アン、今日もフラれたな🍙第46話 明日香の土と一年契約の明日
三重の海が、朝の後ろへ小さくなっていった。
11月中旬。
鳥羽の潮のにおいを荷物のすき間に残したまま、海峡つばめ号は西へ向かっていた。
淡いミント色の低い車体。
小さな前輪。
中央の低床キャビンには、赤いバンダナを巻いた柴犬アンが座っている。
生成り色の格子へ顎を載せ、後ろへ流れる山を眺めていた。
大和風太郎は、色あせた青緑色のワークシャツの上に薄い上着を重ね、ペダルを踏んでいる。
後ろの大型ラックには、カーキ色のダッフルバッグと青いロールマットがくくりつけられていた。
胸ポケットには、鳥羽でもらったおにぎりの包み紙が残っている。
海女小屋の火。
真珠養殖の浜。
カナの重い拍手。
そして、昨日も恋は実らなかった。
「アン」
風太郎は前を向いたまま言った。
「なんや」
「三重も、ええとこやったな」
「海も飯も人もよかった」
「恋だけ置いてきた」
「置いてきたんやない。最初から持ってへん」
「朝から事実が冷たいな」
「旅の安全は、正確な現状把握からや」
風太郎は鼻をすすった。
山あいの道へ入ると、潮のにおいが薄れた。
代わりに、落ち葉と湿った土のにおいが濃くなっていく。
道脇の柿の木には、葉を落とした枝へ橙色の実が残っていた。
古い家の軒下では、干し柿が列になって揺れている。
やがて、奈良県の標識が見えた。
風太郎は真鍮のベルを鳴らした。
チリン。
「アン、県境や」
「儀式やな」
「奈良といえば、これや」
風太郎は胸を張り、『シカ色デイズ』を鼻歌で歌い始めた。
(ぬん)
しかのこのこのここしたんたん
しかのこのこのここしたんたん
しかのこのこのここしたんたん
しかのこのこのここしたんたん
(ぬん!ぬん!)
最初の音から外れた。
道端のカラスが、羽音を立てて飛び去った。
バサッ。
アンの耳が横へ倒れた。
「風太郎」
「なんや」
「奈良の鹿、まだ会うてへんのに逃げたで」
「鹿やない。カラスや」
「鳥にまで先に逃げられてるやん」
「歌の余韻を楽しみに行ったんや」
「余韻やなくて避難や」

風太郎は笑いながら、ペダルを踏んだ。
奈良県へ入ってしばらくすると、道は細くなった。
家々の間に畑があり、その向こうへ低い山が続いている。
古い石垣。
土壁。
赤茶けた瓦。
道の角には、小さな石仏が置かれていた。
誰かが供えた花が、朝露に濡れている。
明日香村へ入ると、空が広くなった。
大きな建物が少なく、田畑の間を細い道が縫っている。
棚田は秋の収穫を終え、短く刈られた稲の切り株が並んでいた。
石垣の上には、赤や黄色の落ち葉がたまっている。
風太郎は速度を落とした。
「なんやろな」
「何がや」
「村全体が、昔のこと覚えてるみたいや」
アンは鼻を動かした。
土。
枯れ草。
焚き火。
醤油。
どこかの家で煮ている芋。
冷たい空気の中に、暮らしのにおいが重なっていた。
石舞台古墳へ続く道へ入った時だった。
アンが急に体を起こした。
「止まって」
「え?」
「止まれ、風太郎」
風太郎はブレーキを握った。
キイ。
海峡つばめ号が道端に止まる。
アンは中央キャビンから降りた。

普段と変わらない歩き方で、道の端へ進む。
その先には、棚田があった。
さらに向こうには、低い山。
木々の間から、石舞台の大きな石が少しだけ見えている。
風も止まった。
鳥の声が遠い。
風太郎は海峡つばめ号の横に立ち、黙って景色を見た。
「どうしたんや」
アンは鼻を上げた。
「急いで通ったらあかん気がした」
「犬の勘か」
「知らん」
「知らんのかい」
「でも、ここは道だけ見て走る場所やない」
風太郎は棚田へ目を戻した。
土の下には、昔の人が歩いた地面があるかもしれない。
家があったかもしれない。
火を囲んで飯を食べた人もいたかもしれない。
笑った人。
怒った人。
恋をして、きれいにフラれた人。
「最後のやつ、風太郎が勝手に足したやろ」
「口に出してへんで」
「顔に書いてあった」
風太郎は笑った。
その腹が鳴った。
グウウ。
アンが見上げた。
「古代の記憶より先に、現代の腹が起きたな」
「歴史も飯食わな続かん」
「うまいこと言う前に仕事探せ」
風太郎はスマホを取り出した。
単発仕事の画面を開く。
農産物の箱詰め。
飲食店の皿洗い。
観光案内補助。
その中に、1件だけ目を引く募集があった。
発掘調査補助。
資材運搬および土のふるい分け。
未経験可。
数日間の短期勤務。
「アン」
「なんや」
「わし、歴史を掘るで」
「土運びって書いてある」
「入口は何でもええ」
「応募しただけで、世紀の発見した顔すな」
風太郎は応募ボタンを押した。
発掘現場は、石舞台古墳から少し離れた生活道路沿いにあった。
青い仮囲い。
白い休憩テント。
地面には、四角く区切られた発掘区画が並んでいる。
道の片側には、通行止めの看板が置かれていた。
その手前で、軽トラックが何度も切り返している。
運転席の老人は、困った顔で後ろを確認していた。
風太郎は一度そちらを見た。
だが、受付へ急いだ。
名前を書き、ヘルメットと軍手を借りる。
アンは現場外の休憩テント横で待つことになった。
「勝手に入ったらあかんで」
風太郎が言うと、アンは鼻を鳴らした。
「その台詞、3時間後に自分へ返ってきそうやな」
「わしは大人や」
「自称やろ」
現場の奥から、1人の女性が歩いてきた。
黒髪のショート。
紺色の作業帽。
ベージュの作業服には、乾いた泥がこびりついている。
軍手の指先は土色だった。
細身だが、肩と腕には毎日道具を扱う人の硬さがあった。
目の下には、薄い疲れが残っている。
「今日の短期アルバイトの方ですか」
「はい。大和風太郎です」
「吹石マチコです。発掘調査を担当しています」
風太郎は発掘区画を見た。
「これ全部、掘るんですか」
「はい。ただし、勝手にいらわんといてくださいね」
「いらわん?」
「触らないで、という意味です」
「奈良弁ですか」
「そうです。土器も遺構も、出た場所が大事なので」
風太郎は背筋を伸ばした。
「わかりました。何も触りません」
アンがテント横から言った。
「女性に言われたら素直やな」
マチコが振り返った。
「今、犬が」
「仕様です」
アンは前足をそろえた。
「柴犬アンです。風太郎の監督係です」
「監督が現場の外にいるんですね」
「中へ入れたら、こいつより働くで」
マチコの口元が少し緩んだ。
「最初は、ネコを運んでもらいます」
風太郎の目が丸くなった。
「猫おるんですか」
「はい?」
「発掘現場の猫って、土器見つけるんですか」
マチコは風太郎の後ろを指さした。
そこには、土を運ぶ一輪車が置かれていた。
「ネコ車です」
風太郎は黙った。
アンが首をかしげた。
「柴犬連れた男が猫探して、何の現場や」
近くにいた発掘作業員のおばちゃんたちが笑った。
「兄ちゃん、ネコ初めてか」
「ほんまの猫やと思いましたわ」
「そっちは現場に連れてこんでええで」

風太郎はネコ車の取っ手を握った。
「ええか、アン。道具には愛称いうもんがあるねん」
「さっきまで本気で猫探してたやん」
「現場になじむための確認や」
「開始5分で、言い訳だけは一人前やな」
風太郎の仕事は、派手ではなかった。
スコップを運ぶ。
ブルーシートを広げる。
空の土のう袋を集める。
掘り出した土をネコ車へ載せ、ふるい場まで運ぶ。
最初の土を運ぼうとして、風太郎は勢いよく取っ手を持ち上げた。
ネコ車が傾く。
「うわっ」
ガタン。
土が半分こぼれた。
作業員のおばちゃんが腰へ手を当てた。
「兄ちゃん、歴史を戻しとるで」
アンが言った。
「掘る前より深う埋める気か」
「ネコが言うこと聞かんねん」
「猫のせいにすな」
マチコは口元を押さえた。
声は出さなかったが、肩が揺れていた。

風太郎はこぼれた土を戻し、今度は慎重に進んだ。
発掘区画の中では、マチコが竹べらと小さなブラシを使っている。
勢いよく掘らない。
土の色を見て、形を確かめ、少しずつ進む。
ザクッ。
ザッ。
ザッ。
現場には、土を削る音と、ふるいを揺らす音が続いていた。
風太郎は何度もマチコの手元を見た。
「手で掘るんですね」
「重機も使います。でも遺構の近くは慎重に進めます」
「宝探しみたいですね」
マチコは手を止めなかった。
「宝探しなら、見つけた人が持って帰れます」
「持って帰られへんのですか」
「持って帰ったら捕まります」
「夢のない現実や」
「夢だけで掘ると、遺跡が壊れます」
風太郎はふるい場へ戻った。
土の塊を崩しながら、枠を揺らす。
ザッ。
ザザッ。
細かい土が下へ落ちる。
白っぽい小石。
茶色い根。
黒い石。
その中に、1つだけ妙なものが混じっていた。
爪ほどの大きさの、赤茶色の欠片。
端が緩く曲がっている。
風太郎は手を止めた。
「マチコさん」
「はい」
「これ、石ですか」
マチコがこちらへ来る。
風太郎は触らず、ふるいの上を指さした。
マチコの目が変わった。
疲れが消え、光が入る。
細いピンセットで欠片をつまみ、掌へ載せた。
「土器片です」
「これが?」
「小さいですけど」

周りの職員も集まった。
袋とラベルが用意される。
マチコは出土位置を確かめ、番号を書いた。
風太郎は欠片をのぞき込んだ。
ただの赤茶色の破片にしか見えない。
「こんな小さいのでも止めるんですか」
マチコは欠片を見たまま答えた。
「1000年以上前、誰かが最後に触った物かもしれません」
風太郎は息を止めた。
火のそばで使われた器かもしれない。
食べ物が入っていたかもしれない。
子どもが落としたのかもしれない。
誰かが片付けたつもりで、土へ残ったのかもしれない。
「わしが見つけたんですか」
「はい」
風太郎の胸が膨らんだ。
「アン、聞いたか。わし、歴史見つけた」
アンは欠伸をした。
「土器の欠片1つで、顔が国宝級にうるさい」
「世紀の発見かもしれんやろ」
マチコは首を振った。
「よくある時代の小片です」
「世紀、終わった」
「でも、大事な記録です」
風太郎はもう一度、欠片を見た。
大きくなくても。
珍しくなくても。
誰にも名前を知られなくても。
残す意味はある。
昼休み。
作業員のおばちゃんたちが、アンの周りへ集まった。
「この子、ほんまにしゃべるん?」
「見世物やないで」
アンが答えると、笑いが起きた。
「寒いやろ」
1人のおばちゃんが、赤いチェック柄の小さな布を持ってきた。
「首へ巻いたろか」
「アンはもう赤いバンダナある」
「二重にしたら、もっとぬくいやん」
「アンをクリスマスの贈り物みたいにすな」
別のおばちゃんが、塩を入れる前の古代米を小さく丸めて持ってきた。
「犬用や。塩も具も入れてへんで」
アンは鼻を近づけた。
「わかってる人や」
「えらそうやなあ」
「犬は人を見るで」
「ほな、うちら何点や」
アンは古代米を一口食べた。
「食後に発表する」
「採点まで有料なん?」

風太郎は笑った。
近くにいた小学生の男の子が、通行止めの向こうからアンを見ていた。
ランドセルを背負い、母親と遠回りしてきたらしい。
「発掘犬や」
男の子が言った。
アンは胸を張った。
「発掘はしてへん。監督や」
「何見つけたん?」
「風太郎の浅さ」
男の子は声を上げて笑った。
その横で、現場所長らしい50代の男性がスマホを耳へ当て、何度も頭を下げていた。
「はい。申し訳ありません」
「調査範囲が広がる可能性がありまして」
「工程は組み直します」
「追加費用については、社内で」
電話を切ると、別の相手へかける。
「悪い。今日も遅なる」
「社員には先に帰るよう言うてくれ」
「給料日は変えへん。そこは何とかする」

手元の弁当は、開かれないまま冷えていた。
午後。
発掘区画の端で、土の色が変わった。
マチコと職員たちが集まり、慎重に掘り進める。
丸みのある石が並び、その内側に黒い土が見えてきた。
「遺構かもしれません」
マチコの声が低くなる。
現場全体が張りつめた。
風太郎はネコ車を押しながら近づいた。
「何ですか、これ」
「まだわかりません。柱穴か、炉の跡か」
「家ですか」
「可能性はあります」
風太郎の目が輝いた。
「世紀の発見や」
「まだ決まってません」
風太郎は、冷えた弁当を前に電話を続ける所長を見た。
工事を待つ人がいる。
会社を止められない理由もある。
それでも、土の中の黒い跡から目を離せなかった。
「工事待ってる人がおるんは、わかります」
所長が風太郎を見る。
「でも、ここで暮らした人まで、急かして消してええんですか」
男の顔が硬くなった。
「今生きてる人間も、消すわけにいかん」
風太郎は言葉に詰まった。
「1日止まるだけで、何百万飛ぶ」
「社員も下請けも食わせなあかん」
「借りた重機も資材も、全部止まったまま金が出ていく」
所長は遺構へ目を向けた。
「文化財を壊したいわけちゃう」
「守れ言うなら、守る時間も金も、誰が背負うかまで考えてくれ」
その時、アンが立ち上がった。
休憩テントから、通行止めの方へ歩き出す。
「アン」
返事をしない。
「どこ行くねん」
アンは青い仮囲いの外へ出た。
風太郎は慌てて追う。
通行止めの先で、朝の軽トラックが止まっていた。
運転していた老人が、鍬を担いで歩いている。
腰が曲がり、片足を引きずるように進んでいた。
「車、通れへんのですか」
風太郎が聞くと、老人は帽子を上げた。
「見たらわかるやろ」
「別の道は」
「あるで。山の方ぐるっと回ったらな」
「どれくらいです?」
「車なら20分。朝から遠回りするん、おとろしいわ」
「恐ろしい?」
「面倒いう意味や」
老人は鍬を担ぎ直した。
「畑へいぬ頃には、日が暮れてまう」

風太郎はアンを見た。
「いぬ?」
「帰るや」
アンが答えた。
「奈良弁、アンより先に覚えろ」
反対側から、小学生の男の子が歩いてきた。
昼休みにアンを「発掘犬」と呼んだ子だった。
母親が自転車を押している。
「いつもの道なら10分なんです」
母親は通行止めの看板を見た。
「今は倍以上かかります。朝は車も多いし」
「救急車も回れるんですか」
風太郎が聞く。
母親は首を振った。
「説明がないから、わからへんのです」
アンが風太郎を見上げた。
「風太郎」
「なんや」
「こっちも掘らな見えへんかったな」
風太郎は発掘現場を振り返った。
土の中に残った暮らしの跡。
今を歩く子ども。
どちらも、人が暮らした道だった。
夕方。
現場へ1人の老人がやってきた。
灰色の作業帽。
古い焦げ茶色の上着。
背は少し曲がっている。
杖は使わないが、片足をかばうように歩いていた。
「あのみぃ」
老人は風太郎を見るなり言った。
「難しい顔したかて、答えは出やんで」
「奈良の人、顔見ただけでわかるんですか」
「兄ちゃんがわかりやすすぎるんや」
アンがうなずいた。
「全国共通の見解や」
桂文平。
72歳。
元文化財課職員。
今は村の相談役として、住民と行政の間へ入ることが多いという。
文平の古い作業帽には、何かを外した丸い跡が残っていた。
「それ、何の跡ですか」
風太郎が聞くと、文平は帽子を脱いだ。
「昔、保存運動の缶バッジつけとった」
「保存運動?」
「若い頃は、遺跡守るんが正義や思うとった」
文平は通行止めの看板を見た。
「開発止めろ言うて、よう前へ立った」
「ほな、反対する人の気持ちも」
「そっちから泥投げられたこともある」
帽子の縁に、落ちきらない茶色い染みが残っていた。
「畑へ行かれへん。家建てられへん。道も通せへん。そら怒るわ」
文平は発掘区画へ目を向けた。
「定年する頃になって、やっとわかった」
「何がですか」
「暮らしも正義や」
風太郎は黙った。
「どっちも間違ってへん」
その夜。
風太郎とアンは、軽トラックの老人の家へ招かれた。
老人の名は、森川茂作。
朝、通行止めの前で軽トラックを止められていた老人だった。
「納屋でよかったら寝ていき」
茂作はぶっきらぼうに言った。
「ええんですか」
「発掘には腹立っとる」
風太郎の顔が固まる。
「でも、あんたらが寒いんは別の話や」
茂作は背を向けた。
「はよ、まわりしぃや。鍋冷めるで」
風太郎はアンを見た。
「まわり?」
「準備や」
「アン、なんで知ってんねん」
「村の人と話してたら覚える」
「わし、発掘してる間に犬へ地元力で負けてる」
茂作の家の台所には、飛鳥鍋が置かれていた。
白い汁の中で、鶏肉、白菜、にんじん、きのこが煮えている。
古代米のご飯。
大根の煮物。
柿の白和え。
湯気が、低い天井へ上がっていた。
茂作の妻、千代がアン用の小皿を置いた。
「味つける前の鶏と野菜やで」
アンは鼻を近づけた。
「千代さん、わかってる」
「えらい上からやな」
「犬は食事に正直や」
「風太郎より礼儀あるわ」
「そこ比べんでください」
風太郎は飛鳥鍋をすすった。
牛乳の甘みと鶏のだしが、冷えた体へ広がる。
「うまっ」

茂作が眉を上げた。
「食べる前、鍋に牛乳て嫌そうな顔しとったやろ」
「顔に出てました?」
アンが言った。
「風太郎は値札より顔の方が情報多い」
千代が笑った。
茂作も、少しだけ口元を緩めた。
食卓の途中で、茂作は通行止めの話を始めた。
「わしも遺跡嫌いやない」
風太郎は箸を止めた。
「若い頃、畑から土器出た時は、村中見に来た」
「ほな、何で」
「毎日暮らしとるからや」
茂作は古代米をかんだ。
「遺跡は大事や。せやけど畑も、病院も、子どもの道も、今日使うんや」
風太郎は何も言わなかった。
茂作はアンへ目を向けた。
「この犬、説明会にも来るんか」
「行くで」
「人間より話わかりそうやな」
アンは胸を張った。
「参加費は古代米でええ」
「しっかり取るんやな」
台所に笑い声が広がった。
その夜、風太郎とアンは納屋で眠った。
干し草のにおい。
古い農具。
屋根を打つ小さな風の音。
アンは毛布の上へ丸くなった。
「風太郎」
「なんや」
「茂作さん、怒ってたな」
「せやな」
「でも鍋食べさせてくれた」
「せやな」
「人間の気持ちは、一つやない」
風太郎は暗い天井を見た。
「遺跡守りたい人も、会社守りたい人も、畑守りたい人もおる」
「全部、人や」
アンは目を閉じた。
翌日。
風太郎は再び発掘現場へ入った。
前日より慎重にネコ車を押した。
作業員のおばちゃんが声をかける。
「兄ちゃん、今日は猫逃がしてへんな」
「うちのネコ、しつけました」
アンが言った。
「道具に上下関係持ち込むな」
午後の休憩。
風太郎は自動販売機で買った缶コーヒーを、作業員たちへ配った。
「昨日、笑われたお礼です」
「笑われたんやなくて、笑わせてくれたんや」
「ほな、出演料です」
「安いなあ」
マチコは発掘区画の横で、地図と時計を見比べていた。
声をかける間もなく、別の職員に呼ばれて離れていく。
風太郎はマチコの分の缶コーヒーをバッグへ戻した。
「何してるんですか」
作業へ戻ったマチコへ聞く。
「生活道路の影響を調べています」
紙には、迂回路と所要時間が書かれていた。
通学。
畑。
配達。
救急車の進入路。
「遺跡の資料ちゃうんですね」
「遺跡だけ説明しても、伝わらないので」

マチコは鉛筆を走らせた。
「見えやんかったんです。私も」
風太郎は何も言わず、地図を押さえた。
作業終了後。
マチコは風太郎を発掘現場近くの整理室へ連れていった。
元は学校だった建物。
廊下には、薄く消えかけた児童の足形が残っている。
教室の中には机ではなく、灰色のコンテナと段ボール箱が積まれていた。
「今日は、洗浄を少し手伝ってもらいます」
風太郎は袖をまくった。
「任せてください」
土器片を水へ入れ、たわしを握る。
「強くこすらないでください」
「はい」
風太郎は慎重に動かした。
慎重すぎて、ほとんど土が落ちない。
隣の作業員のおばちゃんがのぞく。
「兄ちゃん、それやったら来年まで洗っとるで」
アンが床から言った。
「ほんまや。土の方が根負けしそうや」
「土に応援される洗い方って何やねん」
次は、乾いた土器片への注記だった。
極細ペンで、遺跡番号を書く。
風太郎は息を止めた。
手が震える。
文字がつぶれた。
「うわ」
マチコが欠片を受け取る。
「大丈夫です。消してやり直します」
「わしの字、色紙だけやなく土器にも拒否された」
アンが言った。
「1000年後の人が読めへんから、今止められたんや」
接合作業の机には、似たような欠片が並んでいた。
風太郎は首をひねる。
「古代のジグソーパズルやな」
「正解の絵がないですけどね」
マチコが欠片を合わせる。
カチ。
合わない。
別の欠片を取る。
今度は縁がぴたりと重なった。
風太郎は目を輝かせた。
「出た」
「パフェちゃいますよ」

マチコが言った。
風太郎は笑った。
その後、体育館を利用した収蔵庫へ入った。
バスケットゴールの下まで、箱が積まれている。
「これ、全部ですか」
「全部出土品です」
「博物館へ飾ったらええのに」
「展示されるのは、ごく一部です」
マチコは箱を1つ開けた。
小さな土器片が、袋へ分けられている。
「残りは整理して、記録して、報告書を作って、ここで保管します」
「どれくらいかかるんです」
「規模によっては3年です」
風太郎は箱の列を見上げた。
「現場より長いやん」
「掘り出した後の方が長いんです」
マチコは箱を閉じた。
「置く場所は、もうほとんどありません」
「それでも捨てられへん」
「はい」
アンが箱の間を見た。
「出したもんは残すのに、出した人が先に潰れそうやな」
マチコの手が止まった。
風太郎もアンを見た。
「アン」
「顔見たらわかる」
マチコは箱を棚へ戻した。
「私は1年ごとの契約です」
風太郎は言葉を失った。

「何年目なんですか」
「9年目です」
「9回も更新してるのに、まだ1年ずつ?」
「9年働いたことと、来年雇われることは別です」
収蔵庫の中で、誰かが箱を置く音が響いた。
ドン。
仕事帰り。
風太郎とマチコは、アンを連れて古民家カフェへ向かった。
店の軒先で、風太郎はバッグから渡しそびれた缶コーヒーを出した。
「これ」
「私に?」
「今日は、土器より先に、掘ってる人の手が目に入りました」
マチコは缶を受け取った。
すぐにはバッグへ入れず、両手で持ち直した。
「見学に来る人は、何が出たかを聞きます」
「そら気になるでしょうね」
「でも、掘っている人のことは、あまり見ません」
風太郎は首をかしげた。
「掘る人がおらんかったら、出てきませんやん」
マチコは返事をしなかった。
缶コーヒーを見つめたあと、バッグへしまった。
古民家カフェへ入る。
太い木の梁。
磨かれた柱。
土間。
低い窓の向こうに、小さな庭がある。
サイフォンのガラス器具から、コーヒーが音を立てていた。
コポコポ。
風太郎は古墳パフェを注文した。
抹茶アイス。
土に見立てたクッキー。
石室を模した最中。
最中の横には、半分に切った赤いあすかルビーが並んでいる。
「昼間、土から出したもんを、夜また掘るんか」
アンが言った。
「これは食べられる発掘や」

風太郎がスプーンを入れる。
中からプリンが出た。
「出た!」
アンは目を細めた。
「世紀のプリンやな」
マチコが吹き出した。
肩を揺らし、声を立てて笑った。
風太郎は、パフェよりそちらを見た。
アンが前足で風太郎の靴を踏む。
「顔に全部出てるで」
「何がや」
「恋や」
風太郎は慌ててパフェへ目を戻した。
翌日の夕方。
住民説明会が開かれた。
村の集会所。
折りたたみ椅子。
長机。
住民。
教育委員会。
開発会社。
発掘担当者。
風太郎は会場設営の手伝いとして椅子を運んだ。
アンは、通学路を遠回りしていた男の子の横へ座っている。
男の子は母親に連れられて来ていた。
説明会が始まる。
「いつまで通れへんのや」
「畑の収穫、遅れたら誰が責任取る」
「遺跡潰せ言うてるんちゃう」
「こっちの生活もあるんや」
現場所長が立ち上がった。
「調査範囲が広がれば、設計変更が必要です」
「工事が1か月延びれば、損失は数千万円になります」
住民から声が飛ぶ。
「金の話ばっかりや」
所長は資料を握った。
「会社で働く人間にも家族がいます」
空気が張る。
マチコが立った。
手には、発掘図面とは別の資料があった。
「調査の必要性だけを説明しても、足りませんでした」
通学時間。
畑への迂回時間。
配送ルート。
救急車の進入経路。
1つずつ、地図へ書かれている。
「いつまで通れないのか」
「どの道が使えるのか」
「毎週、現場の前に掲示します」
住民の1人が言った。
「紙貼るだけで道が開くんか」
マチコは言葉に詰まった。
風太郎が立ち上がりかける。
アンが靴を踏んだ。
「まだや」
「でも」
「全部聞け」
その時、隣の椅子から小さな寝息が聞こえた。
通学路を遠回りしていた男の子が、母親の腕にもたれて眠っていた。
ランドセルを抱えたまま。
アンは男の子の足元へ移動し、顎をランドセルへ載せた。

会場の声が少しずつ小さくなった。
桂文平が立ち上がる。
「あのみぃ」
全員が文平を見る。
文平は眠る男の子を指した。
「1000年前の暮らしを、未来の子へ残す話をしとる」
「せやのに、目の前の子を毎朝疲れさせとる」
誰も口を挟まなかった。
「昔、この道造る時も、村は真っ二つやった」
文平は古い帽子を膝へ置いた。
「わしは遺跡守れ言うて前へ立った」
「暮らせへん言う人から、泥投げられた」
帽子の縁の染みを、年配の住民が見た。
「反対した人も、賛成した人も、今は同じ墓で眠っとる」
「せやけど道は残った」
「遺跡も、全部やないけど残った」
文平は、マチコと所長と住民を見た。
「どっちも間違ってへん」
所長が、眠る男の子へ目を向けた。
「人が歩けて、自転車が1台通れる幅なら、仮設通路を作れるかもしれません」
母親が顔を上げた。
「子どもだけでも、安全に通れる道をお願いします」
マチコが所長の資料へ身を乗り出した。
「作業通路を30センチ詰めれば、柵の位置を動かせます」
「遺構へ影響は?」
「養生すれば避けられます」
文平が言った。
「ほな、明日現場で一緒に見よ」
3日後。
発掘現場の横に、細い仮設通路ができた。
白い柵。
滑り止めの板。
人が歩けて、自転車が1台通れる幅。
軽トラックは通れない。
茂作はまだ遠回りしなければならない。
男の子が通路へ足を載せた。
コトン。
「前より早い」

母親が後ろから見守っている。
現場所長は通路の端で安全を確認していた。
マチコは、発掘区画の養生を確かめている。
風太郎はネコ車を押しながら言った。
「1本だけですね」
マチコは通路を見た。
「1本だけです」
「でも、道や」
午後の作業が終わる。
マチコは作業帽を脱いだ。
黒髪が少しつぶれている。
「風太郎さん」
「はい」
「3日後、ここを離れます」
風太郎の手が止まった。
「どこへ行くんですか」
「海外の発掘調査です」
胸の奥へ、冷たい土を入れられたようだった。
それでも笑った。
「夢やったんですか」
マチコは首を振った。
「来年も日本で働ける保証がないからです」
風太郎は笑えなくなった。
「9年も働いてるのに?」
「9年働いたことと、来年雇われることは別です」
マチコは発掘区画を見た。
「この仕事、やめたないんです」
奈良弁が、初めて強く出た。
「だから、仕事のある場所へ行きます」
「海外なら安定するんですか」
「わかりません」
「それでも?」
「ここで契約が切れるのを待つよりは」
風太郎は何も言えなかった。
残れ。
この村にはマチコが必要や。
そんな言葉は、自分の寂しさを彼女へ背負わせるだけだった。
海外調査へ向かう日。
朝の明日香村は、薄い霧に包まれていた。
棚田の石垣が濡れている。
柿の木の向こうから、小型の送迎車がやってきた。
荷物を積む研究員たちが、トルコやイタリアの地名を口にしている。
風太郎は海峡つばめ号の横に立っていた。
マチコは厚手の上着を着ている。
使い込んだ作業帽を、バッグの脇に下げていた。
「最初はどこですか」
「トルコです。その後、イタリアへ入ります」
「遠いなあ」
「風太郎さんは?」
「次、和歌山です」
マチコは笑った。
「それも立派な旅です」
アンが横から言った。
「距離でも恋でも負けてるけどな」
「今言うか」
「今しかない」
マチコはアンの前へしゃがんだ。
「アンちゃん、元気でね」
「マチコもな。土器より自分を大事にせなあかんで」
「はい」
マチコは立ち上がった。
風太郎と向き合う。
朝霧の向こうで、車のエンジンがかかる。
「風太郎さん」
「はい」
「遺跡だけじゃなくて、働く人まで見てくれて、ありがとうございました」
風太郎は軽口を探した。
何も出てこなかった。
「気ぃつけて」
言えたのは、それだけだった。
マチコはうなずいた。
車へ乗る。
窓の向こうで、小さく手を上げる。

送迎車は棚田の道を進み、曲がり角で見えなくなった。
アンが風太郎の横へ座った。
「風太郎」
「なんや」
「今日もフラれたな」
「せやな」
「何に負けたんや」
風太郎は霧の向こうを見た。
「生きる場所を探す人の覚悟や」
アンは少し考えた。
「それは勝負したらあかんやつや」
「せやな」
「ちょっと賢なったな」
「ここまでフラれ続けたら、多少はな」
出発の朝。
桂文平。
茂作と千代。
発掘作業員のおばちゃんたち。
通学路の男の子と母親。
現場所長まで、発掘現場の前へ集まっていた。
「何で所長さんまで」
風太郎が聞く。
「ネコ車を猫やと思った男が、無事に和歌山へ着くか気になってな」
作業員のおばちゃんが笑う。
「兄ちゃん、最後まで猫逃がすなよ」
アンが言った。
「風太郎がアンに転がされるんは、最初から変わらへんけどな」
「そこまで一緒に回収せんでええ」
千代が、柿の葉で包んだおにぎりを差し出した。
柿の葉寿司風の、さばほぐしおにぎり。
酢の香り。
魚の塩気。
葉の青いにおい。
「海のない奈良まで魚運ぶために、昔の人が考えた知恵や」
風太郎は包みを両手で受け取った。
「葉っぱ1枚にも、残す工夫があるんやな」
千代はアンにも、塩なしの古代米のおにぎりを渡した。
アンは鼻を近づける。
「千代さん、最後までわかってる」
「採点は何点や」
アンは一口食べた。
「100点や」
作業員のおばちゃんたちが声を上げた。
「初めて満点出たで」
「食べ物で買収されただけやろ」
「人聞き悪いな。正当な評価や」
文平が色紙と筆ペンを差し出した。
「書くんやろ」
「字、下手ですよ」
「知っとる」
「村中に共有されてるやん」
風太郎は海峡つばめ号の荷台に色紙を置いた。
筆ペンを持つ。
土器の欠片。
泥だらけの軍手。
遠回りする軽トラック。
眠る子ども。
1本だけの仮設通路。
海外へ向かったマチコ。
思い出しながら書いた。
土に残る
名もない欠片を
ひろう手が
明日の誰かを
今日からつなぐ
アンが色紙を見た。
「今回は、ええやん」
風太郎の顔が明るくなる。
「ほんまか」
「字は土器より復元むずかしいけど」
「最後まで褒め切れへんのか」
文平は色紙を受け取った。
何度か読み、うなずいた。
茂作は照れくさそうに鼻をこすった。
「また来たら、鍋くらい食わせたる」
「発掘に腹立ってても?」
「それとこれとは別や」
茂作は海峡つばめ号の後ろに積まれた荷物を見た。
「次来た時は、畑までネコ車押してもらうで」
「猫おらんやないですか」
茂作が眉をひそめた。
「まだ言うとるんか」
千代と作業員のおばちゃんたちが笑った。
風太郎も笑った。
海峡つばめ号にまたがる。
アンは中央キャビンに乗り、赤いバンダナを風に揺らした。
風太郎はベルを鳴らした。
チリン。
「アン」
「なんや」
「次で47都道府県やな」
「和歌山や」
「最後やな」
アンは前を向いた。
「旅が1周するだけやろ」
風太郎は少し笑った。
「せやな」
ペダルを踏む。
1回。
もう1回。
海峡つばめ号は、棚田の間を進んでいった。
荷台には寝袋と小さな鍋。
手元には、柿の葉寿司風さばほぐしのおにぎり。
胸には、マチコの「この仕事、やめたないんです」という声が残っていた。
アンだけが一度、明日香村を振り返った。

仮設通路を、ランドセルを背負った男の子が走っている。
発掘現場では、作業員がネコ車を押していた。
ガタン。
アンが前を向いた。
「風太郎より上手やな」
「最後にそれ言う?」
チリン。
古代の里が、朝の後ろへ流れていった。
つづく

吹石一恵+ 尾野真千子








