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怒っている人が、悪い人とは限らない。

人間関係があまり得意ではない私に、娘が友達との喧嘩の話をしてきた。

「それで、喧嘩の原因は?」
「わからない」

「わからないのに止めたの?」
「みんなを守ろうとした」

「守る? 誰から誰を?」
「トニーから、みんなを」

「なんで原因を知らないのに、トニーが悪者になってるの?」

娘はたぶん、友達との喧嘩を相談したかっただけなのだと思う。

けれど私は、「みんなを守ろうとした」という娘の言葉に引っかかっていた。

喧嘩の原因は分からない。

それなのに娘の中では、いつの間にかトニーが「みんなを傷つける側」になっていた。

このときの私は、子ども同士の喧嘩なのだから、翌日には怒りも少し収まるだろうと楽観視していた。

けれど、そうはならなかった。

トニーはその後、一か月以上、娘を無視した。

まったく話さないわけではない。

自分の機嫌がいいときには、何事もなかったように話しかけてくる。

けれど次の日には、また無視する。

仲直りしたのか。

まだ怒っているのか。

話しかけてもいいのか。

娘には、その境界が分からなかった。


娘は何度もトニーに謝った。

けれど、許してもらえなかった。

「もうどうでもいい」

「話しかけないで」

そんな言葉で拒絶され、そのたびに娘は傷ついた。

私は娘に聞いた。

「何に対して謝ったの?」

娘は、すぐには答えられなかった。

仲直りしたかったから謝った。

トニーが怒っていたから謝った。

自分が何か悪いことをしたのだと思って謝った。

けれど、娘は喧嘩の原因を知らない。

トニーがなぜ自分にまで怒ったのかも、よく分かっていない。

何に傷つけたのか分からないまま、「ごめんなさい」だけを何度も繰り返していた。

それでは、トニーには届かなかったのかもしれない。

私は、あの日のグループチャットで起きたことをもう一度考えた。

ミカエルとトニーが喧嘩をしていた。

二人とも暴言を吐き、娘たちが話題を変えようとしても止まらなかった。

娘とアニーは、最初は落ち着くように言っていた。

それでも止まらない二人に、やがて娘たちも、

「静かにして」

「黙って」

と強い言葉を使った。

娘が見ていたのは、激しく怒り、暴言を吐いているトニーだった。

だから娘は、トニーからみんなを守ろうとした。

けれど、娘の「みんなを守りたかった」という言葉について、私はもう少し考えた。

そこにあったのは、正義感だけではなかったのかもしれない。

暴言が飛び交い、誰も止まらず、グループチャットの空気が荒れていく。

娘は、その状況そのものが怖かったのではないか。

誰かを守りたかったというより、これ以上ひどくなる前に、この場を止めたかったのかもしれない。

原因を確かめるより先に、目の前の混乱を終わらせようとした。

そう考えると、娘の行動は単純な正義感だけではなく、恐怖や不快感から生まれた自己防衛でもあったように思う。

それでも、恐怖の中で誰か一人を「危険な人」と決めてしまえば、その人をさらに孤立させることがある。

けれど、いちばん激しく怒っている人が、最初に悪いことをした人とは限らない。

トニーは、ミカエルに大切なものをバカにされて怒ったのかもしれない。

傷つけられた。

言い返した。

言葉が強くなった。

そこへ事情を知らない娘が入ってきて、自分に向かって「黙れ」と言った。

トニーから見れば、こうだった可能性がある。

自分は先に傷つけられた。

なのに、誰もその理由を聞かなかった。

怒った自分だけが、みんなを傷つける悪者にされた。

もしそうなら、娘が謝るべきだったのは、喧嘩を止めようとしたことではない。

原因を知らないまま、トニーだけを悪い側に置いてしまったことだった。

もちろん、怒って暴言を吐いたことまで正当化されるわけではない。

傷つけられたからといって、誰かを傷つけていいわけでもない。

けれど、

最初に傷つけた責任と、

傷ついて強く反応した責任は、

同じものではない。

そこを分けずに、目の前で一番大きく怒っている人だけを止めれば、因果は簡単に逆転する。

静かにからかった人は見えなくなる。

怒りを爆発させた人だけが、問題のある子に見える。

それでも、トニーの事情を考えたからといって、その後、娘が拒絶され続けて傷ついた事実まで消えるわけではない。

一か月以上、話しかけたり無視したりを繰り返し、関係を不安定なままにしたことは、喧嘩の発端とは別に考えなければならない。

この喧嘩には、誰か一人だけを悪者にすれば片づくような、単純な線はなかった。

誰かの事情を理解することは、その人の行動を免責することではない。

背景を見ることと、責任を曖昧にすることも違う。

必要なのは、誰か一人を加害者に固定することではなく、どの場面で、誰が、何をしたのかを分けて見ることなのだと思う。

そしてこれは、娘自身が何度も経験してきたことでもあった。

誰かにからかわれる。

嫌なことを言われる。

我慢できなくて、娘が感情を爆発させる。

先生が見つけるのは、その最後の場面だけだ。

怒っている娘。

大きな声を出している娘。

強い言葉を使った娘。

その前に何があったのかは、消えてしまう。

娘は何度も、

「最初にやったのは私じゃない」

と言ってきた。

けれど今回は、娘がトニーに同じことをした可能性があった。

自分が怒るときには、その前に理由がある。

でも他人が怒っているときには、「今、この人が怒っている」という部分だけが見える。

娘は、自分がされたことの苦しさを知っている。

けれど、その苦しさを、怒っている他人の中に見つけることはできなかった。

被害を受けた経験が、そのまま他者理解になるわけではない。

自分が傷ついた構造を知っていても、立場が変われば見失うことがある。

私は娘に伝えた。

「怒っている人を止めるのはいい。でも、その人だけが悪いとは決めないで」

「その前に何があったのかを聞こう」

「一番怒っている人が、一番悪い人とは限らないから」

あの日の喧嘩の原因は、今も分からない。

グループチャットは消えていた。

アニーも覚えていなかった。

ミカエルには聞きにくい。

トニーには、もっと聞けない。

結局、何が発端だったのかは未解決のままだ。

けれど、原因が分からなかったからこそ、見えたものもあった。

娘は喧嘩の原因を知らないまま、誰かを守ろうとした。

その善意によって、別の誰かを悪者にしたかもしれない。

人を守ろうとすることと、

誰が悪いかを決めることは、

同じではない。

問題行動だけを見れば、その子が問題に見える。

けれど、その行動が始まる前には、別の物語がある。

その「前」を見ようとすること。

たぶんそれが、仲裁に入る前に必要なことなのだと思う。






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