埋葬は最期の野糞 いのちは巡り耀く
好きな本を持ち寄って集まる会の案内に、読み終わった後、納骨してくださいと書いてあった。
納骨? 友だちが、どういう意味?と聞くので、私は「知らないのか? 宇宙に還すことだよ。この場合は、他の誰かが読めるよう、このブックカフェに布施してくれということだよ」と言った。
その言葉の使い方はしらなかったなと友だちは言った。私も最近知ったのだ。
というところで目が覚めた。
起きて考えるに、「納骨」という言葉のその使い方は日本語にないだろう。
しかし、もうすぐ『埋葬は最期の野糞』というグーグルミーツをしようとしている私にしてみれば、これは新しい用法として使ってもいい日本語ではないか。
私の終活で最も大変なのは、膨大な本の処分である。私一個の身体は、希望の土葬がかなわなければ、燃やして遺骨を受け取らなければそれで済む話だが、(子どもが自分でやるのではなく廃棄して解決した気になるにせよ)本を全部燃やすのはもっと手間や石油がかかり、二酸化炭素が出るだろう。かといって遺産としてもらっても、息子にも娘にも置く場所がないだろう。
だから今から少しずつ「納骨」しないといけない。
誰か読んでくれる人に手渡す。できれば若い世代に手渡す。
またはブックカフェや図書館で、本の値打ちがわかる人が、読まれるように配架してくれるところに寄付する。
それを今すぐ1冊ずつ始めないといけない。
私には値打ちのない本も誰かには価値があるということもある。
特別な害があり、無い方がよいと考えられる本(棄てる)以外は二束三文で売り飛ばすか、あげてしまう方が、わざわざ石油をかけて燃やすより良いに違いない。
ここまで考えていて、思ったのだが、生きて為すことのすべてが、野糞である。納骨である。
自分の脳みその中にあることを言葉に変えて本にしたものも、こうしてここに書いたのも全部そうなのだ。
最後に心臓が止まった体という、小さな残り滓をどうするかが、葬式と埋葬なのではない。
それは最も棄てていいもの、できれば土に還したらもっといいのだが、それよりももっと膨大な身体を私たちは毎日、食べては排泄しているし、脳からも表現しているし、それをたれ流したり、アートにしたりしている。
そのすべてが、エネルギーの循環であり、生死である。
今ここでだ。
さっきの夢だってそうなのだ。
私の脳を通して世界に現れ、オンラインに記述されてミームとなって、循環していくのだ。
来た。だから排泄する。
すべては野糞であり、本当の糞は植物にあげたらいい。
脳から出た糞は、愚痴と思えばスルーされ、感動すればアートとされるだけの話。
糞であることには違いなく、アートと思うかどうかは受け取った人が決めればよい話。
どっちにしろすべては宇宙の大循環としての糞なのだ。
【埋葬は最期の野糞~いのち巡り耀く0葬~】
日時 6月13日土曜日 20時から22時(質疑応答 自由討議含む)
グーグルミーツにて 参加無料
時間になったら下記をクリックするだけ
元葬送の自由を考える会会員、司法書士の資格で法定代理人として多くの人をお見送りされた経験がおありの綱川英治さんから参加申し込みありました。経験値も法的知識も豊富ですので、長澤の思想的言明の足りない部分を補って余りあります!
頼もしい。法的に、これは大丈夫か?なども(個別の難しいケースは即答できないかもですが)質問できるでしょう!
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