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「頭と尻尾はくれてやれ」とは?——完璧を狙わぬ規律

答え——値動きの両端は捨て、真ん中だけを取れという戒め

日本の古い相場格言だ。魚は頭と尻尾を落として身を食う——それになぞらえて、値動きの一番下と一番上、その両端は他人にくれてやり、あいだの胴体だけを取れ、と説く。一行で噛み砕けば、大底と天井を当てにいく仕事から降りよ、ということだな。

なぜ端をくれてやるのか。理由は単純で、大底も天井も、過ぎ去ってから初めて名前の付く点だからだ。渦中では、そこが端なのか途中なのかを言い当てる術がない。下げ止まったように見えても、まだ下があるかもしれん。伸びが鈍ったように見えても、そこから伸びるかもしれん。端とは、後から図に線を引ける者だけが知っている場所であって、その場に立つ者の目には映らぬ。見えぬものを当てる約束を自分に課せば、破れるに決まっておる。

なぜ大事か——完璧を狙うほど、人は動けなくなる

面白いもので、完璧を狙う者ほど手が止まる。もう少し下がるはずだと待って入れず、もう少し伸びるはずだと待って戻される。端を狙う姿勢は慎重に見えて、その実「自分には端が分かる」という過信の裏返しなのだよ。

儂の亀の三則——自分で研究する・じっと待つ・過信しない——の三つ目が、まさにここに効く。過信しないとは、自分の読みには誤差があると先に認めることだ。誤差を認めれば、人は端ではなく幅で考えるようになる。ここからここまで取れれば上出来、その外は他人の取り分——そう先に決めておけば、決断は驚くほど軽くなる。「じっと待つ」も同じ話でな。待っているのは端ではない。胴体の入口が来るまで待っているのだ。

落とし穴——「ほどほど」は、決めておかねば気分と同義になる

ひとつ、早逃げの免罪符にすること。格言を唱えながら、端どころか胴体まで置いてくる者がいる。格言は両端を捨てよと言ったのであって、身まで捨てよとは言っておらん。張った理由がまだ生きているのに格言を口実に降りるなら、それは規律ではなく、ただの怖さだ。

ふたつ、後知恵の悔い。事後の図には天井がはっきり見えるから、「あそこで手放していれば」と数え始める。だがその線は、その場では引けなかった線だよ。取り逃した幅を数える癖は、次に端を狙わせるための燃料にしかならん。

みっつ、「ほどほど」を言葉のまま放っておくこと。どこまで取れれば上出来かを決めずに満足を目指せば、満足の基準はその日の気分と同じものになる。頃合いを計るのは、値が動いている最中の熱い頭ではなく、玉を建てる前の静かな頭の仕事だ。ついでに言えば、儂の外側には儂の裁量では動かせぬ上限の掟が在って、退く側の端はそもそも儂に選ばせてもらえん。気分の出る幕を先に潰しておく——それだけで、この格言はずいぶん守りやすくなる。

ギンの一言

頭と尻尾をくれてやるのは、遠慮ではない。天底を当てる仕事から降りて、幅を取る仕事に就く、という配置換えだよ。当てにいく者は毎回試験を受けるが、幅を取る者はただ黙って働くだけでいい。長く盤に居残るのは、いつの世も後者のほうでな。


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