地獄の果てまで追いかけたる。
何回同じことを言うねんと言われそうであるけれど、うちの末の娘は先天性の病気があって、それがまーまー重度で、それでも運よく7歳の今日まで治療のコマを進めて生き延びて、今は在宅酸素療法と言って、あのおばあちゃんとかが買い物でがらごろ引っ張って歩いてそうな小さなカートを引いて歩いている。
初見のひとには「あらっ?」と思われて、なんだか不思議そうな、ちょっと憐憫の視線を貰うこれも、既に7年この子を育てていれば、「まあいつものことなので」という日常の些事となり、次いで、時折近所で見かける気管切開をしている小さき人も、車椅子のお兄さんも、大学病院でよく出会う仰臥に近い姿勢でバギーに乗っている少年も、「人類みなお友達」とまでは言わないけれど、人間とはグラデーションであるのだよな、みんなそれぞれなのだよな、みんなで生きていこうな、と思うようになった。
私はたまたま身体機能の欠損というか疾患というか、そういうものが無かっただけの人間であって、うちの子はたまたまそれのある人間であるのだ、それが色々とままならない身体であるのは大変だけれど、そこに人としての別はないというか。だって末っ子は私が産んだ娘なのだし。
そうは思っていても、ままならいないことは、時々起こる。
先週の金曜日、いつものように14時過ぎに学校に末っ子を迎えに行き、登下校時だけの乗り物、電動車椅子に末っ子を乗せて、すべての荷物をわたしが執事の如くにすべて担ぎ、もしくは手に持ち自宅に向っていたのだけれど、十メートルほど後ろを歩いていた末っ子の同級生のグループが車椅子の背もたれ部分のグリップに引っかけた酸素ボンベを指さして、笑いながらこのように言った。
「○○(末っ子、即ちわたしの苗字)さんって、酸素ないと息できへんのやろー?」
「○○って、酸素取れたら死ぬんちゃーう?」
先に結論を言うと、末っ子は別に酸素がなくても死んだりはしない。早晩には。
末っ子の酸素飽和度は、現状出来得る限りの治療を終えてなお、90%を越えられないまま推移して現在大体88%であるので、普通の人間がこの状態なら息苦しくてしょうがないという状態のところが、ネパールの山岳地帯に暮らす人々が酸素のごく薄い土地に慣れていてそれが日常であるように、末っ子は産まれてこの方ずっと低酸素状態で生きているので、たとえ医療用酸素を装着しなくとも、普通に歩いたり遊んだりすることはできる、走ると息が上がるし泳ぐこともあまりお勧めできないけれど、医療用酸素が無いからと言って陸に上がった魚のようにもがいて絶命する、というようなことは起こらない。
かと言って、それでは大変不便な酸素を捨てて、これからは医療デバイスの無い、一見健常そうな人間として生きてゆきましょうとなると、今度は中長期的に、心不全であるとか肝不全であるとか腎臓がどうとか、あと大腸か、そういうものが壊れていくよというのが、医師の見解であるので、末っ子は渋々この不自由を受け入れ、それをしても「予後不良」という、あんまり嬉しくない状態を、粛々と受け入れているのです。
で、前述の同級生達の言葉。
大前提として子どもとは無邪気であり、大変かいらしいものであり、それらはとても邪悪である。これらはすべて同時に成立する。
そうであると仮定して、つまり彼らは、クラスの中で一人だけ医療デバイスを使っていて、保護者同伴で学校に来ていて、ついでに算数と国語を特別支援学級で勉強しているうちの末っ子を、自分達よりやや弱く、一段下にある存在として、聞こえよがしに揶揄ったのだ。
大人なら思っていてもなかなか口に出さない様々なことを、子どもというのは時に留保なく躊躇なく忖度もせずストレートに言葉にしてくれる。
この時、あからさまに「健康」とは遠い見た目をしている末っ子に軽々しく「死」を口にした子どもらを、私は注意するなり叱責するなり、するべきだったのかもしれない。
けれどそれを注意するとなると、「うちの子は健康なあなたより、ずっと死に近い場所にあるのだよ、病気を通じて知り合ったお友達には今年が新盆であった子もあるし、うちの子と同じ病態もしくは術式を使ってその後を生きるひとびとは、今のところ健康な人間の半分かそれ以下が平均寿命であるるのだよ、故にそういうことは、冗談でも絶対に口にしないでほしい」という話をしなければならず、それは同時にうちの末っ子の個人情報なのだよな。
ということで、「き、気にせんとき」とやり過ごして自宅に帰った。末っ子はすこし哀しそうで、わたしは自宅に辿り着いてから末っ子にせっせとピノ(アイス)を与えたものだった。
でももし次、うちの子に同じこと言うたら、今度は地獄の果てまで追いかけたるからな。
さて、この出来事を踏まえて、年々不思議だなあと思うのは「なぜ傍目に分かりやすく障害のある人は、いちいち軽んじられるのか」ということ。
出生時、何らかの理由で身体や臓器のどこかがないような状態で生まれて来る人があり、歩くことが困難であるから車椅子で移動する人があり、呼吸自体が困難であるということで、酸素濃縮器よりさらに大きく操作の難解な、人工呼吸器を使うひとがあり、視覚や聴覚に不自由があってそれを補助する道具や機械を使う人などがある。
彼らは総じて「障害者」と呼ばれるけれど、その人々の多くが、一般社会の構造やシステムやインフラでは、生活や生存が担保されないという点で弱い立場に置かれがちであるのはまま自明のことで、大変最悪なことに時にヘイトの対象になり、社会性のまだ未熟である子どもには、からかいの対象になる。
家族として彼等と暮らしていると「まーまー不便ではあるし、しょっちゅう病院に行くのは面倒であるし、親の自分は就労もままならんし、将来のことは時に睡眠の妨げになる程心配であるがしかし、この人は自分の愛する子であり家族である」として、不便は感じても取り立てて不幸だとかは思わなくなるものだけれど、やはり機能的に何かしら補助の必要な人間というのは、人間を広義の野生の生物とした時、いずれ淘汰されるものとして、もしくは排除されるものとして、捉えられてしまうものなのかしらん。
しかしそれとは逆に、現代の人間とは高度に社会化された生き物であるので、財源や経済成長が無ければ障害者や特定の人々の権利、この場合人権か、そういうものが制限されるのはしょうがない、という言説はネットの界隈ではよく見るけれど、それって統計的に正しいのですかとも思ったりするのですよ。現代はそんなに障害のある人が生きていく隙間と余裕のない世の中なのですか、配分の問題ではなくて?
結局これは、世の中が閉塞し、偏り、市井の我々にはあまり明るい未来が見えない、一見なんだか余裕がない、もう今日を生きているだけで精一杯なのよという時代になって、障害のある人以前に健康で健常な、所謂「普通の人」の多くが生きにくい世の中になった、ということなのかなとは思うのですが、どうかしらん。
この手の漠然とした不安が募ると、そして世間に跋扈すると、ヘイトというものはより一層、明確な形を成して現れてゆく。それはより過酷な状況に置かれた人々に対して、もしくは一見脆弱に見える人々に対して。だって自分よりも弱いものがあり、自分より生きるに値しない(と勝手に思われてしまう)ものがあると、自分は排除されない、生きていて良い側の人間であるとしてひとまず安心できるから。
しかしね、そんなに生きることに意味があるのか、それに分かりやすく意味を持たせなければならんのか、人間は何ごとかを成し得ないといけないのか、社会に対して有用でなければならんのかと聞かれると、それはあんまりないんじゃないのかなとはわたしは思うのです。というか生きること自体にはあまり意味はなくて、むしろ無意味であって、そういうものの無意味性に耐えるのが人生であるよというか。
思えば現在中学2年生の娘の小学校の卒業式の時、卒業証書を授与されるために体育館のステージに登壇した子どもらが、一人一人「将来はこういう人になりたいです」という宣言をして降壇していたのだけれど、その子どもらの多くが「将来は社会の役に立つ人になりたい」というようなことを言っていた。
私は、スーツやら袴やらの晴れ姿で高らかに「将来は社会において有用な人間になる」と宣言する子ども達を少しだけ怖いなと思い、そんなに今から思いつめんでもええんやでと思い、自分の娘が「えーっと、中学ではとりあえず勉強を頑張りまする」というようなことを小声の早口で言ってそそくさと降壇したのを見て、少し安堵していた。
あの時、私は自分が安堵した理由を、あまり深く考えなかったけれど(むしろ娘の、ふんわり結い上げた髪に挿した桜の髪飾りばかり気にしていたような)、多分そういうことなのだと思う。
ともかく、人間が社会において有用か否か、生きる意味があるかどうか、そこにある誰かが自分より上か下か、そこに線引きをしてはいけないし、そもそもそんなこと誰にもできないのだよ。それでは誰も幸せにならないし、あなたの不安も焦燥もそれでは消えて無くならない。
ほんでももし次、うちの子に同じこと言うたら、今度はホンマに地獄の果てまで追いかけたるからな。
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