典は漢文で、教えられないと何が書かれてあるのかわからない。
そんなものを訓読みではなく音読みで、つまり中国の発音(正確には呉音らしい)で日本人が声を出して誦んでもどうにもならないだろう。
どうしても経典を誦み上げたいのなら(または僧に誦んでほしいなら)、どんなにいいことが書かれていても、それは釈迦の教えとは違うのだということをわきまえての上でしてほしい。
これからの時代の宗教は、人々に倫理観や道徳心を身に付けさせるものでなければならないと思う。
信仰すれば功徳があるとか、経典を毎日誦み上げていれば金持ちになるとか、献金すれば幸福になるとか、ほかの宗教を信じれば地獄に堕ちるとか、そんな馬鹿げた教義を持つ宗教などいらない。
社会のために奉仕する活動をしてほしい。
そのような奉仕をすることこそ人の道だと説く宗教なら存在価値がある。
それが宗教者のあるべき姿だと教えてくれる宗教こそ、本物の宗教だと思う。
ついでに書いておくと、キリスト教では神父に懺悔(ざんげ)することで救われるという。
気持ちが楽になって救われた気分になるのはわかる。
しかし、人に話せない悪いことをしたとして、それを神父に話すことで許されたと思うのは間違いだと思う。
罪は罪として罰せられなければならない。
だから、キリスト教の懺悔もやめたらどうかと思う。
