身体性と儚さと -チームラボ バイオヴォルテックス 京都
12月某日、京都。

チームラボ バイオヴォルテックス 京都へ。





テーマは「存在の宇宙, 認識の宇宙」。
ほかのチームラボと同様、どう廻っても自由だ。かつての台場、豊洲、そして麻布台より、作品数は多かった。体験してゆえのアートなので、印象に残った作品を中心に、手短に記していきたい。

「追われるカラス、追うカラスも追われるカラス」
チームラボを初めて鑑賞したのは、10年ほど前、森美術館の展示室であったと思う。そのとき鑑賞したのが、「追われるカラス、追うカラスも追われるカラス」だった。だからわたしにとって、この曲はとても好きだし、チームラボ、という感じがする。
全面鏡、の天井を撮る、が最も安定していたので天井のカットを。



「変容する連続体」
ほかの施設との差を最も感じたのが、この作品だ。
摺り足で歩いてください、蹴らないでください……繰り返される注意に「?」と思っていたけれど、入ってみたら、こういうことだった。


この球体がどうなるかというと……

突然、竜巻のような風が起きて……

巻き込まれる!

ひとつひとつの構成要素は時間的空間的に離れていても、それらに秩序構造が生まれると、構成要素が時空間を超越し、ひとつの存在が現れる。そして、表層的に形状や大きさが大きく変化したり、全ての構成要素の入れ替えがあったとしても、ひとつの存在は維持される。
この時空間的存在は、全体の一部であり、全体から生まれ、全体に還元されていく。時空的存在群による生命的宇宙。
空間に、存在が生まれる。存在は、塊となって地面に生まれ、地面から立ち上がる。また、存在は、空中に生まれ、質量の概念を超越し、空中に固定的に存在し続ける。これら存在の輪郭は曖昧で、存在を構成している輝く球は入れ替わっていく。人がこの存在に身体ごと入り込んでも存在は維持され、人々によって壊されても自ら修復する。そして、人々が押したり、横にのけようとしても、存在を動かすことができない。人間の物理的な行為では、この存在を動かすことすらできない。
物体ではなく、特別な環境を創ることで、その環境が生んだエネルギーの秩序によって存在を創る。それらを“High Order Sculpture”と呼ぼう。それは、環境とは切り離せず、環境変化とともに変化する。これまでの物体による存在の常識を超越し、中空に存在を維持し、存在の輪郭が曖昧で、人がその存在の中に身体ごと入り込んでも存在が維持され、壊れても自らの存在を修復する。


これは……この厳しさは、自然環境そのもののように体感された。

わたしのなかに、畏怖、みたいな言葉が残った。
「太陽と雨の中の永遠の存在」
自然の「匂い」がするーー。

そのデジタルな小径には、なぜか、森の中に入ったときのような、植物と土の匂いがした。

見れば、かすかな光の中で、

植物が生きているのだった。

チームラボの屋外展示も観たことがあるが、

それをそっくり、屋内に移したかのような。

メディアアーティスト・落合陽一氏の、計算機自然ではないけれど、こうして、電力によって生を得ている作品と、水と土とで生きている植物を同列に並べられていると、特に違和感なく、どちらも同じ自然の一部として受け入れている自分がいる。

「凝固した光の海」
その世界は、不思議な結晶のような展示につながっていた。


「質量も形もない彫刻」
容赦ない自然の畏怖、を、再び感じたのは本作だ。
ガラス越しに、ああこれは、身体が濡れる系だな、と気が付き、カメラをバッグにしまいつつ、

入ってみれば、やっぱりそうだった。注意書きによれば、石鹸とかシャンプーとか、そういう成分によるらしい。
大雪のように積もる泡。

浮遊する巨大な彫刻は、泡の海から生まれ、質量の概念を超越し、地面に沈むこともなく、天井まで上がりきることもなく、空間の中ほどを漂う。この浮遊する彫刻の存在の輪郭は曖昧で、千切れて小さくなったり、くっついて大きくなったりする。人がこの彫刻に身体ごと入り込んでも存在は維持され、人々によって壊されても、自ら修復する。しかし、塊は、自ら修復できる範囲を超えて破壊された時、修復が追いつかず崩れていく。そして、人々が押したり、横にのけようとしても、この彫刻を動かすことができないし、人々が風をあおげば、彫刻は散り散りになってしまう。人間の物理的な行為では、この彫刻を動かすことすらできない。
石ころや、これまで人間がつくってきたものは、物体であり、物体はそれ自体で安定的な構造をもつ。石ころは、外界から遮断され密封された箱に入れても存在し続ける。
一方、海に生まれる渦は、閉じた箱に移すと一瞬で消えてしまう。つまり、渦は、それ自体で安定した自らの構造を保っていない。渦は、環境が生む流れの中にある存在であり、渦の外部から内部へ、そして内部から外部へと流れ続ける水によってつくられる。その流れが生んだ秩序を持つ構造によって渦は維持され続け、流れと共に変化する。そして、その存在の輪郭は曖昧で、渦も渦の外側も水でできており、その物質的な違いは一切ない。
物体ではなく、特別な環境を創ることで、その環境が生んだエネルギーの秩序によって存在を創る。そのエネルギーの秩序による存在を“High Order Sculpture”と呼ぼう。それは、環境とは切り離せず、環境変化とともに変化する。これまでの物体による存在の常識を超越し、中空に存在を維持し、存在の輪郭が曖昧である。人がその存在の中に身体ごと入り込んでも存在が維持され、壊れても自らの存在を修復する。
この空間には、物質は、水と空気とごく普通の石鹸しか存在していない。
空間を泡で埋め尽くし、特異な環境を創り、空間にエネルギーの秩序を生み出す。そうすると、泡の海から巨大な塊が生まれ、浮き上がり、中空に定常する。
現在の生物学上は、生命の定義を厳密に行うことはできていないが、便宜的に、細胞を構成単位とし、代謝し、自己増殖できるものを生物と呼んでいる。つまり、全ての生物は、細胞でできている。そして、全ての細胞は、脂質二重層で構成された細胞膜で包まれている。二重層の外側は親水性、二重層の層と層の間は疎水性で、包んでいる袋の外側も内側も水である。石鹸の泡も、同じように、脂質二重層の膜に包まれていて、この彫刻を構成している泡は、構造的には細胞膜と同じである。ただし、泡の二重層は細胞とは逆に、二重層の外側は疎水性、二重層の層と層の間は親水性になっているため、袋の外側も内側も空気である。つまり、細胞が水中の袋状の膜であるならば、泡は空気中の袋状の膜である。
この彫刻は、生物の構成単位である細胞と同じ構造の物質と、環境が生んだエネルギーの秩序によって創られている。
生命も、外部から食物として物質とエネルギーを取り込み、物質を排出し、エネルギーを外に散逸させながら、秩序構造をつくりあげている。生命は、渦と同じように、外部環境が生む物質とエネルギーの流れの中にある存在であり、その存在の輪郭は曖昧なのである。
生命の構造は、その流れがつくるエネルギーの秩序であり、生命は、物質とエネルギーの流れの中にある奇跡的な現象かもしれないのだ。

出口では、身体に着いた泡を、スタッフが手にした強風の出る掃除家電のようなもので吹き飛ばす。大冒険をしてきた気分になる。
「質量のない太陽と空の境界面」
異なるアプローチで「質量」を問うた、静かな作品があった。

私たちは、見ている世界を認識しているのではない。私たちは、認識している世界を見ている。
光の球体。
光の球体表面にガラスなどの物質は何もなく、この球体は光だけでできている。物質的な境界面はなく、球体と身体との境界の認識は曖昧である。
球体が出現している空間の窓には、物質的な境界面はないが、認知上の境界面が現れる。
しかし、この宇宙では、光は凝固せず、光だけで球体状の塊になることはない。つまり、この光の球体は存在しない。この球体は、物理世界には存在せず、認識世界に存在する彫刻「Cognitive Sculpture / 認識上の彫刻」。
マテリアルは、光と環境、そして身体と認識。体験者自らの動的な身体と認識によって形作られ、体験者自身の認識世界に出現し、存在する彫刻。
認識上存在する時、それは存在である。
そして、球体はそれ自体では認識世界にすら存在できず、環境が生み出している。環境がつくる現象が、作品の存在である。
存在とは何かを問う。
決して触れることのできない球体。
「インビジブルな世界のバランス飛石」
身体性に話を戻し、その極みといえば、アスレチック系の施設だろう。これらはアート作品とは分けて「運動の森」というカテゴリになっている。

「浮かぶ宇宙球体」
球体がふわふわと浮かんでいる。戯れてもいいし、ただ通ってもいい。


「呼応する小宇宙 - 固形化された光」
こちらは、アスレチックでなくてアート作品だけど、呼応という点では共通点があって。

屋外展示を観たことがあったけれど、
鏡張りの展示室に設置され、全体を1つとして鑑賞できたことで、「呼応」の感じがより伝わってきた。

「呼応するランプの森」
呼応、といえば、おなじみの本作も。


「空の海の記憶」
壁の上に展開される作品も多く、


「内に秘めた輝き」
咲いてゆき、散ってゆく花々を愛でる作品もある。

全体を貫いている「和」な雰囲気は、やはり京都だからだろうか。

儚さのなかで
「チームラボ」は商業的に成功し、「デジタルアート」は市民権を得て、人気を博している。
そのなかでも、チームラボの作品には底を流れる美学や哲学、死生観があって、作品のなかを彷徨っていると、そのエッセンスを感じて嬉しくなる。

しかし作品で永遠を語りながらも、電力の供給を絶たれたら儚く消えてしまうという、どうしようもない宿命も背負っている。

ギフトショップに並んだ植物たちを観ながら、どちらが儚い存在なのだろうね? などという愚問を、植物たちに投げかけながら。



