見出し画像

その「くん」付け、大丈夫?──「くん」呼びのルーツを探る: 松下村塾から現代まで (元教授、定年退職484日目)

現役時代、私は授業中には学生を「○○くん」や「△△さん」と呼んでいました。しかし、研究室内では一転して、学生たちの名前をほぼすべて呼び捨てにしていました。それは決して彼らを軽んじていたわけではなく、むしろ、研究という場では互いに対等な立場で真剣に議論したかったからです。まるで同級生同士のように意見を交わしたい──そんな思いがありました。実際、私自身が学生時代、研究上で信頼関係が築かれると、名前を呼び捨てにされるようになり、それが「認められた証」のように感じて嬉しかった記憶があります。呼び方には、その場の関係性や文化が色濃く反映されるのです。研究室によっては、学生が指導教員を「××さん」と呼ぶところもありましたが、これも同じ思想に基づく運用ですね。


海外との比較──ニックネームか Dr. か、それぞれのこだわり

一方、アメリカでの研究留学中に感じたのは、呼称に対するスタンスの違いでした。多くの場合、教員であっても下の名前やニックネームで学生と呼び合うのが普通で、本人が「こう呼んで」と自己申告する文化が定着しています。私も例に漏れずニックネームで通そうとしたところ、所属先のボスの教授から「君は大学の先生なのだから(私は教員の立場で留学)、“Dr. ○○” と呼ばせなさい」と釘を刺されました。彼はヨーロッパの出身の先生だったので、そのようなこだわりがあったようです。個人的にはもっとカジュアルな呼び方のほうが嬉しかったのですが、ボスには従うしかありませんでした。ただ実際は、私の名字は少し長めで発音しにくかったので、半分ぐらいの長さで呼ばれていました。


「チコちゃんに叱られる」で知る、「くん」呼びの起源

さて、今回のテーマのヒントになったのは、私のお気に入りの NHK 番組『チコちゃんに叱られる』。特集「『くん』付けの由来」を視聴して、あらためて考えさせられました。学校で教師が男子生徒を「○○くん」と呼ぶ場面と、国会で首相が議員に「△△君」と呼びかける場面。同じ言葉が、まったく異なる文脈で用いられているという事実は、偶然の産物ではありません。番組によれば、この「くん」呼びの由来は、幕末に吉田松陰が開いた松下村塾にルーツがあるとのことでした。(タイトル写真、下写真もどうぞ:注1)

『チコちゃんに叱られる』の特集「『くん』付けの由来」(注1)


言葉が映す文化の変遷:「君」の深い意味

「君」という言葉は、日本最古の文献である『古事記』や『万葉集』にも登場し、当初は天皇や主人を指す、極めて高貴な存在への敬称でした。平安時代には『源氏物語』などで、高貴な女性を指す「明石の君」や「大君」といった呼び名にも使われ、尊敬と親愛が込められた言葉でした。

江戸時代になると、士農工商の厳格な身分制度に呼応するように、敬称も身分の序列を明確に反映するものとなりました。「殿」「様」といった呼び方が、単なる丁寧さではなく、社会的階層を言語化する役割を果たしていたのです。


松下村塾の「くん」──対等な議論を生む呼称

そんな中、松下村塾では、身分や出自に関係なく意見を言い合える場を作ろうという吉田松陰の理念に基づき、生徒を「くん」付けで呼ぶスタイルが導入されました。塾生には、武士の高杉晋作、医家出身の久坂玄瑞、農家出身で下級武士の養子となった伊藤博文など、多様な背景を持つ若者が集まっていました。当初、目上の者に遠慮して発言を控えていた伊藤博文も、「くん」付けによって心理的な壁が取り払われ、堂々と意見を述べるようになったといいます。さらに、自分を「僕」、相手を「君(きみ)」と呼ぶことも、吉田松陰が松下村塾で定着させた言葉だとされています。(下写真もどうぞ)

吉田松陰が開いた松下村塾(注1)
様、殿から「君」へ(写真は役者さん)(注1)


明治以降の拡がり: 「くん」は親しみの言葉に

この呼び方は、明治時代後半には夏目漱石の『坊っちゃん』などにも登場し、書生たちの間で対等で親密な関係を示す言葉として定着しました。教科書にも取り入れられ、全国の学校で「男子は『くん』、女子は『さん』」という慣習が根づいていきました。(下写真もどうぞ)

上写真は夏目漱石の『坊っちゃん』から、右下は当時の小学校教科書(注1)


なぜ総理大臣は「君」付けで呼ばれるのか?

国会では明治 23 年から、議員を「君」付けで呼ぶ慣習が始まっています。これは、初代内閣総理大臣であり松下村塾出身の伊藤博文が、議会で発言者を「○○君」と呼んだことが起点とされています。約 135 年を経た今でも、内閣総理大臣を含む国会議員に「君」を用いるのは、尊敬と対等を両立させる吉田松陰の思想が受け継がれている証といえるでしょう。(下写真もどうぞ)

国会では明治23年から現代まで、議員を「君」付けで呼ぶ(注1)


現代における「くん」のゆくえ

近年、職場や教育現場では「くん」の使用に対する批判的な視点が強まっています。相手を見下しているように受け取られるリスクがあるからです。とくに学校では、これまで男子は「くん」、女子は「さん」と呼び分けられてきましたが、今では性別による敬称の区別をなくし、すべての児童・生徒を「さん」で統一する動きが広がっています。これは、ジェンダー平等の推進と、多様なアイデンティティを尊重する姿勢の表れです。


この先、「くん」は公的な場から徐々に姿を消していくかもしれません。その代わりに、より中立的で包括的な「さん」が主流となるような気がします。しかし一方で、信頼や親しみを表す呼び方として、「くん」は非公式な場で生き残るかも知れません。今後の移り変わりに、注目したいと思います。


ーーーー
注1:NHK「チコちゃんに叱られる」の特集「『くん』ってなに?」より

いいなと思ったら応援しよう!