権力の移ろい:山県・原・犬養の三代記

大正十一年(一九二二)の冬、東京で二つの葬儀があった。

一月、大隈重信が死んだ。日比谷公園で営まれたその葬儀には、報じるところ三十万ともいう群衆が押し寄せた。沿道は人で埋まり、棺は花に隠れて見えなかったという。大隈はそのとき、すでに政治の第一線を退いた一介の老人にすぎない。権力など、何ひとつ握ってはいなかった。

それから一月ののち、山県有朋が死んだ。

こちらは国葬であった。陸軍の祖、元老の筆頭、明治国家を背骨から支えてきた巨人の死である。国家の威信を尽くした葬儀が日比谷で営まれた。ところが――人が、来なかった。広い公園に参列者はまばらで、肌寒い風だけが吹き抜けていったと伝えられる。

権力のすべてを握った男の葬儀は、寂しかった。権力を手放した男の葬儀は、群衆で溢れた。

この奇妙な逆転のなかに、大正という時代の謎が、まるごと畳み込まれている。権力とは、いったいだれのものなのか。

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山県有朋という人を、ひとことで言えば「見えない天井」であった。

長州の足軽の出である。維新の銃煙をくぐり、陸軍をつくり、官僚機構を組み上げ、やがて元老となった。元老という地位は、憲法のどこにも書かれていない。書かれていないからこそ、強い。次の首相をだれにするか、その差配を、山県は表に出ることなく握り続けた。議会がどう騒ごうと、選挙でだれが勝とうと、最後に首相を選ぶのは彼ら一握りの元老であった。

つまり、民が下からいくら手を伸ばしても、その手は必ず一枚の天井に突き当たる。透明で、しかし鉄のように硬い。それが元老政治というものの正体だった。

山県は、民を信じなかった。民の声は移ろいやすく、扇動されやすく、国家を危うくするものだと考えていた。だから国家を、民から遠いところで、静かに動かそうとした。彼にとって政治とは、玄人が玄人のために営むものであり、素人である民衆が口を出すべきものではなかった。

その信念は、ある意味で筋が通っていた。だが筋が通っているということと、人の心を得るということは、別のことである。山県は国家を持っていた。しかし、民を持っていなかった。閑かな国葬とは、その帳尻が合わされた光景だったのかもしれない。

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その天井を、下から突いた男がいる。原敬である。

盛岡の、賊軍とされた南部藩の出であった。爵位を持たず、衆議院に議席を持つ一代議士のまま、大正七年(一九一八)に首相となった。世はこれを「平民宰相」と呼んだ。藩閥でも華族でもない、選挙で選ばれた政党の領袖が政権を担う――日本で初めて、その筋道が太く通った瞬間である。

きっかけは米騒動だった。米価の高騰に怒った民衆の暴動が全国へ燃え広がり、その火が前の内閣を焼き倒した。民の怒りが、はじめて一つの内閣を倒し、次の宰相を呼び出したのである。山県の天井に、たしかにひびが入った。

ただ、原を理想の民主主義者として描くのは、史実に対して誠実ではない。

彼は普通選挙には慎重だった。むしろ時期尚早として退けた側である。選挙制度をいじって自党に有利な小選挙区制を敷き、鉄道や港湾を地元に引いてくる利益誘導の政治も辞さなかった。世に「我田引鉄」と揶揄された手法である。原は理想を語る人ではなく、現実の力学を読み切る策士だった。天井を一気に打ち砕いたのではない。下からじわじわと圧をかけ、権力の重心を、見えない元老から、目に見える政党へと少しずつ移していった。

理想ではなく、現実によって天井を押し上げた男。それが原敬だった。

その原が、凶刃に倒れる。大正十年(一九二一)十一月、東京駅の構内で、一青年に刺し殺された。山県の死の、わずか三月ほど前である。

ここに、歴史の残酷な皮肉がある。天井を突き破ろうとした者が、突き破られるべき天井よりも、先に逝った。原は、山県の死を見ることなく死んだ。下から伸びた手のほうが、上にあった重しよりも、早く力尽きたのである。

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移ろいの最後に立つのが、犬養毅である。

備中の庭瀬、岡山の生まれ。若き日に第一次護憲運動で「閥族打破・憲政擁護」を叫び、藩閥の桂内閣を議会の弁舌で倒した、その立役者の一人であった。生涯、政党人としての筋を曲げなかった反骨の人である。

原が重心を動かし、その後も「憲政の常道」――衆議院で多数を占めた政党が政権を担うという慣行――が、しばらく続いた。山県の天井は、ついに過去のものになったかに見えた。権力は、藩閥の手を離れ、選挙で選ばれた者たちのもとへ降りてきた。少なくとも、降りてきたかに見えた。

その常道の、最後の宰相が犬養だった。

昭和七年(一九三二)五月十五日、海軍の青年将校らが首相官邸に乱入する。老いた首相は、銃を構える若者たちに、逃げも隠れもせず、こう語りかけたという。「話せばわかる」。返ってきたのは、「問答無用」の一語と、銃声であった。

この一発が、すべてを断ち切った。

犬養の死をもって、政党が政権を担う慣行は途絶える。権力は、ふたたび民の手を離れていく。だが今度の行き先は、山県の元老政治ではなかった。軍部という、新しい、そしてはるかに巨大な天井であった。

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三人の生涯を縦に並べると、権力という重心が、どこからどこへ移ろったかが見えてくる。

山県は、民を信じず、見えない天井として権力を握った。原は、理想ではなく現実の力で、その天井を下から押し上げた。犬養は、押し上げられた権力の最後の灯を抱いて、官邸で撃たれた。

降りてきたはずの権力は、しかし、民の手にしっかりと根を張ることができなかった。山県の天井が壊れたあと、そこにできた空白を、別の天井が即座に覆った。「問答無用」の四文字が、それを告げている。話し合いによって権力を動かすという、デモクラシーのいちばん細い一本の糸が、そこで断ち切られたのである。

権力は、奪われたのではない。手渡されたものが、握りきれぬまま、するりと抜け落ちた。

閑かな国葬の冬から、官邸の銃声まで、わずか十年である。その十年が問いかけてくるのは、おそらくこういうことだ。権力をだれの手に置くかを決めるのは、制度ではない。制度を支える、民の側の握力なのだ、と。天井を壊すことよりも、降りてきたものを握り続けることのほうが、ずっと難しい。

二つの葬儀の、あの不思議な逆転を思い出す。権力を持たなかった大隈に群衆が集い、すべてを持っていた山県の柩に風だけが吹いた。あれは、人の心がどこにあるかという話だった。そして人の心の在り処こそ、結局のところ、権力が最後に根を張れるかどうかを決めていたのである。

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