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問いを失った組織——辺野古転覆事故と、権威・同調圧力・「凡庸な悪」

辺野古沖の船舶転覆事故をめぐる第三者委員会の報告書を読んでいると、どうしても一つの問いに行き着く。

なぜ、誰も止められなかったのか。

報告書は、事故に至るまでの判断や事実をかなり具体的に記している。

下見をしなかった。
船の安全性を十分に確認しなかった。
海上活動の危険性を示す情報があった。
生徒から不安の声も出ていた。
下見をした方がよいのではないかという教員の問いもあった。
それでも、その問いは意思決定を変えなかった。

つまり、違和感が全くなかったわけではない。

違和感はあった。
問いもあった。
しかし、それが次々に消されていった。

ここに、この事故の怖さがあると思う。

「悪い人」がいたから起きた事故なのか

事故が起きると、私たちはつい「誰が悪かったのか」を探したくなる。

もちろん責任の所在は明らかにされなければならない。
最終的な意思決定をした人、実施を承認した人、安全確認を怠った人には、それぞれの責任がある。

ただ、この事故を一人の悪意だけで説明してしまうと、見落とすものがある。

多くの人は、おそらく自分が危険なことをしているつもりではなかった。

前年もやっていた。
先輩が大丈夫と言っていた。
長年続いていた。
牧師であり、平和活動に携わる人だった。
自分だけが異論を唱えるほどのことではないと思った。

そんな「普通の判断」が積み重なっていった。

そして、その先で、一人の17歳の命が失われた。

アーレントの「凡庸な悪」

ハンナ・アーレントは、ナチスの戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、「凡庸な悪」という言葉で知られる議論を残した。

そこで問題にされたのは、怪物のような悪人だけではない。

自分で考えることをやめ、制度や命令や役割に適応し続ける普通の人間が、大きな加害に加担し得ること。

もちろん、辺野古事故とホロコーストを同列に扱うつもりはない。

ただ、「悪意がなくても、思考停止は加害につながる」という構造には、考えさせられるものがある。

「自分は決めていない」
「前例通りにしただけ」
「上が大丈夫と言った」
「みんな問題ないと言っていた」

一つひとつは、組織の中ではありふれた言葉だ。

けれど、その言葉が重なると、誰も責任を引き受けない巨大な空白が生まれる。

「良品」として育った人ほど危ういのか

以前から僕は、日本の教育や企業社会には「人材生産ライン」のような発想が残っていると感じてきた。

正解を早く出す。
指示を正確にこなす。
空気を読む。
組織に適応する。
評価者の期待を外さない。

そういう人が「優秀」とされやすい。

もちろん、これらの能力自体が悪いわけではない。

問題は、それだけが評価され続けたときだ。

人材生産ラインのど真ん中で「良品」として育ってきた人ほど、

自分の内側に生まれた違和感より、外側の正解を優先する習慣

を身につけてしまうことがある。

「自分がおかしいと思うけど、先輩が言っているから」
「ちょっと危ない気もするけど、去年もやっているから」
「疑問はあるけれど、ここで言うほどのことではない」

こうして、誰かに黙らされる前に、自分で自分の問いを消してしまう。

これは、外から強制される同調圧力より、さらに強い。

権威と前例が、問いを消していく

今回の報告書で見えているのは、「誰も疑問を持たなかった組織」ではない。

むしろ、疑問を持った人はいた。

下見をした方がよいのではないかと尋ねた教員がいた。
生徒の感想には、小さな船への不安が書かれていた。
引率教員自身も一定の懸念を抱いていた。

しかし、そのたびに問いは弱められた。

「去年と同じだから」
「程度の問題だから」
「船長が大丈夫と言ったから」

つまり問われるべきは、

なぜ問いが生まれなかったのかではなく、誰が、どのように問いを無効化してきたのか。

ではないだろうか。

そこには、校長や先輩教員への権威意識、長年続いてきた前例への信頼、「平和活動」という善い物語への同調が重なっていた可能性がある。

個人の信頼や価値観から始まったものが、周囲の追認によって前例となり、やがて「この学校ではこれが当たり前」という組織的マインドへ変わっていった。

組織風土という言葉で終わらせない

第三者委員会の報告書は、「閉じた組織」「他人任せの連鎖」「意見を言いにくい雰囲気」といった要因を挙げている。

ただ、それだけでは改善には足りないと思う。

組織風土は自然現象ではない。

誰かの発言が強く扱われ、誰かの問いが軽く扱われる。
それが何度も繰り返されることで、風土になる。

だから本当に問うべきなのは、

誰の言葉には逆らいにくかったのか。
誰が事実上の決定権を握っていたのか。
誰が違和感を「大したことではない」と処理したのか。
異論を出した人は、その後どう扱われたのか。

そこまで掘らないと、「風通しをよくしましょう」「チェックリストを増やしましょう」で終わってしまう。

最終責任者は「空気」ではない

一方で、組織全体の問題だと言いすぎると、今度は責任が霧散する。

組織的マインドが形成されていたとしても、最終的な意思決定者は存在する。

重要な教育活動を実施するのか。
継続するのか。
危険があるなら中止するのか。

その責任を持つ立場がある。

だから、

「組織風土が悪かった」でもなく、
「校長一人が悪かった」でもない。

個人の価値観や判断が組織に広がり、それを周囲が追認し、最終責任者が承認し続けた。

その全体を見る必要がある。

教育とは、問いを消すことではない

僕は、この事故を考えながら、教育についても考える。

子どもには「自分で考えなさい」と言う。

では、大人はどうなのか。

権威が言ったことを疑えるか。
前例に「なぜ」と言えるか。
みんなが賛成しているときに、一人で違和感を口にできるか。

教育の目的が、正解に早くたどり着く人を育てることだけなら、この社会はまた同じことを繰り返す。

必要なのは、

正解とされているものに違和感を持つ力。
その違和感を言葉にする力。
権威に否定されても、問いを手放さない力。

なのだと思う。

悪意のある人間だけが、大きな悲劇を生むのではない。

善良で、優秀で、真面目な人たちが、自分で考えることをやめたときにも、悲劇は起こる。

辺野古沖の事故が突きつけているのは、そんな怖さではないだろうか。

私たちは、自分の違和感を、自分自身でなかったことにしていないだろうか。

その問いは、学校だけではなく、僕たち一人ひとりにも向けられている。


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