正梅
人は刺激を求める。
それがあるうちは、世界が少しだけ鮮やかに見える。
【酢】
俺は全てを出し切った。
「えー、今回の営業成績を発表する」
俺の心はズキズキと音がした。
「高橋君!今月の成績トップは高橋君でした!おめでとう!」
俺は4ヶ月連続で、トップだった。
異変に気づいたのは20日を過ぎた頃だ。
2年目の高橋が俺の次に成績を残していた。
今まではギリギリで社内ノルマを達成する営業マンだった高橋が急に数字を伸ばし始めた。
朝礼でみんなから称賛される高橋を見てると、複雑な気持ちになりながらも俺は先輩として賛辞を送った。
「高橋、すごいな。今回どうした?急に成績伸ばしてきたからまさかと思ったけど、本当にトップになったな」
悔しい気持ちが表情に出ていないか不安になっていたが、思いもよらない言葉が返ってきた。
「道尾さんのおかげなんです!」
高橋の教育係は俺ではなかったはずだ。
俺のおかげ…?どういうことだ。
「…何か教えたか?」
「いや、道尾さんっていつも成績トップでかっこいいなって思ってたんです。他の先輩は月初はゆっくりしてるのに、道尾さんは1日になっても月末と熱量が変わらないじゃないですか!めちゃくちゃ刺激受けてます!」
不思議と悔しくはなかった。
逆に嬉しい気持ちが湧き上がる。
ずっとライバルを探していたのかもしれない。
「来月は勝負だな」
「はい!来月も今月同様、頑張ります!」
営業成績以外に楽しみなことが出来た。
「あ!道尾さんって梅干しって好きですか?」
「梅干し…?まあ好きだけど?」
「実家から大量に梅干しもらったんで食べてください!すごく高級な梅らしくて最近有名なんです!給湯室の冷蔵庫に入ってるんで!」
お昼になって給湯室に来た。
冷蔵庫には高橋のメモ書きだろう。
ー 皆さんで食べてください! ー
“鏡うめ”と書かれた箱を冷蔵庫から取り出す。
梅干しか。
一つ食べてみた。
「…すっぱ」
俺は笑った。
【辛】
ー 選考の結果、今回は残念ながらご希望に添えない結論に至りました。 ー
きっかけはエキストラのバイトだった。
「君、伸びそうだね〜!もし良かったら見学来てよ」
声をかけてきたのはエキストラ事務所の現場マネージャーで、佐々木と名乗り、雑に名刺を渡してきた。
20歳でフリーターの俺は、目の前にいるスーツ姿の男性に付いて行けばいいんだと、後日渡された名刺の住所に行ってみた。
…スカウト?俺が?
案内された部屋で5分ほど待ち、名刺をくれた佐々木が来た。
「ごめんね〜。待ったでしょ〜!今日って、判子持ってきてくれた?」
事前に判子と筆記用具を持ってくるように指示されていた。
「はい!俺って事務所に所属するような感じですかね?」
佐々木のスーツが、前と違っていた。
「あー!違う違う!」
「うちね、俳優の養成所なのよ」
「養成所…?事務所に入るんじゃないんですか?」
「あはは!違う違う!君にはレッスンを受けてもらいたくて!」
30分ほど説明を受けた。俺は途中から、時計ばかり見ていた。
「少し時間をいただいてもよろしいですか?」
佐々木はチラチラとスマホを見ながら言った。
「あー…今日ね、あと何人か来る予定なんだよね」
なんだこれ。名刺を渡されてからの数日間本当にワクワクした。
なんの取り柄もない俺が演技!?俳優!?
そんなうまい話あるわけない。
またバイトしながら日々をこなしていくんだな、俺は。
「今の生活、続けるって選択もあると思うよ」
佐々木の言葉は俺の心に塩を塗りたくった。
「いや、戻りたくないです。養成所入ります」
悔しかった。
それからは週2回のレッスン。
エキストラ。
バイトは週5回から7回になった。
オーディション、不合格。またバイト。
通行人Aだった俺は養成所に入ってスクール生Aになった。
いや、俺はまだスクール生Zくらいか。
養成所に入って半年が経った。
佐々木とは、あれ以来会っていない。
「ご活躍をお祈りします」という文言にも慣れてきた。
ー ピコンッ ー
スマホが鳴る。
またお祈りされたか、と思いながらスマホのロックを解除する。
『久しぶりー!元気にやってるー?ちょっと君にお願いしたい現場があってさー…」
あ、本当に現場マネージャーだったんだ。
連絡をくれたのは、俺を養成所に入れた佐々木からだった。
後日、現場に向かうと、スーツ姿の男が寄ってくる。
「あーごめんごめん。今回の現場なんだけどね…」
どうやら梅干しを作っている企業CM撮影で急遽エキストラが必要になったらしく、俺に声をかけたとのことだった。
佐々木のスーツは、今日も違った。
「いやーこの役は君にぴったりだなと思ってすぐに連絡したんだよ!」
俺は何も言わずに、言われた場所に立った。
「はい、本番5秒前!4・3・2…」
「う、うまい!」
「はい!OK!お疲れ様でした!」
撮影は一瞬で終わった。
梅干しを食べて「うまい」というだけ。
俺の他にも、同じようなシーンを撮っている人が何人かいた。
ぴったり、ね。
「お疲れ様で〜す!鏡うめ様から演者の皆さんでも食べてくださいといただいたので良かったら!」
さっき食べたばかりの梅干しを一つ摘んでスタジオから出る。
ずっと手に持っているのもあれだなと思い、食べる。
「…しょっぱ」
ただ、それだけだった。
【甘】
「わー雨だねー」
親友の穂乃果ちゃんは雨が降るといつも親が迎えにくる。
「すごい降ってんじゃん!舞子、歩き?それなら帰りママに頼んで送ってもらう?」
いつもなら迷わず乗せてもらうんだけど、今日はやることがある。
「んーん!私も今日親が迎えに来てくれるぽいから大丈夫!」
もちろん嘘だ。うちの親は迎えなど来てくれない。
「ほんと?じゃあまた明日ね!」
「うん!また明日ね〜」
靴箱にしまった上履きを履いて近くをうろうろする。
中学まではいわゆる“ガリ勉”だった。
少し遠くてもいいからと親にお願いして塾にも通わせてもらい、なんとか県内トップの進学校に入ることができた。
地元から遠くしたかった理由は高校デビューした私を中学の同級生に見られたくなかったから。
入学式前に美容室に行き、髪をまっすぐにしてもらい、眉毛も整えて私はデビューを果たす。
「お、道尾じゃん」
星野の声で心臓が速くなる。
「お、おう!」
だめだ、うまく返事ができない。
「うわーめちゃくちゃ雨降ってんじゃん」
星野が私の目の前を通過する。少し甘い匂いがした。
「そうだね〜、私傘持ってきてなくてさー」
言えた。もしかしたらさ、もしかすると思ってこっそり計画を立てていた。
ちなみに傘はある。
「え!まじ?俺の傘貸してもいいけど…」
「え?貸すって、星野はどうするの?」
気軽に“星野”と言えている。でも本当は“周作”って呼びたい。
苗字ではなく、下の名前でお互いを呼び合えたら…
だめだ、妄想とまれ!まず普通に話していることに喜べ私。
「あー俺は多分迎えにくるから大丈夫だよ」
声に出す前に落胆する。
くそお…私が夢見た“相合傘”は吹き飛んでいった。
雨がさっきよりも激しくなった。
私の心にマシンガンを撃ち込んでくる。
「あーでもこれじゃ傘意味なくね?道尾も車乗ってけよ。親に言っとくから」
あ、え…?いいの…?まだお付き合いもしてないのに親に会うなんてーーー!
マシンガンから私の頭を冷やす打ち水と変わった雨は、激しさを増す。
「ひえー、雨やっば。道尾さ、俺がいなかったらずぶ濡れ確定だったな!今度ジュース奢れー!」
もう幸せすぎてずっと見てられるこの笑顔。
尊い。私がお金持ちなら自販機ごと買ってあげたい。
「ジュース奢れって星野の家お金持ちでしょー!親も送迎もしてくれるしさ!逆に奢ってよー!」
星野の家は“鏡うめ”という梅干しを作っている会社で、最近テレビで紹介されたことにより、全国的に有名になったらしい。
「そんな大したことないって。金持ちでもないし、うちは最低だからさー」
「最低…?なんで?星野の家すっごい大きいって穂乃果ちゃんも言ってたよ!羨ましい!」
「家が広くてもなんつーかな」
校門の前に高級車が停まった。
「あ、来たぽい。とりあえず車までは傘入れ!」
「ふぁ」
何これ。夢ですか?校舎から校門までの距離30メートルくらいかな、1キロくらい雨に打たれたいと思った。
私は計画通り、星野と相合傘と果たした。
“ふぁ”と情けない返事を星野に聞かれていないか不安になった。
「お願いしまーす」
「母さん、同じクラスの道尾舞子。傘忘れたぽいから送ってあげて」
「すいません、大丈夫ですか…?」
「ぜーんぜん!舞子ちゃんね!おうちどの辺かなー?」
星野のお母さんは優しい人だった。
私の家に着くまで、たわいもない世間話をしてくれた。
しかし私は気づいてしまった。星野が車に乗ってから一言も話をしてくれないこと。
雨に打たれたせいか、服が冷たく感じた。
「ここらへんで大丈夫です!ありがとうございました!星野ありがとう、また明日ね!」
やっと着いた…せめて最後は元気にしようと思った。
「おう!まだ雨やばいから傘貸しとく!じゃあな!」
いつも星野だった。安心した。
「ただいま〜」
玄関で傘を綺麗に拭き取り、自分の部屋まで運ぶ。
親に何にも詮索されたくない。
「まいこー?これパパが会社で貰ってきたんだってさー、ご飯の時にでも食べて!」
「そうなんだねー」
なんとなく喉が渇いていたので冷蔵庫から、ジュースを取り出す。
ふと梅干しを見た。
ー 鏡うめ ー
「え!」
思わず声に出してしまう。
「そう、パパが会社の後輩さんから貰ったんだって」
「へー」
とりあえず1つ食べてみる。
「…あっま」
さっきの雨の匂いが、まだ残っていた。
【無】
もう15時か。
私は雑に脱ぎ捨てられた、下着を拾う。
「もう帰るの?あ、もう帰らないとダメか」
「そうご飯の準備しなくちゃいけないからね。あと、さっき息子から連絡があって学校まで迎えに行かなきゃいけないのよ」
「うわー外すごい雨だ」
「そうなの、だから息子迎えに行くの」
「今度いつ会える?」
「また連絡する」
私は不倫をしていた。
きっかけは、うちの会社のCM撮影。
「どうも、今回は御社の“鏡うめ”をPRさせていただきます、佐々木と申します」
男は芸能のマネイジメントもやっていると言った。
高級ブランドのスーツを着て、腕にはロレックス。
初めのうちは夫も打ち合わせに参加していたが、全国飛び回る夫は2回目以降の打ち合わせには参加しなかった。
それからは早かった。
佐々木と私は個人的な連絡先をお互いに教え合い、3回目の打ち合わせ場所はラブホテルだった。
無事にCMを撮り終えた後も、逢瀬は続いた。何回会ったかも分からなくなって感覚が麻痺していた。
お互いに不倫と知りながらも、この状況に酔っている私たちの行動はどんどんエスカレートしていく。
車の中ではあるが白昼堂々とキスをする。
それが私たちの当たり前になっていた。
佐々木という人間に恋しているわけではない、きっと刺激が欲しかっただけだ。
世の中に溢れる“不倫”と自分がしている“刺激”は別物だと思っていた。
「じゃあまたね」
スーパーの駐車場で、別れ際にキスをした。
「うん、家事が落ち着いたら連絡して」
佐々木が乗った車は駐車場を出ていく。
「何してんの」
声が聞こえた瞬間に全身が冷え切った。
「周作!どうしたの、学校は?」
周作は返事をしない。
私は車での出来事を見られたと確信した。
どれくらい無言の時間が続いただろう。
私は思い切って切り出す。
「なんか買ってく?今からスーパー行こうと思って」
苦しい、もう見たと言ってほしい。
もう二度と佐々木に会わないと誓うから許してほしい。
周作は無言だった。
私は周作の表情を直視できない。
「周作もなんか欲しいのあるなら…」
「あのさ」
「ん…?なに?」
心臓が破裂しそうだった。
「知ってるから。俺も父さんも」
声が出なかった。
私は駐車場でうずくまり、大声で泣いた。
周作は、いなくなっていた。
気づけば、家の玄関の前に立っていた。
ドアを開けると、いつもの光景が広がっている。
「おかえり」
夫がいつもと同じように声をかけてくる。
「...周作は?」
声が震えてしまう。
「周作は彼女と出かけたよ…舞子ちゃんだっけ?名前忘れるとまた周作に怒られるな」
「へー、そうなんだ。ご飯の準備しちゃうね」
夫は私の不倫に気づいている。
いつから?なんで何も言ってこないの?
「あーそうだそうだ」
夫の声で身体がビクッとする。
「今度“鏡うめ”の新商品を出そうと思ってさ、試作品を冷蔵庫に入れておいたから食べてみて」
「うん、わかった」
私は今どんな顔をしているだろう。
冷蔵庫から梅を取り出す。
ー 正梅 ー
「…これなんて読むの?」
「あー“せいばい”だよ。どうかな?」
私は返事ができず、涙が出てきてしまった。
梅干しを食べてみた。
全く味がしなかった。
刺激とは
失ってから、それが刺激だったと気づいてしまうもの。
