2028年大河ドラマ『ジョン万』主人公中浜万次郎の生涯
二〇二八年の大河ドラマ『ジョン万』の主人公は、「ジョン万次郎」こと中浜万次郎と決まった。
タフなイメージも似合う山崎賢人さんが演じる。
前作『逆賊の幕臣』主人公となる小栗忠順と同じ文政十年(一八二七年)生まれであり、没後二百一年目での大河ドラマ主人公となる。
文政十年生まれの二人
そんな彼であるが、小栗とは身分が大きく異なり、かつ対照的な人生を歩むこととなる。
三河以来の名門旗本嫡男である小栗忠順。
かたや万次郎は土佐国幡多郡中ノ浜(現在の土佐清水市)に生まれ、幼くして父を失った。
幼い頃から塾に通い、最高学府である昌平坂学問所に籍を置いた小栗。
一方で万次郎は家計のために働かねばならず、寺子屋に通うことすらろくにできない。読み書きを学ぶのはずっとあとになってからのことだ。
小栗が将軍お目見えを十七歳で果たす三年前のこと。
十四歳の万次郎は、漁師として沖に出て、そのまま南海の孤島に漂着してしまう。海鳥や魚を食べ、雨水で命をつなぐ万次郎たち。その前に、巨大な船が姿を見せた。
それはアメリカの捕鯨船であった。
他の日本人漁師たちが帰国を選ぶなか、幼い万次郎はアメリカで学びたいと訴える。その願いは聞き入れられた。
新天地アメリカで、彼は持ち前の才知を見抜かれ、大きく花開いた。英語のみならず、航海術や測量術を身につけてゆく。
それだけではない。身分にとらわらず、彼を受け入れるアメリカ。そのデモクラシーが彼の心を惹きつけたのである。
そうして十年以上が過ぎたものの、やはり故郷の土佐は忘れ難かった。望郷の念とともに帰国した祖国は、動乱の渦に巻きこまれる前夜であった。
幕末に帰国した万次郎は、日本でどんな活躍をしたのだろうか?
万次郎の姿がNHKのドラマで描かれたのは初めてのことではない。
二〇二三年年上半期放送のNHK連続テレビ小説『らんまん』にも登場した。しかし、明治という新しい時代で、理想とはかけ離れた社会に失望した姿が、劇中では描かれていたのである。
なぜ、そう描かれたのか。大河ドラマではどんな人生を辿るのか。
彼の生涯を辿ってみよう。
無人島に流れ着いた土佐の漁師たち
幕末はいつから始まるのか?
黒船来航の嘉永六年(一八五三年)がもっとも一般的な答えだろう。しかし、天保年間こそが引き返せぬ地点であるという見方もある。この天保年間こそ、幕末期に活躍する人物が多く輩出された時代でもあった。
文政年間生まれの小栗忠順と万次郎は、それよりやや上の世代だ。天保年間に少年期を過ごした世代となる。
その天保十二年(一八四一年)一月――土佐の漁師五名が遭難した。彼らは太平洋にポツンと浮かぶ無人島・鳥島に流れ着いてしまう。現在の東京からおよそ六百キロ離れた絶海の孤島であった。
無人島に辿り着いた五人は、漂着から百四十三日間、絶望的な生活を送ることとなる。雨水をすすり、アホウドリや魚を食べ、どうにかして命をつなぎとめていたのだ。
苦しい日々を送る彼らの前に、見たこともないような巨大な船があらわれる。アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号であった。
船長のホイットフィールドは彼らを救出後、ハワイのホノルルで下船させることにした。日本には接近するだけで打ち払われてしまうため、やむを得ぬ措置である。
一行のなか、最年少の万次郎だけが、このとき訴えてきた。船に残りたい、と。
ホイットフィールドは熱意と可能性を感じたのか。ジョン・マン(John Mung)という英語名を与え、祖国に連れ帰ることにしたのであった。
ホイットフィールドは、実に寛大な人物である。人種差別も厳しい時代に、異国の少年を教え導くこととしたのだ。
かくして、土佐生まれの少年万次郎は、ジョン・マンとしてアメリカに渡るのである。大河ドラマのタイトルとなった『ジョン万』は、アメリカでの名乗りということになる。日本では「中浜万次郎」となるのだが、井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』以来「ジョン万次郎」が定着している。
日本からアメリカに来た少年、ジョン・マン
ホイットフィールドは万次郎を連れ帰ると、教育を受けさせることにした。漁師の息子として生まれ、寺子屋にすら通えなかった万次郎。しかし、ホイットフィールドはその聡明さを見抜いていたのかもしれない。
かくして万次郎は、マサチューセッツ州フェアヘイヴンにあるバートレット・アカデミーに通い始める。そしてその成績は、クラスでも最優秀の部類に入った。人格的にも彼は優れていた。授業態度は内気で物静か。常に温厚で、礼儀正しい少年であった。
言葉というハンディキャップがあるにも関わらず、万次郎の飲み込みは早い。二年半の在学において英語はむろんのこと、測量術、航海術、数学、造船術等を習得したのである。この最先端技術がのちに大いに役立つこととなる。
この学問の選択肢も、生きていくうえで 必要な知識である。技術は捕鯨船員に求められる知識であったのだ。
それだけではない。万次郎は自由とデモクラシーにも感銘を受けていた。故郷では身分がどうしてもつきまとう。土佐の貧しい漁師が出世する道などはなからなかった。しかし、アメリカではそうではない。知識を得ることができたのだ。
捕鯨船から見た世界と日本
技術を習得した万次郎は、一等航海士として捕鯨船に乗船することとなる。この船の上では、授業とは異なる生きた知識と現実を直面させられることになる。
捕鯨には地図が欠かせない。初めて世界地図を見た時、万次郎は気が遠くなった。あまりに広い世界。その世界の隅にある小さな島が日本ーー想像していたよりも、ずっと小さな姿がそこにはあった。
さらに、祖国の頑なな姿勢を聞かされ、万次郎は愕然とする。
「日本は、外国の船が接近しただけで、攻撃してくるんだ。日本に漂着した者は牢獄に入れられて罪人扱いされてしまう! そんな酷いことが続けられると思うか?」
こんなやりとりを通して、万次郎は江戸中期以来、先進的な者たちが論争を繰り広げていた問題に開眼させられたことであろう。偶然が積み重なり、土佐生まれの漁師は、当時の日本で得られる知識をはるかに上回るものを吸収してしまったのだ。
異国船とみなすと、問答無用とばかりに打ち払う幕府。しかしその船には、万次郎のように救助された日本人が乗せられていることもあった。親切心を見せている相手に、恩で仇を返す真似は、あまりに仁義に背くのではないか?ーーそう議論の的となっていたのである。幕府はそうした論争をむやみに抑え込んでいたわけだが、それにも限界はある。
ましてやアメリカ船の親切心ゆえに、九死に一生を得た万次郎だ。幕府の政策は行き詰まると確信したことであろう。
実際のところ、当時のアメリカは、幕府の態度に痺れを切らしていた。
十九世紀、世界が日本に望んだこと
黒船来航は日本史上において重要な出来事でありながら、誤解が多い。
この捕鯨船対応への不満をみていくと、幕末における西洋列強の狙いが見えてくる。
しばしば日本は植民地化されなかったことが特別だと言われる。しかし、そもそもが西洋列強が日本を植民地化するつもりであったのか、慎重に考えた方がよい。
また国ごとに日本へ求めた要素も異なってくる。
近世においては、アジアの方がヨーロッパよりもはるかに豊かであった。西洋諸国はこの東洋の豊かな富に目をつけていたのである。十八世紀、清は世界GDPの三割を占めていたという。圧倒的な経済力が東洋にはあった。
清の豊富な資源を得ることができれば、どれほどの利益があるだろうか。清との交易をする際の寄港地として、日本は目をつけられていた。長い航海の途中、寄港できればよいにもかかわらず、日本は外国船と見るや否や攻撃してくる。これが厄介なのであった。
西洋列強のうち、真っ先に南下してきたロシアがこの目的を持つ国家の典型である。
江戸期を通して日本と交易関係にあったオランダは、この構図を熟知している。限界に達する前、さらなる開国が必須であるとみなしていた。田沼意次の時代以来、オランダは幾度となく開国を持ちかけてきたのだ。
アメリカは安全な捕鯨を求める
アメリカの場合、捕鯨が大いに関係がある。
石油発見前、最も重要なエネルギー源は鯨油であった。この鯨油を確保することは、新興国アメリカ発展にとっては欠かせないものである。この捕鯨船が日本で座礁すると、船員が犯罪者扱いをされてしまう。
このことをアメリカ側は問題視していた。ペリーに先んじてビドルを派遣するも、穏健な態度のせいか幕府は交渉に応じていない。
他にもアメリカが日本に求めていたものとして、茶葉があげられる。
十九世紀後半、世界の支配圏を握る国といえばイギリスである。アヘン戦争以来、清での交易もイギリスが主導権を握っていた。イギリスはアヘンを売りつけて清を混乱させるなか、ぬかりなくスパイ活動を行い、ひそかにチャノキを確保し、植民地のインドでの茶の栽培を始めていた。
当時世界規模で求められる茶葉は、イギリスが優先的に確保している。アメリカとしては、この目をかいくぐって茶葉を手に入れられたい。そうして目をつけた相手国が日本であった。
日本は変貌する世界情勢のなかに巻き込まれていた。幕府としても外交問題を認識していたにもかかわらず、先延ばしを繰り返した結果、追い詰められてしまったのである。
「どうにかなろう。それが徳川を滅ぼしたのだ」
これは二〇二七年大河ドラマ主人公である小栗忠順の述懐だ。まさしくこの通りであった。小栗は幕僚としての知識と経験を通しそう理解した。万次郎は、アメリカの視点に立つことでこのことを身にしみて理解したことであろう。
帰国ーー琉球、そして薩摩へ
少年から青年になる十年以上を、アメリカと捕鯨船上で過ごした万次郎。
生活には馴染んだ。
ホイットフィールドはじめとする人々の親切は身に染みていた。しかし、望郷の念は思い浮かんでくる。母や弟妹はどうしているのだろうか。
折しもカリフォルニア州では、ゴールドラッシュが始まっていた頃である。
万次郎は捕鯨船を下り、砂金を採掘して旅費を貯めることにした。
捕鯨と金の採掘は、当時のアメリカでは金を手っ取り早く確保するうえで主要な産業といえた。
そうはいっても、海禁政策をとる日本へ帰国するとなれば、ただでは済まされないであろうことは万次郎にも理解できていた。
それでも彼は覚悟を決めて、ホノルルへ向かう。そこで再会した他の漁師仲間とともに、ホエールボート「アドベンチャー号」を購入。捕鯨の際、鯨に接近して銛を撃ち込むための小型船だ。この船とともに上海行きの船に乗りこむ万次郎であった。
一行は海禁政策をとる日本ではなく、琉球国の摩文仁に上陸した。嘉永四年(一八五一年)のことであった。漂流時は少年であった万次郎も、今やたくましい青年となっていた。
当時の琉球国は、幕府の目を盗む薩摩藩により支配されている。万次郎のことはすぐさま薩摩藩主・島津斉彬の耳に入った。
「蘭癖」と呼ばれる西洋の学問技術愛好者である島津斉彬。幕末屈指の賢侯に拾われたなんて幸福だ。そう思いたくもなるかもしれないが、当時の島津の殿様がホイットフィールドほど博愛精神に満ちてはいないこと。また幕府に睨まれたくもないことは、念頭に入れておくべきであろう。
ともあれ、斉彬にとって万次郎はまさに歓迎すべき人物であったことは確かである。
一行は手厚い歓待を受け、アメリカで手にした知識を教えるよう依頼された。
十九世紀初頭のフェートン号事件以来、日本においては英語圏の知識を求める動きは出ている。また薩摩藩はしばしば捕鯨船を目撃する地理的な位置にもあった。
かくして四十七日間にわたり、万次郎は身につけた知識を薩摩藩に伝えたのである。
その後、万次郎は薩摩藩によって長崎奉行へ送られてしまう。薩摩藩としては知識は当然のことながら欲してはいるものの、だからといって密入国者を匿って幕府に目をつけられるようなリスクを犯すわけにはいかない。
万次郎はそこで踏み絵を行った。キリシタンでないかどうか調べられてから、九ヶ月間入牢する羽目になったのである。
そして万次郎は、出身地である土佐藩による尋問を受けることとなる。
万次郎の尋問により、『漂巽紀畧』が世に出る
久々に踏む、祖国の地――。
しかし、懐かしい人々との再会はまだできない。そこで彼を待っていたのは、取り調べであった。土佐藩としても、アメリカ帰りの万次郎を、そうすんなりと受け入れられるはずもないのだ。
白洲の上に引き立てられた万次郎を前に、尋問する側は困惑させられてしまう。
なにせ、彼は英語と薩摩訛りの言葉しか話せない。日本語では読み書きもできない。これではまともな尋問すらできないではないか。
その訴えを受け、藩主の山内容堂の懐刀たる大目付・吉田東洋が、策を練ることとなる。吉田の推薦により、土佐随一、西洋事情に通じた画家である河田小龍が、尋問にあたることとなった。
しかし、河田もすぐに困惑させられることとなる。
河田が習得していたのは、あくまでオランダ語だ。それに対し、万次郎は英語話者である。当然のことながら、意思疎通はできない。
尋問の前に、乗り越えるべきことがいくつもある。そう判断した河田は、自宅に万次郎を連れ帰り、起居をともにすることにした。
河田が日本の学問を教え、万次郎がアメリカの言葉と世界情勢を伝える。
ホイットフィールドも見抜いた才知あふれる万次郎は、河田から知識を吸収していった。河田も万次郎から知識を学んでゆく。
河田は万次郎が伝えるその内容に驚愕した。そして挿絵つき『漂巽紀畧』五巻を記す。この書物は土佐藩を超えて幕閣や他藩でも話題となった。
武士となった万次郎、若者を教え導く
万次郎は長い尋問を経て、罪を問われるどころか、大抜擢を受ける。「定小者(さだこもの)」という最下級の士分に取り立てられ、高知城下にある「教授館」にて、万次郎は英語や海外事情を教えることとなったのだ。
思えば文政十年(一八二七年)、中浜村に万次郎が生まれたとき、彼は貧しい漁師の二男に過ぎなかった。
幼い頃に父を失い、母ときょうだいを養うために苦労してきたものであった。
それがアメリカで勉学に励み、ゴールドラッシュも体験し、さらには士分にまで取り立てられたのである。ドラマの主役にふさわしい人生であろう。
土佐の若者たちは、万次郎の話を熱心に聞いた。
万次郎が描いた世界地図を見て、かつての彼と同じように、日本のあまりの小ささに目を丸くする土佐の青少年たちであった。
その中にひときわ熱心な少年がいた。まだ十四歳、奇しくも万次郎が捕鯨船に救われた時と同い年であった後藤象二郎である。幼くして両親を失った彼は、叔父である吉田東洋に育てられていた。
後藤は万次郎の教え子の中でも一際熱心であった。万次郎は彼に才知を見出したのか、万国地図を渡したのである。
この後藤象二郎の幼少期からの大親友には、板垣退助もいる。のちに自由民権運動を主導する板垣が、後藤経由で万次郎からデモクラシーの種を受け取っていてもおかしくはない。
のちに後藤の腹心となる、岩崎弥太郎もこの中にいた。これからは交易が重要になると、彼も大いに刺激を受けたことであろう。
しかし、万次郎はこのあと、土佐を離れることとなる。
直参旗本・中浜万次郎
嘉永六年(一八五三年)、ペリーの黒船が来航した。今度はビドルの時のようにはいかない。
実は、幕府はオランダからの風説書により、一年前には黒船来航情報は得ていた。しかし、黙殺するような態度をとるしかない。幕府は無知ではない。むしろ、幕府は西洋事情にどの藩よりも詳しい。彼らはもはや何をしても間に合わないという諦念ゆえの現実逃避をしてしまったのかもしれない。
そんな中、幕閣の中では黒船来航対策を練るものもいた。阿部正弘である。
大河ドラマ『西郷どん』といった薩摩目線の作品では、島津斉彬のみが黒船来航を予見していたかのように描かれる。これは彼自身が自ら進んで情報を得たというわけではなく、阿部正弘から伝えられていたのである。そうはいってもそのために取った策は、海沿いにある藩邸を内陸部に移転させるというものではあった。
それ以外の大名にせよ、情報得てももう対応できかねるとしか言いようがない。
そんな黒船来航は、土佐にいる万次郎の運命をまたも変えることにある。
万次郎は阿部正弘により江戸にまで呼び出された。阿部は『漂巽紀畧』を知っていたのである。喉から手が出るほど欲しい、英語や航海術に詳しい人材であると、万次郎に注目していたのだ。阿部の政治方針は「言路洞開」(げんろとうかい)、立場や身分に関係なく、能力知識あるものを取り立てることであった。これにより取り立てられた人物には勝海舟がいるが、万次郎もその一人であった。
かくして直参に取り立てられ、「中浜」の姓を与えられたのである。
長いこと幕府の通辞(通訳)は、オランダ語と中国語ができればよいものであった。それがアメリカ来航以降は英語が求められるようになったのだ。
横浜を訪れた福沢諭吉が、オランダ語が全く通じず、英語を学ぶべく発奮した逸話はよく知られている。幕臣への英語教育は喫緊の課題だ。
江川英龍のもと、万次郎は英語塾を開く。このもとでは榎本武揚や大鳥圭介が学ぶこととなる。
「軍艦教授所」教授職も得た。
心労と激務がたたったのか。万次郎を抜擢した阿部は、黒船来航の翌年、急死してしまう。それでも条約締結と開国の流れが止まるわけもない。
かくして、万次郎は再びアメリカに上陸する機会を得ることとなる。
万延元年遣米使節団
万延元年(一八六〇年)ーー万次郎は、条約締結のために派遣された遣米使節団の一員として、咸臨丸に乗り込んだ。
咸臨丸はあくまで随伴船であり、正使・副使・目付(観察)以下はポーハタン号に乗り込んでいる。
『逆賊の幕臣』の主役である小栗忠順は、第三位の目付として、こちらに乗り込んでいる。つまり二年連続、ポーハタン号、咸臨丸に大河ドラマ主役は乗り込むことになるのだ。
咸臨丸には万次郎、勝海舟、福沢諭吉ら、総勢百七名が乗り込んでいた。
勝海舟ら日本人が船酔いに苦しむなか、船に慣れた万次郎は、アメリカ海軍のブルック大尉の指揮のもと、航海のために大いに尽力する。
艦長の木村義毅が絶賛し、ブルックも驚いたのは笠間藩士・小野友五郎であった。彼はのちに将軍家茂にお目見得を許されている。
フィクションとなると、咸臨丸ではやけに勝が目立つのだが、その認識は改める必要があるだろう。
勝は持ち前のビッグマウスで喧伝したからそうなっているともいえる。勝は船酔いで船室に篭りきりであり、横柄な態度であり、全く役に立っていなかった。福沢諭吉が勝を嫌うようになったのは、この航海が大きなきっかけとなっている。
大河ドラマで二年連続描かれるこの船旅は、前半の大きな見どころとなり、従来のイメージを刷新することだろう。
この遣米使節団は、アメリカで国賓として大歓迎を受けた。そもそもがアメリカは、日本に対して良好な態度で挑もうとしている。だからこそビドルは穏健な態度で、二度目のペリーでやっと砲艦外交を展開したのかもしれない。
アメリカ側は、自らの穏健かつ友好的な態度のアピールに余念はない。なにせ来日したハリスは「イギリスよりも我が国と先に交渉を始めたあなたたちは運が良い」とスピーチしたほどである。
これがただのリップサービスかといえば、さにあらず。確かにイギリスとアメリカを比較すると、関税はじめとする交易条件は、アメリカの方がよかった。前述のように、アメリカとしてもイギリスが優位である東洋との交易に風穴を開けたかったのだ。
そんな明るいムードのなか、アメリカの民衆も、異国から訪れたサムライに熱狂した。
一行の中でもまだ若い立石斧次郎は「トミー」の愛称とともに女性たちへと人気が大爆発し、『トミー・ポルカ』という曲まで作られたほどである。
ただし、この大歓迎を受けた使節団は、あくまでポーハタン号に乗り組んだものだけを指す。咸臨丸組は使節団としての政治交渉は行なってはいない。
万次郎は正式な使節としてではないものの、重要な出会いを果たすこととなる。ハワイで恩人であるデーマン牧師が彼を歓迎したのである。
孤島で救われた少年が、祖国に戻り、こうして立派な人物となってやってくる。二人にとって感無量の再会であった。
デーマンはこのことを、万次郎を助けたホイットフィールドに手紙で伝えた。
ジョン・マンは、これからきっと、この二つの国を強く結びつけてくれる。彼はそのために貢献するだろう――そう彼らは願ったことであろう。
これほど歓迎したのだから、さぞやアメリカと日本の関係はよくなるはずだ。アメリカ側はそう確信していた。
日本にとっても、アメリカという選択肢は歓迎すべきものであった。幕府は優秀な榎本武揚らを選抜し、アメリカに留学させる計画を立てていた。軍艦はじめとする武器売買契約もあった。
それが思わぬ事態により、頓挫してしまうこととなる。
ポストアメリカ時代の日本外交
この使節団来訪の翌年、アメリカでは南北戦争が勃発してしまう。日本との外交は停止してしまうのである。
榎本武揚らの留学も、アメリカ側が断り、オランダへと変更となった。
武器の売買契約も幕府は取り付けていたものの、これも宙に浮くこととなる。この中には、のちの箱館戦争において勝敗を決するストーンウォール級軍艦もあった。
このせいか、万次郎も、軍艦教授所免職となる。もしもアメリカとの関係が続いていたら、万次郎や榎本武揚は、ストーンウォール級軍艦の上に立っていたかもしれない。しかし、そうはならなかったのである。
アメリカとのやむを得ぬ外交の途絶ーーこれはあまりに幕府にとって手痛い想定外であった。
当時の世界は、イギリスとロシアの二カ国が覇権を争っていた。チェスにたとえてこの争いは「グレート・ゲーム」と呼ばれる。思えば日本は、この二国間の争いに幕末のはるか前から巻き込まれていたともいえる。
海禁政策をとった江戸時代、西洋の大国として初めて日本に開港を迫ってきたのがロシアである。大河ドラマ『べらぼう』でもこのことが描かれていた。あのドラマで描かれたように、田沼意次と松平定信の失脚により、対ロシア交渉は暗礁に乗り上げ途絶している。後任者も再開できなかった。
イギリスはフェートン号事件により、幕府に衝撃を与えていた。フェートン号事件とアヘン戦争の経過を見た幕府は、イギリスはおそるべき国であると警戒を強めるのである。
遣米施設団目付の任務を務め、帰国した小栗忠順はこの状況に直面するする。対馬藩にロシア艦・ポサドニック号が上陸し、強硬な態度をとってきたのだ。ロシア相手に小栗が苦しい交渉を展開したあと、江戸に戻った中、意外な展開が起きる。イギリスがこの事態に介入し、ロシア軍艦を退去させたのである。このポサドニック号事件は、幕府がグレート・ゲームの盤上に乗せられたことを示すものであった。前門の狼がロシアならば、後門の虎がイギリスだ。そう痛感させられたのである。
そして、このタイミングでのアメリカとの外交途絶である。この先、どの国と、どう交渉すべきか、幕府は苦しい選択を迫られる。どこかの西洋国と歩調を合わせて近代化せねばならないせによ、これが実に悩ましいのである。
古くから付き合いがあるとはいえ、オランダは小さすぎる。
アメリカは南北戦争が勃発してしまった。
ロシアとイギリスは危険で問題外。
そんななか、小栗の盟友といえる栗本鋤雲が思わぬ提案する。左遷されていた蝦夷地でフランス人宣教師カションと交流し、新たな選択肢を掴んだのだ。
フランスである。当時のフランスは養蚕業が伝染病により壊滅的な打撃を受けていた。アメリカ同様、フランスも東洋での交易においてイギリスに遅れをとっていた。そんなフランスに、幕府は優先的な絹貿易を提示する。かくして幕府はフランスと接近することとなる。この様子は『逆賊の幕臣』で描かれることとなる。小栗忠順と栗本鋤雲がバディとしてタッグを組み、関東近郊を急速に近代化を推進する姿が見所となるであろう。
幕閣中枢のエリートでフランスに近い小栗忠順と、漁民出身でアメリカに近い中浜万次郎と、二年連続異なる目線で幕末を見ることとなる。
フランスと手を組む幕府にとって、優先する言語は英語からフランス語となる。英語を習得した幕臣・中浜万次郎はどうすべきなのか。
彼は土佐出身である。その人脈が彼に歴史の中での役割を与えることとなる。
幕末土佐藩の紆余曲折
幕末の土佐藩といえば、押しも押されぬ大スターである坂本龍馬がいる。万次郎を語る上でも「あの坂本龍馬にも影響を与えた」は定番の言葉だろう。
江戸の剣術修行から戻ったあと、龍馬は『漂巽紀畧』に大いに感銘を受けた。海外情勢を目にした彼がどれほどの衝撃を受けたことだろう。
ただし、ここからスンナリと開明的な方向へ進めないのが、龍馬と土佐藩である。
ここで龍馬の生涯を改めて思い出していただきたい。
彼が主役となるフィクションでは、山内容堂と吉田東洋はどういう扱いだろうか。
万次郎が土佐にいたころ、その影響を受け、直接学べた層は、土佐藩でも吉田東洋周辺の「上士」であった。
一方で、龍馬はもとをたどれば商家の出である「郷士」にすぎない。いくら先進的な思想を持っていても、どうしても身分はつきまとうのがこの時代である。
龍馬は出身身分が近い、武市半平太が率いる「土佐勤王党」加盟する。かれらの掲げる尊皇攘夷思想は、この時代を支配するものでもあった。この土佐勤王党は、坂本龍馬とも距離が近いため、土佐藩の幕末を描くとなるとなかなか複雑な存在として描かれるものである。
フィクションの影響のせいか、そこで暗殺を担っていた岡田以蔵も近年は人気が高まっているほどだ。
武市半平太からすれば、吉田東洋は夷狄に媚びを売る俗物となっても無理はない。
容堂の絶対的な信頼を得るためには、吉田東洋を排除せねばならない。かくして吉田東洋は、土佐勤王党の凶刃に斃れた。 この流れは土佐藩の歩みからすれば暴力による不本意な停滞にほかならないのだが、どういうわけか否定的な評価をそこまでされるわけでもない。
武市半平太が坂本龍馬のみならず、維新志士と交流があったこと。非業の死を遂げたための同情も影響しているのかもしれない。
ただ、そうした見方も古びてきてはいるし、土佐藩の政治スタンスを辿る上ではむしろ障害となりえる。
吉田東洋の死は文久二年(一八六二年)であり、このころには万次郎は土佐から離れていた。なお、坂本龍馬もこれより前に勤王党とは袂を分かっている。坂本龍馬は勤王党と袂を分かったあと、薩摩藩の意向を受けて活動しているため、このことも土佐藩の動向をかえってわかりにくくしているので注意が必要だ。
吉田の死後、容堂は怒りを噛み殺し、勤王党の政治への容喙にしばらくは耐えていた。しかしそれも終わりが来る。容堂の主導により、勤王党は投獄処刑され、土佐藩は開明路線に戻る。
こののち、幕臣としてではなく、土佐出身者のよしみからか、万次郎はそんな彼らと行動を共にすることとなる。万次郎は後藤象二郎と親しい。叔父の仇討ちと、容堂への忠誠から、土佐勤王党弾圧に関わった後藤。彼の口から、事件の回想が語られていたかもしれない。
『ジョン万』は、このあたりをどう描くのか。
坂本龍馬視点ではない、新たな土佐藩の像が見られることが期待できる。
坂本龍馬役が誰か。その扱いはどうなのか? ここで、この作品が期待できるかどうか、ある程度予測できるとみる。
もしも万次郎自身の人生や、土佐藩の動向そのものを重視するのであれば、龍馬を追いかけることにはそこまで尺を割かないだろうと願いたい。そうするとすれば、それは従来の龍馬キャラクター人気か、あるいは製作者やファンの思い入れに頼るということで、不安を覚えてしまうのだ。
坂本龍馬は土佐出身ではあるのだが、薩摩藩上層部の意向ありきで動いている。そういう立場の人物を大きく取り上げすぎると、歴史の見方が歪んでしまう。幕末土佐藩の動きを知るのであれば、吉田東洋の甥である後藤象二郎あたりを重視すべきではないかと私は考えている。
坂本龍馬重視か? 後藤象二郎重視か? この二人の扱いに注目したい。
アメリカから日本に武器が到達する
南北戦争の見逃せぬ影響として、終結に伴う武器の余剰があげられる。
もしもこの戦争がなければ、前述したように、正規ルートで契約していた幕府の手に渡るはずであった。しかし、戦争の結果大量に余った武器は、国家管理から離れ、市場に漂うこととなる。
この武器を内戦が起きそうな国に売りつければ、儲かるのではないかーーそんな死の商人の発想が、日本の運命を変えることとなった。
大河ドラマ『八重の桜』の第一回冒頭では、南北戦争の場面が描かていた。あれには深い意味がある。八重が装備していたスペンサー銃こそ、南北戦争で威力が証明された新兵器であった。のちにこの新兵器が薩摩や長州へと流れていく様が、劇中で描かれていた。
『八重の桜』のこうした描写は画期的ではあったものの、限界はある。目線が会津目線ということもあり、何もしない幕府と、動いた薩摩と長州という対比に見えたものだ。
実はこの描き方には問題があった。会津目線の作品なのに、幕臣にとっては不公平な描写であるし、実はいわゆる「薩長史観」の影響も受けているのがあの作品であるともいえる。幕府は何もしていないどころか、小栗と栗本が中心となり、フランス式による最新鋭の軍事改革を進めていた。
大人気の新選組もの作品にせよ、鳥羽・伏見の戦いのあと、彼らが「もう槍や刀で戦う時代じゃない!」と嘆く場面がお約束である。実際のところ新選組も洋式調練は導入済みで、だからこそ屯所で豚を飼育し、京雀からさらに嫌われているのである。この敗北には装備の差よりも、徳川慶喜の対応に相当問題があったことは念頭におきたい。総大将があそこまで怯懦では勝てる戦いなぞない。
戊辰戦争時、東西両軍の装備の差は、そう単純には割り切れない。
東軍でありながら、最新鋭装備で西軍に大勝利をおさめた庄内藩のような例もある。勝った側についたにもかかわらず、秋田藩や松前藩は壊滅的な打撃を受けていることを忘れてはならないだろう。
なぜ、日本でこうも最新鋭武器が市場に流れていたのか? 「死の商人」がバーゲンセールとばかりに売りつけたことも大きい。みなさん大好き坂本龍馬にせよ、最近評価が高まった「五代様」こと五代友厚にせよ、そんな「 死の商人」という側面があることは留意すべきではなかろうか。
話を万次郎と、武器流通交渉の段階まで話を戻そう。
幕臣たちがフランス経由で武器を調達する一方、英語ができる万次郎に目をつけるものたちもでてくる。
その英語力を活かし、薩摩藩、そして故郷である土佐藩からも協力を求められたのである。
慶応二年(一八六六年)、後藤象二郎とともに、万次郎は長崎と上海へ向かう。江戸、鹿児島と、万次郎は往来する。その傍らには後藤象二郎のみならず、坂本龍馬や岩崎弥太郎がいた。
豊かな彼の知識は、誰にとっても喉から手が出るほど欲しいものだ。万次郎に政治的な野心はなくとも、手放せるわけがない。しかし、この英語力という武器が、歴史において皮肉な作用を果たすこととなる。
二年連続、幕臣を主役としたの大河ドラマでありながら、異なる目線から歴史を眺めることとなる。ここでその対比をみてみよう。
幕閣で外交を担当していた小栗と栗本は、イギリスの危険性は当然把握している。しかし一方で薩摩藩は生麦事件を起こし、横浜への英仏軍駐留の口実を与えてしまう。激怒したヴィクトリア女王の意を受け、イギリスは江戸攻撃計画まで練るも、横浜からほど近い江戸攻撃は得策ではない。結果的に、イギリスの攻撃の手は薩摩に回り、薩英戦争が勃発した。
我こそは攘夷の魁と自認する長州藩過激派は、下関から外国船へめがけて攻撃を仕掛け、反撃されて大敗を喫した。下関戦争である。
薩長は暴虎馮河を繰り返し、相手につけ込まれかねない事件を次から次へと起こしていく。
この尻拭いに奔走させられたのが幕僚たちである。相手から突きつけられる欲求が厳しくなるなか、彼らは苦しい交渉を迫られていた。
イギリスは関税に対する姿勢も厳しい。自国を優先させ、日本経済に悪影響を及びしかねない条件を提示してくる。小栗ら幕僚はそれを退けるために、対抗策を練らねばならない。福沢諭吉がふりかえったように、小栗忠順の生涯は鞠躬尽瘁そのものであった。
一方で、英語話者である万次郎はどうか。
薩摩藩は、生麦事件を契機とした薩英戦争に巻き込まれる。長州藩は、列強の反撃による下関戦争に完敗。孝明天皇の怒りにより、長州征討にまで追い詰められている。
こうした中で、イギリスは薩摩と長州に目をつけた。薩摩の島津久光は、京都情勢を取り仕切る一橋慶喜に対し、拭がたい不信感と不満があった。
長州は孝明天皇から朝敵とみなされ、四面楚歌である。
溺れるものは藁をも掴むという。そんな長州藩に救いの手を差し伸べれば、ともかく掴んでくる。このことにイギリスは気づいた。イギリス人が高杉晋作を魔王のように恐れたという類の話は、諸葛亮が赤壁で東南の風を呼んだような後付けに過ぎない。
かれらからすれば、フランスと幕府は扱いにくい。フランスが絹貿易を優先的に進めていることも気に入らない。小栗ら幕僚の対抗策も鬱陶しいことこのうえない。
幕府がイギリスの介入を警戒しつつ、フランスと手を組んで近代化を急速に進めることも懸念材料であった。日本が近代化してしまっては、阿片戦争以来続いてきた、イギリスが先頭に立って東洋から利益を得るというシナリオは成立しなくなるかもしれない。
ここはフランスと手を携えている幕府を潰し、イギリスの言うことを聞き入れる傀儡政権を打ち立ててはどうか?
そう考えたイギリスにとって、薩長の若き志士たちは御し易い相手である。老成した幕臣よりもずっと聞き分けがよいのだ
万次郎はそのことにどこまで気づいていたのか。万次郎は薩摩藩と土佐藩が武器を購入する際、通訳として立ち会っていた。
その武器が倒幕戦線において使われかねないことを、彼はどこまで把握していたのであろうか。
慶応三年(一八六七年)十二月、万次郎は急遽江戸に戻る。
そのとき、幕府の命運は風前の灯火であった。
幕臣たちの明治の世
明治の世が始まるなか、幕臣たちはそれぞれの運命と向き合うこととなった。
小栗忠順は極めて不幸な結末を迎える。冤罪で捕縛され、妊娠した妻を会津に逃したあと、処刑された。
かつて万次郎から英語を習った榎本武揚は、江戸城から脱出し、幕府海軍を率い、箱館戦争まで転戦する。
咸臨丸に万次郎とともに乗り込んでいた小野友五郎は、ストーンウォール級軍艦買い付け契約を進めていた。この軍艦は幕府海軍に加わるはずであったのだが、その前に戊辰戦争が勃発。外交交渉により明治政府の手に加わる。そのストーンウォール級軍艦が、榎本率いる幕府海軍のとどめを刺した。
榎本は捕縛され獄中で過ごしたあと、その才を惜しむ黒田清隆の懇願により、政府に出仕することとなる。
栗本鋤雲は隠棲し、弍臣(二人の主君に出仕すること)となることを拒んだ。
彼のように幕府にも明治政府にも絶望し、民間で生きると決めた者も少なくなかった。
この点、三河以来の名門武士の出でもなく、例外的な出世を遂げた万次郎はそこまで迷う余地はなかったかもしれない。あるいはそんなことよりも、新しい世に尽くしたい気持ちが強かったのか。
明治二年(一八六九年年)、明治政府により創設された開成学校(現・東京大学)に、万次郎は英語教授に就任。幕臣としての誇りゆえに私立慶應義塾を開いた福沢諭吉と対照的である。
ホイットフィールドとの苦い再会
明治三年(一八七〇年)、万次郎は普仏戦争視察団の一員として、薩摩閥陸軍人である大山巌らと共に欧州へ向かう。
旅程はアメリカ経由である。万次郎はここで念願のホイットフィールドとの再会を果たす。
しかし、この再会は喜ばしいだけのものではなかった。自らの原点を恩人との再会で考え直すこととなったのだろう。
今回の旅の目的は、プロイセンとフランスの戦争視察である。この戦いはプロイセンの大勝利に終わり、ナポレオン三世の第二帝政崩壊をもたらすこととなる。
かつて幕府と手を結び、最後の将軍である徳川慶喜に軍服を贈ったナポレオン三世。幕末の日本は初代以来のナポレオンへの憧れがあったものだが、それも終わりを告げることとなる。幕府が採用していたフランス式の軍隊制度刷新の契機となったのだ。
もしも万次郎が野心家ならば、そんな情報をいち早く活かしたかもしれない。
しかし、彼の胸に去来するのは、そんなことではなかったのだろう。
かつてホイットフィールドと誓いあった願いは何であったのか。
日本にデモクラシーをもたらすことではなかったか?
そしてもうひとつ、民衆に多大な損失を残す戦争は避けねばならなかったはずだ。万次郎の才知で、それを避けるよう祖国を導くことができるだろう。そう希望が託されていたはずではなかったか。
しかし、運命は残酷な形で裏切る。
幕府とアメリカを引き離し、万次郎の人生を阻んだのは南北戦争であった。
このとき余った武器に目をつけたのがイギリスである。イギリスは最新鋭の武器を倒幕勢力に売り付けた。慶喜の大政奉還により、政権移譲を果たしていたのだから、本来そこで話は終わったはずなのだ。
しかし、最新鋭武器がある薩長はこれを使いたい。完膚無きまで敵を叩き潰し、危険性を排除したい。
孝明天皇の怒りをかい、朝敵とされた長州藩はその汚名を払拭したい思いも渦巻いていた。
長州にその汚名を着せた憎き会津藩をそうできれば、よいに決まっている。
イギリス商人のグラバーは、「我こそがアンチ徳川」と語っていたものだ。武器で儲けるのであれば、内戦はまさしくビジネスチャンスに他ならない。
彼らの意見が一致したからこそ、江戸から奥羽を経て、函館まで、日本は戦火に包まれたのである。
万次郎は、討幕を狙う勢力の英語通訳をこなしてもいる。
戦争を阻止するどころは、加担したと言われても仕方ないともいえる。そして今、こうして明治政府のもと、戦争の視察に向かっているのである。
歴史の中に消えた「革命家」
万次郎は旅の途中、ロンドンで足に腫瘍ができたことを理由に、一行と別れ帰国することを選んだ。
そして日本に戻った万次郎は、歴史から消えてしまう。命は続いていたものの、表舞台でその姿を見ることはなくなったのである。
幕末に重宝された英語ができる人材も、留学生が帰国する時代となると、その希少性は薄れてゆく。
薩長閥からは優先的に人材がイギリスやアメリカに送り込まれ、帰国後、出世を遂げてゆくことになる。
たとえ自ら身を引かずとも、土佐の漁民出身の元幕臣である万次郎が、そこから弾き出されるのも時間の問題であったかもしれない。
そうしてできてゆく新たな世に、デモクラシーは根付いたのだろうか?
確かに身分制度はなくなった。しかし、それにかわった藩閥政治は、のちに万次郎の故郷である土佐藩すら政治から弾き飛ばしてしまう。そんななかで、板垣退助はデモクラシーを掲げ、自由民権運動を展開することとなる。
明治の世は自由になるどころか、残酷な格差を生み出しつつあった。かつて万次郎に影響を受けた岩崎弥太郎は西南戦争で抜け目なく利益を得、巨万の富を築き上げるも、あくまで商人としての成功である。
坂本龍馬は、そんな明治の世を見ることなく世を去っていた。
明治十七年(一八八四年)、デーマン牧師が来日を果たした。彼は万次郎を探すものの、誰もその消息を知らない。
亡くなったのではないか。そう語られるほど、忘れ去られていた。死亡は誤報であり、やっとデーマンと再会を果たした彼は、幸福な家庭人として生きてはいた。
しかし、デーマンは訝しむ。
日本が開国後、ここまでくるにあたり、彼は随分と力を尽くしたではないか! しかし、彼に財産はなく、子の扶養を頼りにして暮らしている。日本政府は彼に恩給すら支給していない。これほどの人物だ。重く扱い、国家として名誉を回復するべきではないだろうか。そう困惑を記したのである。
それほどまでに、デーマンからみた万次郎の処遇は不可解なものであった。
明治二十一年(一八八八年)、六十一歳の万次郎は小笠原方面で捕鯨を行った。
その十年後の明治三十一年(一八九八年)、彼は脳溢血にて世を去る。享年七十二。その晩年は、革命の夢破れた革命家のような、侘しいものであったという。
大河ドラマは二年連続、同じ時代、同じ年齢の主人公を扱うこととなる。そしてどちらも悲しい終焉を迎えることとなるだろう。
『逆賊の幕臣』は、明治を見る前に命を落とす小栗忠順の無惨な最期が描かれる。
では、明治をみた万次郎は幸せであったのかどうか。
むしろ「革命」の挫折と、暗い未来の予感を見てしまうのではないか。そんな予感もする。
万次郎は若い頃、アメリカで夢見たデモクラシーが根付くことを見ることはなかった。
しかし、戦争がもたらす未来の足音は聞いていたからこそ、戦争視察の旅程から姿を消したのかもしれない。
そんな万次郎の人生からは、炭鉱のカナリアのような切なさを感じずにはいられないのである。
反省など
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