見出し画像

自分を置き去りにして追う善は、善なのか

「善は急げ」という言葉がある。

機会を逃すな、ためらうな、動け。
その勢いの良さに、私は何度も背中を押されてきた。

でも最近、ふと立ち止まってしまう。

自分を置き去りにして追う善は、果たして善と言えるのだろうか。


速い善の列に並ぶということ

世の中には、いくつもの“善の列”がある。

行動力がある人。
フットワークが軽い人。
迷わず前に出る人。
上を目指し続ける人。

そういう人たちは、たいてい評価される。
結果が見えやすく、周囲も納得しやすい。

だから、そこに並びたくなる。

疲れていても。
体調が万全じゃなくても。
どこか違和感があっても。

「ここで止まったら、遅れる」
「ここで降りたら、価値が下がる」


そんな声が、内側から聞こえてくる。


善が“成果”に変わる瞬間


誰かの役に立ちたい。
期待に応えたい。
良いことをしたい。

最初は、たしかに“人”に向いていたはずの気持ちが、
いつの間にか、“達成”や“評価”のほうへ向き始めることがある。

今日はしんどいけど、やるべきだから動く
本当は迷っているけど、正しい側に立ちたいから発言する
身体がついてこないけど、期待を裏切りたくないから引き受ける

そのとき、善はまだ善だろうか。
それとも、自分を削るための理由に変わってしまっているのだろうか。


自分に許した扱い方は、他人にも向く

私は、ここが一番怖いところだと思っている。

自分の疲れを無視できるようになると、
誰かの疲れにも「まだいけるよ」と言えてしまう。

自分の違和感を黙らせられるようになると、
誰かの違和感も「気にしすぎ」と流せてしまう。


最初は、善のため。
でも気づかないうちに、
善の基準が“人”から“成果”へとすり替わっていく。



遅い善という選択

一方で、こんな善もある。

今日は、休む。
今は、引き受けない。
まだ、言葉にしない。

それは、外から見ると“止まっている”ように見える。
行動力がないように見える。
もしかしたら、逃げているように見えるかもしれない。

でも、その内側では、
自分を連れて進むという選択が起きている。

身体の声を聞く。
違和感を無視しない。
無理をしない自分を、善の輪の中から外さない。

自分はどの地面に立ちたいのか

同じ“善”という言葉でも、
立っている地面が違うと、景色が変わる。

速さで測られる善
深さで測られる善
成果で測られる善
関係で測られる善

どれが正しい、という話ではない。
ただ、自分はどの地面に立ちたいのかという問いが、そこにあるだけだ。




最近、私はこう思うようになった。

自分を消して成り立つ善は、
いつか誰かを消して続いていく。

自分を連れていく善だけが、
誰かと一緒に続いていく。



答えは、まだ出ていない。
出さなくてもいいのかもしれない。

ただ、この問いを灯りのように持って、
次に何かを引き受けるとき、
次に何かを断るとき、
照らしてみたいと思っている。



もしこの文章を読んで、
少しだけ立ち止まりたくなった人がいたら。

それもまた、
ひとつの“善”なのかもしれない。



いいなと思ったら応援しよう!