満洲国を裏工作で支えた「フィクサー」がいた…アヘン王・里見甫
満州国 関東軍〈石原莞爾〉マッカーサー、怖れた唯一の日本人.05a
満洲国を裏工作で支えた「フィクサー」がいた…アヘン王・里見甫の「数奇な生涯」
アヘン密売組織を結成し、満洲帝国を支えた
2024.01.23 週刊現代講談社/
1.満洲事変、日中戦争、太平洋戦争と続いた昭和の戦乱下、満洲国を「裏工作」で支えたフィクサーがいた。「上海のアヘン王」と呼ばれた里見甫だ。
策謀渦巻く中国大陸で禁じられていたアヘン密売に手を染め、日本軍に資金を提供した。その収益は現在の紙幣価値で30兆円にも上るとされている。先の戦争における重要人物であるものの、里見が極端な秘密主義を貫いたこともあり、その「功罪」はあまり知られていない。謎に包まれた彼の生涯を紐解いていこう。
1896年に炭鉱医の子として生まれた里見は、福岡県・修猷館中学に通っていたときに来日中の革命家・孫文と交流した。この出会いをきっかけに、のちに「大東亜共栄圏」建設の大志を強く抱くようになる。
中学卒業後は上海にある東亜同文書院に留学し、中国語を習得。それから貿易会社を経て、在中邦人向けの新聞社に入る。この時期に蒋介石など中国要人や石原莞爾など関東軍の参謀の知遇を得た。
「里見は記者時代に取材活動で軍人や官吏、実業家のみならず裏社会の人間との繋がりを作っていました。彼の情報収集能力や人脈に目をつけたのが関東軍だったのです」
(ノンフィクション作家の斎藤充功氏)
2.満州事変での里見
1931年に満洲事変が勃発すると関東軍に対満政策を担当する部署が組織され、里見は嘱託として採用された。そこでプロパガンダ活動を目的とした「満洲国通信社」を設立したことを軍部から評価され、'37年に上海で「アヘン売買」を依頼されるようになる。
軍需国策会社「昭和通商」が中東などから密輸したアヘンは、里見が実権を握る商社「宏済善堂」を通じて中国の犯罪組織「青幇」に流れ、末端のアヘン窟で売り捌かれる。この流通ネットワークは「里見機関」と呼ばれる。アヘンで生み出された裏金は関東軍の戦費に充てられ、一部は傀儡政権の汪兆銘南京政府へと流れていった。裏社会とパイプがある里見でなくては、成り立たないビジネスだったことは間違いない。
「アヘンは中毒性が高く利益率が良い。密売の利益がなかったら、関東軍の謀略工作は規模を縮小せざるを得なかったと思います」(斎藤氏)
稼いだ資金は日本軍に渡っても余るほどの巨額だったが、カネに関心のない里見は自らの私利私欲のためには使わなかったという。
一方で、無類の女好きとして知られている。酒を飲めないのに、上海の日本人租界にあるナイトクラブに出入りして、大好物のハムエッグをつつきながら女の子を口説いていた。
様々な顔を持っていたアヘン王・里見。その存在は、敗戦を機に明るみに出る。
3.終戦後、着の身着のままで帰国した里見は京都や東京で潜伏生活を送っていた。だが、'46年3月に民間人初のA級戦犯として逮捕され、巣鴨プリズンに入所する。
国際検察局(IPS)から取り調べを受けるなかで、里見に連なる「上海人脈」が詳らかになった。笹川良一や児玉誉士夫、阪田誠盛など戦後を代表するフィクサーの名前を挙げたほか、岸信介や甘粕正彦といった大物とも深く関わっていたことも明かしている。
その後、東京裁判に出廷して証言を行った里見だが、不起訴となり無条件で釈放されている。
この理由について、前出の斎藤氏はこう推測する。
「里見を起訴して中国のアヘン事情を追及すれば、戦勝国の一員である国民党の蒋介石政権とアヘンの関係にまで、踏み込まざるを得ません。当時、国民党は毛沢東率いる中国共産党と内戦の真っ只中です。アメリカは国民党を支援していたため、追及を避けたように考えられます」
里見の宏済善堂から流れたアヘンは、当時日本と敵対していた国民党政権にも渡っていたのだ。彼のアヘン利権がどれほど巨大だったかが窺えるエピソードだ。
だが、波乱に満ちた戦時中とは打って代わって、戦後の里見は社会の片隅でひっそりと暮らすようになる。
4.戦後は静謐な生き方を選んだ
「終戦直後、父は自決することを考えていたようです。国家に対する奉仕を信条として、『大東亜共栄圏の建設』という大義のために命を張ったとはいえ、戦線拡大の一翼を担ったことに責任を感じていたのではないでしょうか」
こう振り返るのは、里見が63歳のときの子である長男の泰啓氏だ。里見は自らの行いは、いかなる弁解も許されないとして、身をつつしみ余生を過ごした。
「戦中に培った人脈を使って、戦後にまで暗躍することを毛嫌いしていました。児玉誉士夫さんや笹川良一さんのことを『俺はみっともなくて、あんな風にはなれないよ』とこぼしていたそうです」(泰啓氏)
解放後は専門商社を構え、アジア諸国とODA(政府開発援助)に関わるビジネスに精を出した。たびたび訪中し、中国要人とは繋がりを持ち続けていたという。私生活では、神楽坂の小さな一軒家に住み、泰啓氏の幼稚園の送り迎えを欠かさず行うなど息子を溺愛し続ける日々を送っていた。
「自宅には笹川さんをはじめ多くの財界人が相談に来ていました。かといって派手な暮らしをしていた訳ではありません。金銭に執着がなかったので、里見家の生活は質素でした」(泰啓氏)
'65年、家族と団欒中に心臓麻痺に襲われ里見は亡くなる。中国からは周恩来や蒋介石から弔電が届いた。
千葉にある墓の墓碑銘は岸信介が揮毫したものだ。加えて、碑の撰文には以下のように書かれている。
〈凡俗に堕ちて凡俗を超え
名利を追って名利を絶つ
流れに従って波を掲げ
其の逝く処を知らず〉
上海のアヘン王は、まさに撰文通りの生涯を送った。
戦後75年・蘇る満洲国(5)溥儀が信じた偽りの復辟
【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて 船尾 修 2020.9.1(火)
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清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が再び帝位に返り咲くためには、強大な軍事力を持つ関東軍を抜きにしては考えられなかった。
彼はあくまでも「皇帝」としての地位にこだわったがゆえ、関東軍を通じて日本と接近し、その夢を果たすことはできたが、それは彼が夢想した皇帝の実際とはかけ離れたものだった。しかし1935年(昭和10年)の国賓としての訪日は、溥儀の人生においておそらく最も有頂天な日々だったはずだ。このとき天皇陛下は自ら東京駅のホームまで足を運んで溥儀を出迎えている。過去にも現在にも天皇陛下は来賓をそのような形で迎えたことはない。(文+写真:船尾 修/写真家)
1931年9月18日に満洲事変が起きて以降、清朝第12代皇帝であった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の周辺は急にあわただしくなった。清朝が滅びてしばらくは北京の紫禁城で幽閉状態に置かれていた溥儀だが、そのころには日本の保護を受けながら天津の日本租界内にある静園で暮らしていた。当時6歳だった少年はすでに25歳となっていた。廃帝とはいえ、清朝という300年間続いた正当な王朝の末裔である。満洲の地の領土化を企む日本にとっても、支配を確固としたものにしたい国民政府にとっても、溥儀は政治的な利用価値が高かったはずだ。日本が天津で匿う溥儀に対して、国民政府は優待条件(つまり金銭的な援助)をたびたび申し出ていたが、溥儀の関心はただひとつ、清朝を復辟できるのかどうかにあった。
蒋介石の国民政府は共和制を採用していたので、溥儀のこの願いはかなえられるはずがない。おそらく溥儀の胸中には同じ帝政をとっている日本に近づいたほうが復辟の可能性は高いと踏んでいたのではないだろうか。
「帝国ならば、行きましょう」
満蒙領有から新政権樹立の方針へと舵を切った関東軍は、溥儀に新国家においてなんらかの役割を担わせようと企図し始めていた。満洲事変以降の関東軍の出兵に対して、国際社会からの批判の声が日増しに大きくなっていたからである。満洲人である溥儀を担ぎ出して表に出せば日本色を薄める効果が期待でき、そのような非難の声をかわすことができると考えていたのだろう。
関東軍の奉天特務機関長だった土肥原賢二大佐が溥儀の天津脱出を工作することになった。特務機関というのは簡単に言うとスパイ活動や謀略、宣撫活動を計画・実行する組織である。土肥原は陸軍大学校を卒業と同時に北京や天津の特務機関に長年勤務しており、中国語も堪能でこうした重要な任務にうってつけだったといわれている。
溥儀が戦後の1964年に著した「我的前半生」という自伝があり、邦訳も出ている(邦訳名は『わが半生』)。もちろん表現の自由が完全に保障されていない中国共産党政権下での出版物なのでその点を差し引いて読まなければならないが、土肥原が静園の溥儀を訪ねて満洲へ脱出するよう説得するくだりがあるので引用する。
<私は気にかかっていたもう一つの重要問題について聞いてみた。
「その新国家はどのような国家になるのですか」
「さきほども申し上げましたように、独立自主の国で、宣統帝(注:溥儀のこと)がすべてを決定する国家であります」
「私が聞いたのはそのことではない。私が知りたいのは、その国家が共和制か、それとも帝政、帝国であるかどうかということです」
「そういう問題は瀋陽(奉天)へ行かれれば、解決しましょう」
いや」 私はあくまで固執した。「復辟ならば行きますが、そうでないなら私は行きません」
彼は微笑したが、言葉の調子は変えずに言った。
「もちろん帝国です。それは問題ありません」
「帝国ならば、行きましょう」 私は満足の意を示した。>
最終的に溥儀が関東軍の提案に乗ることを決めたのは、清朝の復辟を土肥原が約束したためであることがわかる。以下割愛
