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簪(かんざし)

ジワジワと鳴く蝉が残暑を煽る。

もう8月も過ぎようというのに、気温は依然、体温と変わらない。
私は恨めしそうに窓の外を見た。

(嫌だなぁ……)

エアコンの効いた室内で、さらに扇風機を自分の顔に向ける。
洗ったばかりの髪の毛をさっさと乾かし、出かけなければならないのに。

はぁ、と深いため息が漏れる。

この時間が毎朝とてつもなく嫌いだ。
ドライヤーの熱で、汗がなかなかひかないから。

フローリングの上に胡坐をかき、ドライヤーを持ったまま扇風機の前で項垂れる私は、ふと視線を左に移した。


カタカタカタ……カタカタカタカタ


既に仕事を開始した彼の姿が目に入る。
眼鏡のレンズにモニターの画面が反射している。
その奥に見える目は真剣だった。

ほとんど無心にパソコンのキーを打ち続けている彼の横顔をぼんやりと見ていると、彼は視線を画面から一瞬だけ壁の時計にやり、私に声をかけた。

「何時出社?間に合うの?」

「うん、今日は、10時までに行けばいい……」

「そっか。まーた行きたくない病だ?」

「わかってんなら、わざわざ言わないでよ」

私は濡れた髪の毛のまま、膝を抱え込んで顔を伏せた。


涼介とは一緒に暮らし始めて1年になる。

最初は、お互いの生活スタイルがあまりにもかけ離れていて、すれ違いも多かった。
それこそ、トイレットペーパーをどの段階で補充するか、みたいな些細な理由でしょっちゅう喧嘩もしたっけ。
今は、それぞれの生活サイクルでできる家事を分担するようになり、なんとか落ち着いた。

私は、営業職の兼ね合いで出張も多い。
打ち合わせや会議だけならリモートでも対応できるが、お得意様のところへ伺うのだから、リモートというわけにはいかない。

一方、涼介は在宅勤務だ。
エンジニアなので、自宅で自分のペースで仕事を進められる。
合理的な彼の性格にはぴったりだと思う。


(ずっとパソコンの画面ばかりみて、疲れないのかな……)

膝を抱えたまま、私は顔だけ彼に向けて、キーボードを打つ彼の仕事風景を観察していた。


(髪、だいぶん伸びたな)


出会った頃からすでに長めだった彼の髪の毛は、今は胸のあたりまで伸びている。外でほとんど人に会わないからというのもあるんだろうが、仕事以外のことには案外ズボラというか、あまり自分の髪の長さなどは気にしないらしい。
仕事中は、いつも適当に後ろでひとつに束ねている。

私のように、中途半端にサイドの髪の毛が顔にかかる長さよりは、よっぽど邪魔にならないだろう。

時々、椅子の背もたれに背中を預けて両手の指を組み、何か考えごとをしているかと思えば、またふっとキーボードを打とうと体を起こすのだが、そういう時決まって、椅子の背もたれと背中の間に髪の毛の先端が挟まって体がビンっと引っ張られている。

その度に、顔をしかめているのが面白い。

多分、私が見ていない時も何度もやってるな、これ。


思わずふふっと笑っていると、「何?」と怪訝そうな顔をして彼がこちらを振り向いた。

「ねえ、涼。ちょっといい?」

私は立ち上がって彼の後ろに回り、改めて長く伸びた髪の毛を手にとってみた。長さがある分、少し重い。

「だいぶ伸びたね。重たくない?」

「まあ、慣れたかな。涼しくなったら美容院行くよ。」

失礼な言い方だが、全ての男性にロングヘアが似合うかと言えばそうとは限らない。でも、細くストレートな髪質だからか、暑苦しく見えないのが羨ましい。
頭の形も良い。

むしろ長い方が似合っているかも知れない。

「髪、切るの?」

「え、鬱陶しそうに見えるから、そう言ったんじゃないの?」

「違う違う。さっきさ、背もたれと背中の間に髪の毛挟まってビンってなってたじゃん?だからまとめ方変えたら気にならないんじゃないかと思って」


私は髪を束ねていたヘアゴムをスルッと外すと、もう一度手ぐしを通して髪を梳く。

「ちょっと、そのまま頭動かさないでね」

そういうと、左手で彼の髪の毛の束を持ったまま、体ごと右腕を思いっきり伸ばして、隣の収納棚の私のヘアケア用品が入った引き出しを開けた。
そこにはヘアバンドやダッカールなどと一緒に、ずっと使っていなかった一本簪が入っていた。

ストレートな黒髪の涼介には、黒い天然木の、シンプルなカーブのかかった簪が似合いそうだと思ったのだ。

私はそのまま、長い毛束をくるくるとねじって、束の斜め下から簪を刺し、さらに髪の毛を簪に巻き付けてくるっと簪を起こし、今度は斜め下に向かって刺し直した。

ねじった毛束の中に、少し短い襟足の髪の毛も巻き込まれ、首元もスッキリとした。仕上げに、巻き付けたところの髪の毛を少し手でふんわりほぐすと、とても良い感じになった。

「はい。できたよ。痛くない?」

「大丈夫…だけど、今どうなってるの?」

涼介は自分の後頭部付近を手で恐る恐るさわりながら尋ねた。

「これ使ったんだよ」

私はそう言って、持っていた別の一本簪を見せた。


「すげぇ。めっちゃしっかり固定されてる」

「でしょ。後で合わせ鏡して見てみなよ。なかなか色っぽい」

「んだよそれー。こんな色気、需要あんのか?」

そう言いながら笑っていた彼が、思い出したように言った。


「麻琴、時間大丈夫?もう9時20分。」

「やばっ!遅刻する!どうしよう」

「髪乾かしてやるから、先に飯食えよ。作ってあるから」

やはり、こういう時とても頼りになる。
泣きそうになりながらも、彼の言う通りに動く。

やれやれ、私達はいつもこんな感じだ。

けれど、あれから簪一本で髪の毛をまとめるのが気に入った彼は、動画共有サイトで「簪の刺し方」の動画を見ながら、自分でまとめ髪の作り方を研究したらしい。

普段はラフな洋服で近所を出かける彼も、寝ぐせがついていても簪でまとめればごまかせるからちょうどいい、というズボラな理由で、夏が過ぎても髪の毛を伸ばし続けている。

最近は、よく行くカフェの店員に、「髪型カッコいいですね」と褒められご機嫌なようだ。

私も、涼しくなってきたら髪の毛を伸ばして、また簪でまとめてみよう。
そして、来年の夏には、二人で揃いの髪型で花火でも見に行けたらいいなと思う。