金本知憲
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現役時代(阪神甲子園球場) | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | 広島県広島市南区 |
| 生年月日 | 1968年4月3日(58歳) |
| 身長 体重 |
180 cm 88 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 左翼手 |
| プロ入り | 1991年 ドラフト4位 |
| 初出場 | 1992年6月2日 |
| 最終出場 | 2012年10月9日(引退試合) |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴 | |
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監督歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
| 選出年 | 2018年 |
| 得票率 | 75.5%(368票中278票) |
| 選出方法 | 競技者表彰(プレーヤー部門) |
この表について
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金本 知憲(かねもと ともあき、1968年4月3日 - )は、日本の元プロ野球選手(外野手)、野球解説者・野球評論家、指導者。広島県広島市南区青崎出身。タレント専属契約はエイベックス・マネジメント・エージェンシー[1]。
現役時代には1992年から2012年までNPBの広島東洋カープや阪神タイガースで中心選手として活躍し、通算2578試合出場、8915打数、2539安打、打率.285、476本塁打、1521打点を記録した[2]。広島時代の2000年には打率.315、30本塁打、30盗塁を記録し、NPB史上7人目のトリプルスリーを達成した[2]。阪神時代の2003年と2005年にはそれぞれ阪神のセントラル・リーグ優勝に貢献、2005年にはセ・リーグMVPを受賞した[2]。また2004年にはセ・リーグの打点王を獲得している[2]。引退後は2016年から2018年まで阪神の第33代監督を務め、2018年1月には日本の野球殿堂入りを果たした[3][4]。
1002打席連続無併殺打は日本記録であり、1999年から2010年にかけて達成した1492連続試合フルイニング出場と13686連続イニング出場は世界記録である[2][5]。また平成での最多本塁打の記録も持つ[6]。
経歴
プロ入り前
広島市南区出身で、家族は両親、兄、2人の姉[7]。出身小学校は広島市立青崎小学校で、小学生時代には父親に連れられて頻繁に広島市民球場に足を運び、外野席でホームランボールを追っていたという[7]。また知人からもらった山本浩二のサインを宝物にしていた[7]。小学4年時にリトルリーグ「広島中央リトル」で野球を始めたが、練習についていけず、また体育の授業で手を骨折して練習が出来なくなったこともあり、わずか1年で退部した[8][9]。一学年下の野村弘樹が同チームのエースで四番打者だった[9]。その後は町内会のソフトボールや広島市立大州中学校の軟式野球部でプレー[8][10]。広島高校を受験したが不合格となり、広陵高校に入学、硬式野球部に入部。2年生の1985年からレギュラーになる。同年の夏には一学年上のエース本原正治を擁し、左翼手として広島大会決勝に進出するが、広島工業に敗退。3年生になった翌1986年も広島大会で敗れ、全国選手権出場はなかった[11]。高校通算20本塁打。
法政大学野球部のセレクションを受ける準備を進めていたが、当時の広陵監督が本当なら8月に行われるセレクションを12月だと金本に告げ、金本はそれを信じてしまったために受けられなかった[12]。1年間の浪人生活の後、中央大学野球部のセレクションを目指すが、中央大学の監督からは浪人は推薦がないと聞かされていたものの、広陵の監督が「推薦は大丈夫」だと言い、金本はそれを信じてしまう[12]。金本はこのことについて、監督に二度も騙されて目の前が真っ暗になったと述べている[13]。この間、ヤクルトスワローズの入団テストを受けたがこれも不合格[14]。
失意の中、知人から東北福祉大学を紹介され一般受験で入学[13][注 1]。同野球部では、恩師として名前を挙げる監督・伊藤義博の下で1年からレギュラーとなり、仙台六大学リーグ通算52試合出場、165打数63安打、打率.382を記録。最優秀選手1回、ベストナイン2回受賞。2学年上の佐々木主浩・大塚孝二、1学年上の矢野輝弘(1浪のため同年齢)、同期の斎藤隆・作山和英・浜名千広・伊藤博康ら後にプロ入りするメンバーと共に主力として4年連続で全日本大学野球選手権大会に出場。1年生だった1988年の第37回大会では決勝で近畿大学に逆転負けを喫して準優勝。2年生だった1989年から主力打者として活躍、同年の第38回大会ではサヨナラ本塁打を放つが[7]、準々決勝で連続優勝した近畿大学に敗れ、3年生だった1990年の第39回大会では小池秀郎・高津臣吾・川尻哲郎らを擁する亜細亜大学に決勝で敗れて準優勝。4年生だった1991年の第40回大会では3度目の決勝で関西大学と延長17回の末に勝利し初優勝を達成。左手首をはく離骨折していながら勝ち越しの2点適時打を放ち、初優勝の立役者となった[11]。同年、第20回日米大学野球選手権大会日本代表に選出され、三番打者として四番打者の町田公二郎(専修大学)とコンビを組み[7]、チームの勝利に貢献。
1991年秋のプロ野球ドラフト会議にて広島東洋カープが金本を4位指名して交渉権を獲得、金本は契約金6000万円、年俸720万円(金額は推定)という契約条件で広島に入団した[15]。背番号は10。同年の広島は通算6回目のセントラル・リーグ優勝こそ達成したものの、チーム本塁打は88本、チーム打率も.254と打撃成績が大きく低迷しており、野手の補強が急務になっていたことから、金本以外にも若田部健一(広島を含む4球団競合、福岡ダイエーホークスが交渉権獲得)の外れ1位として町田、また2位でも徳本政敬(木本高校)と、長打力のある野手を複数指名していた[16]。金本本人は指名を受けた当時、自分は脚も肩も良くないので長打力を売り物にしたいと話していた[17]。当時、徳本は即戦力とは言い難いと評されていたことから、金本は町田と並んで同年の広島が指名した選手たちの中で2人の即戦力と評されていた[18]。担当スカウトは備前喜夫で、強肩と長打力が持ち味とされていた[19]。
広島時代
入団後の2年間(1992年 - 1993年)は芽が出ず、年下の前田智徳や江藤智らに追い抜かれ、打撃は当時のコーチから「転がして足を活かせ」と言われるほど非力で、外野守備も送球を地面に向かって投げてしまう悪癖から「モグラ殺し」のあだ名を付けられるなど、本人曰く「クビを覚悟していた」という。それらの悔しさ、何よりパワー不足を自覚していたことから筋力トレーニングを本格的に取り入れ、地道な身体作りを行う[20]。山本一義コーチと出会ったことも転機となり、1994年後半から頭角を現し17本塁打を打つなどレギュラーに定着していった。
1995年は開幕戦から5番打者として起用される。全試合5番で出場し続け自身初のオールスターゲーム出場を果たすも、8月29日に左手首骨折により戦線離脱。それでも初の規定打席に到達し、24本塁打を記録するなど主軸として活躍。初のベストナインを受賞した。
1996年も主に5番打者として活躍し、初の打率3割を記録し、出塁率も4割を超えた。77四球はリーグトップで、選球眼にも磨きがかかる。9月には自身初の月間MVPも受賞した。
1997年の開幕戦に3番打者で起用されると、開幕から35試合連続出塁を達成し当時のセリーグ記録を更新した[21]。その後も好調を維持し2年連続の打率3割と出塁率4割、そして自身初の30本塁打を記録する。9月9日には100本塁打を達成。
1998年は規定打席には達したものの、成績は前年に比べて大幅に落ち込んだ。7月5日の阪神12回戦で舩木聖士から死球を受け、試合は最後まで出たものの腫れが引かず、翌日からの2試合を欠場。10日の対ヤクルト15回戦から復帰して以降は2011年途中まで連続試合出場を続けた。また、7月12日には自身初となる4番スタメンで起用された。
1999年は、開幕から15打数1安打の不振で、開幕4戦目にはスタメンを外されている。その後復調し、4月24日には史上49人目となるサイクル安打を達成(広島市民球場での達成は、1959年に大和田明が達成して以来40年ぶりとなる)。初の全試合出場を果たすなど完全復活し、本塁打と打点でキャリアハイの成績を残した。シーズン序盤は5番や6番を任されていたが、中盤以降は江藤に代わって4番に座っている。この年の7月20日、対阪神17回戦の試合中に代打を送られベンチに退き[22]、翌21日の同18回戦より、2010年途中まで続く連続フルイニング出場が始まった。引退後の2023年、テレビ出演した当時監督の達川晃豊(光男)は(これだけの記録になったことから)「金本に代打を送ったことを後悔している」という趣旨の発言を行っている[23]。
2000年に前年まで不動の4番だった江藤がフリーエージェント (FA) の権利を行使して読売ジャイアンツ(巨人)へ移籍したことで、3番・緒方、4番・前田、5番・金本の新クリーンアップが組まれるが、シーズン中盤から怪我で戦線離脱した前田に代わり4番に抜擢される。また、シーズン打率3割以上、シーズン30盗塁を記録した上で、シーズン最終試合で30号本塁打を打ったことから、史上7人目となるトリプルスリーを達成。5年ぶりにベストナインを受賞した。中々、30本目の本塁打が出なかったことから、達成の可能性を高めるために少しでも多くの打席に立たせようと、達川の計らいで最終残り2試合は1番打者としてスタメン出場している。
トリプルスリーについて、金本は本塁打も大変だったが不馴れな盗塁の方がもっと大変だったと語っている[24]。達川は出塁した金本に所謂「グリーンライト」を出し自由に盗塁させ(先述の前田の他野村謙二郎や佐々岡真司もシーズン中に故障離脱しており、達川自身、最早優勝争いに加わることは難しいと勝敗以上に選手個々の記録への意志を尊重して采配を振るっていた)、当時守備走塁コーチだった笘篠賢治も積極的に盗塁をしてもいいといってくれたことも励みになったという[25]。
2001年は全試合4番でフル出場を果たす。39年ぶりに毒島章一の記録を大きく更新する1002打席連続無併殺打の日本記録を樹立。7月7日には200本塁打、9月2日には1000安打をそれぞれ達成。また、出塁率でも128四球で.463という数値を記録し、ロベルト・ペタジーニに次ぐ2位に入った。出塁率.450以上が2人以上出るのは日本プロ野球史上初めてのことであったが、この年は一気に3人も出すほど歴史的な出塁率争いであった。また、このシーズン128四球は日本プロ野球史上歴代6位の記録だが、シーズン四球数の歴代1位から4位までは王貞治(4位は丸佳浩と並ぶタイ)、さらに7位から10位も全て王の記録であり、王以外でシーズン四球数記録の十傑に名を連ねているのは金本と丸のみである。
2002年、打率や出塁率は前年から大きく落としてしまうが、前年に引き続き全試合4番でフル出場。また同年5月19日にFA権を取得し[26]、その行使に悩み球団幹部に「今季は成績が悪かったので年俸は1000万円減で構わないが、FAの再契約金を100万円でいいから出してほしい」と相談した。しかし、球団は厳しい財政事情から再契約金高騰の前例が作られることを懸念してFA権を行使しての残留は認めない方針を曲げなかったため、最終的にFA権を行使して移籍することとなった。
阪神時代
2002年10月31日、広島球団にFA申請書を提出し[27]、他球団との交渉が解禁された11月13日に阪神タイガースと入団交渉を行った[28]。その後、同月15日には阪神監督の星野仙一も同席した2度目の契約交渉を行い、総額12億円の4年契約で阪神に入団することに合意、記者会見で阪神への移籍を表明し[29]、22日に正式に阪神と契約を締結、入団会見を行った[30]。入団交渉の際、星野から「プロ野球全体のことを考えて来い」「俺とお前は一緒に歩むようになっている」と言われたという[31]。ただし、実際の統一契約書のセ・リーグへの提出による支配下選手登録は「(球団と金本の)両者の都合」により遅れ、2003年3月6日になった[32]。また広島は人的補償ではなく金銭補償を請求、2002年シーズンの金本の年俸の1.5倍にあたる3億6000万円が補償金として阪神から広島へ支払われたと報じられた[33]。なおFA宣言前には阪神だけでなく中日ドラゴンズも獲得に名乗りを上げるとみられていたが、本人は10月15日に「中日?ピンと来んね」と発言しており、また知人に対しても「オレは大阪から東には行くつもりはない」と語っており、中日はその意向を察して争奪戦から撤退したという[34]。阪神移籍にあたり、広島時代に着けていた背番号10が永久欠番(藤村富美男)に指定されていたため、空き番となっていた6を自身の背番号として選択した[35]。本人は当初、10が着用できないならば大学時代の背番号である5を希望していたが、こちらも沖原佳典が着用しており、沖原は前年に着用していた8をFA移籍加入した片岡篤史に譲ったばかりだったことから、それに配慮して6を選択したという[36]。この背番号6は、かつて藤田平や和田豊が着用しており、金本は当時、「長年レギュラーを務めていた人がつけたいい番号」と話していた[35]。かつて広島から巨人へFA移籍した川口和久や江藤智が広島市民球場で激しく野次られるのを見ていたため自分も野次られるのではないかと恐れていたが、移籍後初の広島市民球場での試合で逆に声援を受け安堵したと語っている。
2003年は開幕から「第三次ダイナマイト打線」の3番に定着し、前の2番を打つ赤星憲広が出塁した際は塁上での動きを観察し時に絶好球を見逃してでも盗塁をアシストするなど赤星の盗塁王獲得に協力するとともに、主軸として活躍し阪神の18年ぶりとなるリーグ優勝に貢献。日本シリーズでは第4戦のサヨナラ本塁打を含む4本塁打、3試合連続本塁打、1試合2本塁打と3つのシリーズタイ記録を達成したが、チームは日本一に届かなかった。
2004年は新たに監督となった岡田彰布の意向で開幕から4番として起用され長打を量産。7月29日の対中日戦で左手首に死球を受け軟骨損傷と診断され、離脱の危機に直面した。しかし、翌日の巨人戦で自分のバットより軽い久慈照嘉のバットを借りて試合に出場し、この試合で高橋尚成から右手だけで安打を打ったシーンが引退試合で放映されたビデオに選出された。8月1日には連続試合フルイニング出場の日本新記録を樹立。最終的にシーズン113打点を挙げ、36歳にして初タイトルとなる打点王を獲得。左手首の故障についてシーズン後「この時だけは記録のために出続けた」と語ったが、故障後は本塁打のペースこそ落ちたが打率はむしろ上がっていた。
2005年4月9日の対横浜戦で300本塁打を達成。6月10日の対北海道日本ハムファイターズ戦で入来祐作から本塁打を打ち史上4人目の全球団から本塁打を達成。過去の3人はいずれもセ・パ各4球団以上に所属して記録したが、金本は同年から導入された交流戦のおかげで2球団に所属しただけで達成できた。6月28日には米子市民球場での対広島戦で本塁打を打ち、現役選手では最多の32球場でアーチをかけた。この記録は2007年に田中幸雄が33球場で本塁打を打ち現役1位は一旦譲ったが、田中が同年限りで引退し再び現役1位となった[注 2]。8月11日の対中日戦では1000試合連続出場、8月25日の対広島戦で1000得点、9月9日の対広島戦で1000打点と立て続けに記録を達成。マジック1で迎えた9月29日の対巨人戦(阪神甲子園球場)で9回二死から阿部慎之助の左飛を捕球しリーグ優勝のウイニングボールを掴んだ。10月4日に阪神では1986年のランディ・バース以来、日本人選手では1985年の掛布雅之以来、阪神甲子園球場のラッキーゾーン撤廃後では初となるシーズン40号に到達。この年は打率.327、40本塁打、125打点と37歳ながら主要3部門すべてで自己最高の成績をマーク。アンディ・シーツ、今岡誠と共に合計88本塁打・357打点の強力なクリーンアップを形成した[注 3]。チームも2年ぶりのリーグ優勝を達成し、金本はセ・リーグMVPに選出された。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは僅か1安打に終わり、チームは4連敗で敗退。
2006年3月31日にカル・リプケン・ジュニアの8243イニング連続出場を更新。4月9日の対横浜ベイスターズ戦でリプケンを抜く、904試合連続フルイニング出場の世界新記録を達成し[37]、その試合ではリプケンからも映像で祝福をした。そして8月15日に同カード、同球場の試合で1000試合に伸ばした。オフの契約更改では推定年俸5億5,000万円と日本人選手では球界トップとなった。仲間を信頼して献身的なチームバッティングをするプレースタイルをしつつも自分も結果を残し、「活躍できたのは裏方さんのおかげ」と試合の副賞でもらった賞金や賞品をスタッフにプレゼントし、私生活でも若手選手やチームの裏方や記者にまで食事会や送別会を開いたりする等細やかな気遣いを見せ、選手やスタッフや野球関係者だけではなく、ファンからも「アニキ」[注 4]と呼ばれるようになり、他の選手とは一線を画する存在となった[38]。
2007年7月8日の対中日戦で一死満塁から金本の安打で生還しなかった二塁走者の鳥谷敬に対し「あのヒットで1人しか還ってこれないなんてもったいない」「足の速い若い選手が緊張感とか集中力がないのかなと思う」と叱咤。それまで後輩に対して苦言を呈することはあまりなかったことから、翌日のスポーツ新聞各紙では大きく取り上げられた。同年はシーズン中に左膝半月板損傷の大怪我をしながら2004年同様強行出場を続け、31本塁打95打点を記録したが打率は.265と4年ぶりに3割を下回った。なお、負傷していた左膝については、オフの10月に人生初という手術を受けた。
2008年は左膝のリハビリテーション優先のため1月後半からアメリカに滞在し、2月後半の安芸キャンプからチームに合流。4月6日に1999本目の安打を記録してから3試合18打席無安打だったが、4月12日の対横浜戦で史上37人目の通算2000安打を達成。リーチをかけてから連続打席無安打の歴代最長記録だった。2022年時点では数少ない40歳以上の達成者でもある[39]。この試合では広島からFA移籍したばかりの新井貴浩も1000安打を達成した。5月7日の対巨人戦では第1打席で木佐貫洋から頭部死球を受けるが出場を続け、次の第2打席で右翼席に弾丸ライナーで飛び込む本塁打を放った。5月13日の対広島戦では阪神所属(達成時点)及び右投げ左打ちの選手として初の通算400本塁打を達成した。交流戦では40歳にして首位打者を獲得。6月に自身3度目となる月間MVPに選出され、最終的に2年ぶりに3割、3年ぶりに100打点に到達した。なお、40代での3割達成は史上5人目、同100打点達成は史上3人目の記録となった。オフには2年連続で左膝の手術をした。また、現役選手でありながら同年からエイベックス・エンタテインメントとマネジメント契約を結んだが、引退後のマネジメントに関しては、ハードシックスプロジェクト、ダブルカルチャーパートナーズ(DCP)が管理している。
2009年は手術の影響でオープン戦にはほとんど出場できなかったが、41歳の誕生日でもある4月3日に行われたヤクルトとの開幕戦でリーグ最年長記録となる開幕戦本塁打を打った。4月8日の対広島戦、4月10日の対巨人戦で3打席連続本塁打を記録し、史上初となる月間2度の3打席連続本塁打を達成した。得点圏で27打数13安打21打点と好調だった4月には、自己最多となる月間30打点を記録し、自身4度目となる月間MVPに選出された。5月12日の対広島戦では、0-0で迎えた9回裏に横山竜士から球団通算7000号となるサヨナラ本塁打を打った。しかし5月以降の月間打率は全て2割台前半で最終的には移籍後ワーストとなる打率.261で、本塁打数も21本だった。
2010年は順調なキャンプを送ったが、3月17日、ヤクルトとのオープン戦前の練習中に味方選手(後に藤川俊介と判明)と激突し[40][41]、右肩の棘(きょく)上筋部分断裂という重傷を負う[42]。3月31日のマツダスタジアムでの対広島戦で本塁打を放ち、現役最後となる通算33球場目での本塁打となった。
連続試合フルイニング出場世界記録
同年4月14日の対巨人戦で犠牲フライを本塁に返球できず[43]、17日の対横浜戦でも送球を中継に入った新井の遥か手前に叩きつけてしまい二塁走者の生還を許すなど怪我の影響で満足な守備ができない状況が続き、打撃でも打率.167と不振であったため[9]、翌18日の試合前に監督の真弓明信に対して「これ以上出てもチームに迷惑をかける」と自ら申し出て[43][44] スタメンから外れ、4番を新井、左翼守備を葛城育郎にそれぞれ譲った。これにより、広島時代の1999年7月21日(対阪神戦、阪神甲子園球場)から約12シーズンにわたって続いてきた連続試合フルイニング出場記録が「1492」で止まり[45]、同年5月15日付でギネス世界記録に認定された[46]。金本にとって広島在籍時代の1999年4月7日(対阪神戦)以来11年ぶり、阪神移籍以降では8年目にして初のベンチスタートとなり、阪神の一軍公式戦で金本以外の選手が左翼の守備につくのは2002年10月14日の対中日戦における濱中治以来のことだった。それ以降スタメン出場しないときは下記の2011年4月15日まで毎試合代打として出場し、連続試合出場は継続した。ただし、金本の記録のために試合中の選手の起用方法に悪影響を与えた可能性も指摘された[47]。
その後はスタメン復帰した時期もあったが結局最後まで調子が上向くことはなく、守備面でも補殺0、打率(規定打席数未到達)、本塁打、打点全てで阪神移籍後最低の成績に終わった。この年の「規定打席未到達で全試合出場」はNPB史上初の珍記録となっている。また、この年リーグ優勝した中日相手には.096(52-5)、1打点、16三振と不振を極め、連続試合出場記録と関係のないクライマックスシリーズファーストステージ第2戦では出場機会がなかった。この時期には金本の右肩は棘(きょく)上筋が完全に断裂していた状態であったとも言われている。
連続出場記録ストップ
2011年4月15日の対中日戦で8回表二死一塁の場面に代打として起用された際、一塁走者の俊介が盗塁に失敗し打席が完了しないままイニングが終了。この後、8回裏の守備で監督の真弓は金本を下げ投手の小林宏を入れた。この場合、試合出場自体は記録されるが連続試合出場の条件には満たないため[注 5]、広島時代の1998年7月10日(対ヤクルト戦、広島市民球場)から足かけ14シーズンに及んだ連続試合出場記録が「1766」で途絶えた[48]。この試合以降もシーズンを通して一軍で出場は続けたものの、成績は前年より落ち込んだ。また、このシーズンで日本プロ野球史上8人目となる10000打席に到達した。
2012年、44歳を迎えるシーズンにして開幕戦(対DeNA戦)に「6番・左翼手」で先発出場。その後、一時は打率が3割に到達するなど好調だったため5番でスタメン起用され、その後、新井の不振により5月4日の対巨人戦(甲子園)から約2年ぶりに4番として出場し交流戦が終了するまで2試合を除き4番を務めた(その2試合はマット・マートンが4番で先発出場)。その後は打撃の調子が落ちて結果が出ず、前年と変わらず右肩痛で守備難も目立ち、8月25日の対広島戦では天谷宗一郎にレフトオーバーの打球でランニング本塁打を許した。6月3日に史上9人目となる通算1500打点を達成[49]。6月28日に1991年の門田博光以来21年ぶり史上7人目、大学出身の選手では初の通算2500安打を達成。
9月12日に同年限りで引退する意思を固めた事が明らかになり[50]、その日の会見で本人の口から改めて2012年シーズン限りでの現役引退が発表された。会見の中で金本は自らの進退について「10日くらい前に考え始め、本当の決断は2日前くらいに決断した。いろいろ理由はあるが、自分に対して『限界かな?』という思いと、時代の流れ。いつまでもいい時のパフォーマンスを出せない自分が居るのも」と語り、また家族の話になると「子供は大泣きしていたが『いつかはやめるんだよ』と言った。母親には最初に伝えたが、『体のケアをしてくれと...』」と言う所で涙を堪えるために言葉に詰まり、更にファンの話になると「落ちぶれてからはバッシングもあったけど、励ましてくれたファンには...」とついに涙を流す場面も見られた。また、記者からの自身にとって野球とは?という質問に対しては、「長嶋さんじゃないけど、人生そのもの。野球人生を10歳から始めて、7、8割はしんどいこと、2、3割の喜びしかなかったけど、少しの2、3割を追い続けて7、8割で苦しむ。そんな野球人生だった」と感慨深いように語った[51]。同記者会見において「記録」について聞かれた際は、「連続フルイニング出場」よりも「連続無併殺打」の方が印象深いとも語っている。
9月16日の対巨人戦で宮國椋丞から通算475本目となる本塁打を打ち、田淵幸一を抜いて通算本塁打単独10位とした[52]。
阪神シーズン最終戦となった10月9日の対DeNA戦(甲子園)が金本の引退試合[53] となり、6月11日以来の「4番・左翼手」として先発しフル出場。6回の第3打席でDeNA先発の三浦大輔から現役最後の安打(通算2539本目)となる中前安打を打ち直後にセ・リーグ最年長記録を更新する44歳6ヶ月での盗塁を決めた。現役最終打席となった7回裏の第4打席では二死一・三塁で三浦の前に捕飛に終わった。現役最終試合は4打数1安打1盗塁だった。試合は3-0で勝利し、荒波翔のフライを金本が掴んで試合終了となった[54][55]。打点は記録できず長嶋茂雄の通算1522打点には1打点届かなかった。試合後には引退セレモニーが行われ、かつて引退試合で金本が花束を贈った清原和博から花束を受け取っている[56]。10月18日に任意引退公示された[57]。
2012年10月16日に農業法人への出資金目的で現金約1,900万円を騙し取られる詐欺被害に遭っていたことが発覚し、元会社社長が逮捕されている[58]。
現役引退後
解説者時代
ダブルカルチャーパートナーズ(DCP)内HSP林田ルームがマネジメントを担当。また、RAS(Route American Sports, Inc.)、エイベックス・スポーツ株式会社とエージェント契約を結んでいる。
2012年12月12日桑田佳祐の全国ツアーI LOVE YOU -now & forever-大阪公演にて、桑田佳祐の曲で、金本本人の名前が歌詞に登場する「OSAKA LADY BLUES 〜大阪レディ・ブルース〜」演奏時にゲスト出演。桑田佳祐VS金本知憲の対決が実現した。
2013年からはフリーの野球解説者[59](日本テレビ、読売テレビ、広島テレビ[60][61]、MBSラジオゲスト解説者[62])、デイリースポーツの特別評論家[63]、スポーツニッポンの野球評論家[64] として活動。このうち、ラジオでの解説については、MBSのみで年間10本程度出演する予定であることも明かされた[62]。
なお、2013年1月23日には、現役時代の晩年から痛めていた肩と脂肪腫の手術を無事終えたことを公式ブログで公表。「もう手術はごめんだ、健康第一!」とコメントしている[65]。
阪神監督時代
2015年10月17日、同年限りで退任した和田豊の後任として阪神の第33代一軍監督に就任[66]。背番号は現役時代と同じ「6」に決定した。 10月22日、監督として初めて臨んだドラフト会議では、明治大学・髙山俊の交渉権をめぐって東京ヤクルトスワローズと競合抽選となり、一度はヤクルト監督の真中満が交渉権を引き当てたかに思われたが、直後に当たりくじを引いたのは金本のほうであったことがわかり、壇上でのインタビューで「ビデオ判定でホームランに覆った心境」と話した。
2016年の中日との開幕3連戦(京セラドーム大阪)では黒星スタートとなるも第2.3戦を勝利し2勝1敗で開幕カードを勝ち越した。だが巨人相手に最初の3連戦を2勝1敗で勝ち越すも、その後は苦戦が続き、甲子園での巨人戦は2度の同一カード3連敗を喫するなど引き分けを挟み9連敗を喫した。9月19日にようやく勝利した[67][68] が甲子園での9連敗が響き対戦成績9勝15敗1分けと負け越し、リーグ優勝した広島にも7勝18敗と大きく負け越すなど苦戦が続き金本政権1年目は4位で終わった。また、先発陣の柱である藤浪晋太郎が広島戦の序盤で5失点し、懲罰で完投こそさせなかったものの結果的に8回161球を投げさせたことや、延長戦で投手に打席が回るも代打を出さず、それが響いて敗れるなど采配を疑問視されることもあった。
2017年は前年に引き続き若手を積極的に起用する中、打撃陣ではFA移籍で加入した糸井嘉男や福留孝介などのベテランを打線の軸に据え、投手陣では前年一軍登板無しに終わっていた桑原謙太朗をセットアッパーに抜擢するなど中継ぎ陣の強化を推進したことによって前年より安定感のあるチーム状況を作り出した。それにより開幕カード負け越しによる4位スタートを除けば最低順位は3位とシーズンを通してリーグ上位を推移し[69]、最終的には78勝61敗4分と17の勝ち越しを記録し順位は2位と前年から大きく躍進した。しかし、金本政権下では初出場となったクライマックスシリーズにおいて3位横浜DeNAと対戦し1勝2敗で1stステージ敗退となった。就任1年目であった前年に散見されたような疑問視される采配は改善を見せ、積極的休養やそれに伴う選手起用、代打起用[70]、投手の継投[71] など各所で勝利に導く好采配を見せることもあった。
2018年は開幕から若手選手が結果を残せず、この年獲得した大砲候補のウィリン・ロサリオも不振で極度の貧打に悩まされ、投手陣も前年ほどの安定感が見られないなかで9月下旬までは何とかCS出場権争いに加わっていたものの、雨天中止の多さによる日程の厳しさや絶好調であった北條や糸井らの故障離脱もあって終盤に大失速し、17年ぶりの最下位に終わった。9月末には名古屋での遠征中に差別的なヤジを飛ばしたファンに激昂して詰め寄り同行していたコーチやスタッフらに制される動画がSNS上で拡散され、球団内部からも否定的な意見が相次いだ[72]。 10月11日、金本はこの成績不振の責任を取る形で辞任を表明したが、メディアでは球団による事実上の「解任」と報じられた[73]。翌12日に辞任会見が行われたが、写真やテレビカメラなど撮影は一切禁止という異例の対応が取られた[74]。
金本はチーム作りについて、従来の補強に依存する形からドラフト会議で獲得・育成した選手を主軸とする方針に転換し、2016年のドラフト会議で1位に大山悠輔を指名した判断は当時驚きを持って受け止められたが、「右打ちでホームランを打てるバッターがほしい」という意向に沿ったものだった[75]。この方針はその後も踏襲され、圧倒的な差を付けてリーグ優勝を果たした2025年の主力選手は、金本の方針転換がもたらしたと評されている[76]。阪神創立90周年にも当たったこの年6月の「Tigers Legends Day」にゲストとして阪神甲子園球場に招かれた金本は、生え抜き選手が中心を占める同年の阪神のラインナップに「僕はこういうのを目指していたからね。ほとんど補強なしだもんね。理想的な球団じゃないですか。」とコメントした[77]。
選手としての特徴
無類の勝負強さ[78] と優れた選球眼が魅力のスラッガー。好球をじっくり待てる辛抱強さもあり、シーズン最多四球を通算6度記録している[79]。
“走攻守”3拍子揃ったプレーで[80]、広島時代の2000年には打率.315、30本塁打、30盗塁でトリプルスリーを達成。阪神移籍後も中軸として活躍し、2度のリーグ優勝に貢献。骨折しても試合に出続けるなど不屈の精神力を誇った[81]。
打撃
平成(1989年1月8日 - 2019年4月30日)における最多記録として、通算本塁打数(通算476本塁打の全てを平成の間に記録している、以下同じ)、通算安打数(2539安打)、通算打点数(1521打点)[82]、4番打者としての出場試合数(1346試合)[83]、クリーンナップとしての出場試合数(2023試合)を[83]記録している。
連続無併殺打(1002打席)[84]・連続4番先発出場数(880試合)[85] の日本記録保持者であり、盗塁・本塁打・代打本塁打・猛打賞においてはセントラル・リーグ最年長記録を保持している。
金本自身は「素振りに勝る打撃の練習方法はない」と語っている[86]。
守備
守備位置については、プロ2年目の1993年シーズン終盤に中堅手や右翼手での先発出場経験があるものの、翌1994年から引退する2012年までの先発出場は全て左翼手としてであり、他のポジションは一度も守っていない。
広島時代は前田智徳や緒方孝市、阪神時代は赤星憲広や桧山進次郎といった選手が右中間を形成していたこともあり、左翼手に専念した。
前述のとおり2010年に右肩棘上筋部分断裂の重傷を負って以降は年齢的な衰えも重なって満足な守備ができなくなり、左翼方向に打球が飛ぶと遊撃手の鳥谷敬が金本のカバーに入る場面がしばしば見られ、鳥谷の守備範囲は『ショフト』という造語が生まれるほど広大なものとなっていた[87][88]。
人物
両親は韓国人で、金本は在日韓国人3世にあたった[89][90][注 6]。中央日報は、金本の韓国名を金 知憲(キム・ジホン、朝鮮語: 김지헌)としている[91]。4人兄弟の末っ子であり[92]、通称が「アニキ」だけに皮肉を感じるときがあるとのこと[93]。
2001年に日本人女性と結婚するにあたり、日本に帰化した[89][90]。広陵高校時代の1986年に在日韓国人学生野球団の一員として渡韓した経験を持つ[94]。自身が公私混同を嫌い、さらにはナイーブな側面もあり、2001年に結婚した際も夫人を写さないことなどを条件に取材を受けている。
矢野輝弘とは大学時代からの親友である。先述にもあるように同い年とはいえ浪人した関係で金本が一学年下だったが気兼ねなく話し合う仲だったという[95]。
広島時代から阪神時代にかけてチームメイトであった後輩の新井貴浩とは親交が深く、金本は新井を「本当に弟のような存在」と語っている[96]。現役時代は金本が新井に対して頻繁にイタズラを仕掛けていたという[97]。
詳細情報
この元プロ野球選手の記録に関する文献や情報源が必要です。 (2013年6月) |
年度別打撃成績
| 年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1992 | 広島 | 5 | 5 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | .250 | .000 | .250 |
| 1993 | 42 | 95 | 89 | 9 | 17 | 3 | 0 | 4 | 32 | 9 | 0 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 1 | 16 | 4 | .191 | .242 | .360 | .602 | |
| 1994 | 90 | 293 | 257 | 41 | 69 | 14 | 2 | 17 | 138 | 43 | 2 | 0 | 3 | 2 | 31 | 2 | 0 | 64 | 3 | .268 | .345 | .537 | .882 | |
| 1995 | 104 | 438 | 369 | 72 | 101 | 15 | 1 | 24 | 190 | 67 | 14 | 10 | 0 | 3 | 61 | 2 | 5 | 78 | 5 | .274 | .381 | .515 | .896 | |
| 1996 | 126 | 511 | 423 | 84 | 127 | 18 | 2 | 27 | 230 | 72 | 18 | 7 | 0 | 7 | 77 | 2 | 4 | 104 | 2 | .300 | .407 | .544 | .951 | |
| 1997 | 133 | 552 | 465 | 77 | 140 | 17 | 2 | 33 | 260 | 82 | 13 | 9 | 0 | 4 | 80 | 5 | 3 | 104 | 8 | .301 | .404 | .559 | .963 | |
| 1998 | 133 | 573 | 499 | 77 | 126 | 33 | 3 | 21 | 228 | 74 | 9 | 6 | 0 | 1 | 68 | 0 | 5 | 94 | 2 | .253 | .347 | .457 | .804 | |
| 1999 | 135 | 576 | 502 | 84 | 147 | 21 | 2 | 34 | 274 | 94 | 10 | 3 | 0 | 1 | 70 | 1 | 3 | 92 | 3 | .293 | .382 | .546 | .928 | |
| 2000 | 136 | 588 | 496 | 96 | 156 | 20 | 2 | 30 | 270 | 90 | 30 | 10 | 0 | 4 | 80 | 7 | 8 | 101 | 2 | .315 | .415 | .544 | .959 | |
| 2001 | 140 | 615 | 472 | 101 | 148 | 28 | 1 | 25 | 253 | 93 | 19 | 9 | 0 | 6 | 128 | 16 | 9 | 69 | 1 | .314 | .463 | .536 | .999 | |