歪みの美学
まあ、心がかなり「歪んで」いる僕の考えであるが……とりあえず「歪んだもの」が大好きなのだ。
日常街を歩いていると……目に映るものと言えば、ビルにしても店舗にしても、悉く定規で規格されたような世界に満ちている。
部屋の中にあっても、整理整頓が出来ているということは、とりもなおさず、定規で計ったように整えられていることだろう。
子供の頃からそんな環境に育っていると、壁に掛かった額がちょっと傾いていても気になるという人も多いのかも知れない。
しかし、翻って人間の手による人工物から離れた自然に一度身を置いてみるなら……そこには定規で規定されたような世界は全く見い出せない。山川の、木々も草花も、流れる雲も、水面の細波も、路傍の小石も、蠢き回るもろもろの生き物も……
よく耳にすることに、森林浴などのリラックス効果をマイナスイオンに求める向きもあるが、僕個人としては、それ以上に「定規」からの開放ではないかと考えている。
自然を眼前にして我々が認識するのは、断じて「規格」ではなく、野放図な「歪み」の世界に他ならない。
定規で計ったような「美」の代表を人間社会に求めるならば……権力者がお気に入りの、「一糸乱れぬ軍隊の行進」かも知れない。古今の権力者達が、これをウットリと見下ろしている様はお馴染だろう。
一方、定規では計れない世界の代表としてまず頭に浮かぶのが「恋愛」かも知れない。
憧れの彼、叉は彼女の顔をうっとりと思い出している様は、見ていて気持ちがいいものだ。
好みはそれぞれだろうが……たぶん心に描いている「顔」は断じて定規からは程遠い「歪み」の形象に違いない。
試みに、彼叉は彼女の写真……特に正面から撮ったやつを用意し、真ん中の縦軸に鏡を据えて見てみると……あれ? なにこの顔? ……という事態に襲われるはずだ。
当然だろう。人間の顔とは、確実に左右非対象なもので……特に表情などは、正しく「歪み」そのものである。
3Dで制作された人物が、いかにリアルに造形されていても、どこか不自然なのは……その制作過程に於て、左右対象を基本にしているとも言えそうである。
実は、自宅にあっても、心休まる「歪み」を求めて……整理整頓を拒絶した乱雑(←別名、これをズボラと言う)を自室に求めているのだが、それでも家具等は安物揃いとあって全て規格どおりの定規の世界なのだ。
せめて食器等に「歪み」を求めたいのだが……いかんせん百均の店頭にこれを見つけることは叶わない。湯呑み茶わん一つ取っても、手びねりの逸品などは高価で手にも出来ない。
しかし、歪みの究極とも言える利休の「侘茶」の世界などは、本来ならば落ちぶれた粗末さに「美」を求めたのだろう。
「茶道」などと格式張り、お金持ちの道楽に堕したは本末転倒のはずである。
壊したら一大事の、骨董的楽茶碗や天目など論外のはず。
ここは一つ……潰れた段ボールと散らばった書物に囲まれた落ちぶれた書斎で、粗末な欠け茶わんで渋茶を喫するのも、「歪み」の美学の実践と言えそうである。
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