関西弁でよむ法華経|方便品
1.仏の智慧は、底が見えへん
そのとき、お釈迦さまは、三昧(深く心を定めた境地)から立ち上がり、舎利弗(しゃりほつ)に向かって、こう言わはった。
「仏の智慧はな、ものすごい深くて、底なしや。声聞(仏の教えを聞いて悟りをめざす修行者)や、辟支仏(自分ひとりで悟りに至ろうとする修行者)には、とても知ることのできん境地なんや。これは、誰にもわかりようがないんや。
仏はこれまで、数えきれんほどの仏のもとで教えを学び、教わったことを一つ残らずやりきって、長いこと修行を続けて、きわめて深い教えにたどり着いたんや。
悟りを開いてからはな、いろんな話をし、たとえ話も使いながら、いろんな方便で人びとを導いて、いろんなものへの執着から、離れられるようにしてきたんや。
それができるんはな、如来には物事をちゃんと見抜く力と、人びとを導く力がそなわっとるからや。その力は、何にもさまたげられへん。ものごとのいちばん深いとこまで見抜ける。せやから、これまで誰も説いたことのない教えを、打ち立てることができたんや。
ほんでな、ものごとのほんまの姿を芯までわかってるんは、如来だけなんや。ものごとがどんな姿で現れるか。どんな性質をもってるか。その姿と性質が、どんなありさまになってるか。どんな力がそなわって、どんなはたらきをするか。何が原因で起こって、どんな条件がそろって、どんな結果になって、どんな報いに至るか。——その最初から最後までが、ぜんぶひとつながりになってる。それが、ものごとのほんまの姿や。
せやけどこの教えは、そう簡単にわかるもんやない。言葉で説明しようとすると、大事なところが消えてしまうんや。
たとえ舎利弗みたいに賢い人が世界中にあふれかえって、みんなでどんだけ頭をしぼっても、仏の智慧をはかることはできへん。
辟支仏のように頭が切れて、修行をやりきった人らが、竹林みたいにずらっと並ぶほどおって、みんなで心を一つにして、気の遠くなるほど長いあいだ頭をしぼっても、ほんのちょっともわからへん。
さらに、もう迷いに戻ることのない菩薩たちが、ガンジス川の砂ほどぎょうさんおっても、やっぱり知ることはできへんのや。
このほんまの姿を知ってるのは、仏だけや。わしも、あらゆる世界の仏も、みんな同じように知ってるんや。
舎利弗よ、しっかり知っときや。
どの仏も、言うことに食い違いはない。その教えを、しっかり信じなあかんで。仏は長いあいだ教えを説いて、最後にはかならず、ほんまのことを明かすんや。
声聞や辟支仏をめざす人らよ、よう聞きや。
これまでわしが『苦しみから抜け出して、涅槃にたどり着ける』と説いてきたんはな、みんなを導くために、わざと三つの道(声聞・縁覚・菩薩)に分けた、方便やってん。それぞれが抱えとるいろんな執着から、抜け出せるようにするためやったんや」
2.「なんで方便ばっかり褒めるん?」
お釈迦さまがこう説き終わったとき、みな、顔を見合わせた。
そこにおったんは、千二百人ほどの声聞の弟子たち。お釈迦さまが初めて説法をしたとき、まっさきに悟りを開いた憍陳如(きょうじんにょ)をはじめ、煩悩を残らず断ちきった人らや。ほかにも、声聞や辟支仏をめざして修行してる比丘や比丘尼、在家の男女(優婆塞・優婆夷)もおった。
その人らは、それぞれに、こう思った。
『今になって、お釈迦さまはどうして、さっきの方便の話を、わざわざ念入りに言うてはるんやろう。仏の教えは深すぎて分かりにくい、わたしら声聞や辟支仏には、とても届かへん——そんなことまで言うてはるやないか。
これまでお釈迦さまは、苦しみから抜け出して涅槃にたどり着ける教えを説いてきはった。わたしらもその教えを受け取って、涅槃にたどり着いた。そのはずやのに、今言うてはることの意味が、どうもわからへん』
舎利弗自身も、これがわからんかった。まわりを見たら、みんなも同じや。せやから、みなを代表して、お釈迦さまにたずねた。
「お釈迦さま、どんな理由があって、さっきから方便のことを、なんべんも念入りに言うておられるんですか。わたしはこれまでずっとお話を聞いてきましたが、こんな話は一度も聞いたことがありません。
お釈迦さまは、わたしのことを、声聞のなかで、いちばんよう物事がわかっとると言うてくれはりました。そのわたしが、わからへんのです。
わたしらがこれまで教わってきた道は、もうそこで終わりなんでしょうか。それとも、まだ先があって、わたしらは道の途中におるんでしょうか。
この場には、天の神々や龍、そして仏の悟りを求める菩薩たちがおよそ八万人、さらに数えきれんほどの国々から転輪聖王(正しい法で国を治める理想の王)たちまで集まってきてます。みな手を合わせて、答えを待ってます。どうか、くわしくお聞かせください」
3.三度たのんで、やっと
お釈迦さまは、口を開かはった。
「やめとこう。この教えを説いたら、天の神々や人、阿修羅たちはみな驚いて、疑うやろう。思い上がった比丘たちも、道を大きく踏み外してまうかもしれん」
せやけど舎利弗は食い下がった。
「お釈迦さま、どうかお説きください。この場におる人らは、長く仏の教えを学んで、物事をよう分かってる人ばかりです。お説きくだされば、きっと敬って信じられるはずです」
それでもお釈迦さまはうんと言わへんかった。
「やめとこう、舎利弗。わしの教えは深くて、そう簡単には分からへん。思い上がった者は、聞いてもかえって信じようとせんのや」
それでも舎利弗は引かんかった。三度目や。
「どうか皆のためにお説きください。この場におるわたしのような者は、これまで何度も生まれ変わりながら、仏さまに従って教えを受けてきました。せやから、必ず素直に受けとめられます」
お釈迦さまは、ようやく言わはった。
「舎利弗よ、これまで三度も願い出たな。そこまで言うなら、これから話そう。よう聞いて、しっかり心にとどめるんやで」
4.五千人、席を立つ
ちょうどその話をしようとしたとき、出家の人も在家の人もあわせて五千人が、すっと立ち上がって、お釈迦さまに礼をして、そのまま帰ってしもた。
もともと罪の根が深いうえに、思い上がった人らでな。ほんまはまだ何も得てへんのに『もう得た』、まだ悟ってへんのに『もう悟った』と思い込んでたんや。その深い罪と、思い上がり。その二つが重なって、この場に居続けられへんかったんやな。
せやけど、お釈迦さまはその様子を見ても、無理に引き止めたりはせんかった。そして舎利弗に言わはった。
「今ここに残ってる者らは、へんな思い込みもなくて、まっすぐで正直な者だけや。舎利弗よ、ああいう思い上がった者らは、出ていって、かえってよかったんや。今からよう聞きや。あんたらのために説くで」
舎利弗は言うた。
「はい、お釈迦さま。ぜひ、お聞かせください」
5.仏がこの世に現れた、たった一つのわけ
するとお釈迦さまは言わはった。
「この教えはな、仏がその時を選んで、時が来てはじめて説くもんなんや。めったに現れへん優曇華(うどんげ)の花のように、ほんまにまれなんやで。
舎利弗よ、しっかり信じや。
仏の言葉に、嘘いつわりはあらへん。
仏の説く教えは、そう簡単には理解できひん。仏は、いろんな方便や因縁、たとえ話を使って、教えを説くからな。
この教えは、頭で考えるだけで分かるもんやない。理解できるんは、ただ仏だけなんや。
なんでかいうたら、あらゆる仏には、この世に現れる、たった一つの大事な理由があるからや。
それはな、人びとに仏のものの見方に気づかせるため。
その見方を、目の前に示すため。
人びとに、それを悟らせるため。
そして、その見方を自分のものとして生きられるようにするため。
——これこそが、仏がこの世に現れる、たった一つの理由なんや」
6.道は、ひとつだけ
お釈迦さまは続けて言わはった。
「仏になる道は、ほんまは一つだけや。行き着く先は、仏の悟り。
ただ、世の中も人の心も乱れて、人びとが欲やねたみに染まった時代には、その一つの道をそのまま説いても伝わらん。そんな人らを導くために、いったん三つに分けて説く。それが方便や。
昔の仏も、今の仏も、これから現れる仏も、みなそうする。わしもまた同じや。教え方はどれだけちがっても、行き着く道は一つ。その道を行けば、みんな仏の智慧にたどり着くんやで。
せやから、修行を修めて阿羅漢(煩悩をなくして悟りを得た聖者)になったとしても、そこで『もう終わりや』と思い込んだらあかん。その先にはまだ、仏になる道が続いてるんやからな。
それを知らんと、自分はもう阿羅漢やと言うてる者は、仏の弟子やない。
阿羅漢でもない。辟支仏でもない。
道はいくつに分かれて見えても、行き着く先は、たった一つや。ほかに道はあらへん。仏の言葉に、嘘はないんやで」
7.いよいよ、ほんまの道を説く
さらに、お釈迦さまは、舎利弗にこう言わはった。
「舎利弗よ、仏たちはな、相手のことをぜんぶ見抜いたうえで、みんなが喜んで受け取れるように、その人に合うた方便で教えを説くんや。
経を説くこともあれば、詩やたとえ話、昔の物語で説くこともある。
なかには、まだ仏の深い教えを受け取る力がなくて、大きな悟りまで求めんと手前で満足してしまう人もおる。生き死にを繰り返す世界に、自分からしがみついて、何べん仏に出会っても仏になる道を歩めてへん。そうやって苦しみに振り回されてる人には、まず涅槃(迷いや苦しみの消えた、安らかな境地)を説く。
わしもそうやって方便を使って、みんなを仏の智慧へ導こうとしてきた。
せやけど『おまえたちは必ず仏になれる』とは、まだ言わんかった。その時が、まだ来てへんかったからや。
でも、今こそその時や。これからは、仏の悟りへ至るほんまの道を説くで。
わしがこれまで相手に合わせて説いてきた教えは、みんなこの道へ入るための土台やったんや。せやからこそ、今この経を説くんや。
ほんで、素直な心で、たくさんの仏のもとで修行を重ねてきた者らに、わしは『未来には必ず仏になれる』と明かすで。
なんでかいうたら、仏を深く信じて、正しく生きてるからな。
それを聞いた者らは、心からよろこぶ。自分が仏になれるやなんて、思てもみんかったからな。
声聞であっても菩薩であっても、わしの説く教えをたとえ一句でも聞けば、みな仏になれる。まちがいないんや。
仏はな、誰もが仏になれる道を、ちゃんと見通してる。せやから、小さな悟りで終わりにはせん。信じてついてくる者を、だましたり、教えを出し惜しみしたりせん。最後の最後まで導くんや。
仏の心には、もう何も濁りがない。恐れるものも、何ひとつない。数えきれん人らに敬われながら、この世界のほんまのすがたを説いてるんや」
8.ほんまは、みんなを仏にしたかった
舎利弗、知っときや。
わしは昔、こう誓いを立てた。『すべての人を、わしと同じ仏にする』とな。
その願いは、今こうして叶ってる。すべての人を導いて、みな仏の道に入らせるんや。
ほんまは、出会うすべての人に、仏になれる道をそのまま説きたい。
せやけど、ものごとを見抜く力がまだ無い人は、心が乱れて迷ってしもて、その教えを受け入れることができへんのや。
この人らがどんな人か、わしにはようわかってる。
まだ善い行いを積めてへんし、財産や快楽への欲が強い。その欲にとらわれるせいで、自分から悩みの種をこしらえてるんや。
そうして欲に引きずられるまま、地獄などの苦しみの世界へ落ちていく。六つの迷いの世界を生まれ変わっては、ありとあらゆる苦しみを、いやというほど味わうことになる。
こういう人らは、まちがった考えにがんじがらめになって、おごり高ぶってる。ほんで、何ごとも素直に受け取れへん。おまけに、長いあいだ仏の教えにも触れてこんかった。
ここまで来た人らを、仏の道へ導くのは、そらもう難しいわな。
せやから舎利弗よ。わしは方便を使って、まずは苦しみから離れる道を説いた。そのうえで、涅槃を指し示してきたんや。
せやけど、その涅槃かて、ほんまの悟りやというわけやないんや。
ゴールはその先にある。仏の道を歩み続けた者は、未来に仏となることができるんやで。
9.砂遊びも、お絵かきも、仏への道
昔、仏さまに出会うて、教えを聞いて、善いことを積んできた人はな、もうみんな、仏になったんや。
仏さまが亡くなったあとでも、同じや。素直な心を持ってさえいたら、その人らも、もうみんな仏になってる。
仏さまのために、塔を建てた人。金や銀で豪華に飾った人もおれば、野原に土を盛っただけの人もおる。遊びで砂を集めて塔にした子どもかて、おった。そんな人らはみんな、もう仏になってる。
仏さまの姿を、かたちにした人。木や金で仏像を刻んだ人もおれば、土でこしらえた人もおる。筆で絵に描いた人もおれば、枝きれや指先で描いた子どももおった。そんな人らもみんな、少しずつ功徳を積んで、いつくしみの心を育てて、もう仏になってる。
仏さまに、花や香をたむけた人。笛や太鼓を鳴らして、喜びの歌をささげた人。ほんの一声たたえただけの人、花を一輪そなえただけの人、ただ手を合わせて頭を下げただけの人。
そんな小さな縁が積もり積もって、やがて数え切れんほどの仏に出会い、自ら悟りをひらいて、多くの人を救い、薪が燃え尽きて火が静かに消えるように、安らかな涅槃へ入っていくんや。
なんならな、深く考えもせんと、ふらっとお堂に入って、一度「南無仏(仏さまを信じます)」とつぶやいた――ただそれだけの人かて、ちゃんと仏になってるんやで。
そしてこの教えを、仏さまが生きてるあいだに聞いた人も、亡くなったあとで聞いた人も、みんなおんなじや。もう、仏になってるんやで。
10.お釈迦さまが歩いた道
わしは菩提樹の下で悟りを開いたあと、二十一日のあいだ、ひたすら思いをめぐらせてた。わしが得た智慧は、この上なく深い。せやけど人びとは、まだ教えを受け止める力が育ってへんし、目の前の楽しみに心を奪われ、大切なことが見えへんようになってる。『こんな人びとを、どうすれば救えるんやろか』。そう、ずっと思い悩んでたんや。
そのとき、梵天や帝釈天、四天王たちが大勢の眷属を連れてやってきて、手を合わせ、教えを説いてほしいと願ったんや。
それを聞いて、わしはこう思った。『この道を、そのまま説いたところで、人びとはまだ苦しみのただ中におる。信じられるわけがない。それどころか教えに背いて、悪い道へ落ちてしまうかもしれん。いっそ、説かんほうがええんやろか。このまま早いこと涅槃へ入ってしもたほうが……』
そう迷いながらも、わしは過去の仏たちが用いてきた方便を思い起こしたんや。
『そうや。人びとの理解に合わせながら、この教えを説いていこう』
そう心を決めたとき、十方の仏たちが姿を現して、こう励ましてくれたんや。『ようやったな、釈迦牟尼よ。わしらもみんな、人びとに合わせて方便を使ってきた。おまえもまた、そうするんや』
その声を聞いて、わしは喜びに包まれて、『南無仏』と唱えたんや。
『そうや、わしは今、この濁った世に生まれ落ちた身や。せやったら諸仏がしてきたように、わしもまた方便を使って教えを説いていこう』
そうしてわしは波羅奈(ヴァーラーナシー)へ向かい、まず五人の修行者に教えを説いた。これがわしの最初の説法や。そこから、相手に合わせて教えを伝えていったんや。
11.今こそ、その時
舎利弗よ。
そうやって説くうちに、仏の道を求める人らが、数えきれんほど、うやうやしく手を合わせて、わしのもとに集まってきた。この人らはみな、前々からあちこちの仏のもとで、方便の教えを聞いてきた。
その姿を見て、わしは思った。『如来がこの世に現れるんは、仏の智慧を説くためや。今こそ、その時なんや』
まだ理解が浅くて、自分の考えにとらわれて思い上がってる人には、この教えは信じられへんやろう。せやけど、今ここに集まった菩薩たちは違う。
この人らを前にしたら、わしの心はもう晴れ晴れとしてる。ためらいも、恐れもあらへん。方便はもう抜きにして、ただ一つ、仏の悟りへ至る道だけを説くで。これは過去・現在・未来の仏が、みなしてきたことや。
この教えを聞けば、菩薩たちの心の迷いはすっかり消える。そして、ここにおる千二百人の阿羅漢たちも、みな、いつか必ず仏になるんやで。
そもそも、仏に出会えること自体がきわめてまれや。
その教えを聞いて、ちゃんと受け止められる人となると、めったに咲かへん優曇華の花とおなじくらい、まれなことやろう。
せやから、この教えを聞いて喜び、たった一言でもたたえたなら、その人はもう、過去・現在・未来のすべての仏を敬ったのとおなじことなんやで。
みんな、疑わんでええ。
わしは真理の王や。ただ一つの道で、人びとを仏の悟りへ導いてるんや。
声聞のままで終わる者は、一人もおらへん。
舎利弗よ、声聞も菩薩も、よう聞きや。
この教えは、仏たちが大切に守ってきた教えなんや。
濁った世では、多くの人が欲にとらわれて、見向きもせえへん。それどころか、この教えを聞いても信じられんと、かえって反発して、悪い道へ落ちてしまう人もおる。
せやけど、素直な心で仏の悟りを求める者がおったら、その人には、この道を余さず説いたりや。
そしてな、おまえたちはもう、仏が人びとに合わせて方便を使ってきたわけを、ちゃんとわかってる。もう何も疑うことはない。
おまえたちは、自分は必ず仏になれるんやと、しっかり知っときや」
(方便品・了)
