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貴闘力忠茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
貴闘力 忠茂
基礎情報
四股名 鎌苅→貴闘力
本名 鎌苅 忠茂→納谷 忠茂→鎌苅 忠茂
愛称 曙キラー
生年月日 (1967-09-28) 1967年9月28日(59歳)
出身 日本の旗 日本 福岡市博多区→兵庫県神戸市兵庫区
身長 180cm[1][2]
体重 152kg
BMI 46.91
所属部屋 藤島部屋→二子山部屋
得意技 突き、押し、張り手、いなし、引き、叩き
成績
現在の番付 引退
最高位 東関脇
生涯戦歴 754勝703敗(118場所)
幕内戦歴 505勝500敗(67場所)
優勝 幕内最高優勝1回
幕下優勝1回
賞 殊勲賞3回
敢闘賞10回
技能賞1回
データ
初土俵 1983年3月場所[3]
入幕 1990年9月場所[3]
引退 2002年9月場所[3]
引退後 年寄・大嶽
趣味 パチンコ、競馬、音楽鑑賞、賭博
備考
金星9個(曙太郎7個、旭富士正也・大乃国康各1個)
史上初の幕尻による幕内最高優勝
2019年3月27日現在
貴闘力
プロフィール
リングネーム 貴闘力
本名 鎌苅 忠茂
身長 181cm
体重 148kg(大相撲現役時代の公表値)
誕生日 (1967-09-28) 1967年9月28日(59歳)
出身地 兵庫県神戸市兵庫区
所属 フリーランス
スポーツ歴 大相撲関脇
トレーナー 佐山聡
デビュー 2014年4月16日
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貴闘力部屋
YouTube
チャンネル
活動期間 2020年9月25日 -
ジャンル ブログ
登録者数 30.2万人
総再生回数 152,199,728回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年10月18日時点。
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貴闘力 忠茂(たかとうりき ただしげ、1967年9月28日 - )は、兵庫県神戸市兵庫区出身(入門時は福岡県福岡市博多区[4])で二子山部屋(入門時は藤島部屋)に所属した元大相撲力士、プロレスラー。本名は鎌苅 忠茂(かまかり ただしげ)。最高位は東関脇。

1993年に第48代横綱・大鵬幸喜の三女と結婚、妻の姓を選択したことにより納谷 忠茂(なや ただしげ)となったが、2010年に離婚した際に鎌苅姓に戻った。長男はプロレスラーの納谷幸男、二男・三男・四男は大嶽部屋に所属する大相撲力士の納谷幸林[5]、王鵬幸之介、夢道鵬幸成[6]。甥は元大相撲力士の若闘力駿磁。

現在は焼肉店「焼肉ドラゴ」などを[7] 経営している実業家、またYouTuberである。タレント活動のマネジメントは株式会社伝元。

来歴

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少年時代

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1967年(昭和42年)9月28日に福岡県福岡市博多区で生まれる。

父は戦後の物資難の中で小学校1年生の頃から沖仲士の仕事に従事していた。読み書きができないので借用書が書けず、借金は必然とヤクザ相手に行うこととなった。父はかつて力士志望であり港湾作業でも70kgのセメントを1人で3つ担ぐ力自慢であったが、当時現場において彼ですら敵わない怪力の持ち主として「米川さん」(後の3代朝潮太郎)が話題になっていた。結局大相撲入門の機会はなく、自分が果たせなかった角界入りの夢を息子の忠茂に託した。忠茂は後に、相撲の世界で発揮したパワーは父から遺伝したものだと、その点で感謝を述べている[8]。

幼少期は野球好きで、神戸ドラゴンズに入団。金村義明に憧れ、報徳学園高等学校の入学を志すも父親の借金で野球を諦める。相撲好きで力士に憧れ、小学生の時には既に力士を志していた。小学校卒業後に面識のある大関・貴ノ花に入門を願ったが、体験入門はしたものの「3年後(中学卒業後)にまたおいで」と一度は帰された。日本相撲協会の規定で義務教育を終了しないと入門できないためであった。

2020年10月に貴闘力のYouTubeチャンネルに公開された動画以前の報道では、父親のギャンブル依存症から借金取りが連日自宅に押し掛け、逃れるために小学校を6~7回も転校しており[9][10]、賭博は大嫌いだったと報じられていた。しかし、動画中で忠茂が語るところによると、中学時代に福岡で父が麻雀屋経営を成功させ、忠茂も父の店での麻雀牌磨きで父から小遣いを得ていたが、その金を元手に客から賭けマージャンで金を巻き上げ、月に30万円の金を得たという。稼いだ金で競艇に賭けていたが、ある日補導されたことを切っ掛けに更生のために柔道の名門である福岡市立花畑中学校を紹介された。2年生から柔道を始めたという[8]。

この柔道部には、一年先輩に元プロレスラーの佐々木健介が在籍していた。3年生では全国大会に出場し、団体戦の準決勝で古賀稔彦を擁する世田谷区立弦巻中学校に敗れている。中学校卒業後、柔道で天理高校からの勧誘もあった[8]が、賭博好きの父親から逃れるため[9]、柔道の道には進まずにかつて体験入門した藤島部屋に正式に入門した。体験入門は半年間に及んだと忠茂は話している。入門先候補としては他に二所ノ関部屋も挙がったが、「いじめられない」と聞いて貴ノ花の下で相撲を取ろうと決めた[8]。

大相撲時代

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初土俵

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1983年(昭和58年)3月場所で本名の「鎌苅」を四股名として初土俵を踏み、1989年(平成元年)3月場所後に新十両昇進を決めた。この際に四股名を「貴闘力」と改名した。なお、当初は藤島から「貴闘心(たかとうしん)」と聞かされており、色紙にもそのようにサインしており、新十両力士の発表の際に「貴闘力」と改名することを知ったという。

この頃から嫌いだった賭博に対して、貴闘力は「少しくらいなら良いか」という安易な気持ちで手を染め、次第に午前中の稽古が終わると午後は競馬や競艇、夜は部屋で麻雀をする生活を続け、「当たる」ことしか想像が出来なくなって年収の9割を賭博に費やした。1989年(平成元年)の十両昇進のときは、化粧まわしや着物などをつくるために地元から集めた400万円を預けていた人に持ち逃げされ、ギャンブルに使われてしまった。師匠に借金を申し込んだが貸してもらえず、手元に残ったお金で馬券を買い、当たりを出して再び工面をしたという[10][11]。門限などの面で部屋が厳しくてタニマチをゆっくり精査して作っているような時間など無かったため、十両昇進を機に急造した後援会の不始末に巻き込まれた形となったが、化粧廻し無し、幕下以下用の木綿の廻しで土俵に上がることも考えた中で、賭博で必要経費を工面した形となっている[12][13]。

下位時代はいじめを受けたといい、「いじめ免除券」と呼ばれる1場所3万円の手製のチケットを兄弟子から買わないといじめの標的になった他、土俵の固いところにバックドロップで打ち付けられるなどの悪質な暴力の被害もあった。就寝時間中にいじめを行う力士の寝ている前でちゃんこ番用の出刃包丁を持って立つ新弟子もいたが、自身もその兄弟子を憎んでいたため止めることはしなかった。そんな自分を見て「(この包丁で)殺してくれたら楽だな」と思い詰めていた。新弟子時代はちゃんこを部屋の衆が、技術的にまともに作れなかったといい、安芸乃島と自分がちゃんこ番の時は鶏ちりと豚ちりしかやらなかった。しかしある時貴闘力が「豆乳鍋を作る」と言い出し、「豆乳鍋なんか誰が食うんだよ!?」と奇異の目で部屋の衆が見る中で食べてみると絶品であった。なお、師匠の藤島は牛乳が嫌いだったため、豆乳鍋を見るなり「こんなクソマズいの作りやがって!」と頭から毛嫌いしていた。貴闘力は西日本出身であったため出汁中心の味付けを行っていたが、東日本出身の藤島には「こんな薄いモン食えるか!」と不評であり、醤油とかつおだしで適当に関東風の味付けをしたら「これだよ!」と絶賛されたため後年本人は「絶対味分かってねぇよ」と呆れていた[14]。

新入幕・三役への出世

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1990年(平成2年)9月場所で新入幕を果たし、11勝4敗の好成績で敢闘賞を受賞する活躍を見せた。1991年(平成3年)5月場所では小結に昇進すると、それ以降は三役から幕内上位に定着、この場所では3日目に前々場所で敗れた横綱の千代の富士と再度対戦すると、貴闘力も千代の富士の腕を掴んで土俵外へ放り投げる「とったり」で快勝した。勝利直後のインタビューで貴闘力は「憧れの大横綱に勝てて嬉しいです」と語った。なお、同日夜に千代の富士が現役引退を表明した。千代の富士はこの場所初日、貴闘力の藤島部屋の後輩でもある新鋭・貴花田と対戦して敗れており、貴花田と共に引導を渡す格好となった。千代の富士の引退報道を知った貴闘力は「本当ですか!信じられません」と驚き、「まだ、自分は大先輩に対して偉そうなことを言える立場では無いので……」と語り、その表情は寂しげだったという。それでも千代の富士からは「オレのことは気にせず頑張れ!」と直接励まされたことで調子を上げ、9勝6敗で二度目の敢闘賞を受賞した。この年は7月場所から11月場所まで