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第12話(副業シリーズ3) 揺れる覚悟 - プロへの助走【創作大賞2025作品】

受話器を置いた池田浩二(いけだこうじ)の手は、わずかに震えていた。
佐々木の心からの感謝と期待が、まだ耳の奥で温かく響いている。
友人の役に立てる。
自分の培ってきた経験が、会社の外で初めて具体的な「価値」になるかもしれない。
高揚感が、静かに胸を満たしていた。
KIオフィスサポート、始動だ。

しかし、一人書斎の静寂に戻った途端、現実は容赦なく冷水を浴びせかけてきた。
「…本当に、俺にできるのか?」
口をついて出たのは、高揚感とは裏腹の、冷たい不安だった。
佐々木の会社のバックオフィス。
話を聞く限り、課題は山積みだ。
経理フローの再構築、請求業務の立て直し、煩雑な経費精算のルール化…。
会社であれば、各部署の専門家がいて、確立された手順があり、責任も分散される。
だが、今回は違う。
全てを、この「KIオフィスサポート」…つまり、池田浩二一人が背負うのだ。

「佐々木の期待に応えられなかったら?」
「本業に支障が出て、会社での評価に響いたら?」
「そもそも、報酬は? 友人相手に、いくら請求すればいいんだ?」
具体的な問いが、次から次へと頭をもたげる。
安定した組織の庇護の中で、決められた役割をこなすことに慣れきった身体が、未知の荒野を前に竦んでいる。
「一人で生き抜く」と覚悟を決めたはずなのに、いざその一歩を踏み出すとなると、足がすくむ。
せっかく固めたはずの覚悟は、現実の重さを前に、もろくも揺らぎ始めていた。

その夜、池田はなかなか寝付けなかった。
布団の中で目を閉じても、佐々木のオフィスの混乱した状況や、これから自分が負うであろう責任の重さばかりが頭をよぎる。
失敗した場合の最悪のシナリオが、勝手に再生されてしまう。
これまでの会社員人生で、これほどまでに「自分自身の判断と責任」が問われる場面があっただろうか。

深夜、たまらず書斎のPCを開いた。
震える指で検索窓に打ち込む。
「副業 友人 トラブル 事例」
「業務委託 報酬 相場 バックオフィス」
画面には、成功談以上に、友人関係の破綻、報酬の未払い、責任問題といった、生々しい失敗談や注意喚起があふれていた。
「やっぱり、軽率だったのではないか…」。
後悔に近い感情が、じわじわと心を蝕んでいく。
佐々木との打ち合わせの日が、刻一刻と近づいてくる。
プレッシャーだけが増していく、長い夜だった。

打ち合わせの前日、池田の不安はピークに達していた。
このままでは、佐々木の前で自信を持って話せる気がしない。
「…情けないとは思いつつ…」。
池田は、意を決して田栄人に連絡を取った。
Webミーティングの画面に映る田の穏やかな表情を見ると、少しだけ肩の力が抜ける。
「田さん、すみません、また相談に乗っていただけますでしょうか」
池田は、佐々木に「やる」と返事をしたこと、しかしその後、具体的なことを考えると不安ばかりが大きくなってしまったことを、正直に打ち明けた。
「報酬のこととか、どこまで責任を負うべきなのかとか、もし失敗したら友人関係も壊れてしまうんじゃないかとか…一度覚悟を決めたはずなのに、情けないのですが…」
言葉尻は、弱々しく震えていた。

画面の向こうで、田は静かに池田の話を聞いていた。
そして、穏やかに、しかし確かな口調で応えた。
「池田さん、決断した後に不安になるのは、むしろ真剣にその課題と向き合っている証拠ですよ。何も感じない方が、むしろ問題かもしれません。素晴らしいことだと思います」
その言葉に、池田は堰を切ったように溜まっていた不安を吐き出した。

田は、池田の言葉を一つ一つ受け止めながら、続けた。
「池田さんのお気持ち、よく分かります。特に、長く組織の中にいると、どうしても失敗を恐れたり、全てを自分で決めなければならない状況に戸惑ったりするのは、自然なことです。私もそうでしたから」
田が自身の経験を少しだけ匂わせたことで、池田は僅かに顔を上げた。
「大切なのは、その不安から逃げるのではなく、具体的な対策、つまり『プロとしての準備』を考えることです。不安の正体を見極め、一つずつ潰していく。それが、組織を離れて『一人で立つ』ということなのだと思いますよ」

田は少し間を置いて、自身の経験を語り始めた。
「参考にしていただけるのではないかと思い、少し私の経験をお話しさせていただきますね。私も最初の副業は、知人の会社のサポートでした。本業先で2020年4月から副業が解禁されると聞き、その3ヶ月前から準備を始めたんです。新しいことへの知的好奇心が強かったので、前向きではありましたが、やはり池田さんと同じように不安がなかったわけではありません」
「では、どうしたか? まず、具体的な行動を起こすことで、漠然とした不安を打ち消そうとしました。例えば、業務委託契約書のひな形をネットで徹底的に探して比較し、『自分が依頼主なら、こういう契約を結びたい』『自分が受託者なら、ここは譲れない』と、何度も書き直しました。自分の仕事の対価がどれくらいなのか、相場も必死で調べました。そうやって手を動かしているうちに、不思議と不安が少しずつ溶けていくのを感じましたよ」

「そして次に考えたのは、『自分は何のためにこの副業をするのか?』という、取り組むための基軸です。ただお金を稼ぐだけでは、きっと続かないと思ったからです」
田は少し遠くを見るような目をした。
「私が最初にお手伝いした会社は、非常に魅力的な技術やサービスを持っていたのですが、日々の業務に追われ、事業を拡大するためのリソースが足りていませんでした。そこで、『自分の経験を活かしてこの会社の成長をお手伝いし、その喜びを共に分かち合いたい』と考えたのです。それが、私にとっての副業の目的であり、モチベーションになりました。仕事をいただけるなら誰でも良い、というわけではなく、『共に喜びを分かち合えるか』という判断軸を持つこと。何か一つでも、そういう拠り所となる考え方が持てると、前に進む勇気に繋がります」

田は池田に視線を戻した。
「池田さんの場合は、どうでしょう? 咄嗟に出た言葉だったのかもしれませんが、既に『一人で生き抜く力』を養う、という素晴らしい考え方の軸がある。今はまだご自身のための言葉かもしれませんが、それを基軸にして、これからクライアントである佐々木さんにどう向き合い、どう貢献していくのか。ぜひ、経験を通じて考えてみてください」

「そして、報酬です」田は続けた。「これは非常に重要ですが、池田さんの場合、幸いこの収入がないと生活できない、という状況ではないはずです。だからこそ、柔軟に、しかし戦略的に考えることができます。報酬交渉というのは、単なる金額のやり取りではなく、相手の懐事情や期待値、本音を引き出すための重要なコミュニケーション、儀式のようなものだと私は考えています。ですから、一方的に金額を提示するのではなく、相手としっかり議論して、本音で話し合って決めることが大切です」
「そして、覚えておいてほしいのは、報酬は必ずしも金銭だけではない、ということです。例えば、もし相場より低い金額で合意することになったとしても、それで終わりではありません。その代わりに、『自分も副業の勉強中だから、業務の進め方や成果について、率直なフィードバックを定期的に欲しい』とか、『事業改善のパートナーとして、対等な立場で意見交換させてほしい』といった、池田さん自身の成長に繋がるような『非金銭的な対価』を交換条件として交渉するという考え方もあります。友人だから値引きした、という安易な発想ではなく、あくまでビジネスとして、対等な価値交換を目指す。全て、池田さんご自身の意志と責任で決断し、交渉する。そのプロセス自体が、覚悟を固め、『一人で生き抜く力』を養うことに繋がっていくはずです」

田との対話を終え、池田は大きく息をついた。
不安が完全に消え去ったわけではない。
友人との間にビジネスを持ち込むことへの若干のためらいも、まだ心のどこかにある。
だが、闇雲に恐れるのではなく、やるべきことが明確になった。
プロとして、誠実に、準備を尽くす。
それが、今の自分にできる最大限のことなのだ。

田の言葉が、頭の中で反芻される。
「行動が不安を溶かす…か。確かに、契約書について調べたり、報酬の根拠を考えたりしているうちに、さっきまでのパニックのような状態は少し収まってきたかもしれない」。
「そして、自分の軸…『一人で生き抜く力』。これを土台に、佐々木の会社の役に立つ、プロとして誠実に向き合う。そうだ、そこをぶらさずにいこう」。
「報酬も契約も、なあなあにしない。全部、俺が、佐々木としっかり話して決めるんだ。もし報酬で譲ることがあっても、代わりに俺の成長につながる何かを得られるように交渉してみよう…」。

やるべきことが見え、取るべきスタンスが定まったことで、池田の心に再び静かな闘志が灯り始めていた。
プロとして、準備をする。
池田はPCに向かい、まずは業務委託契約書のテンプレートを探し始めた。
佐々木との打ち合わせに向けて、具体的な「武器」と「交渉戦略」を練るために。
キーボードを叩く指先に、先ほどまでの迷いとは違う、確かな力がこもり始めていた。
この一歩が、未来にどう繋がっていくのか。
まだ見えない道のりへの、期待と覚悟を胸に。

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