黒沢清『カリスマ』~「世界の法則を回復せよ」とのメッセージは何を意味するのか?
黒沢清の映画を続けていろいろ見ている。この作品は、1999年公開当時に観た記憶はあるのだが、木をテーマにした難解な映画だったという漠然とした印象があるだけだった。改めて見てみると、確かにちょっと観念的すぎるところがあり、サスペンスホラーという衣を纏っていないだけに、やや考えすぎで、消化不良な感じがある。それでもそれぞれの映像の喚起力は強く、見応えがある。
「世界の法則を回復せよ」という殺人犯からのメッセージ。刑事である藪池(役所広司)は、犯人と人質の政治家の両方の命を生かそうとして、二人とも死なせてしまう。上司から「なぜ犯人を殺さなかったのか?」、「休暇を取れ」と言われ、森へとやってくる。森では、毒が地中にまわり、次々と木々が倒れていた。まるで、「世界の法則」が狂ってしまったかのように。その森の毒の原因と思われる「カリスマ」と呼ばれる細い木を巡って、争いが繰り広げられていた。
この森へとやってくる車の撮影は、やはりロケ撮影ではなく、スタジオの「スクリーン・プロセス」によるものだろう。フロントガラスやリアウィンドウに反射する木々の影は、それほど不自然さはないものの、リアルなものではない。合成でつけられた木々の影だろう。いつものように車は特別な異空間へと登場人物を運んでくる。バス停から落ちる時刻表の案内板は「カラン」と音を立てる。
この映画のほとんどの舞台となる「森」は、どこでもない架空の森である。抽象的な「森」。そこには、毒を放つカリスマという木が1本あり、その木によって森全体が枯れていく。「そのカリスマの木に引きつけられるように、若い木が次々と倒れていく」と植物学者である風吹ジュンは説明する。「生きる力と殺す力は同じこと」。「カリスマ」と「森全体」、両者を生かす方法を藪池は尋ねるが、「そんなものはない」と断言される。森の中の廃墟となった療養所で暮らす男(池内博之)が、そのカリスマの木を守っている。死んだ院長が海外から移植したという木。それを使命感を持って守っているのだ。服従と軍隊の必要性を彼は語る。一方、市の環境保全課の職員(大鷹明良)や植林作業員(大杉漣)は、植樹を繰り返しつつ、そのカリスマを伐採しようとしている。さらに軍隊のような集団もいて、武力でカリスマを制圧しようとしている。さらにカリスマを金で売ろうとする男(松重豊)も登場し、森は戦乱状態、ゲリラ戦のような様相を呈している。生態系を壊す「カリスマ」の存在が、「世界の法則」を狂わせているのだ。
藪池(役所広司)は、科学者の風吹ジュンから話を聞き、大杉漣の話も聞き、池内博之の話も聞く。どの立場にも属さない。風吹ジュンの妹の洞口依子は、得体の知れない謎の存在として藪池につきまとう。廃墟となった療養所には、院長の未亡人が病で臥せっているが、元気な姿で薮池と話をする幻想的な場面もある。森の光と影、水が流れ落ちる美しい場面だ。科学者の風吹ジュンの存在も謎めいている。妹の洞口依子によると、森全体に行き渡る水に姉は毒を混ぜていると教えられる。科学は本当に正しいのだろうか。
「生きる力と殺す力」、相矛盾する力が森の木々たちの間に起こり、人間たちの間にも起きている。後半の方で、カリスマの木が焼かれたあとに、もう一つの枯れた大木を新たに「カリスマ」と藪池が呼んで育てようとする。そうすると、また新たにその木をめぐる確執が起きる。薮池はその木を前に、「森にはそれぞれの木があるだけだ。あるがままでいい」と語る。しかし、森では人が次々と殺され、争いは続き、食べるものはなくなり、死んでいく。破壊された枯れた木の後に、小さな芽は生えていた。それを託された科学者の風吹ジュンはどうするのか。森では生命の循環は繰り返されている。人々は相矛盾する力、争いから自由になれるのか?上司に「これから帰る」と伝えた藪池の森の向こうに広がる街は燃えていた・・・という意味あり気な奇妙な終わり方。藪池は、「これからが始まりだ」と言うが、果たして新たな「カリスマ」となって毒をまき散らすのだろうか。森にそびえ立っていた巨大なアンテナ、そして燃える街へと向うヘリコプター。世界の終わりが始まっているのか。
生態系が壊れ、「世界の法則」が狂い出しているなかで、「生きる力と殺す力」の相矛盾する力は、争いとなって殺し合うだけなのか、それとも大いなる自然の循環の力で再生できるのか。黒沢清は『トウキョウソナタ』でも、ディストピア的な崩壊する世界を描いていた。世界と人間のあり方の混乱を抽象的に表現しようとすると、物語がややリアリティを失っていく。この映画の観念性は、誰もが生きているリアリティを失い、観念的存在になっているか、謎めきすぎているところにあると思う。
