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「絶滅」と現象学

 現象学においては、「無」や「空」といった非現象もまた
そのような「非現象的な」現象として見做されます。

つまり、無や空が思考されるとき、
それは「何もない」という意味の思考であるのです。

ここに現象学における現象還元性、思考還元性によってもたらされる
無限の循環の根拠があるのです。

人間がどれほど様々な感覚や理性を働かせて芸術や理論を生み出そうとも、その成果物が人間意識の相関から完全に切り離されていることを考えることが文字通り不可能なのです。

それはたとえ人間には思考不能、想像不能、理解不能であるとされるものであっても、それでも依然として思考にとってそれは、
「思考不可能」「想像不可能」「理解不可能」という”思考”であると同時に、そのような”思考”の現象であるのです。

このような思考に対する思考というメタ的な思考としての
「不可能性の思考」はそれ自体が思考なのですから、
不可能性もまた「思考の可能性」として循環的に還元されるのです。


しかしここで、このような「不可能性の可能性」としての思考・現象の運動に対してその究極的であり、かつ徹底的なものとして「絶滅」という思考が現れるのです。


「絶滅」とは、単なる生物学的な死や消滅のことをさすのではなく、
そのような生物の「死」や「消滅」という現象が可能になっている条件としての
現象そのものの死、現象が現象するその場としての「現象場」そのものの死
のことを指すのです。

それはつまり、「死」という物語の死であり、「消滅」という物語の死を意味します。


「絶滅」の思考が為そうとしていることは、「無」や「空」を思考するという「不可能性の可能性」としての思考ではなく、
龍樹(ナーガールジュナ)やツォンカパ的な、
「無」もまた無なり、「空」もまた空なりという、
「無」や「空」という
「何もない」ということを表す概念それそのものをもまた消滅させるという意味での、「不可能性の可能性」のそのまた不可能性なのです。

この二つ目の不可能性には、二重の意味があるのです。

それは、「不可能性の可能性」もまた無・空なりという意味での不可能性であるとともに、

「絶滅」という思考が為そうとしている「死」の死への思考もまたそのような思考であるという点での、「絶滅」という概念そのものの不可能性でもあるのです。

「絶滅」は、現象の死、思考の死という「死」の死として、
「不可能性の可能性」の不可能性として現れるとともに、
その『「不可能性の可能性」の不可能性』のそのまた不可能性でもあるのです。

このような無限後退は現象学では頻出するものであります。


しかしここにおいて非常に奇妙であるのは、

不可能性の思考という思考の可能性において、「不可能性の可能性」の不可能性を考えるということは、

我々人類が、現象・思考から逃れられないという不可能性を示している一方で、

その現象・思考がその自らの死を、「現象・思考の絶滅」を思考できないという現象・思考の絶対的な限界が、その唯一絶対的な綻びが同時に示されているということです。


ここにおいて、現象の現象還元性・思考の思考還元性は、
自らの「絶滅」を現象・思考できないという絶対的な不可能性を露呈する
のです。

それは「無」や「空」もまた「不可能性の可能性」として現象・思考することができる現象・思考の「絶対的かつ完全なる不可能性」として、

現象学やそれに基づいて生まれてくる実存主義や構造主義、ポスト構造主義などの相関主義の不完全性を証明するのです。

つまり、実在性の否定の不完全性を証明することによって、
現象学が包摂し尽くすことのできない裂け目として、
「絶滅」は、実在の可能性を証明するのです。

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