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アイネクライネナハトムジークはeine kleine Nachtmusik、だった

いま、ブックオフで買った伊坂幸太郎さんの『アイネクライネナハトムジーク』を読んでいる。

「そういえば、小夜曲ってなかったっけ?モーツァルトの」僕はいう。「あの、超有名な」「アイネ・クライネ・ナハトムジーク?」織田由美が言う。
 ドイツ語で、「ある、小さな、夜の曲」だから、小夜曲とはそのまんまじゃないか、と僕は子供のからに思ったものだが、まあ、そのまんま翻訳しないでいったいどうするのだ、と言われればそりゃそうに違いなかった。

伊坂幸太郎『アイネクライネナハトムジーク』幻冬舎文庫, 2014, p.34.

22年生きてきて、「アイネクライネナハトムジーク」がeine kleine Nachtmusik, アイネクライネ、ナフト、ムジークだということに今やっと気が付いて感動している。

文章ではわかりにくい!!!!伝わってほしい、このスッキリ感!!!!

ドイツ語を大学で2年くらい勉強していたのに、勉強してなお、私の中では「アイネクライネナハトムジーク」は「あいねくらいねなはとむじーく」というひと繋ぎのゲシュタルトでしかなかったのであり、そのゲシュタルトが正しく分離し、かえって秩序を持って現れたときの爽快感をぜひ想像してほしい。(英語だと、a small night music。なんかかわいい。)

ずっとなんて意味だろうとも何語だろうとも考えもせず、何も知らず、「なんか語感のいい横文字の言葉」として受け取っていた。知的好奇心からも最小限の興味からもすり抜けていた。

大人になってから、子どもの頃は自分の世界には何の関係もなく理解もできなかった電車の広告が意味を持ち始めたり、免許合宿に行って、今までは景色の一部でしかなかった道路記号が全て意味を持ち始めて、お前たち、そうだったのか、と思ったりする。そんな感じ。

言語学習もそう。英語の勉強をして、それまではなんかかっこいい音でしかなかったのが意味を伴って聞き取れるということに感動したり、有名な洋楽の歌詞を和訳でなく、自分ごととして理解できるようになったり。
(しかし、noteの自分の記事を自動英訳してもらった時に、驚くほどに全く同じニュアンスを維持したままに反映されたので、別に勉強しなくてもある程度自分ごとにできるのかも。なんていい時代!)

生きてて楽しい期に入っているので、こんなしょうもない事でも楽しい。でもいつまでも私をすり抜け続けるモノたちがあって、ほんの少しのことしか私は拾うことができないのだろうなと思うと寂しい。私たちは死ぬまでにどこまで遠くに行けるだろうか。


おまけにちょっと考えたこと。
ゲシュタルト崩壊ってなんだろう。今回のとちがう気がする。

よくあるゲシュタルト崩壊は、「鬱」や「高」など(なんでもいいけど)、もしくは人の顔などが部分同士の統合が取れて全体のイメージにまとまって感受されていたのが、部分ごとに分かれるようにして、統合が失われて「全体感」を失うということ。

今回は、部分同士の統合のされ方が単なる音のつながりからドイツ語の意味上のつながりに変化することでさらに新たな全体が現れた。「忙」が崩壊して、心を亡くす、って気づくみたいな。


大抵の物事は部分に分解してそれぞれの意味や解釈が洗練された上で全体にそれを還元して、モノの見方を修正していって発展するだろうから、「ゲシュタルト崩壊」は発展のプロセスにあるはずなのだけど、でも意味がわからなくなって気持ち悪いよね。ゲシュタルト崩壊の居心地悪さは、「わかっていると思っていた→わからない→わかった」の間の成長痛なのかも。

「あーこの曲だったんだ」と思った。


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