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他の楽しいことを奪われ、ようやく本を読む

本を読みたいのに読めない。

こう書くと、いかにも知的な悩みみたいで聞こえはいい。積読に囲まれ、コーヒーを片手に「最近、なかなか本と向き合えなくてね」などと呟けば文化人っぽい。

問題は、さっきまでTikTokを見てニヤニヤしていたことである。しかも途中でnoteの通知を確認し、自分の記事への反応を見に行き、ついでにYahoo!ニュースのスポーツ欄を開いてる。これでは読書がしたいのか、電波の海で漂流したいのか、もはや本人すらわからない。

長い間、本が読めないのは意志が弱いからだと思っていた。集中力がない、根性がない、活字への愛が足りない。そういう昭和っぽい反省で自分を雑に殴っていた。しかし、最近になって、これは意志の問題ではなく、環境の問題ではないかと考えるようになった。

たとえば「刑務所」。

ドラマや映画に出てくる囚人は、やたら本を読んでいる。分厚い法律書を読んでいたり、聖書を開いていたり、哲学書みたいなものに線を引いていたりする。外ではワルだったはずの男が、檻の中で「人間とは何か」みたいな顔をしている。

あれは反省の力なのか。
いや、違う。暇だから本を読んでるだけである。

読書とは高尚な趣味である前に、暇つぶしのひとつでしかない。スマホやテレビもなく、犬の寝顔も見れず、冷蔵庫にプリンが入ってない状態で目の前に本があれば、人は読む。しかも読み始めると「自分は本と向き合っている」と思い始め、少しずつ読書家の顔になっていく。

そう考えると、私は本が読めないのではなく、刑が軽すぎるのではないか。

スマホを開けば、おすすめ動画が差し入れを持ってくる。SNSが面会に来て、noteが「ちょっと」と耳打ちする。知らない誰かの人生から、犬が白目をむいて寝ている写真まで、あれも見たい、これも見たい、もっと知りたい、もっともっと欲しい。

スマホの奥に人類全体の暇つぶしが詰まっている。そのたびに私は模範囚の顔を崩し、スマホを握ってしまう。読書は仕事に負けているのではなく、ほかの「好き」に取り囲まれ、路地裏で覗きをしてしまうようなものである。敵は仕事ではなかった。ライバルは全部、自分の好きなものだった。

だから私は、本を読むために家を出る。

特に電車は、よくできた簡易刑務所である。都会のahamoは電波が弱い。座席に座り、カバンから本を出す。隣には知らない人がいて、立ち上がるほどの用事もない。すると私は読書家の顔をする。たとえただの移送中であっても、窓に映る自分を見て「活字とともに生きる男」みたいな気分にも浸れる。

本を読みたいのに読めないのは、怠けではなかった。外界に面会希望者が多すぎなだけである。スマホを別室に置けば済む話なのに、誘惑の満漢全席みたいな部屋では無理だ。ソファに座り、ページを開いた瞬間、膝に乗ってくる犬の温かさの前で、世界文学は弱い。ドストエフスキーもトイプードルには勝てなかった。

ついでに、自分の落ち着きのなさも締め出さなければいけないから電車に乗る。他の楽しいを奪われ、ようやく自分の好きなものへ向かえるとは、なかなか面倒である。

いつか本当に試してみたい。スマホもテレビもプリンもなく、一冊の本が置かれた刑務所のような部屋に入れもらう実験を。私はきっと読む。読書感想文まで書くかもしれん。もっとも、その部屋に犬が差し入れられたら、読書家からただの囚人に戻るだろう。

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