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近衛尚通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
近衛尚通
時代 戦国時代
生誕 文明4年10月12日(1472年11月12日)
死没 天文13年8月26日(1544年9月13日)
改名 尚通→大証(法名)
別名 後法成寺関白
官位 従一位、関白、内覧、太政大臣、准三宮
主君 後土御門天皇→後柏原天皇→後奈良天皇
氏族 近衛家
父母 父:近衛政家
母:北小路俊子[注釈 1]
兄弟 尚通、良誉、大聖院、女子
妻 正室:徳大寺維子(徳大寺実淳娘)
家女房:町広光娘
子 稙家、義俊(禅意)、覚誉、道増、久我晴通、徳大寺公維[1]、花屋理春、慶寿院(足利義晴室)、近衛殿(北条氏綱室)
花押 近衛尚通の花押
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近衛 尚通(このえ ひさみち)は、戦国時代の公卿。太政大臣・近衛政家の子。官位は従一位・関白、太政大臣、准三宮。近衛家15代当主。

経歴

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文明14年(1482年)に元服、室町幕府9代将軍・足利義尚より偏諱を受けて尚通と名乗る。

延徳2年(1490年)に右大臣に就任、以降は関白に二度就く。永正11年(1514年)に太政大臣、同16年(1519年)に准三宮となった。

天文2年(1533年)に出家し、大証と号した。

天文13年(1544年)8月26日、薨去。享年73。

人物

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文化人

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尚通は公家や連歌師、武士に近衛邸を開放し、学問や文芸の普及にも努めた文化人である。若年のころ、連歌師・宗祇から古今伝授を受けていた[2]。

上巳の詩

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旧暦では3月3日を上巳の日とした。永正13年3月3日(1516年4月14日)、尚通は次のような詩を詠んでいる:

雅会評詩三月三、
踏靑進履曲江南、
桃花似雨楊花雪、
燕子飛辺日半酣、

日記と「戦国之時」

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日記『後法成寺関白記』(近衛尚通公記)を残した。永正5年4月16日(1508年5月15日)の条には、細川政元の死後に跡目を争う細川澄元と細川高国の争いを中国の春秋戦国時代に例え、「抑世上之儀、併如戦国之時」と評す[2]。戦国時代の呼称はこれに由来している[注釈 2]。

記録の疎開と典籍の利用

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父・近衛政家は明応8年(1499年)までに、父祖の日記を興福寺一乗院へ移していた。尚通もこの方針を継承し、大永3年(1523年)には一乗院から「家記」を取り寄せている。少なくとも明応8年(1499年)から大永3年(1523年)まで、一乗院は近衛家の父祖の日記を保管する役割を担っていた[3]。

大永3年(1523年)を最後に、『後法成寺関白記』の記事を欠く大永4年・5年(1524年・1525年)を経て、大永6年(1526年)以後は一乗院への記録疎開が確認されなくなる。当時、一乗院では政家の子・良誉に続いて尚通の子・覚誉が門跡となっており、近衛家と同院の人的関係自体は維持されていた。藤ノ井日向は、大永7年(1527年)に将軍足利義晴と管領細川高国が京都から退き、享禄元年(1528年)以降は大和国にも柳本賢治の軍勢が侵入したため、京都と南都の間で記録を移動させる危険が高まったことを、一乗院への疎開が途絶えた直接的な要因として推定している[3]。

一乗院は安全な遠隔地であった反面、必要な典籍を取り寄せるには時間を要した。永正5年(1508年)、尚通は美濃正法寺雲門庵の春蘭寿崇に宛てた書状案で、戦乱を避けて「遠所」に預けていた『千載和歌集』を取り寄せて贈ると伝え、その到着が遅れていることを「遅々背本意候」と記している。同内容の別の書状案から、この「遠所」が南都の一乗院であったことが分かる[4]。

この贈答には、春蘭寿崇を介して美濃守護土岐政房との交渉を進める意図があったと考えられている。尚通は能登畠山氏、後北条氏、扇谷上杉氏、今川氏、土岐氏、大内氏、島津氏など各地の地域権力に典籍を贈り、関係を築いていた。典籍を贈答や交渉に利用する機会が増えるにつれ、南都から取り寄せる時間と手間が問題となり、京都やその近郊に疎開先を求める必要が高まったとみられる[4]。

大永6年(1526年)10月、丹波国における波多野元清・柳本賢治兄弟の挙兵を受け、尚通は「世上物忩」として記録を分散させた。この時、「家記」は、子の道増が門跡を務める聖護院と、近衛家領の荘官が居住する三室戸寺へ送られ、その他の記録は子の明岳瑞昭が蔵主を務める慈照寺へ預けられた[5]。尚通も政家と同様に、一門や近衛家領の荘官と結びつく寺院を記録の疎開先として利用した。大永6年(1526年)には、父祖の日記に当たる「家記」を、子の道増が門跡を務める聖護院と、近衛家領の荘官が居住する三室戸寺へ預けている[5]。

尚通は、父の時代には疎開先として利用されていなかった所縁にも目を向けた。鎌倉時代以来の氏寺であった高山寺や、近衛道嗣の子・日秀が開山したとの寺伝を持ち、近衛家と法華宗信仰を通じて関係のあった本満寺にも記録を預けている。政家も本満寺と密接な関係を持っていたが、同寺を疎開先として利用した事例は確認されず、尚通期になって既存の由緒や信仰関係が記録保管に用いられるようになった[6]。

さらに尚通は、近衛家との血縁・地縁や固有の由緒を持たない場所にも疎開先を広げた。永正4年(1507年)の細川政元暗殺後の争乱、翌永正5年(1508年)の足利義材による上洛戦、永正17年(1520年)の三好之長による上洛戦などに際し、しばしば禁裏へ記録を移している。戦国期の禁裏は、戦乱時に京都の住民が家財を持って避難する空間となっており、近衛家に加え、山科家、中御門家、三条西家なども記録の疎開先として利用していた。尚通は近衛家独自の一門・荘官ネットワークに加え、公家社会で共有されていた避難場所も利用していた[7]。

大永6年(1526年)以後には、延暦寺、山科本願寺、洛中の土倉である袋屋などにも記録を預けている。このうち延暦寺や本願寺は、山科家など他の公家も記録や衣類を預けていた場所であった。享禄年間(1528年 - 1532年)には「佐野」「小川」など、素性を明らかにできない相手への預け入れも確認され、尚通の疎開先は京都とその近郊を中心に多様化した[8]。

この時期には、足利義晴と細川高国が京都から退いたことで、公家が従来の武家権力から安定した保護を受けにくくなっていた。尚通は高国の没落後、各地の有力者との連絡を活発化させ、情報の収集と家門の維持を図った。藤ノ井は、井戸裕貴が本願寺への記録疎開を「預物」と捉えた議論を踏まえ、記録の預け入れが京都周辺の権門寺院との関係形成にもつながった可能性を示している[8]。

父祖の日記に当たる「家記」については、延暦寺や本願寺など新たに関係を結んだ相手への疎開が確認されない。尚通は、一般の記録や重書については多様な相手を利用し、近衛家の先例情報の中核となる父祖の日記は、一門や荘官など血縁・地縁を持つ関係者に管理を委ねていた[9]。

尚通も政家と同じく、『後深心院関白記』を先例の典拠としてたびたび参照した。遠隔地への疎開によって記録の利用には時間と労力を要したが、必要に応じて記録を取り寄せる行為は続けられていた[10]。

官職および位階等の履歴

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略年譜

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典拠略号[11]
略号典拠略号典拠略号典拠
〔改〕改元部類(柳原家記録)〔覚〕覚道法親王記〔鑑〕後鑑
〔紀〕東国紀行〔興〕興福寺略年代記〔近〕近衛家々譜(陽明文庫備用)
〔経〕経尋記〔権〕権官中雑々記〔元〕元長卿記
〔言〕言継卿記〔口〕口宣草〔後〕後法興院記
〔公〕公卿補任〔雑〕雑事要録〔三〕三会定一記
〔資〕資定卿記〔実〕実隆公記〔守〕守光公記
〔俊〕親俊日記〔春〕春日法楽和歌(井上宗雄氏蔵)〔諸〕諸家伝
〔女〕女叙位聞書〔乗〕大乗院日記目録〔常〕大館常興日記
〔条〕公条公記〔親〕親長公記〔聖〕大覚寺聖教目録
〔宣〕宣胤卿記〔大〕大覚寺門跡略記〔東〕東院年中行事記
〔湯〕お湯殿の上の日記〔内〕大内義興勧進都の富士の詠〔二〕二水記
〔明〕明応5年10月26日55首歌合〔祐〕祐維記〔陽〕陽明文庫所蔵記録
〔頼〕頼継卿記〔鹿〕鹿苑日録
近衛尚通略年譜
年紀 年齢 事歴 身分 家族 一般事項
文明4年(1472年、壬辰)[12] 1 1月6日 誕生〔東〕 — 祖父従一位房嗣(71歳)、父正二位権大納言政家(29歳) 1月25日 山名持豊が和議を企てる
文明5年(1473年、癸巳)[12] 2 — — 3月7日 伯母御霊殿没〔後〕
文明6年(1474年、甲午)[12] 3 — —
  • 6月29日 房嗣出家(73歳)〔公〕
  • この年妹妙奪誕生〔後〕
文明7年(1475年、乙未)[12] 4 — —
  • 3月10日 政家内大臣〔公〕
  • 9月2日 弟良誉誕生〔雑〕
10月3日 政豊が義政邸で猿楽を催す
文明8年(1476年、丙申)[12] 5 — — 6月26日 政家右大臣〔公〕
  • 5月1日 日野勝光没
  • 12月23日 室町第が焼失する
文明9年(1477年、丁酉)[12] 6 — —
  • 1月6日 政家左近衛大将〔公〕
  • 6月2日 叔父政弁没(23歳)〔乗〕
  • 9月3日 畠山義就が河内に退く
  • 12月1日 政弘ら西軍諸将がそれぞれの分国に退く
文明10年(1478年、戊戌)[12] 7 2月3日 近衛邸焼失〔親〕 —
  • 3月10日 政家、左近衛大将を辞任〔公〕
  • この年妹某誕生〔後〕
7月20日 足利義政と足利義視が和睦する
文明11年(1479年、己亥)[13] 8 閏9月15日 近衛邸月次和漢会で頭役を務める〔後〕 —
  • 2月30日 政家関白〔後〕
  • 3月3日 政家従一位〔後〕
  • 4月29日 政家左大臣〔後〕
2月7日 土御門内裏に還御あり
文明12年(1480年、庚子)[13] 9 2月3日 帯直〔後〕 — —
  • 9月22日 一条政嗣没
  • 9月22日 土一揆蜂起
  • 10月5日 一条教房没
文明13年(1481年、辛丑)[13] 10 — —
  • 8月23日 房嗣奈良より岩倉に移る〔後〕
  • 12月10日 政家、左大臣を辞任〔後〕
4月21日 一条兼良没
文明14年(1482年、壬寅)[13] 11
  • 2月19日 元服、禁色・昇殿を許される〔後〕
  • 6月26日 母・等心院の病平癒祈祷のため邸内に一社を造営する〔後〕
  • 12月30日 実相院連歌会で発句を務める〔後〕
  • 2月19日 正五位下〔後〕
  • 2月24日 右近衛少将〔後〕
7月6日 等心院没〔後〕
  • 3月8日 細川政元・畠山政長らが義就追討のため出陣する
  • 7月6日 政元が義就と和睦して上洛する
文明15年(1483年、癸卯)[13] 12
  • 1月20日 政家に代わり義尚ならびに義政に参賀〔後〕
  • 5月5日 疱瘡を病む〔後〕
  • 12月3日 歳暮の礼に諸所に参賀〔後〕
  • 1月5日 従四位下〔後〕
  • 2月25日 従三位〔親〕
  • 4月25日 右近衛中将〔後〕
2月24日 政家関白を辞任〔後〕
  • 8月3日 政長に義就追討の綸旨が下る
  • 12月3日 義政が氏長者を義尚に譲る
文明16年(1484年、甲辰)[13] 13
  • 1月20日 政家に代わり年始の礼に参賀〔後〕
  • 4月8日 近衛邸新造、移徙〔後〕
  • 5月10日 義尚より和歌詠進を求められる〔後〕
  • 9月16日 日野富子より物を贈られる〔後〕
  • 12月27日 義尚ならびに義政に昇進礼を進上する〔後〕
12月22日 権中納言〔後〕
  • 2月2日 良誉一乗院に入室する〔後〕
  • 2月3日 外祖父加治能登入道没〔後〕
  • この年弟承尊誕生〔後〕
12月30日 一揆洛中に蜂起する
文明17年(1485年、乙巳)[13] 14
  • 2月25日 義尚より北野社法楽和歌の詠進を求められる〔後〕
  • 8月30日 義尚の任左近衛大将につき参賀〔後〕
  • 3月29日 権大納言〔後〕
  • 10月4日 正三位〔後〕
3月7日 近衛教基女御霊殿となる〔後〕
  • 6月25日 義政出家する
  • 12月11日 山城国人が集会し、両畠山勢を退ける
文明18年(1486年、丙午)[14] 15
  • 1月1日 義尚より書状ならびに扇等を贈られる〔後〕
  • 5月1日 義尚の需に応じ一首を詠進〔後〕
  • 7月1日 義尚より扇を贈られる〔後〕
2月23日 左近衛大将〔後〕 — 8月24日 土一揆洛中に蜂起する
長享元年(1487年、丁未)[14] 16
  • 1月1日 義尚より書状ならびに胡鬼板を贈られる〔後〕
  • 1月29日 義尚の直衣始の礼に参る〔後〕
  • 2月3日 昇進の礼に禁裏ならびに武家らに参賀〔後〕
  • 5月25日 義尚の病気快癒につき参賀〔後〕
  • 9月26日 近江の家領について安堵の奉書が下される〔後〕
— 9月29日 御霊殿没(29歳)〔後〕
  • 7月20日 改元
  • 9月23日 義尚が六角高頼征伐のため近江に出陣する
長享2年(1488年、戊申)[14] 17
  • 1月1日 義尚より毬打玉を贈られる〔後〕
  • 1月18日 近江鈎陣の義尚に参賀〔後〕
  • 8月20日 左近衛大将任官の奏慶につき幕府の助成を求める〔後〕
  • 9月27日 左近衛大将任官の奏慶を行い、任大臣節会の内弁を務める〔後〕
  • 9月30日 鈎陣の義熙(義尚)に参り任内大臣ならびに改名を祝う〔後〕
1月7日 従二位〔後〕
  • 9月27日 政家太政大臣〔後〕
  • 10月19日 房嗣没(87歳)〔後〕
  • 12月23日 弟政禅得度〔後〕
9月21日 土一揆洛中に蜂起する
延徳元年(1489年、己酉)[14] 18
  • 1月3日 義熙より毬打玉ならびに胡鬼板等を贈られる〔後〕
  • 1月26日 房嗣百か日に本満寺で法華経を頓写する〔後〕
  • 4月3日 義政に参り義熙没を弔う〔後〕
  • 4月30日 義視ならびに足利義材の上洛を祝う〔後〕
— 12月3日 良誉得度〔後〕
  • 3月26日 義熙没
  • 8月21日 改元
延徳2年(1490年、庚戌)[14] 19
  • 1月2日 義視ならびに義材に参賀〔後〕
  • 3月8日 昇進の礼として禁裏ならびに武家に参賀〔後〕
  • 4月26日 嘉楽門院三回忌法華八講を聴聞〔後〕
  • 7月2日 将軍任官の礼に武家に参賀〔後〕
  • 9月1日 宗祇より新古今集一部を進上される〔後〕
  • 10月9日 本満寺で房嗣三回忌追善を聴聞〔後〕
  • 12月3日 踏歌節会内弁の習礼を行う〔後〕
3月5日 右大臣〔後〕 —
  • 1月7日 義政没
  • 3月21日 土一揆が北野社に立て籠もり、社殿を焼く
  • 7月5日 義材に将軍宣下がある
延徳3年(1491年、辛亥)[15] 20
  • 1月6日 右大臣任官の奏慶、踏歌節会内弁を務める〔後〕
  • 3月19日 禁裏猿楽に祗候〔後〕
  • 6月29日 将軍参内始ならびに移徙の礼に武家に参る〔後〕
  • 7月26日 政元の求めにより聖護院で会合する〔後〕
  • 7月27日 奏慶助成の礼に武家に参賀〔後〕
  • 8月24日 政元邸に招請される〔後〕
  • 9月3日 三井寺の義材の陣に参る〔後〕
  • 10月3日 鷹司邸で当麻新曼荼羅を見る〔後〕
  • 12月29日 元日節会内弁の習礼を行う〔後〕
1月3日 左近衛大将を辞任〔後〕 —
  • 1月7日 義視没
  • 8月27日 義材近江に出陣する
明応元年(1492年、壬子)[15] 21
  • 1月1日 元日節会内弁を務める〔後〕
  • 2月7日 内裏の猿楽に祗候〔後〕
  • 3月3日 石山寺に参詣〔後〕
  • 3月30日 内裏の猿楽に祗候〔後〕
  • 5月3日 勝仁親王より石竹を賜る〔後〕
  • 10月1日 禁裏より菊を賜る〔後〕
  • 10月26日 竹内門跡の和歌会に参る〔明〕
— 4月2日 承尊日野富子の猶子となる〔後〕
  • 3月1日 義材帰洛する
  • 7月19日 改元
明応2年(1493年、癸丑)[15] 22
  • 1月6日 叙位執筆を務める、加級により奏慶する〔後〕
  • 3月3日 県召除目に申文を出す〔後〕
  • 3月28日 関白詔宣下〔後〕
  • 4月3日 一座を許される〔後〕
  • 4月4日 関白任官の礼を禁裏・富子に申し上げる〔後〕
  • 閏4月23日 足利義遐(清晃)の代始ならびに叙爵を祝う〔後〕
  • 5月9日 義遐に対面する〔後〕
  • 12月3日 関白任官の奏慶につき幕府より助成がある〔後〕
  • 12月10日 除服
  • 1月6日 正二位〔後〕
  • 3月28日 関白〔後〕
2月26日 叔父実相院増運没(60歳)〔後〕
  • 2月15日 義材が河内に出陣する
  • 4月3日 政元が香厳院清晃を擁立する
  • 閏4月25日 政長が倒れ、義材が降伏する
  • 6月29日 義材が越中に逃れる
明応3年(1494年、甲寅)[15] 23
  • 1月1日 関白任官の奏慶〔後〕
  • 1月6日 叙位儀に参仕する〔後〕
  • 1月16日 踏歌節会に参仕する〔後〕
  • 1月23日 節会次将要を書写する〔陽〕
  • 2月24日 嘉楽門院七回御忌法華八講に参仕する〔後〕
  • 5月30日 一乗院からの奏慶随人料が滞る〔後〕
  • 11月26日 義高(義澄)の任官ならびに加級を祝う〔後〕
  • 12月27日 義高元服の礼に参賀〔後〕
— 3月3日 妹御霊殿誕生〔後〕
  • 12月24日 義高左馬頭に任ぜられる
  • 12月27日 義高元服、将軍に任ぜられる
明応4年(1495年、乙卯)[15] 24
  • 1月5日 叙位儀に参仕する〔後〕
  • 1月10日 禁裏に加級の礼を申し上げる〔後〕
  • 3月3日 義熙七回忌の勧進和歌を詠進する〔後〕
  • 4月27日 押小路師富を召し左伝を読む〔後〕
  • 7月7日 住吉社神主津守国則の還補を執奏し、勅許される〔後〕
  • 12月3日 新邸に移徙あり〔後〕
1月10日 従一位 10月5日 伯母宝珠院没(69歳)〔後〕 10月 土一揆蜂起
明応5年(1496年、丙辰)[16] 25
  • 1月27日 新邸和歌会始〔後〕
  • 2月5日 九条政基の唐橋在数殺害につき勅問あり〔後〕
  • 10月 翌年初めまで所労が続く
3月3日 左大臣〔後〕
  • 3月6日 妙奪没(23歳)〔後〕
  • 11月24日 息明岳瑞照誕生
  • 12月3日 伯母瑞光院没(58歳)〔後〕
5月30日 日野富子没
明応6年(1497年、丁巳)[16] 26
  • 3月15日 多武峰御影破裂につき告文を清書する〔後〕
  • 3月23日 左大臣転任の奏慶、県召除目執筆を務める〔後〕
  • 4月23日 春日社に参詣〔後〕
  • 6月28日 内覧・兵仗如旧の宣下あり〔後〕
  • 7月26日 徳大寺実淳の娘・維子を娶る〔後〕
  • 11月29日 宗祇より古今講釈を受ける〔後〕
  • 4月26日 左大臣を辞任〔後〕
  • 6月7日 関白を辞任〔後〕
1月16日 政家准三宮〔後〕
  • 9月 義材が京都への進出をうかがう
  • 10月10日 二条尚基没
明応7年(1498年、戊午)[16] 27
  • 2月5日 古今講釈結願、宗祇より伝授の切紙を進される〔後〕
  • 2月23日 泉涌寺ならびに東福寺の涅槃像を見る〔後〕
  • 3月6日 禁裏より水無瀬法楽和歌の詠進を求められる〔後〕
  • 閏10月2日 妙奪三回忌法事を本満寺で聴聞〔後〕
  • 閏10月8日 禁裏より内侍所法楽和歌の詠進を求められる〔後〕
  • 11月2日 禁裏より石清水法楽和歌の詠進を求められる〔後〕
  • 11月24日 禁裏より松尾法楽和歌の詠進を求められる〔後〕
  • 12月6日 禁裏より平野法楽和歌の詠進を求められる〔後〕
  • 12月26日 禁裏より稲荷法楽和歌の詠進を求められる〔後〕
—
  • 4月25日 維子着帯〔後〕
  • 6月7日 女継孝院誕生〔後〕
9月 義尹越中より越前に至る
明応8年(1499年、己未)[16] 28
  • 2月26日 禁裏より玉津島法楽和歌の詠進を求められる〔後〕
  • 9月5日 京中の騒然により女中衆と共に岩倉へ赴く〔後〕
—
  • 3月24日 妹尊永誕生〔後〕
  • 7月6日 女智園寺誕生〔後〕
12月23日 義尹近江坂本で敗れ周防に逃れる
明応9年(1500年、庚申)[16] 29
  • 7月26日 京都大火で近衛邸が焼け、北小路俊泰邸に逃れる〔後〕
  • 10月26日 先帝追号につき諮問される〔後〕
—
  • 2月23日 伯母御霊殿端御所没(60歳)〔後〕
  • 2月27日 瑞照義高猶子として慈照寺に入る〔後〕
9月26日 後土御門天皇崩御
文亀元年(1501年、辛酉)[17] 30
  • 2月23日 東福寺で涅槃像を見る〔後〕
  • 3月3日 改元の礼に禁裏に参賀〔後〕
  • 閏6月6日 細川高国を招いて酒宴を催す〔後〕
—
  • 3月6日 女花屋理春誕生〔後〕
  • 9月3日 伯父道興没(72歳)〔実〕
2月29日 改元
文亀2年(1502年、壬戌)[17] 31
  • 3月6日 妙奪七回忌法事を本満寺で聴聞〔後〕
  • 7月6日 義高の参議昇進ならびに参内始を祝う〔後〕
  • 9月29日 後土御門天皇三回忌懺法講を聴聞〔後〕
—
  • 2月 息稙家誕生〔近〕
  • 4月9日 尊永大祥院に入室する〔後〕
  • 9月6日 教玄隠居により良誉一乗院門主として下向する〔後〕
7月30日 宗祇没
文亀3年(1503年、癸亥)[17] 32
  • 1月3日 義澄(義高)の従三位を祝う〔後〕
  • 2月8日 御製和韻を進上〔後〕
  • 9月8日 近衛邸文庫に盗人入る〔後〕
—
  • 2月6日 女智園寺に入室する〔後〕
  • 4月8日 稙家祝言〔後〕
2月26日 山科言国没
永正元年(1504年、甲子)[17] 33
  • 7月2日 政元より愛宕法楽和歌の詠進を求められる〔後〕
  • 9月10日 禁裏に世上物騒を申し入れ、向殿に逃れる〔後〕
  • 9月15日 近衛邸に戻り物騒に備える〔後〕
  • 10月29日 本満寺で法華経を頓写する〔後〕
—
  • 2月23日 稙家祝言〔後〕
  • 4月10日 女継孝院に入室する〔後〕
  • 2月30日 改元
  • 9月4日 薬師寺元一が政元に反旗を翻す
  • 9月22日 土一揆洛中に蜂起し徳政を求める
永正2年(1505年、乙丑)[17] 34 1月10日 年始の礼に諸所に参る〔後〕 —
  • 6月29日 政家没(60歳)〔公〕
  • 9月 承尊義澄より折檻される
9月 香西元長が半済と称して山城国中に課税する
永正3年(1506年、丙寅)[17] 35
  • 3月6日 義澄より近代不知行の所領注進を求められる
  • 4月29日 義澄に芍薬を贈る
  • 7月8日 高国より八雲御抄等の不審を問われる
  • 7月26日 興福寺が訴える春日社材木の過書発給を幕府に求める
  • 7月26日 赤沢朝経の大和出陣を止めるよう禁裏に願う
  • 8月17日 義澄より続後拾遺集の書写進上を求められる
  • 8月23日 細川澄元の幕府出仕始を祝う
  • 9月5日 禁裏より袖中抄を拝領
  • 10月9日 禁裏に春日法楽和歌を詠進
  • 12月3日 飛鳥井雅親七回忌に法華経読誦品を贈る
  • 12月4日 土岐政房より伊勢物語を請われる
—
  • 4月23日 稙家着袴
  • 5月23日 承尊義澄祗候を許される
  • 6月3日 女智園寺が方丈となって来る
  • 9月23日 息覚誉誕生
  • 4月2日 澄元上洛する
  • 7月24日 政元が朝経に大和出陣を命じる
永正4年(1507年、丁卯)[18] 36
  • 3月3日 政元より愛宕法楽和歌の詠進を求められる
  • 4月2日 足利政知十七回忌により法華経読誦品を義澄に送る
  • 6月25日 世上物騒により重書を禁裏に預ける
  • 6月29日 政家三回忌に本満寺で法華経を真読する
  • 7月3日 子女らを禁裏近傍に避難させる
  • 8月10日 澄元の戦勝を祝う
  • 8月24日 牛済免除につき武家への周旋を禁裏に求める
  • 10月5日 近衛家領の牛済免除を命じる奉書が出される
—
  • 5月19日 叔母春渓没
  • 12月29日 維子妹仁木高長に嫁ぐ
  • 6月3日 足利澄之が反乱し、父政元を討つ
  • 8月1日 澄元勢が澄之らを討ち滅ぼす
永正5年(1508年、戊辰)[18] 37
  • 3月3日 世上物騒により記録等を禁裏に預ける
  • 4月10日 高国の上洛を祝う
  • 7月6日 義尹に参り将軍再任を祝う
  • 8月2日 高国より夢想連歌の出題を求められる
  • 8月26日 宗祇追善の品経歌を書き送る
  • 9月17日 大内義興より守護不入の下知を得
  • 12月27日 義尹に参り、従二位叙位を祝う
—
  • 4月5日 息道増誕生
  • 12月26日 道増聖護院道応法親王の附弟となる
  • 3月7日 高国伊賀に逃れる
  • 4月10日 澄元京を落ち、高国入京する
  • 4月23日 義尹堺に到着する
  • 6月8日 義尹入洛する
  • 7月1日 義尹将軍に再任される
永正6年(1509年、己巳)[18] 38
  • 2月10日 禁裏より水無瀬法楽和歌の詠進を求められる
  • 3月2日 持明院基春に古今伝授の切紙を送る
  • 4月26日 政元追善の和歌を詠進する
  • 5月2日 徳大寺公胤に古今集を口伝伝授する
  • 5月19日 春渓三回忌に施餓鬼あり
  • 5月23日 藤原定家筆の十載集と所持本を校合する
  • 10月27日 義尹邸に賊乱入につき之を見舞う
— 8月27日 女正受寺に入室する
永正7年(1510年、庚午)[18] 39
  • 3月5日 一座宣旨を申請する
  • 4月2日 一条冬良に古今伝授の切紙を送る
  • 4月19日 高国の求める三十首題を書き送る
  • 9月14日 肖柏より古今集秘注等を相伝する
  • 9月16日 肖柏が源氏物語講釈を始める
  • 12月27日 歳暮の礼に諸所に参る
—
  • 3月26日 瑞照得度
  • 9月26日 道増聖護院に入室する
  • 12月23日 承尊義尹より関所される
  • 2月26日 高国勢近江に出陣する
  • 2月29日 高国勢敗走
永正8年(1511年、辛未)[19] 40
  • 3月2日 九条政基・尚経父子不和の聞あるにより使者を送る
  • 5月3日 覚胤法親王より六百番歌合を贈られる
  • 6月29日 玄清ならびに珠巌に古今伝授する
  • 7月27日 世上物騒により荷を長谷に避ける
  • 9月5日 義尹の戦勝を祝う
  • 12月3日 義興が西芳寺で詠じた和歌に唱和する〔内〕
—
  • 3月30日 女智園寺得度
  • 4月24日 女継孝院得度
  • 7月23日 高国勢摂津・河内で澄元勢に敗れる
  • 8月24日 義尹ならびに高国丹波に逃れる
  • 8月30日 船岡山で澄元勢敗れる
永正9年(1512年、壬申)[19] 41
  • 1月3日 高国年賀に来る
  • 2月3日 禁裏に水無瀬法楽和歌を詠進
  • 2月26日 後柏原天皇皇子の名字につき勅問あり
  • 3月10日 関白再任につき勅約あり
  • 4月2日 高国邸への将軍渡御を祝う
  • 4月30日 知仁親王の元服を祝う
  • 閏4月26日 高国の求める三十首題を書き送る
  • 9月16日 法華懺法講の料として禁裏に莚を進上
—
  • 3月5日 良誉興福寺別当〔興〕
  • 12月30日 道増着袴
  • 4月8日 知仁親王親王宣下
  • 4月26日 義尹高国邸に渡る
永正10年(1513年、癸酉)[19] 42
  • 1月3日 高国年賀に来る
  • 3月25日 義尹が日吉礼拝講を修したことを祝う
  • 3月30日 一条冬良より兼良三十三回忌品経歌を求められる
  • 4月17日 近江の義尹に見舞の使を送る
  • 4月24日 高国に三十首題を書き送る
  • 7月2日 高国に三十首題を書き送る
  • 8月7日 細川高基に旗を書き送る
  • 10月2日 関白再任の礼に禁裏ならびに武家に参る
  • 11月9日 義尹が義稙と改名したことを祝う
10月7日 関白再任
  • 2月30日 維子従三位に叙される
  • 5月8日 息禅意誕生
  • 12月3日 義稙猶子として理春宝鏡寺に入室する
  • 2月14日 義尹が義澄の子・義晴と和睦する
  • 3月27日 義尹が高国らと対立し、近江に出奔する
  • 5月3日 義尹帰洛する
永正11年(1514年、甲戌)[19] 43
  • 2月7日 清水寺法華堂供養の導師に山門衆を充てようとするが、南都がこれを拒む〔条〕
  • 7月27日 宗祇十三回忌追善勧進和歌に出題する〔再〕
  • この年までに『日本紀和歌注』を著す
  • 8月23日 太政大臣〔宣〕
  • 8月24日 関白を辞任〔公〕
  • 4月30日 覚誉良誉の附弟として一乗院に下向する〔権〕
  • 8月23日 稙家元服、叙爵〔公〕
  • 10月3日 稙家右近衛権少将〔公〕
  • 10月30日 稙家従四位〔公〕
3月27日 一条冬良没
永正12年(1515年、乙亥)[20] 44 4月9日 山科言綱が訴える近江栗津供御人の荷について、抑留停止を求められる〔守〕 —
  • 6月18日 道増熊野三山検校職〔守〕
  • 8月19日 稙家権中納言〔公〕
  • 12月26日 稙家権大納言〔公〕
12月3日 義稙が三条高倉の新御所に移徙する
永正13年(1516年、丙子)[20] 45
  • 2月26日 高辻章長を召し、稙家に『毛詩』を講じさせる
  • 3月2日 義総に伊勢物語等を送る
  • 3月3日 義稙より武家系図の閲覧を求められる
  • 3月27日 一条冬良三回忌追善の和歌を詠進
  • 5月2日 義稙に武家系図を書写し贈る
  • 7月2日 義興に百首和歌の書写を請われる
  • 9月3日 高国より香図の名付を請われる
  • 10月3日 高基に古今伝授する
  • 10月5日 義興が初めて近衛邸に来る
  • 12月3日 玄清に古今伝授の切紙を送る
2月27日 辞太政大臣〔公〕
  • 4月13日 稙家正三位〔公〕
  • 4月23日 良誉大僧正〔頼〕
  • 4月27日 理春得度し、義稙に参賀
4月4日 政基没
永正14年(1517年、丁丑)[20] 46
  • 2月23日 禁裏廷臣申沙汰に参仕する
  • 3月3日 禁裏返礼の酒宴ならびに当座和歌会に参仕する
  • 3月5日 義興に所望の詠草を送る
  • 5月27日 玄清に古今集註を贈る
  • 6月29日 政家十三回忌の作善を行う
  • 7月30日 内藤貞正に源氏物語の外題を書き送る
  • 8月3日 近衛邸文庫を修理する
  • 9月23日 妙満寺日崇の上人号を執申し勅許される
  • 10月5日 畠山順光に詠歌大概注を書き送る
  • 10月7日 細川尹賢に古今集講釈を始める
  • 閏10月26日 湯治より帰洛の義稙に参賀
  • 12月4日 義興に長門住吉社法楽和歌を詠進
  • 12月6日 細川高国らが歳末礼に来る
—
  • 3月27日 良誉法務
  • 3月27日 義稙が尊永を猶子とし、瑞照を蔵主とする
  • 6月3日 稙家が飛鳥井雅俊の歌鞠の弟子となる
  • 9月7日 稙家従二位
  • 12月3日 女智園寺受戒
  • 12月30日 禅意着袴
  • 8月30日 義興が義稙御所で猿楽を興行する
  • 閏10月8日 鷹司政平没
永正15年(1518年、戊寅)[20] 47
  • 2月23日 禁裏廷臣申沙汰ならびに猿楽に参仕する〔二〕
  • 3月26日 禁裏返礼の酒宴に参仕する〔二〕
  • 5月2日 春日社北郷常住職に宮内守富を推挙する〔祐〕
  • 5月14日 近衛邸に蹴鞠あり〔二〕
  • 10月8日 義稙常御所上棟に参賀〔宣〕
— — 8月27日 義興堺より山口に下向する
永正16年(1519年、己卯)[21] 48
  • 1月2日 高国らが年賀に来る
  • 1月19日 細川稙国に歌題を送る
  • 2月9日 鷹司兼輔と和解し、義絶を解消する
  • 2月26日 禁裏廷臣申沙汰に参仕する
  • 3月22日 尹賢ならびに高基に古今講釈する
  • 3月26日 禁裏返礼の酒宴に参仕する
  • 4月19日 内藤永貞に新三十六歌仙和歌を書き送る
  • 6月2日 良誉母七回忌に法華経頓写する
  • 9月2日 高国に歌題を送る
  • 9月27日 義稙が淳和・奨学両院別当および源氏長者となったことを祝う
10月10日 准三宮
  • 6月29日 息晴通誕生
  • 12月28日 稙家正二位〔公〕
  • 10月 高国勢大和に敗れる
  • 11月6日 澄元勢兵庫に至る
  • 12月23日 高国摂津に出陣する
永正17年(1520年、庚辰)[21] 49
  • 1月24日 摂津に在陣する高国に物を送る
  • 2月3日 近衛家被官人、天竺兵部少輔被官人に殺害される
  • 3月27日 世上物騒により記録等を内裏に預ける
  • 3月29日 之長に太刀を送る
  • 5月7日 高国の戦勝を祝う
  • 5月8日 西岡の近衛家領の無為を高国に求める
  • 閏6月2日 読書のため久我邦通を預かる
  • 7月3日 当道座から、家領信楽郷で座人の琵琶を奪われたことを訴えられる
  • 8月5日 奥御所を新造する
  • 8月23日 宗碩が稙家のため源氏物語講釈を始める
  • 12月23日 良誉と覚誉の和解文書に印判を与える
  • 12月26日 高国歳暮の礼に来る
— 8月26日 良誉と覚誉が不和となり、覚誉が一乗院を出る
  • 1月28日 土一揆洛中に蜂起する
  • 2月3日 摂津越水城が落城する
  • 2月18日 高国坂本に逃れる
  • 2月23日 幕府が徳政令を発する
  • 3月27日 之長が上洛する
  • 5月2日 之長切腹
  • 5月5日 高国勢が入洛し、之長勢を退ける
  • 6月10日 澄元没
大永元年(1521年、辛巳)[21] 50
  • 3月3日 即位儀に参仕する〔覚〕
  • 3月29日 禁裏御宴に参仕する〔二〕
  • 5月7日 金剛峰寺堂宇再建につき十穀阿本の奉加帳に奉加する〔覚〕
  • 8月3日 改元勘文につき意見を徴される〔改〕
—
  • 4月27日 維子従一位〔女〕
  • 10月16日 稙家左近衛大将〔公〕
  • この年覚誉一乗院門跡となるか
  • 3月7日 義稙が高国の専横に怒り、出奔する
  • 3月22日 後柏原天皇即位式
  • 7月6日 義晴が入京する
  • 8月23日 改元
  • 12月25日 義晴左馬頭に任ぜられる
  • 12月25日 義晴将軍に任ぜられる
大永2年(1522年、壬午)[22] 51
  • 2月26日 禁裏廷臣申沙汰に参仕する〔二〕
  • 4月19日 甘露寺邸玉津島法楽和歌に詠進〔二〕
— 1月6日 稙家左馬寮御監〔口〕 2月3日 義晴参内始
大永3年(1523年、癸未)[22] 52
  • 1月2日 高国らが年賀に来る
  • 1月3日 宗碩が『源氏物語』を講釈する
  • 閏2月5日 高国らが来訪し、三十首当座和歌会を行う
  • 閏3月27日 禁裏廷臣申沙汰に参仕する
  • 閏3月29日 禁裏返礼の酒宴ならびに和漢会に参仕する
  • 4月27日 高国より絵の外題を求められる
  • 6月4日 雅俊追善に法華経読誦量品を送る
  • 6月7日 八代集の外題を禁裏に求める
  • 9月1日 長谷の義澄十三回忌仏事のため相国寺へ赴く様子を見物する
  • 9月3日 北条氏綱より前年に書き送った酒呑童子絵詞の礼を贈られる
  • 9月27日 義晴より長谷寺縁起絵の詞書書写を求められる
  • 11月26日 稙家邸新造、移徙あり
  • 12月6日 細川政春七回忌に法華経読誦量品を送る
  • 12月9日 播磨平定につき義晴に参賀
  • 12月27日 浦上村宗に新拾遺集を送る
— —
  • 4月2日 飛鳥井雅俊が周防で没
  • 9月3日 下冷泉政為没
  • 10月 山名誠豊が播磨より退く
大永4年(1524年、甲申)[22] 53 3月2日 近衛邸和歌会〔元〕 —
  • 2月3日 稙家右大臣任官の拝賀〔湯〕
  • 12月25日 稙家左近衛大将を辞任〔公〕
8月24日 武者小路縁光没
大永5年(1525年、乙酉)[22] 54
  • 2月17日 近衛邸和歌会〔元〕
  • 3月24日 当代初度の和歌会ならびに御遊に参仕する〔二〕
  • 4月9日 禁裏返礼の酒宴に参仕する〔実〕
  • 6月30日 稙家を伴って奈良に下り、春日社七か夜神楽に参仕する〔二〕、続いて7日間参籠する〔実〕
  • 7月5日 興福寺一乗院で延年舞を見る〔経〕
  • 9月29日 実隆に古扇を贈る〔実〕
—
  • 4月3日 稙家関白〔実〕
  • 7月2日 政家妾大上没〔実〕
  • この年禅意得度か
  • 4月2日 高国が出家し、稙国を家督とする
  • 10月3日 稙国没
  • 12月2日 義晴が新御所に移徙する
大永6年(1526年、丙戌)[23] 55
  • 1月2日 高国らが年賀に来る
  • 2月1日 在京公家の加賀所在所領課役免除につき義晴より注進を求められる
  • 3月29日 勘解由小路在富に法楽短冊裏書を書き送る
  • 4月5日 法華絵を禁裏に進上する。勅使が来訪し、譲位について諮問される
  • 4月7日 義晴より践祚要脚につき問われる
  • 4月9日 知仁親王より条々を問われる
  • 4月14日 広橋守光追善に法華経読誦量品を送る
  • 4月23日 先皇追号につき諮問される
  • 5月1日 参内して践祚を祝う
  • 5月4日 狩野新三郎が稙家邸の座敷に絵を書き始める
  • 5月8日 侍廬次第を作成して進上する
  • 5月30日 般舟三昧院に参り、先皇に焼香する
  • 9月2日 山伏を島津に派遣する
  • 11月3日 丹波から逃げ帰った尹賢に小袖を送る
  • 11月6日 公胤追善に法華経読誦量品を送る
  • 11月24日 多武峰より陵山鳴動の注進あり
  • 12月26日 細川氏綱・晴国の元服を祝う
—
  • 1月2日 稙家関白任官の奏慶、節会内弁を務める
  • 1月3日 道増熊野三山検校職安堵の礼に義晴に参賀
大永7年(1527年、丁亥)[23] 56 2月9日 宗長の勧進する品経歌につき懐紙を実隆に送る〔実〕 — 4月27日 稙家従一位〔公〕
享禄元年(1528年、戊子)[24] 57
  • 1月26日 義晴御所を見物する
  • 2月3日 筒井順興来る
  • 2月4日 建仁寺の涅槃像を見物する
  • 4月3日 後柏原天皇三回忌懺法講に範を進上
  • 4月8日 高国来る
  • 7月18日 御霊祭を見物する
  • 8月26日 家領につき賢治ならびに稙通の下知を得
  • 9月23日 竹屋光継の従三位叙位を具申し、許される
  • 閏9月2日 山科の宗碩宅に記録を預ける
  • 12月26日 近江の高国に詠歌を送る
— 8月30日 稙家左大臣
  • 1月26日 高国と元長が和睦を図る
  • 5月24日 高国坂本に下る
  • 5月26日 義晴坂本に下る
  • 8月20日 改元
享禄2年(1529年、己丑)[25] 58
  • 2月3日 北野社に法楽懐紙・短冊を奉納する
  • 2月8日 大内義隆より色紙を求められる
  • 2月26日 積塔会を見物する
  • 2月29日 南都より到来した春日権現験記絵を叡覧に供する
  • 3月30日 実隆に肖柏三回忌追善の和歌を送る
  • 4月26日 大宮で勧進猿楽を見物する
  • 6月20日 上杉朝興に伊勢物語を送る
  • 7月30日 高国より水金を贈られる
  • 9月23日 西国に下向する宗牧に、義隆ら宛ての書状を託す
  • 9月23日 義総に古今伝授の切紙を送る
  • 10月26日 堺より家領についての下知が到来する
  • 11月4日 義総より銭十貫贈られる
  • 12月3日 東素経より書状・黄金が到来する
— 8月6日 禅意大覚寺門跡を奪される〔聖〕
  • 8月10日 晴元との不和により元長が阿波に下る
  • 12月30日 東坊城和長没
享禄3年(1530年、庚寅)[25] 59
  • 1月23日 賢治太刀を持参する
  • 2月23日 義総に硯等を送る
  • 2月24日 義隆の草子に奥書を書き送る
  • 2月26日 義隆・北条氏綱・今川氏輝・素経に物を送る
  • 4月2日 押小路師象の求める越前国寿恩寺の奉加帳に判を与える
  • 6月2日 順興に伊勢物語ならびに堀河院艶書合を送る
  • 10月3日 島津勝久より花欄机等を贈られる
  • 11月30日 勝久に堀河院艶書合を送る
  • 12月3日 進藤忠綱の宿所に柳本勢が打ち入る
— 4月6日 稙家光什より即位灌頂の秘法を伝授される
  • 5月10日 賢治が義晴との和睦を義維・晴元に拒まれ、出家する
  • 6月29日 賢治が播磨で殺される
  • 7月8日 九条尚経没
  • 7月24日 高国勢が上洛し、六条河原で敗れる
  • 9月2日 山科言綱没
  • 11月3日 高国勢が東山に陣を敷く
享禄4年(1531年、辛卯)[25] 60
  • 1月3日 朽木の義晴に酒饌を送る
  • 3月10日 使者を送り、高国の戦勝を祝う
  • 3月28日 氏綱より白紬等を贈られる、山科本願寺に預けていた記録を取り寄せる
  • 4月16日 氏輝より黄金五両を贈られる
  • 4月26日 義隆より唐硯等を贈られる
  • 閏5月3日 義総に古今伝授の抄物等を送る
  • 6月2日 朝興より黄金等を贈られる
  • 7月8日 高国の辞世を見る
  • 7月30日 細川持隆に書状ならびに伊勢物語を送る
  • 11月26日 大友義鑑より黄金十両を、菊池重治より鳴織物を贈られる
  • 12月29日 晴通の叙爵について申し入れる
— 11月24日 晴通久我家に移る
  • 1–2月 洛中洛外で合戦が続く
  • 3月6日 高国が摂津池田城を陥落させる
  • 3月7日 木沢長政ならびに柳沢勢が洛中より退く
  • 6月8日 天王寺の陣が敗れ、高国が敗死する。久我邦通没
  • 7月30日 尹賢が自刃する
天文元年(1532年、壬辰)[26] 61
  • 2月5日 義隆より黄金十両を贈られる
  • 3月10日 久我通言より晴通猶子の礼あり
  • 3月26日 坂本に下向する
  • 4月6日 禁裏で後柏原天皇七回忌懺法講を聴聞
  • 4月6日 氏綱より進物あり
  • 5月3日 義隆に短冊を送る
  • 6月3日 義鑑・重治に草子等を送る
  • 7月5日 東坊城長淳を家礼とする
  • 9月7日 宗牧に源語秘訣を相伝する
  • 11月26日 晴通の元服・叙爵につき禁裏に申し入れる
  • 12月2日 祇園会を見物する
  • 12月3日 多武峰より大職冠像破裂の注進あり
— 8月24日 通言室没
  • 1月2日 三好勢と柳本勢が下京で合戦する
  • 6月5日 晴元が本願寺光教に畠山義宣を攻め滅ぼさせる
  • 6月20日 晴元が堺で元長を討つ
  • 7月27日 南都で一向一揆が蜂起する
  • 7月29日 改元
  • 8月6日 晴元と光教が堺で合戦する
  • 8月24日 法華衆・六角定頼らが山科本願寺を焼き払う
天文2年(1533年、癸巳)[26] 62
  • 1月3日 義維に書状などを送る
  • 2月5日 東福寺の涅槃像を見物する
  • 3月7日 法華衆の打廻を見物する
  • 4月3日 長政が太刀などを持参する
  • 4月27日 出家する
  • 9月3日 叔父道興三十三回忌仏事に食籠を贈る
  • 11月3日 義晴より使者あり
  • 12月3日 奈良に下り、春日社七か夜神楽に参仕する
—
  • 3月5日 稙家関白を辞任
  • 8月24日 実淳没
  • 12月5日 稙家の女子が誕生
  • 12月26日 晴通叙爵、侍従〔公〕
  • 2月10日 晴元が堺で一向衆に敗れ、淡路に逃れる
  • 4月7日 晴元が摂津池田城に入る
  • 4月24日 晴国勢が高雄に進出する
  • 6月30日 晴元と公教が和睦する
  • 12月8日 晴国勢が内野まで攻め入る。月舟寿桂没
天文3年(1534年、甲午)[27] 63 3月6日 飛鳥井邸の鞠会を見物する〔言〕 —
  • 2月30日 晴通正五位下〔公〕
  • 6月8日 慶寿院が義晴に嫁ぐ〔湯〕
  • 7月5日 晴通右少将〔公〕
  • 11月3日 晴通従四位下〔公〕
  • 9月3日 義晴が入京する
  • 11月23日 九条稙通が関白を辞し、摂津に逐電する
天文4年(1535年、乙未)[27] 64 — — 7月5日 順興没 —
天文5年(1536年、丙申)[27] 65
  • 3月27日 足利義輝の産着を送る
  • 4月17日 印政への古今伝授を始める
  • 4月23日 島津八人方に書状を送る
  • 6月29日 久我豊通追善に法華経読誦量品を送る
  • 7月27日 神楽岡で法華衆が敗れ、下京が焼失する様子を見る
  • 9月3日 義隆より礼物を贈られる
  • 9月8日 宗牧を連歌宗匠とするよう義晴に願い、許される
  • 10月3日 河野直通に書状等を送る
  • 10月30日 晴元らが来る
  • 11月3日 印政に古今集の切紙を伝授する
  • 12月27日 義隆より昇進の礼物を贈られる
  • 12月29日 朝倉孝景より太刀等を贈られる
—
  • 1月5日 晴通従三位〔公〕
  • 1月26日 孫晴嗣誕生
  • 3月6日 晴通権中納言〔公〕
  • 3月10日 慶寿院義輝を生む
  • 11月1日 稙家関白再任
  • 11月3日 晴通奨学院別当ならびに氏長者となる〔公〕
  • 覚誉が維摩会講師を務める〔三〕
  • 2月26日 後奈良天皇即位式
  • 6月3日 豊通没
  • 7月27日 山門勢・六角勢らが洛中の法華衆を攻め、これを退ける
  • 9月24日 晴元が入京する
  • 閏10月8日 通言が出家
  • 11月1日 義晴南禅寺より伊勢貞孝邸に移る
天文6年(1537年、丁酉)[28] 66
  • 1月30日 近衛邸和歌会〔言〕
  • 5月19日 政家三十三回忌法要を営む〔鹿〕
—
  • 7月2日 道増大僧正〔資〕
  • 10月27日 覚誉興福寺別当〔興〕
  • 11月3日 慶寿院が足利義昭を生む〔諸〕
  • 12月3日 稙家太政大臣〔公〕
10月3日 三条西実隆没
天文7年(1538年、戊戌)[28] 67 — —
  • 1月5日 晴通正三位〔公〕
  • 3月3日 禅意僧正〔大〕
10月 細川氏綱勢洛外で晴元勢と合戦する
天文8年(1539年、己亥)[28] 68 2月27日 慶寿院ならびに義輝・義昭の訪問を受ける〔俊〕 —
  • 4月24日 禅意大僧正、准三宮〔大〕
  • 5月29日 慶寿院女子を生む〔常〕
  • 閏6月1日 慶寿院とその子らが八瀬に避難する〔俊〕
  • 1月14日 三好範長が上洛する
  • 閏6月1日 範長と晴元・三好政長が対立し、対陣する
  • 7月6日 和睦が成立し、範長が摂津に移る
天文9年(1540年、庚子)[28] 69 2月6日 近衛邸に盗人入る〔常〕 —
  • 1月3日 晴通従二位〔公〕
  • 10月26日 稙家の子・陽山瑞輝が慈照寺に入室するにあたり、義晴の猶子となることを求める〔常〕
  • 12月30日 晴嗣元服、正五位下〔公〕
7月10日 竹屋光継没
天文10年(1541年、辛丑)[28] 70 4月9日 所労により義晴の見舞いを受ける〔鑑〕 —
  • 2月27日 晴嗣従三位
  • 4月29日 稙家辞太政大臣〔公〕
  • 10月3日 長政が晴元に反旗を翻す
  • 10月29日 晴元が岩倉に避難する
  • 12月1日 義晴が坂本に移る
  • 12月8日 晴元が摂津芥川城に出陣する
天文11年(1542年、壬寅)[29] 71 3月3日 春日社で法楽和歌を詠む〔春〕 —
  • 1月5日 晴嗣正三位〔公〕
  • 2月2日 晴嗣権中納言〔公〕
  • 2月30日 稙家関白を辞任〔公〕
  • 義昭が稙家の猶子となり、一乗院に入る〔後〕
  • 1月17日 河内大平寺で長政が敗死する
  • 3月26日 晴元が帰洛する
  • 5月27日 義晴が帰洛する
天文12年(1543年、癸卯)[29] 72 夏より中風を患う〔紀〕 — 7月28日 晴通権大納言〔公〕
天文13年(1544年、甲辰)[29] 73
  • 8月26日 没〔言〕
  • 9月7日 東福寺海蔵院で葬礼あり〔言〕
  • 9月12日 近衛邸で追善の法要あり〔鹿〕
—
  • 1月6日 晴嗣従二位〔公〕
  • 8月25日 晴通正二位〔公〕
2月9日 周桂没

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ↑ 北小路俊宣の養女。越前・朝倉氏の被官・加治氏の娘。
  2. ↑ 一条兼良の『樵談治要』にある「春秋の時の十二諸侯、戦国の世の七雄にことならず」という記述に由来するという説もある。
  3. ↑ 公式上は久我通言の次男。

出典

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参考文献

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  • 黒板勝美、国史大系編修会 編『尊卑分脈』 2巻(新装版)、吉川弘文館〈新訂増補 国史大系〉、2001年。 
  • 藤ノ井日向「戦国期摂関家における記録疎開の一様相―近衛家を中心として」『Antitled』第5巻、Antitled友の会、2026年、45-72頁。 
  • 東京大学史料編纂所 編『後法成寺関白記 四』岩波書店〈大日本古記録〉、2011年。ISBN 978-4-00-009485-6。