一年志願兵と幹部候補生
旧陸軍の一年志願兵制度は、在営中の費用を自弁することで通常3年の現役を1年で終え、除隊時に予備役下士官または将校に任ずる制度で「金持ち優遇」の例としてよく挙げられますが、実際にその創設当時の事情やその後の変遷をみてみるとそう単純なものではありません。
代人料
明治6(1873)年1月10日、明治政府は徴兵令を定める。ひろく青年男子から徴兵して3年の兵役を課したものだが、この徴兵令をふまえて鎮台条例が改正され、全国に6個鎮台、14個歩兵聯隊などを置くこととされた(近衛兵・屯田兵を除く)。計画された兵員数は平時31,680名であった。上記のとおり兵役期間は3年なので毎年の徴兵数は約1万名という計算になる。当時の人口を3000万、20歳男子からなる徴兵適齢人口をおおまかに100万名とすると実際に徴兵される割合はわずか1%にしかならない。それを反映して最初の徴兵令には様々な免役規定が設けられた。
第三章 常備兵免役概則
第一条 身のたけ五尺一寸(曲尺)未満の者
第二条 羸弱にして宿痾および不具にして兵役に堪へざる者
第三条 院省使庁府県に奉職の者(但等外も此例に準ず)
第四条 陸海軍の生徒
第五条 文部工部開拓その他の公塾に学ひたる専門生徒および洋行修業の者ならびに医術馬医術を学ぶ者教導職試補の者(但教官の証書ならびに何ら科目の免許書ある者)
第六条 一家の主人たる者
第七条 嗣子ならびに承祖の孫(但養子約束のみにていまだ実家にある者はこの例にあらず)
第八条 独子独孫
第九条 罪科ある者(以下略)
第十条 父兄存在すれども病気もしくは事故ありて父兄に代はり家を治むる者
第十一条 常備兵在役中の者の兄弟
第一・第二条は身体的条件、第三条は官吏、第四条は陸海軍の将校候補者、第五は学生、第六は戸主、第七・第八は家督相続人、第十条は戸主代理、第十一条は現に兵役に就いているものの兄弟と、かなり広範囲に兵役免除を規定している。現実には当時の徴兵人口のうち99%は徴兵できないわけで、どうせ徴兵できないものならば徴兵に対する忌避感を少しでも和らげるために広く免役規定を設けたものであろう。それでも徴兵忌避運動が広く起こったことはよくしられている。
わずか1%しか徴兵しなかった(できなかった)もっとも大きな理由は明治政府の財政的な事情によるものだろう。徴兵と言えども無料で好きなだけ集められるわけではない。給与は払わなければならないし、食料や服等は官給とされていた(徴兵令概則その一第一条)。兵員が多ければそれだけ支給しなければならない装備も増える。「富国強兵」を目指した当時の政府であっても、ない袖は振れないのである。それが露骨に現れたのが、徴兵令の中でも悪名高い「代人料」だった。
第六章 徴兵雑則ならびに扱い方
第十五条 本年徴兵にあたり自己の便宜により代人料金二百七十円上納願い出づる者は常備後備両軍ともにこれを免ず
免役上納金はその府県庁にまとめ五月中に陸軍省へ相納むべし
270円がどれくらいの価値になるかは単純に換算できるようなものではないが、参考までに少し時代がくだった明治23(1890)年当時の陸軍二等卒の給料は月額90銭だった。
なお Wikipedia 「徴兵令」の記事には代人料について「1879年に400円」という記述(出典なし)があるが、明治12(1879)年徴兵令では
第六十四条 本年徴兵に当る者免役料金弐百七十円平時免役に当る者金百三拾五円を上納するときは国民軍の外兵役を免す
とある。当時の免役には終身免役、国民軍の外免役、平時免役の区別があり平時免役(年齢50歳未満の嗣子など)の者が270円の半額である135円を払うことで国民軍以外の兵役を免除されるというものだったが、270円と135円を加算して(約)400円という数字が出てきたものだろうか。おそらくなんらかの文献の孫引きで条文そのものにあたったものではないと考えられる。
一年志願兵
広範な免役規定は、かえって「不公平」という批判を呼んだ。その中でも特に批判が強かったのは、露骨に「兵役免除をカネで買う」という形式の「代人料」だった。明治12(1879)年の徴兵令改正では代人料の規定は残ったが明治16(1883)年には廃止され、かわって設けられたのが「一年志願兵」の制度である。
第十一条 年齢満十七歳以上満二十七歳以下にして官立府県立学校(小学校を除く)の卒業証書を所持し服役中食料被服等の費用を自弁する者は願に因り一個年間陸軍現役に課せしむ
(第二項略)
中学校以上の学校を卒業した者は、在営中の費用を負担することを条件として現役期間を1年(通常3年)に短縮することができるという制度だった。費用自弁の他に学歴を求めたことが特徴的だが、この時点では単に現役期間を短縮するという一方的な特典であり、学歴が必要になる理由は説明しづらい。学歴がある者は短期間の教育でも十分だということだろうか。明治22(1889)年には次のように改められた。
第十一条 年齢満十七歳以上満二十六歳以下にして官立学校(帝国大学撰科および小学科を除く)府県立師範学校中学校もしくは文部大臣において中学校の学科程度と同等以上と認めたる学校もしくは文部大臣の認可を経たる学則により法律学政治学理財学を教授する私立学校の卒業証書を所持しもしくは陸軍試験委員の試験に及第し服役中食料被服装具等の費用を自弁する者は志願により一箇年間陸軍現役に服することを得ただし費用の全額を自弁し能はさるの証ある者にはその幾部を官給することあるへし
前項の一年志願兵は特別の教育を授け現役満期の後二箇年間予備役に五箇年間後備役に服せしむ
(第三項以下略)
一年志願兵には「特別の教育」を授け現役満期後2年間の予備役、さらに5年間の後備役期間を設けて戦時等に召集できるようにした。徴兵令の規定では「特別の教育」の具体的な内容については触れられていないが、小隊長要員たることを期待された教育が施され、終末試験に合格したものを予備役の軍曹とし、さらに勤務召集のうえで予備役少尉に任官するものとした。終末試験に合格できなかったものは予備役下士とされた。
なお明治22(1889)年2月には大日本帝国憲法(明治憲法)が発布され兵役の義務が規定された。従来太政官布告だった徴兵令は名称はそのままに法律となる(明治22年法律第1号)とともに全文改正された。「昭和戦前期の日本」には昭和2年の兵役法で法律になったかのように読める記述があるが、実際にはこの時点ですでに法律になっている。
明治28年には徴兵令が改正されて一年志願兵制度が予備役将校をめざすものであることが明記された。
第十三条 年齢満十七歳以上満二十六歳以下にして官立学校(帝国大学撰科および小学科を除く)府県立師範学校中学校もしくは文部大臣において中学校の学科程度と同等以上と認めたる学校もしくは文部大臣の認可を経たる学則により法律学政治学理財学を教授する私立学校の卒業証書を所持しもしくは陸軍試験委員の試験に及第し服役中食料被服装具等の費用を自弁し予備後備将校たる冀望を有する者は志願により一箇年間陸軍現役に服することを得ただし費用の全額を自弁し能はさるの証ある者にはその幾部を官給することあるへし前項の一年志願兵は特別の教育を授け現役満期の後二箇年間予備役に五箇年間後備役に服せしむ
(第三項以下略)
強調は引用者による
この制度で日清・日露戦役が戦われた。動員にあたり小隊長として一年志願兵出身の予備役将校や予備役下士が多数召集されたはずである。
幹部候補生
一年志願兵制度は44年間続き、昭和2(1927)年に徴兵令が「兵役法」(法律第47号)と改題して全面改正され、一年志願兵制度は兵役法の条文から除かれて後継となる幹部候補生制度は陸軍補充令(11月30日改正勅令第331号)で予備役士官あるいは予備役下士官を補充する制度として定められた。つまり、徴集入営の時点では一般の兵士と同じ扱いとなり、そのうえで幹部(士官もしくは下士官)の候補生として志願・採用するという制度に変わったのである。
第五十二条 予備役士官は左の区分に従ひ之を補充す
一.各兵科士官 各兵科幹部候補生にして少尉に任ぜらるるの資格を具ふる者
(第二号以下略)
第五十三条 各兵科幹部候補生は左に掲ぐる資格を具へ幹部候補生たることを志願する者をもって之に充つ
一.予備役および後備役士官たるの希望を有する者なること
二.年齢十七年以上二十八年未満(志願の年の十二月一日における年齢とす)の者にして陸軍大臣の定むる身体検査に合格したる者なること
三.左の各号の一に該当し且当該学校の配属将校(大正十四年勅令第二百四十六号により配属したる将校を謂ふ以下これに同じ)において行ふ教練を修了しその検定に合格したる者なること
(イ)配属将校を附したる学校(研究科、選科等の別科を除く)を卒業したる者
(ロ)配属将校を附したる高等学校高等科または大学令による大学予科の第一学年の課程を修了したる者
(ハ)配属将校を附したる学校にして陸軍大臣において高等学校高等科と同等以上と認むるものの第一学年の課程を修了したる者
四.陸軍大臣の定むるところにより修業期間中の食料、被服、装具等の費用を自弁する者なること
幹部候補生に志願するためには学歴と費用の自弁が必要なことは変わらないが、さらに「教練の合格」が加えられた。学校での科目としての教練自体は明治時代から存在したが、大正時代に軍縮で余剰となった現役将校を学校に配属して教練の指導に参加させた(それまで教練の指導はもっぱら在郷軍人があたった)のを機会に積極的に活用することにしたのだろう。在営期間は学歴によって10か月ないし1年とされた。
第五十七条 幹部候補生の入営後の修業期間左の如し
一.左に掲ぐる学校を卒業しかつ当該学校において配属将校の行ふ教練を修了しその検定に合格したる者にありては十月とす
(イ)大学令による大学の学部もしくは予科または高等学校高等科
(ロ)専門学校、高等師範学校または陸軍大臣においてこれと同等以上と認むる学校
(ハ)中学校卒業を入学程度とする修業年限二年以上の学校
ニ.前号に掲ぐる以外の学校を卒業しかつ当該学校において配属将校の行ふ教練を修了しその検定に合格したる者にありては一年とす
専門学校は現在の短期大学にほぼ相当する。10か月ないし1年の幹部候補生課程の間に順次階級を進め、学歴と成績により曹長ないし軍曹に任官する。終末試験に合格できなかった場合はそのまま除隊し、予備役下士官として戦時の召集に備えることになる。終末試験に合格した者は隊付勤務ののち銓衡会議を経て予備役士官に任官することになる。
満州事変後の昭和8(1933)年、陸軍補充令が改正(勅令第71号)されて第52条第4号が削除され、費用は完全に官費負担になった。煩雑になるのでいちいち条文は掲げないが、そのほかの変更点としては「現役兵士として最低3か月間在営すること」が加えられ、入営と同時に志願するのではなく最低限の在営経験が求められるようになった。そのいっぽうで、幹部候補生を3か月経た時点で士官むけコース(甲種)と下士官むけコース(乙種)に振り分けられることになる。学歴にかかわらず幹部候補生の課程は1年とされた。乙種のもの、あるいは甲種でも終末試験に合格できなかった者は下士官となり、甲種で終末試験に合格したものは銓衡会議を経たうえで士官に任官するとされたのである。
徴兵令から60年、「代人料」からはじまった費用を自弁することで優遇されるという制度はついに姿を消した。
青年学校
現在の教育制度では小学校および中学校の9年間が義務教育とされているが、戦前は尋常小学校の6年間が義務教育だった。尋常小学校を終えたあとは一部が中学校(5年制)に進学し、一部がそのまま就職するほかは2年制の高等小学校に進む者が多かった。高等小学校には、中学校に合格できなかった者が「仮面浪人」として入学することもあったようである。
中学校は「男子に須要なる高等普通教育をなすをもって目的とす」(明治32年勅令第28号中学校令)としており広く普通教育を教授する学校だったが、それに対して特定の実業に関する教育をほどこす実業学校が置かれていた(「工業農業商業などの実業に従事する者に須要なる教育をなすをもって目的とす」明治32年勅令第29号実業学校令)。現在の感覚では中学校が高校普通科、実業学校が工業高校や商業高校などの実業高校に相当するだろう。そして中学校と実業学校を総称して「中等学校」と呼んだのである。
既述のとおり、大正14(1925)年に「陸軍現役将校学校配属令」(勅令第135号)で官立学校に現役将校を配属するのと同時に、私立学校には申請により現役将校を配属することができるとした。
第一条 官立または公立の師範学校、中学校、実業学校、高等学校、大学予科、専門学校、高等師範学校、臨時教員養成所、実業学校教員養成所または実業補習学校教員養成所における男生徒の教練をつかさどらしむるため陸軍現役将校を当該学校に配属す(以下略)
第二条 私立の中学校、実業学校、高等学校、大学予科もしくは専門学校または徴兵令第十三条第ニ号の規定による認定をうけたる私立学校における男生徒の教練をつかさどらしむるため当該学校の申請により陸軍現役将校を之に配属することを得(以下略)
学校教練の合格を募集要件にした幹部候補生制度が設けられたのはその2年後の昭和2年のことである。私立学校では配属将校を置くのは義務ではないが、教練に合格しないと徴兵されたときに幹部候補生に志願できないので生徒募集の観点から将校の配属を求める学校が多かった。そのいっぽうであえて配属将校を置かないという方針を貫いた学校もあったという。
余談だが「陸軍現役将校学校配属令」では、わざわざ高等商船学校および商船学校を対象から除外している。
第五条 官立または公立の商船専門学校および商船学校には第一条の規定にかかわらず将校を配属せさることを得(以下略)
これはこれらの学校の学生生徒がすでに海軍予備員の候補者として海軍兵籍をもっていたからだろう。言ってしまえば海軍の「なわばり」でありそこに現役陸軍将校が乗り込むのははばかられたに違いない。しかしこうした学校に海軍から配属将校が派遣されるようになるのは昭和11(1936)年にまでくだる(昭和11年勅令第394号海軍現役武官商船学校配属令)。
閑話休題、日露戦争で兵力不足に悩まされた日本陸軍は第一次世界大戦を経て膨大な予備戦力を平時から準備しておく必要性を強く認識した。財政不足から免役規定を数多く備えた明治初期とは時代が大きく変わってしまったのである。費用を自弁させることで出費を節約するよりも、費用を自弁できないという理由で才能ある若者を予備役士官として採用する対象から排除する制度のほうが、陸軍の要求にあわなくなってきた。一年志願兵制度でも事情により費用の一部または全部を官給にすることができる規定が設けられたが、昭和2年の時点でも費用自弁が残されたのは過去の制度を変えるのがどれほど難しかったかを表している。
いずれにせよ、陸軍では幹部候補生の「候補者」たる資格をできるだけ広くとろうとした。具体的には小学校を卒業したあと、中学校などの陸軍現役将校が配属される学校に通うことなく働く「勤労青年」にも教練をうける機会を与えようとしたのが、陸軍主導で設けられたとされる「青年訓練所」である(大正15年勅令第70号青年訓練所令)。青年訓練所は「青年の心身を鍛錬して国民たるの資質を向上せしむるをもって目的とす」(第一条)とされ、対象をおおむね16歳から20歳の男子とし、市町村のみならず私人にも設置を許可した。多くは小学校に併設(というより小学校の校舎に間借り)し、週に数日夜間に授業を行ったが、工場などの事業所に併設されることも想定されていた。青年訓練所の訓練項目は「修身および公民科、教練、普通学科、職業科」とされ教練を含んでいるのはその設立事情から当然である。
実業補習学校は実業学校の一種とされていたが、小学校を卒業したあとに中学校にも実業学校にも進まずはたらく青年に対して簡単な実業教育を与えるものとして置かれ、やはり小学校への併設が多く夜間授業で週に数日授業を行なうもので授業密度は薄いが修業期間は長く、前期2年(尋常小学校卒業者)および後期2~3年(高等小学校卒業者もしくは実業補習学校前期修了者)とされた。一見してわかるとおり青年訓練所と重なる部分が多く、市町村に二重負担を強いることから統合運動が起こり、昭和10(1935)年に青年学校が設けられ(勅令第41号青年学校令)、昭和14(1939)年には青年の就学が義務化された(昭和14年勅令第254号青年学校令全文改正)。
第十二条 年齢満十二歳を超え満十九歳(略)に至るまでの男子は左の各号の一に該当する者を除くの外その保護者においてこれを青年学校に就学せしめ義務課程を履修せしむることを要す
一.小学校に就学せしむべき者または現に小学校に在学する者
ニ.現に高等学校尋常科に在学する者またはこれを修了したる者
三.現に師範学校本科第一部に在学する者または同第二学年を修了したる者
四.現に中学校に在学する者または同第四学年を修了したる者
五.現に実業学校に在学する者、尋常小学校卒業程度をもって入学資格とする修業年限四年以上の実業学校を卒業しもしくは同第四学年を修了したる者または高等小学校卒業程度をもって入学資格とする修業年限ニ年以上の実業学校を卒業しもしくは同第二学年を修了したる者
六.青年学校本科の課程を修了したる者
七.特に文部大臣の指定する者
陸軍予備士官学校
一年志願兵もそうだが、幹部候補生の教育は原隊において隊付き勤務と並行して行なわれるのが原則だった。ところが昭和12(1937)年に日中戦争が始まり国内に配置された部隊の多くが出征して原駐地には少数の留守部隊が残されるようになると、小隊長要員の需要が急増するいっぽうで部隊側にはそんな余力がなくなってくる。特に教育を部隊まかせにすることで質の担保が難しくなってきた(実戦によりそうした現実が隠しきれなくなったのかもしれない)。そこで幹部候補生教育のため予備士官学校をもうけて集合教育を行うように改められたのが昭和13(1938)年のことである。陸軍予備士官学校ははじめ仙台に設立されたが順次各地に増設され所在地を冠して例えば「前橋陸軍予備士官学校」などと称した。ほとんどは教導学校を改編したものである。陸軍教導学校は現役下士官の教育機関で、これもやはりもともと部隊での教育が主体だった現役下士官教育を改善するために昭和2(1927)年に設置されたものだった。
陸軍将校の供給源としては、まず現役将校の養成機関である陸軍士官学校があり、士官候補生を経て陸軍将校に任官する。大正9(1920)年に現役下士官から選抜して士官を養成する少尉候補者制度が設けられた。少尉候補者は陸軍士官学校で教育をうけるが課程は士官候補生とは別である。もともと現場経験が豊富な下士官に1年間集合教育を施すもので優秀な士官を多く輩出し中佐にまで昇進した者もあったという。ただし陸軍大学校に進学した者はなく、将官や高級指揮官に進む道は閉ざされていた。
それに加えてこれまで説明してきた幹部候補生が予備役将校として戦時の需要に応じるために用意されていた。特に陸軍予備士官学校による教育に変わってからは、部隊でも評価が高かったという。
学徒出陣
徴兵令から兵役法にいたるまで、一貫して兵役の免除または猶予という恩恵が与えられていたのは高等教育機関(大学、高等学校、専門学校など)の在学生だった。徴兵令の制定当初は該当年に免除するとされたのみで翌年以降の規定がないため、20歳の時点で在学していればそのまま生涯免除されたようだ。冒頭で述べたとおり、当時の徴兵適齢人口あたりの徴集率は1%程度なので、わざわざさかのぼって徴兵する意義もなかったものと思われる。
明治16(1883)年の徴兵令の改正で猶予規定が新設され、在学生の徴集は卒業あるいは一定の年齢まで猶予される制度に変わる。制度上はこうした学校の卒業者あるいは在学生であっても一定の年齢以上の者は徴集の対象になったはずだが、ほかの兵たちと年齢も違いインテリでもあるこうした青年たちは軍の側でも敬遠されてほとんど徴集されない時代が長く続いたと伝えられる。一年志願兵や幹部候補生の主な供給源は20歳の時点ですでに卒業済みであることが多い実業学校出身者や、中学校は出たものの高等学校や専門学校に進学しなかった者だったと考えられる。
それでも昭和12(1937)年に日中戦争が始まると、徴集猶予の期限が切れた者(学校を卒業した者、あるいは在学生であっても猶予年齢を過ぎた者)も実際に徴集される例が増えるようになり、こうした者の多くが幹部候補生を志願した。志願者の増加も予備士官学校設置の理由のひとつである。対米開戦の直前にあたる昭和16(1941)年10月16日には大学などにおいて最大6か月の修業期間短縮が定められ(勅令第924号大学学部等の在学年限または修業年限の臨時短縮に関する件)、これをうけた文部省令第79号により昭和16年度の卒業が3か月繰り上げられた(昭和17年1月卒業)。こうして卒業した学生たちはその大部分が徴集され、さらにその大半は幹部候補生(陸軍)または予備学生(海軍)を志願した。もともとそうした目的のために修業期間が短縮されたのだから当然である。考えようによっては「学徒出陣」はすでにこのときから始まっていたとも言える。なおこのときの短縮では学部の指定はなく、理工系のみならず医学部も対象とされていた。たとえば昭和17(1942)年1月15日付けで24名が海軍軍医中尉に任官しているが、これは大学医学部を繰り上げ卒業した者であろう。
ここで陸軍との比較の必要上、海軍予備学生について簡単に説明しておこう。日露戦役中に創設された海軍予備員は、商船学校や水産講習所など海事関係の学校の生徒を在学中から予備生徒として海軍兵籍に編入し、卒業後は学歴によって予備将校あるいは予備下士官(のち兵もできた)に任官して平時は民間で業務に従事させ、戦時には召集するものだった。昭和9(1934)年に海軍予備員の一種として海軍予備学生が創設され、大学などの卒業者で志願するものを予備学生に採用し、教育後に予備将校(現役将校が予備役に編入された者とは厳密には扱いは異なるが詳細は割愛)に任官する制度だった。陸軍の幹部候補生が一兵卒として徴兵されたあとに志願し下士官を経て将校に任官するのに対し、海軍予備学生は「下士官の上、准士官の下」に位置づけられ兵の階級を経ないで士官に任官できるということで人気があった。また予備学生に応募するには幹部候補生で前提とされた学校教練に合格している必要がない。採用された予備学生を訓練しているときに、陸軍式の学校教練で教え込まれた動作や慣習を海軍式に修正するのに苦労したこともあったらしい。予備学生は日米開戦後に採用数が急拡大し、学徒出陣で海軍に入隊した者の多くが志願した。
昭和17年度卒業予定の学生は、大学・高等学校・専門学校では6か月、実業学校では3か月修業期間を短縮することになり(昭和16年11月1日文部省令第81号大学学部等の在学年限または修業年限の昭和十七年度臨時短縮に関する件)、昭和17(1942)年秋に繰り上げ卒業した。理工系・医学部も対象に含むこと、多くは徴集されて幹部候補生や予備学生を志願したことは前年度と同様である。昭和18年度についても同じく6か月ないし3か月の繰り上げが定められた(昭和17年11月25日文部省令第68号)。昭和18年度卒業生の昭和18(1943)年秋卒業・徴集はすでに前年末に正式に決定しており、それもそのさらに前年、前々年からの既定路線だったのである。
したがって昭和18(1943)年秋に実行された「学徒出陣」は、それまで高等教育機関(大学、高等学校、専門学校など)の在学生に認められていた徴集猶予を理工系を除いて停止する(勅令第755号在学徴集延期臨時特例)というものとなった。この時点で従来から予定されていた昭和18年度卒業生(本来であれば昭和19年3月卒業)と、理工系(医学系を含む)を除く在校生が一挙に軍に入隊することになった。なおこの時点では大学などに残ることを許された理工系の学生も、同様に6か月または3か月卒業が繰り上げられたことは変わらない(昭和18年11月25日文部省令第80号)。
昭和19(1944)年には特別甲種幹部候補生が設けられ、将校むけの甲種幹部候補生のうち、大学や専門学校の第一学年修了者および高等師範学校卒業者に対して、入隊と同時に伍長に任官し、1年間の教育と半年間の見習士官勤務を経て予備役少尉に任官するとされた。一部の高学歴者に対して促成教育を行って教育期間を短縮したものだが、兵の階級をとばして直接下士官に任官できるのが特徴であり、海軍の予備学生を意識したものであろう。これに似た(前提学歴や当初与えられる階級など多少相違点がある)特別操縦見習士官は昭和18年に設けられ、航空部隊における操縦要員予備役将校を養成した。戦争末期の陸軍特攻隊の量的主力となった。
おわりに
もともと「制度の側面からみた学徒出陣」みたいな記事の準備をしていたのですが、いつものように途中で行き詰まっていたところ、野党議員の「貧しい家庭の出身者は自衛隊にしかいけない」という趣旨の発言をきっかけに SNS 上で「金持ち優遇」の例として「一年志願兵」が取り上げられました。そのときにある投稿に対してコメントしたので、それをふくらませて一本の記事にしようと思ったのがこの記事であります。ただし実際に書き始めてみると元の投稿と少し趣旨が変わってしまいました。SNS のほうは以下の投稿からのスレッドになります。
みんなけっこう忘れてるけど、徴兵であっても無料で使い放題じゃない。給料も払わなきゃいけないし、飯は食わせなきゃいけないし、被服や装備も支給しなきゃいけない。徴兵する数が多ければそれだけカネもかかるのである
— 三十一提督(みそひとていとく) (@admiral31) June 17, 2026
貧乏な明治政府は徴兵したくてもできなかった、ならばせめて→ https://t.co/rozdOnWsNv
一年志願兵とそれに続く幹部候補生制度は、近代日本の徴兵制度のなかでは珍しく費用の自弁を前提とする制度でしたが、明治初期に財政不如意で思うように徴兵もできなかった政府がせめてわずかでもカネにしようと思った時代から、昭和期の財政を度外視してでもなりふりかまわず予備兵力を確保しようとした時代に移っていくのに従ってその姿を変えていきました。昭和8(1933)年に最終的に自弁制度が廃止されたときにはすでに時代遅れになっていました。
SNS などを見ていても感じるのですが、昭和期だけをみていると日本の政府や陸海軍はとんでもない愚行を犯していたかのように見えるのですが、それ以前たとえば明治からの経緯をみていくと結果としてそうなってしまったのもしかたないかな(だからいいというわけではありませんが)と思うことが多くあります。一年志願兵制度もそうしたもののひとつであったかのように思われます。
今回参考文献としたのは「戦史叢書 巻99 陸軍軍戦備」「昭和戦前期の日本」が主で、これらで全体の制度や変遷をつかんだうえで個々の法令については国立国会図書館デジタルコレクションを参照しています。ただし初期の徴兵令など、官報の発行以前の法令については「海軍制度沿革 巻五」に掲載されているものに依拠しています。引用は原文のカタカナをひらがなに直し、旧漢字を現代通用のものに改めたほか、一部の漢字をひらがなにしています。
さて次回ですが、上でも書いたように書きかけの記事が複数あるのですがそれをどうにか形にできたらなと思っています。期待せずにお待ちいただけたら幸いです。
ではもし機会がありましたらまた次回お会いしましょう。
(カバー画像は神宮外苑での出陣学徒壮行会 - Wikipediaより)
